だから、樋口円香は嘘を吐き続ける。   作:Black Shadow

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第1話「どうして、私を助けたんですか」

 意識が飛んだ。

 そう気づいた時には、既に事故が起きた後だった。

 全身が痛い。胸が苦しい。血が止まらない。

 

 ああ。俺はここで死ぬのかという絶望感。

 でも、その代償として大切な一人のアイドルを救うことが出来た。

 283プロダクションを仕切る責任者として、ここで人生を終えるのはとても悔しい。

 

 おそらく、自分は助からないだろうという未来が確実に見えてしまっている中で、今現在。視界には見覚えのある女性が必死になって呼び掛けている。

 

「気をしっかりして下さい……ッ! ここで死んだら一生許しませんから――ッ!!」

 

 この子の名前は何だっただろうか。分からない。思い出せない。

 どうやら、頭を強く打った影響からか、少し周りの状況を把握出来ていないのかもしれない。

 

「ま……ど……」

 

 とにかく、何とか言葉を絞り出したかった。何とか、彼女に謝罪をしたかった。

 プロデューサーとして、この女性を誰よりも高い空へと飛ばせてあげたかった。

 それを実現させるために、これからも全力でサポートすると誓ってきた。

 だが、限界が途中で来てしまい、光が何も見えなくなってしまった。

 暗闇に支配される海の中で、深く沈み続ける……そんな感覚。

 

 それでも、最後の意地として両手で重たい海水を掻き分けながら、根源的な恐怖を取り除こうにも上手く除去出来ない。

 もし、これがいつもの夢であるのならばここで覚めるだろう。

 

 しかしながら、どうも今回は違うらしい。

 静止した身体はどんどん深く沈んでいき、それに伴い水面から反射する光は薄く、淡くなっていく。

 水面が遠くなる。息が出来なくなる。

 

 瞬間、頭に弾ける感覚があった。

 横断歩道で前を歩いていた一人の担当アイドルを全力で向こうに突き飛ばし、その間に猛スピードでこちらに走り続けるトラックの光景。

 そんな映像が何度もリプレイ再生される。

 

 意識が飛んで、どれ程の時間が経ったかは分からない。

 自分は一体何をしようとしていたのか。

 自分にとって、この女性は一体何だったのか。

 それらを想起しようとして、すぐに思考を放棄した。

 もう残り少ないこの時間で、そんなことを考えている余裕も気力も無い。

 けれど、少し捻くれた自らの思考を自覚して、一つだけ確信したことがある。

 

 自分は、『自分』が消えることを、大して哀しく思っていない。

 

 ああ、良かった。

 それなら安心して消えられる。

 もう黒々とした周りが海中なのか瞼の裏かさえも分からない。

 暗い。冷たい。気分が悪い。

 

 だけど、心なしか右手の部分だけ、ちょっと暖かい。

 誰かが自分の手を握り続けてくれているのだろうか。

 視界が見えないから分からない。確認の仕様もない。

 

 でも、なぜだろうか。

 不思議と。この時だけは。

 

 沈み続けた自分は、ほんの少しだけ――救われたような気がした。

 

 

★★★★★★

 

『出会った時にすぐわかりました――ダイヤの原石だって!』

 

 そう言われた時。ついに頭がおかしくなったのかと思った。

 このアイドル業界では常に危険が潜んでいる。

 だが、自分の友人もそうやって騙してきたのかと考えると怖さよりも怒りの方が勝っていた。

 

『は……? ふざけないでください。近寄らないで』

 

 狡猾に。浅ましく。誰もが望んで手に入れられなかったものを。

 その声で。言葉で。眼差しで。

 どんな風に浅倉透の心に入り込んだのかが、当時の私は理解出来なかった。

 でも、この男は常に真面目で。嘘偽りないその態度で。

 誰かを特別視することなんて、絶対にあり得なくて。

 一人一人のアイドルと向き合いながら、プロデューサーとしての仕事を完璧にやり遂げてみせる。

 

 そんな欠点の無い人間なんて、この世の中に誰一人居ないはずなのに、この人だけは違う。

 そのことに対する矛盾と、不満が徐々に蓄積していき。

 

 これ以上。この男に甘えては絶対に駄目なのだと。

 私が、私でなくなることに対する危機感が鬼気迫ってきて。

 だけど、あの夜に。河川で転んで怪我をしても。

 どこまでも貴方は追いかけて来て。

 私を見捨てることなんて、最初から選択肢には無くて。

 彼も追いかけちゃ駄目だということは、心の中で分かっていたはずなのに――。

 

『円香――ッ!』

 

 後ろから声が聞こえ、こちらに近づいてくる足音がする。

 

 逃げても、逃げても。距離を離そうとはせずに。

 常に一定の距離を保たなければならないのに。強引に縮めてきて。

 私の気持ちも、今まで抱いてきた苦しみも、何もかも知らないくせに。

 勝手に土足でこちらの領域に踏み込んできて。

 

『俺が助けるよ。……勝手に助ける』

 

 ああ。うるさい、うるさい、うるさい……。

 どうして、いつも目の前にあなたが現れるの。ふざけないで。

 この虚像で作られただけに過ぎないダイヤの原石に、価値なんて何一つあるわけないというのに。

 どこで、この男は。私の何を見て、アイドルにしたのか。

 時間が経過しても、その答えは一生分からない。

 いや、この際ずっと分からないままの方が良いのかもしれない。

 解を見つけてしまったら、もう後戻りが出来なくなってしまうと思ったから。

 

 だから、今のままで良い。

 このまま平和な世界で、安全地帯で。遠い場所から観察していた方が何倍もマシだ。

 でも、本当は。心の奥底からそれを拒絶している自分も居て。

 このまま何も変わらない日常を望んでいるだけで、十分だと思っていたはずなのに――。

 

 いつからか、空から見た景色に色を付けてくれる存在がずっと傍で見守ってくれていて。

 失敗したとしても、諦めずに励ましてくれる人が居て。

 私がどんなに遠ざけようとしても、この汚れた手を離さないでくれて。

 

 過去の記憶が次々と蘇ってくる。

 折り目正しいスーツを着て、仕事をしている姿も。

 連絡が来なくなって、心配して事務所に来た時、ソファーで熟睡している彼の顔も。

 海でのグラビア撮影が終わった後、シャワーで浴びている時に少し動揺している彼の様子も。

 お祭りの時に、よく分からない仮面を付けて子供のようにはしゃいでいた彼のことも。

 気づいた時には、常に目を追いかけてしまっている私自身のことも。

 

 全部、全部、全部。大嫌いなもので。

 この世で一番あってはならないモノで。

 

 だからこそ、この無駄な感情を。想いを。

 全て排除して。綺麗に掃除して。

 全部、忘れてしまいたいと。

 そう願っていたはずなのに――。

 

「本当、ダメな人」

 

 やっと吐き出せた一言。

 樋口円香の本音を。本物を。

 

 喉元から震えた声で絞り出すしかなかった。

 

 ベッドの上で横たわっている男の右手を握る。握り続ける。

 生命維持装置を付けながらも、奇跡的に何とか命を繋ぎ止めている状態。

 

 そんな瀕死にも近いような状況で、私はこの人の顔を見つめながら、神様に祈る。

 

 ああ。願わくば。

 どうか、この命と引き換えにしてでも良い。

 この際、私のことなんかどうだって良い。

 この人が目を覚ましてくれるのであれば、何だってする。

 

 こんな有様になっている原因と責任は、全て私にあるのだから当然だ。

 

「どうして、私を助けたんですか」

 

 もう一度、問いかける。

 何度問いかけたとしても、答えは返ってこない。

 

 意識が戻っていないのだから、当たり前の話だ。

 でも、私は認めない。

 こんな結末を、許すことなど到底出来ない。

 

「責任、取ってくれるんじゃなかったんですか? ここで見捨てるんですか……?」

 

 ピッ、ピッーーという無機質な電子音が、室内に鳴り続ける。

 その音が心臓を動かしていることを知らせ、自身の心を蝕んでいく。

 

 今から時間を巻き戻せるなら、巻き戻したい。

 過去に戻れるのなら、今すぐにでもあの時に戻りたい。

 

 でも、現実は残酷だ。

 そんな非科学的なことはぜ絶対に許してくれない。

 もし、本当にこの世の中で神様がいるとするならば、私はすぐにでもお願いするだろう。

 あの瞬間が起こる前に戻してほしい、と――。

 

「……樋口」

 

 途中から思考を放棄していた時。

 耳元で聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 集中治療室で、接触できる人数が限られている中。

 

 顔を向けると、そこには顔面蒼白な浅倉透が目の前に立っていた。

 ここまで全速力で走ってきたのだろうか。

 額には大量の汗。それに加え、息遣いもかなり荒い。

 

 表情を見ると、今何を思っているのだろうか。

 今の私には、読み取ることは出来ない。

 

「プロデューサーは、大丈夫なんだよね?」

 

 感情の無い言葉で。

 音程の無い抑揚で。

 冷たい視線で。

 今にも壊れてしまいそうな雰囲気で。

 

 浅倉は、私に対してそう尋ねた。

 

「……分からない」

「分からないってことは無いでしょ。医者からは何て言われたの」

「家族が来るまでは、話せないって――」

「何、それ。でも、意識は戻るんでしょ?」

「……それも分からない」

「――ッ! 樋口――ッ!」

 

 瞬間、肩を強く掴まれた。

 誰から、なんて見なくても分かっていた。

 常に彼の顔しか見ていない私にとっては、とにかく祈り続けることしか選択肢には無かったから。

 

 でも、浅倉透はそれを許さなかった。

 私が現実逃避している姿を見て、それを容認することはしなかった。

 視線を少しだけ向けると、そこには怒りと失望と、哀しみに満ち溢れていた彼女が居た。

 

 事情はほとんど知っている。

 なぜ、こんなことが起きてしまったのかもよく分かっている。

 

 だから、本当であれば私を責めるべきではないということも頭の中では理解している。

 

 けれど、理性が効かないのか。この中で、当事者が私だけしか居なかったせいもあるのかもしれない。

 浅倉は、その気持ちをどこにぶつけたら良いのかが分からなかったのだ。

 

「プロデューサーは、ちゃんと帰ってくるよね」

「…………」

「答えてよ、樋口」

「それですぐ返事が出来るのなら、こんな風になってない」

「じゃあ、どうして」

「私が、全部悪いから。何もかも、全部」

 

 そうやって、全責任を自分自身で押し付けて。

 心の中で我慢して、我慢して、我慢して。

 

 今日。樋口円香が、プロデューサーと外出なんてしていなければ。

 こんな事態は、絶対に起こらなかったはずなのに。

 

 だから、全ての原因は私にある。

 暴走したあのトラックが悪い、だなんて今となっては言わない。

 事実がそうだったとしても、起こり得る事態に備えることは出来たはずだから。

 

「電話でも言った。樋口は、何も悪くないって」

「でも、浅倉は許してないでしょ」

「そんなの、誰が決めるの」

「……それは」

 

 肩を掴む力が弱まる。

 私を追及しようにも、それが出来ない状況だなんてことは分かり切っている。

 己のやるせなさと、現場に居合わせていない者にとって、これ程苦しい感情を味わうことは到底無いだろう。

 

「ねえ、樋口」

「なに」

 

 浅倉が、私にそう呼び掛ける。

 対して私は、短く応答する。

 

 彼女がこの先、何を言わんとするのかは大体想像出来ていた。

 これだけ長い付き合いの中、お互いの考えていることなんて手に取るように分かる。

 でも、それが今となっては仇となることだってある訳で――。

 

「私、まだ全然諦めてないから」

「……知ってる」

「こんな結末で、終わりになんて絶対にさせない」

「…………」

「だからさ。お互いに、ちゃんと向き合って話したい。心の底から――本音で」

「それ、今ここで言うこと?」

 

 私達は、一体何の会話をしているのか。

 過去の事か。それとも未来のことなのか。

 どちらにせよ、今の私たちにとって。必要なことは何かを理解していて。

 

 でも、二人とも分かっているからこそ、ここまで話すことは出来ずにいて。

 臆病だからとか、自信が無かったからとか。そういうことでは決して無くて。

 

 答えの無い感情が、お互いの中に存在していることだけは確かで。

 だからこそ、ここで腹を割って覚悟を決めなければいけないはずなのに。

 

「樋口はさ、この先もアイドルを続けたいって思ってる?」

「分からない。そんなこと、考える暇も無い」

 

 私は逃げ続けてしまう。

 いつまで経っても、期待通りの返事が出来るのなら、ここまで面倒臭い女になっていない。

 

 この男にも、散々迷惑ばかりかけてきて、目の前でこんな話をするのも正解じゃないことぐらいは分かっている。

  

 だから、この態度で。この姿勢で貫き続ければそれで良い。

 浅倉も、私が本音を打ち明けないことは最初から知っていた。

 知っているからこそ、敢えてここで尋ねた。

 

 最初から、答えが無いことは認知していた。

 でも、聞かざるを得なかった。

 なんで、アイドルを続けているのか。

 どうして、ノクチルであり続けるのか。

 

 そして――プロデューサーのことを、どう想っているのか。

 

 遠回しに、そんな風に聞こえてきた。

 

「私は……好きだよ。プロデューサーのこと」

 

 優しい口調で。今までに見たことのない表情で。

 浅倉透は、この男の『左手』を両手で包み込むように握った。

 

 聞きたくなかった。

 その言葉だけは、絶対に聞いてはいけなかった。

 心の中では分かっていた。

 浅倉が当時。アイドルになった理由が何なのかも薄々気づいてはいた。

 

 でも、私は。樋口円香はそれを認めたくは無かった。

 

「樋口は、どうなの」

「なにが」

「とぼけないでよ」

「別に。いつも通りだと思うけど」

「私と、同じでしょ。樋口も」

「どうしてそんな決めつけが出来るの。人の心を読む神様にでもなったつもり?」

「ふふっ。そうかも。今の私、最強だから」

「……なにそれ」

 

 意味が分からなかった。分かりたくもなかった。

 この状況で、大変な時に。

 軽はずみな冗談で、言えるわけが無かった。

 

 この17年間の人生で、最悪な出来事がここで起きてしまうなんて、思いもしなかったから。

 だから、私は嘘を吐き続ける。

 これまでも、これからも。

 

 この人が目を覚まさないのであれば、私は前と同じ。変化のない日常を送ることになるだろう。

 

 でも、果たしてそれで良いのだろうか。

 

 私は、とにかく祈り続ける。

 どうか、もう一度。

 生きるということ。好きになるということ。

 

 機会なんてものは、もうどこにも存在しない。

 

 だけど、今は。今だけは。

 時間が過ぎ去るのを、待ち続けよう。

 

 そんな重たい空気感と共に、物語の幕はこれで閉じる――そう思っていた。

 

 

 

 

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