転生者達の新エリー都、二足のわらじ生活 作:フライパンソルジャー
黒いボンプ、ブラッカーの姿をしたエレクトロが突如として世界へ侵入し、六課の前へと立ちはだかった。
彼は六課に向けて償いのために来たと告げた。
その声音には確かに重みがあり、嘘を孕んではいないと思わせたが、彼がヒールのリーダーであることを考えると信用して良い存在だとは到底言えなかった。
柳の胸がどくりと鳴り、ヒールの首領が償いなどと言い出すこの状況に理解が追いつかない。
(ヒールのリーダーが……償い?この状況で……?)
六課と敵。
双方の陣営を混乱の渦に叩き込んだまま、エレクトロは静かに六課を見つめていた。
判断が揺らぐ。
悠真が握る手に力を込め、蒼角は刃旗を構えたまま視線を泳がせる。
雅でさえも、鋭い眼差しを保ちながら眉間にほんの短い迷いが刻まれた。
そして、その全員の揺らぎを見透かしたかのようにエレクトロは静かに目を細めた。
「本当だンナ……君たちをこんなとこで死なせるつもりはないンナ……!」
宣告のように響くその声音が逆に胸の奥をざらつかせた。
善意と敵意の境目が曖昧で読めない。
――信用すべきか否か、その迷いこそが相手の狙いなのではないか。
ここから先どう動くかは六課の判断次第だった。
六課の内部には冷気が流れ込むような緊張が走り、空気がほんの一瞬凍り付く。
その静寂を破ったのはテレビ越しに流れ込んだ不快な声だった。
『はっ、急に現れて何を言うかと思えば――』
その瞬間、敵が吐きかけた言葉をエレクトロが容赦なく断ち切った。
「おい、ちょっと黙れ。今俺と六課が喋ってんだよ……」
『――っ!?』
鬱陶しげに吐き捨てるその声には不思議な迫力が宿っていた。
テレビ越しの敵が一瞬息を吞むほどの重圧。
ボンプの小さな身体から発せられたとはとても信じ難い威圧感だった。
エレクトロはゆっくりと画面に向き直り、その緑の双眼を細める。
「ああ、すまない。待てが出来なかったか?しょうがないから少々丁寧に相手してやろう」
そして続けざまに刃のような語調で言葉を重ねる。
「まず……よくも私たちの名前を免罪符か何かのように利用して彼女たちへ尊大な態度を取れたものだな?自分が社会のどの階層を這っているのかという自己認識さえ欠いたまま、他人の粗だけは選別できるつもりになっている。その認知のズレ自体がすでに一つの症状だな」
六課は驚きと疑念の入り混じった感情に引き裂かれる。
(私たちを……庇っている?いや、それともただ敵を煽るために利用しているだけ……?)
判断ができないままエレクトロは冷徹な語気で続けた。
「しかもお前は自身の正体すら提示しないまま、画面越しの無菌室から安全に石だけ投げる。匿名性という“檻”に守られていることを自覚できないまま、他者を評価できる立場にいると錯覚するのは滑稽ですらある。鏡を見るといい。そこに映るのは自分の頭で立つこともできず、誰かの名前に寄りかかって大きくなった気になっているだけの”寄生虫”だ」
『――なんだと?』
千面相の感情が揺らぎ、画面越しの気配が乱れはじめる。
その動揺すらエレクトロは淡々と踏みつけるように語った。
「加えて、私たちや六課を理解したつもりで語るのはやめてもらおう。名前を貸した覚えもないし、お前が評価できるほど観察した形跡も思考の深さもない。お前の発言はただ権威を借りて自分を大きく見せたいだけの空虚な張りぼてだ。その振る舞い自体が“自分には独立した根拠がない”と自ら証明しているも同然だが、それにすら気づけていない」
「さて――どうする?匿名という安全装置を外して、自分の素性をひとつでも出してみるか?まあ無理だろうな。姿を出した瞬間、今まで投げつけてきた言葉が全部そのまま自分に返ってくると分かっているからな。結局のところ、今のお前がしているのは“批評”ではなく、“恐怖に基づく習性としての遠吠え”に過ぎない」
硬質な冷たさを帯びた声。
その言葉には鋼のような威圧があった。
そして、吐き捨てるように名を呼んだ。
「そうだろ――“千面相”君?」
六課全員が息を呑み、敵は――千面相は初めて明確にたじろいで声を震わせた。
『……な、なぜ……その名を……』
エレクトロは肩をすくめるように、ボンプの短い腕を広げた。
「否定はしないのか?三流。それとも私がお前の様な小物の名前を知っていることがそんなに意外かね?なら光栄に思うといい」
皮肉めいた笑みすら滲む。
そして淡々と核心へ突き刺すように告げた。
「お前はテストエネミーを倒せばテストは強制終了される。このVRシステムの“根幹”を、未だに改ざんできていないな?」
テレビの向こうでノイズが走り、千面相が言葉を失う。
「現実のHIAとの制御権の奪い合いでかなり手一杯。六課の異常な進行度から時間稼ぎにも限界がきて……そこで挑発に打って出た」
エレクトロは千面相が六課に対して行った無礼な憶測ではなく、事実を抉るように淡々と告げる。
「“六課は弱い”“世間からの称賛は誇張だ”“お前たちの身体は間もなく掌握する”そうやって不安と怒りを煽って、彼女たちの判断を鈍らせる……」
柳の肩がわずかに震えた。
まさに自分が揺さぶられた心理を見透かされたようだった。
エレクトロはあえて柳を見ず、庇うようにただ言葉だけを落とした。
「だが、これらの目的は結局のところ、お前が作った浅はかな復讐劇でしかない」
緑の双眼が細まり、刃のような光が宿る。
「彼女たちが親切にもお前の話を聞き入れてくれて随分と上機嫌だったようだが、残念なことにここで私の投入だ。まったく……気の毒になるよ」
煽りの色が満ちる。ボンプの口元、咬合機構がわずかに笑ったように見えた。
「お前らが苦労して作った復讐劇を……こうして私が潰してしまって流石に罪悪感を感じるよ。……ほんの、毛ほどだけな?」
千面相から怒りとも恐怖ともつかない、歯ぎしりのようなノイズが漏れる。
『貴様ァ……ッ』
「お、図星かね?」
六課は完全に言葉を忘れていた。
ヒールのリーダーによる敵、千面相への容赦なき暴露と圧倒的な格の違い。
そして――、
黒いボンプが本当に味方なのかという希望と、決して信じてはならないという警戒心の両方が胸の奥で消えずに渦巻いた。
次の言葉ひとつで、状況はさらに大きく動く。
エレクトロが六課へ向き直る。
「さて、六課の諸君。……ここからが本題だンナ」
まるで心音まで聞こえるほどの静寂が落ちた。
「突如現れた私を警戒するのは分かる。敵の策略ではないか、混乱に乗じて六課に危害を加えに来たのではないか……そう疑うのは当然の反応だ。だが、君たちに償いをしに来たということは紛れもない本心だ」
「………」
六課の疑念は消えない。
皆は慎重に、ただ慎重に彼の真意を見極めようとしていた。
エレクトロは笑いながら、しかしどこか寂しげに言った。
「……まあ、すぐには信じてもらえないのは織り込み済みだ。けど、悠長に信頼を積み重ねる暇はない。なので私は行動で示すほかない」
「……何をするつもりですか?」
当然警戒から、柳がエレクトロに向けて声が掛かる。
この状況、このタイミング、この怪しい存在。どれも疑念の種となるには十分で、まともな方法では誤解など解けようはずもない。
だからエレクトロは口だけの弁明は諦めた。
「再び足を動かし始めるンナ。君たちが進むべき道は正しい、ならそこに今すぐにでも辿り着く必要があるンナ」
”時には歩く前に走ることが必要”なのだとでも言うように、VRマシンへ手を伸ばし、咬合機構が音を立てて開き、光を吸い込むように輝いた。
「都市を守るため、我、エレクトロは――光とならん」
宣誓のような声が響く。その瞬間、VRマシンが低く震え、眩い光が空間を染め上げた。
ステージが開始された。
ーーーーーーー
「――っ!?」
「――おわわわ!?いきなりなンナ!」
ステージが開始された瞬間、白い閃光が視界を貫き、世界の輪郭が一気に塗り替えられた。徐々に像を結んでいく景色は建物群と工場跡地が無秩序に融合して生まれた、橙色一色の異様な場所だった。
壁の残骸と巨大な炉の基盤が継ぎ接ぎのように組み合わされ、コンクリートの裂け目からは錆びた鉄骨がむき出しになっている。油の匂いと土埃が混ざり合った濁った空気が空間全体を覆っていた。
『――!』
その正面、通路の影の奥に今回の目的であるテストエネミーの姿がうっすらと映った。コアを覗かせた通常のエーテリアス。しかしそれは気配の変化に敏感に反応したかのようにこちらを視認した瞬間、鋭く反転してステージの奥へと逃亡を開始した。
「あれがこのステージのテストエネミー!二人とも、追いかけるンナ!」
黒いボンプ、エレクトロが迷わず追撃へ移ろうとする。
だが、そんなエレクトロとは対照的に――。
「………蒼角!?雅!?」
「みんながいないンナ……!?」
柳と悠真の動きはまるで重い水の中を歩くかのように鈍かった。
突然現れたエレクトロの一手で強制的にステージが起動され、さらに周囲には柳と悠真以外の仲間が見当たらない。
状況があまりにも唐突で、情報も足りず、そして何より、エレクトロを信じるだけの材料がなかった。
エレクトロは二人の戸惑いと警戒が空気の温度のように伝わってきたのを感じ取った。足を止め、わずかに振り返る。
「どんなに言葉を重ねても……今の自分じゃあなたたちに信じてもらえない!それは当たり前のことだンナ……」
その目に宿っていたのは噛み締めた決意が混じり合った色だった。押し潰されそうな不安と、自分を奮い立たせるために立てた刃のような覚悟が同時に滲んでいた。
「だから──私は行動であなたたちに示してみせるンナ!私に協力させてくれ! 今は、奴を倒して脅威を取り除くことに集中してほしいンナ!その後にいくらでも私を疑い、判断に時間を割いてくれて構わない!」
この状況では、どうあがいても自分を決して信じてもらえない。エレクトロはその現実を理解していた。敵対組織のリーダーとしての肩書きは揺るぎなく、その重さはどんな弁明より先に疑念を呼び寄せてしまう。
だが、それでも動かなければならなかった。
迷宮の壁が彼の叫びを反響しながら押し返す。橙色の空間全体がその訴えを増幅していくかのようだった。
今は逃走するテストエネミーの撃破が最優先であり、その脅威を排除してからでなければ信頼を巡る判断も進められない。虚勢でも演技でも埋められない、生々しい必死さがその全身から溢れていた。
「――残念ですが、我々はあなたを信用できません」
「………」
鋭い拒絶が空気を切り裂く。
柳は敵影が遠ざかる気配に焦燥を覚えつつも、判断を誤ってはならないという冷静さを保っていた。
時間がなくても、差し出された“協力”の手をそのまま握るわけにはいかない。自分たち六課の身はもちろん、背後にいる市民や隊員たちの安全まで含めて一秒の油断も許されない。
「……ただ、これから投げる質問に真実をもって応じるのであれば、あなたの提案を受け入れる余地はあります」
「……!本当かンナ?」
「……え?副課長?」
悠真が驚きに声を張り上げる。
しかし柳は一切揺らがぬまま、急ぎながらも慎重に絞り出すように問いを放った。
「何故、わざわざVR世界へ侵入してまで私たちを助けようとされるのですか?六課を救うことに、あなたにとって何か利益があるのですか?」
その一点こそが、信頼の可否を測る唯一の基準だった。
「!……それは……」
エレクトロはすぐには答えなかった。”ただ君たちを助けたい”だけではたとえ本心だとしても彼女は信用しないだろうと感じたからだ。
言葉の選び方を誤れば、真実ですら嘘に聞こえると理解していた彼は短い沈黙の末、ようやく胸の奥底にある本心を慎重に掬い上げ、柳に届く形として紡ぎ直した。
「……最近、世間が六課とヒールの対立を面白がって煽り立てているせいか、六課の内部でも“ヒールは過度に危険だ”という空気が強まっているのではないかと不安に感じた。あの時の偶然の遭遇で望まずとも君たちと衝突し、結果的に傷まで負わせてしまった以上……警戒されて当然だ。償いに来たというのは、紛れもない本音だ。だが、それだけが理由じゃない」
「……つまり、他に目的が?」
「……ああ、自分には一般の友人がいる。もし六課がヒールを追う過程で、その友人との関係まで探られるようなことがあれば、何の関わりもない相手に火の粉が降りかかってしまう。それだけは絶対に避けたい。だからこそ、六課に直接会って誤解を解いておく必要があった。――それが、ここへ来た本当の理由だ」
柳は瞬きすら惜しむように沈黙し、エレクトロの声音の揺らぎまで計るように慎重に観察する。
「……このタイミングで来た理由は何ですか?正直、さらなる混乱を引き起こして私たちの動きを制限しているようにしか思えません」
「その友人が危険に晒されないように僕たちを混乱に乗じて排除しに来たと言われても納得できるンナからね~」
疑念は二人分の重さで突き刺さる。
その圧にエレクトロは腹の底から声を押し出した。
「ありえないンナ!友人のためだと称して人を殺すなど……、友人そのものへの侮辱だ。そんな行為で守れるものなど何ひとつない!私は……いや、私たちはどれほど闇の側に身を置こうとも越えてはならない一線を決して踏み越えないンナ。追い詰められようと道を歪めて外道に堕ちるつもりは一切ない!」
「「………!」」
その必死さは虚勢の輝きを欠き、むしろ不器用な真っ直ぐさで空気を震わせた。
そして核心へ踏み込む。
「このタイミングで介入したのは千面相の襲撃を事前に掴んでいたからだ。ここ最近、私は六課について独自に調べていた。その途中で君たちが最近検挙した”千面相”が不自然な動きを見せているのに気づき追ってみれば――やはり何かを企んでいた。だから私は千面相と同じルートを辿り、六課への襲撃を防ぐためにVR世界へと入り込んだんだ……!」
「同じルート……?」
悠真が尋ねるとエレクトロは情報を裏付けるように二人に確認する。
「そうだ。今日はファンと随分交流したんじゃないか?恐らく敵はプレゼントと称して特殊なコードを入れた装飾品を君たちに渡したはずだ……」
柳はその言葉を真正面から受け止め、心の中で慎重に吟味した。
彼が完全に信用できるわけではない。しかし、その言葉の底に嘘が混ざっている気配も感じられなかった。
「あー……確かに怪しい人物に今日捕まったンナ。……随分熱烈なファンだったけど、あんたの話を信じるなら”彼女”がそうなのかもしれないンナ……」
「……ウン、多分ソウダンナ」
意外にも思い当たる節があったのか悠真は割と真剣に考える。柳はその隣で危険と時間と状況――すべてを天秤にかけた末、彼女は結論に辿り着いた。
「……分かりました。あなたの処遇は一時的に保留し、協力を受け入れます」
今は逃げるテストエネミーを撃破し、差し迫る危険を打開することが先決だった。
「副課長!?本気ですかンナ!?」
その判断に悠真は驚愕し、露骨に警戒心を強めた。
だが、顔を強張らせる悠真に柳は静かに言い聞かせる。
「浅羽隊員、どちらにせよこの場で足を止めればすべてが致命的に遅れます。彼の狙いを追求することに時間を割くことよりも六課に差し迫る危険を排除することが先決かと。彼は近くで監視し、怪しい動きを見せれば対処する形にしましょう」
「ぐっ!?そうかもしれませンけどぉ……!……はぁ、わかりましたンナ。喧嘩はしないって蒼角ちゃんと約束しましたからンナ……」
しかし柳の判断は的確であり、否定できない理屈を前にすると、悠真はしぶしぶ納得せざるを得なかった。
「二人とも……感謝するンナ……!絶対に役に立って見せるンナ!」
エレクトロは小さく息を吐き、心の底から湧き上がる感謝を二人に向けて告げた。
橙色の迷宮は依然として冷たい。だがその中で、三人の関係はわずかに動き出し、逃げる敵の背中へと視線がひとつに結ばれていった。
「一先ず追跡を開始します!まだ遠くには行っていないと考えられます!」
そして三人はステージの奥へと逃げ込んだテストエネミーを共に追うため、駆けだした。
三人は橙色の迷宮を駆け抜け、逃走するテストエネミーの影を追った。足音が乾いた地面に散り、複雑な構造物の間で鋭く反響する。
「二人とも……、私は千面相のように”システム権限を掌握することはできない”ンナ。けど、代わりにこの世界の情報をリアルタイムで取得できるンナ。だから案内は任せてくれンナ……!」
エレクトロは走りながら、短く自らの能力について説明した。このステージの情報――地形変化、敵の行動パターン、環境の揺らぎ、そうした“流れるデータ”を得られると言う。
それは彼自身の権能ではなく、この世界に深く潜り込んだ者だけが触れられる、裏側の“ノイズ”を読み取る術だった。
「案内って言っても、もう必要ないンナ……?敵は既に見えてるし……」
悠真の言う通り、逃げる敵は常に視界の先にあり、距離は縮まり続けているように見えた。
そのため柳も悠真も、ナビゲートの必要性をすぐには理解できなかった。
だからこそ、エレクトロが不意に「……ここは迂回が必要だ」と告げた時、その言葉はあまりに唐突で、妙な予兆のように響いた。
その意味を問いただすより早く、耳をつんざく金属の衝突音が迷宮に炸裂した。
――ガキィンッ!
「うわっ!?なんなンナ!?」
「これは……!?」
甲高い衝撃が走り、三人の前で黒い結晶が隆起するように盛り上がり、瞬く間に分厚い壁となって進路を塞いだ。結晶が擦れ合う低い唸り音とともに、表面がわずかに脈動している。まるで今形成されたと、目で理解させようとするかのような露骨な悪意があった。
全員が思わず足を止める。視界の先で敵の影が遠のくのが一瞬見えたが、それすら壁に遮られ消えた。何が起きたのか頭が追いつかず、驚愕の色を隠しきれない。
しかし、ただ一人だけその変化にまったく動揺を見せない者がいた。
「姑息な……やはり妨害に打って出てきたンナ。二人とも見ての通り敵はステージの書き換え権限を部分的に奪っているンナ」
エレクトロだった。
彼は短く状況を断定した。敵が三人の動きを逐一監視し、進行方向を読んでは障害を生成していること。
エレクトロが事前にその兆候を読み取り、迂回を促した理由が明確になった。
「道は見たところ全部塞がれてるンナ」
「落ち着いてくれ悠真ボンプ執行官。見るンナ、ここに壊れかけの壁がある。ここなら奴も情報を書き加えることはできないンナ」
「誰が悠真ボンプ執行官だンナ!!」
悠真が抗議の声を上げるが、エレクトロは視線だけで壊れかけた建物の側面を指し示す。そこは構造自体が崩壊寸前で、ステージ側の生成処理が正しく働かない不安定領域だった。
敵が壁を生成しようとしてもデータが噛み合わず、書き換えが行われない。言わば穴のような地形だ。
エレクトロは即座に最適ルートを算出し、二人へと先導を開始した。
「一見通れそうな道は全て塞がれると考えて動いた方が良いンナ。ルートはこちらが案内するから最短を通って追いかけるンナ。壁は柳執行官、あなたにお任せする」
「ええ、お任せください」
柳は頷き、薙刀を振るう。
刃が古びた壁面を斬り裂き、粉塵を上げながら迂回路へと続く穴をこじ開ける。三人は埃の中へ身を滑り込ませ、追跡を再開した。
「――ははぁっ!私は伝説のプロキシなンナ~!」
以降、エレクトロによるナビゲートは驚くほど正確だった。
敵の逃走方向、地形の弱点、生成される障害物の傾向――そのすべてを読み取り、数秒先の未来さえ見通すかのような導きでルートを提示していく。
「凄い……!あれだけ距離のあった敵がもう見えてきました」
「……この世界が現実のホロウで、彼がヒールのリーダーじゃなければスカウトしていたンナ……」
柳と悠真はその指示を寸分違わず踏破し、迷宮の死角を抜け、狭い通路を曲がり、崩落の寸前で跳躍し、徐々に敵を追い詰めていった。
『く、くそ……、どうなってる!?』
逃走するテストエネミー、千面相はもはや余裕のかけらもないほどに焦りを露わにしていた。振り返るたびに距離が縮まっている。その背中には切迫した恐怖がまとわりつき、ステージを駆け抜ける走りはもはや逃げるというより、転げるような勢いさえあった。
追走はもはや単なる追跡ではなく、一瞬で情勢が覆る知覚と判断の戦いになっていた。
三人の速度はすでに敵を驚異的な勢いで上回り、ついには目に見える距離すら越え、先回りできるほどの優位を築き始めていた。
灰色の迷宮が風を切る音とともに流れ去り、逃走するテストエネミーの背を捉える瞬間が、確かに目前へと迫っていた。
「ははあ……!”友人”と同じになれたみたいで誇らしいンナァ……!」
その様子を追いながらエレクトロはどこか得意げに胸を張り、逃走者とは対照的に楽しげな色を浮かべていた。
同じ伝説の“導き手”と同じ立ち位置にようやく立てた気がするとでも言うように。
遠慮のない喜びが声にならない余韻として滲み出ていた。
複雑なルートを読み解き、敵の進行を先読みし、味方を導くという行為そのものに彼の意識は確かな高揚を覚えているらしかった。
「――捉えた……!」
柳が距離を詰め、ついに薙刀の一閃が敵の背へと迫る。
あと一歩、刃が敵の影を裂く。
「む、柳執行官!横だンナ!」
――その瞬間。床面のホログラムが激しく歪み、ステージに配置されていたエネミーの一体が突如として出現した。
「グルァッ!」
「――っ!」
まるで盾のように柳の前へ割り込み、斬撃はそいつの金属躯体をかすめて弾かれた。
「く、後ちょっとだったンナ」
「副課長、大丈夫ですかンナ!」
エレクトロと悠真は悔しげに肩をすくめ、嘆息する。
実際、敵の足がほんの数歩分遅れていれば今の一撃で決着がついていたのは明らかだった。
『はっ……!残念だったな』
そうは言いつつも千面相は背筋に冷汗を浮かべ、声を乱しながらステージの奥へと走り去っていく。
「グルルルルァ……」
三人の前には、新手のエネミーたちが群れを成して立ちはだかった。追跡を継続するには、まずこれを迅速に排除しなければならない。
「ここは私が引き受けます。お二人は後方支援を……!」
柳は即座に構えを取り、戦闘へと身を投じた。
「うおおおお……!突撃ー!行くンナ!悠真執行官!」
「ハイハイやるンナ……!」
だが、戦えるのが柳だけとは限らなかった。ボンプの姿に変えられた悠真と同じくボンプの姿でログインしたエレクトロも、短い手足を最大限活かし、果敢に前へと飛び出していく。
「オラァ!囲め、囲め!袋だンナ!」
「どけどけ!邪魔だンナァーー!」
戦闘性能はささやかで、見た目も軽妙だが当人たちは至って真剣だった。
彼らは不器用なタックルや拳のようなものを必死に繰り出し、どうにか一体のエネミーと渡り合っていた。
「オラァ!クラァッ!早く!くたばれンナ!」
「ンナ!ンナァ!ンナァーー!」
小さな体が跳ね、転がり、体当たりのたびに野太い雄叫びめいた音が響く。その様はどこか滑稽でありながら、妙に気迫に満ちている。
「………フッ――!」
一方で柳の動きは無駄がなく、滑らかだった。薙刀が円を描くたびにエネミーの躯体が次々と断ち斬られ、金属片が灰色の地面に散っていく。
その殺到を沈め終える頃、ようやく悠真とエレクトロも一体をしぶとく打ち倒した。
「はぁ……はぁ……雑魚がよ……!」
「ゴホッ……ンナ……参ったかンナ……!」
別に柳に任せておいても問題はなかった一体を倒し、二人は勝利の余韻を噛み締めていた。疲労のあまり肩を激しく上下させながらも、誇らしげに胸を張り、仁王立ちする。
しかしその小さな躯体は明らかに限界で次の一歩がやっとの状況だった。
「……敵は全員掃討できたようですね……。あの、お二人とも動けますか?」
そんな二人を見た柳は呆れたように息を吐きながらも、追跡の再開を促す。
「いや全く問題ないンナ!さっさと行こうンナ!」
「ええ!全然行けますンナ!」
アドレナリンでテンションがおかしくなった二人は疲労を完全に無視するかのように、元気いっぱいの勢いで揃って返事し、短い手足をばたつかせて前へと駆け出した。
「えぇと……?」
先ほどまでエレクトロに対して強い警戒心を抱き、むしろ険悪とさえ言える空気を纏っていた悠真だったが、今はまるで旧知の仲のように戦闘中自然と息が合っていた。
柳はその姿を追いながら、ふと内心で思う。
(複雑ですが……、案外この二人は気が合うのかもしれませんね……)
そんな微かな感慨が柳の胸の奥に静かに滲んでいった。
ーーーーーーー
その後、三人は敵の妨害を次々と突破しながらステージの奥へと進んでいった。
倒壊した建物の影から道を塞ぐように突き出す黒い結晶、ステージに配置されたエネミー。しかし三人の追撃は止まらない。エレクトロの的確なナビゲーションと柳の武器さばき、そして小さな身体でも諦めずに食らいつく悠真の勢いが次々とその妨害を突破させていった。
やがて迷路の奥へ進んだところで、硬質な金属が衝突する尖った音がステージの奥から響き渡った。
「これは……」
エレクトロがその音を拾い、静かに零す。
それは重く鋭い打撃音で、続けて異形の唸り声が重なる。誰かが戦っている。その緊迫した気配が肌を刺すほどに伝わってきた。
「……戦闘音……?この先でしょうか?」
三人はその音源に急いで近づいていく。
次の瞬間、目の前の広場が視界に開けた。
「月城さん!あそこ……!」
悠真が震える声で叫んだ。
そこにいたのは蒼角と課長である雅だった。
二人は円を描くように立ち位置を変えながら大量のエネミーに囲まれていた。蒼角の髪が揺れ、雅の刀が銀色の弧を描き、火花が幾筋も散っている。
しかし二人の動きに迷いがあるのは明らかだった。敵にデータを奪われないよう、全力を出せないでいる。防御と回避を優先し、必要最小限の攻撃にとどめているために押し切られそうな重苦しい空気がその場を支配していた。
「蒼角っ!!雅!!」
柳は思わず声を張り上げた。
急いで助太刀に行こうとするが、その距離は絶望的だった。
二人へ続くステージの床が途中から途切れ、向こう側に渡る手段がどこにも存在しない。
姿を見ることはできても、助けに駆けつけることができないという現実だけが厳しく突きつけられた。
その時、蒼角が不意に雅の前へと踏み込み、エネミーの攻撃を受け止めていた。
「蒼角……?」
雅が驚いたように蒼角の背中を見る。
「――ボスのデータが盗まれちゃダメって、ナギねえが言ってた!」
胸を張り、己の武器を握りしめる。
「ここは蒼角に任せて!!」
小さな体でありながらも、大切なものを守るための覚悟を示していた。
「蒼角ちゃん……覚悟、きまってるンナ……」
悠真は手を口元に添えて呟く。
その視線の先には無謀に見えて、しかし確固たる意思が支えている“ヒーロー”の姿がそこにあった。
「――見つけたぞンナ!」
その瞬間、エレクトロが突然横へ跳ねるように飛んだ。
「っ!エレクトロ……?」
「急にどうしたンナ……?」
彼は異様なほど素早く、小さな身体が壁へ向けて弾丸のように跳んだ。
柳と悠真が何が起きたのか理解が追いつかないまま、彼は壁の陰に潜んでいた何かを掴みとった。その輪郭が揺らぎ、ステルス機能を剥がされた敵の姿が露わになる。
『な……っ!?馬鹿な!?』
それは逃げ続けていたテストエネミーであり、その中枢を操っていた千面相であった。
隠密を破られた千面相は驚愕に歪んだ声を上げた。
「私は”この世界を書き換えることはできない”ンナ!だが……“今どう動いているか”の情報ならリアルタイムで拾えるンナ!」
エレクトロはテストエネミーの顔にしがみ付きながら叫ぶ。
敵の軌道、出力、処理速度、データの揺らぎ。このVR空間に存在するすべての数値が、まるで呼吸するように彼へ流れ込んでくる。それが、ここまで逃げた敵を突き止める要因となった。
「いくら隠れようがぁ!既存プログラムにはない動きをしてる時点で丸わかりンナ!この距離で隠密なんぞ通用しないンナァ!」
『貴様ァ!!』
「うぐっ……!」
千面相は怒りに任せてエレクトロを掴み上げ、力任せに引きちぎるように投げ捨てた。小さな身体が床を跳ね、金属音を立てて転がる。
「……ンフ。もう遅いンナ、千面相」
だがエレクトロは苦しむより先に、口元に冷たい笑みを刻んだ。まるでこの状況も想定内であり、すでに布石を打ち終えていると言うように。
『なに……?……っ!しま――!』
そのわずかな余裕の意味を理解したのは次の瞬間だった。
千面相が振り返るより早く、柳の影が背後に迫っていた。
「ハァッ!」
薙刀の刃が鋭く光を返し、異形の胴へと滑るように走る。怒声が響きかけたが、すでに遅い。
――ザシュッ!
『ぐ、ぐぞぉ……!月城柳ぃ……!』
柳の一閃は迷いなくテストエネミーの胴体を切り裂き、その体は金属音を残して崩れ落ちた。
――ステージクリア。
撃破確認のアナウンスが冷たい電子音を交えて響き渡る。
直後、ステージ全体が淡い光を放ちながら静かに変容した。
橙色の迷宮も、崩れた建築も、敵も、全てが塵のようにほどけていき、世界が色を失いながら溶けていく。
そして視界が再構築されるように塗り替わったとき、全員はいつの間にか最初の部屋に戻っていた。
「やった!クリアしたんだね、ナギねえ!」
「ああ、見事だ」
柳と悠真が姿を現したのを見て、雅と蒼角の二人は真っ先に歩み寄り、無事にステージを突破したことを労うように駆け寄る。
「ええ、お二人も無事でよかったです」
緊張の色をわずかに残しながらも、安堵がその表情に広がっていた。
しかし、その穏やかな空気は長く続かなかった。ふと視線の向かった先でエレクトロが床に転がり、苦悶に身をよじっている姿が目に入ったのだ。
「ぐぉぉっ!?思いっきり叩きつけられたンナァッ……!?」
どうやらステージ中に受けた攻撃の痛覚情報が、今になって遅れて襲ってきたらしい。仮想空間の反動を受ける体は小刻みに震え、呻き声が喉奥で潰れた。
「なんか彼、いつもこの場所で悶えてないンナ……?」
悠真は呆れながらその様子を眺める。
「………」
――スッ。
雅の目はその瞬間、鋭い線のように細くなった。
腰の刀に自然と手が伸び、警戒の気配が静かに周囲へ滲む。
元々今回のステージはエレクトロが何の前触れもなく開始し、六課を強制的に別々の地点へ散り散りに飛ばしたことが発端だ。
信頼を回復できるような時間も機会もなく、疑念はまだ胸の奥に沈殿していた。
「待ってください課長。今回の攻略には彼の協力がありました……!少し説明させてください」
柳がそんな空気を断ち切るように前へ進み、エレクトロが一時的な協力者として動いていたことを簡潔に説明した。
「まあこんだけ、必死に働いてくれたからね……今痛がってるのも演技じゃないなら相当毒気を抜かれちゃうンナ」
「演技なわけあるか、滅茶苦茶痛いンナ……!」
悠真もまた自分たちだけでは突破が難しかった場面で、確かに彼の助力が働いていたと認める。
柳と悠真。二人の言葉には感情よりも事実を優先して判断した重みがあった。
「……そうか、お前たちがそう判断したのであれば私からは特に問題はない」
その判断を聞いた雅は、息を静かに吐き、刀から手を離した。納得したわけではないが、二人が決めたのであればそれ以上は追及しない。彼女なりの譲歩だった。
「うんうん!お仲間が増えたと考えればプラスだよね!二人が信じるなら蒼角も信じるよ!よろしくね、エレクトロ……!」
蒼角はと言えば、年相応の無邪気な笑顔を向け、まるでさっきの脅威などなかったかのように問題ないと示す仕草を見せた。
その朗らかさだけが、張り詰めた空気に小さなほころびを作る。
「え?ああ……信じてくれてありがとう。よろしく頼むンナ」
地面に倒れたままのエレクトロは蒼角が何故か妙に嬉しそうに自分を見ていたことに少しだけ引っかかりを覚えたが、今はそれを深追いする気力もなかった。
ただ、六課が自分の協力を受け入れ、結果として庇ってくれたことに痛みに歪む顔のまま小さく安堵した。
胸の奥に温かいものが灯り、彼はその場から動けぬまま感謝を噛みしめるように静かに息を整えていた。
ーーーーーーー
「では改めて信じてくれてありがとう。私が知る情報を、嘘偽りなく共有するンナ」
エレクトロは先ほどのステージで柳と悠真に行ったのと同じように敵と自分の侵入方法、自らの能力の仕組みと限界を雅と蒼角にも落ち着いた調子で説明した。
「え~!?つまり……あの綺麗なバッジがワルモノだったの?」
「ああ、そうだンナ。柳執行官以外はそのバッジをファン交流時に身に着けたンナ。柳執行官以外の体が操られたのはそういう訳だンナ」
彼の言葉は紡がれるたびに簡潔で、虚飾のない現実だけが並んでいく。
「でも……蒼角も操られなかったよ?もしかしてエレクトロのおかげ?」
「その通り、それは私が対抗プログラムを出力したからだンナ。私の侵入経路は蒼角執行官につけた別のバッジだったからンナ」
「ありがとう……!それと投げちゃってごめんね」
「気にすンナ」
軽く首を横に振るエレクトロ。
その仕草はどこか照れくさそうで、攻撃されたことを恨むどころか、むしろ蒼角の無事を喜んでいるようでもあった。
沈黙が一瞬落ちた後、雅が鋭い目を細める。
「つまり……貴様の手の者があの場で蒼角に接触していたのか……」
「蒼角ちゃん……誰から貰ったか思い出せるンナ……?」
「う~ん~……?」
眉を寄せて両手で頭を抱え、必死に記憶を探ろうとした蒼角を見て、エレクトロは焦り声を上げた。
「しまった!?いらんこと言ったンナ!?――と、兎に角探るのは後!先に説明を続けるンナ……!」
エレクトロは話題を変えるために次のステージの話題を振る。
次に控えるステージが最後の区画となること、その難易度が飛躍的に跳ね上がる可能性が高いこと。特に配置されるエネミーの規模は前の比ではなく、場合によっては連携が追いつかないほど急激に増大する恐れがあること。彼はそれらの見通しを淡々と語った。
六課の面々は完全に彼を信頼しきっているわけではなかったが、その助言を無視する理由もなかった。情報として価値があると判断し、警戒を解かぬまま耳を傾けていた。緊張の糸は途切れず、その場には一瞬たりとも気の抜けない空気が満ちていた。
「今のデータ進捗は雅執行官が一番低い。けど楽観視はできないンナ。そして蒼角執行官、君は次の戦闘を避け――」
――ブツン。
そんな中、エレクトロの体がふっと揺らぎ、光が抜け落ちるように輪郭が薄れた。
気づいたときにはそこにいたはずの人影が完全に消失していた。
「……え?」
その変化に最初に反応したのは蒼角だった。か細い戸惑いの息が漏れ、部屋の空気がざわつく。
理解が追いつかぬまま視線が散り、それを追うように壁面へ設置された大型モニターが不穏なノイズとともに蒼白い光をまき散らした。
そして、あの男の声が響いた。千面相だ。
『……まったく、余計な部外者がうろつき回ってくれたものだ。邪魔者は排除させてもらった』
その声音には苛立ちが露骨に滲み、隠す気配すら感じられなかった。
その言葉が意味するところは一つ。
六課の全員は瞬時にその意味を理解した。エレクトロは仮想空間の外へ強制的に弾き飛ばされた。助言を続ける隙すら与えられず、干渉そのものが切り取られたのだ。
室内が硬直した緊張に包まれる中、柳だけは冷静さを崩さなかった。
「あなたのその反応に、この行動。……どうやら彼は本気で私たちを助けようとしていたみたいですね……。残念ながらもう確認することはできませんが……。それはそれとして、千面相さん、随分動揺しているのですね。かなり焦っておられるのが見て取れますよ」
彼女は淡々と状況を見据え、モニターの向こうの男。千面相へ視線を向けた。
『――』
その言葉に千面相は一瞬言葉を失ったようだった。六課の対応とエレクトロの介入によって想定していたシナリオが崩れ始めているのが明白だった。
「データや地形操作を始め、あらゆる手を尽くしてあなたは何一つ満足に事を運べなかった。時には“諦める”ことも知恵ではないでしょうか?」
柳の言葉はそんな綻びを正確に突いていた。
その指摘は容赦がなく、皮肉を隠しもしない。冷ややかに、だが事実として計画の崩壊を突きつけられた千面相は一拍の沈黙の後、不気味な笑いを吐き出した。
『ふ、ふははは。そうだな……時には諦めることも知恵だ』
それは諦念とも嘲笑ともつかぬ、湿った笑いだった。しかしその裏に潜む意図は、次の瞬間にさらけ出される。
彼が手放すのは自身の計画ではない。
”諦めるべきは誰か”――その方向だけが鋭く反転する。
『計画が上手くいかないのであれば修正をしなければ!諦めるのは貴様だ、忌々しい執行官!何もできずお仲間の脳が死に絶えるまで大人しくしているといい……!』
モニター越しに響いたその怒声は刃のように柳の名を突き刺し、瞬間、空間そのものが大きく軋んだ。
『あの忌々しいボンプ同様、貴様もこれ以上邪魔をするな!私の世界から出て行け!』
「まさか――待ちなさい!」
光が柳の全身を包み込み、彼女の輪郭が白に飲まれた。同時に六課の手が伸びたが、その指先はただ虚空を掴むだけで、彼女を引き戻すにはあまりにも無力だった。
視界が砕けるように白く飛び散り、足元の感覚が崩れ落ちる。音も色も、すべてが遠のく波のように引いていく。強制的なログアウトによる拒絶の衝撃が意識を乱暴に現実へと引き戻した。
――そして、柳は現実世界で目を覚ました。
「つ、月城さああああああん!!ようやく目を覚ましてくださいましたね!よかった!本当によかった!お帰りなさい、ここは現実ですよ!!」
傍らで控えていたVRシステムのスタッフが安堵と混乱が入り混じった涙声を上げていた。彼は柳の帰還に大きく肩を震わせ、胸を撫で下ろすような仕草を見せている。
しかし柳の思考はそこに向かず、混乱を切り裂くように現状を確認し始める。
「……そういうことですか、他の皆さんはまだ戻ってきていないんですね」
真っ先に胸を締めつけたのは、残された三名の行方だった。
「い、一体何が起きたんですか?」
状況を確認するためにスタッフが彼女に視線を向ける。
「いいですか?これから話すことは重要ですので、どうかよく聞いてください」
そうして彼女は最悪に近い報告をスタッフに行う。
突如VR世界で千面相の残党がシステムに干渉し、六課を閉じ込めたこと。現実へ戻ってきたのは柳だけであり、悠真、蒼角、雅の三名には未だ取り残されていること。
そして柳はスタッフにH.A.N.D.本部に連絡し、電子戦の専門家と医療チームを呼び、さらにHIAセンターの建物内に誰も出入りさせないよう指示を出す。
「わ、わかりました。私にお任せください!」
スタッフは慌ただしく動き始め、去っていった。
彼女は一息つく。
念のためエレクトロについては話していない。義理……というものではなく、話せば余計な混乱を与えると考えたためだ。
エレクトロと自分が排除された直後、千面相は標的を明確に絞り直したのだと柳は直感で理解した。
胸の奥に冷たく重いものが沈殿していく。だが考えている猶予はない。柳は呼吸を整える暇すら惜しみ、即座にシステムの再ログインが可能か確かめなければと、すぐさまVR装置へ向かおうとした。
――ブブッ。
その時、柳のポケットでスマホが不意に震えた。
画面を開くとそこには登録されていない番号が一つだけ表示されていた。
(これは……?)
この切迫した状況で、こんなタイミングで連絡を寄越す存在は柳の中でたった一人しか思い当たらなかった。
表情は気丈に保っている。しかし喉が小さく震え、呼吸が細くなる。躊躇いの混じる指先で画面に触れ、通話ボタンを押した。
細かいところを調整して、今夜あたりに後編が投稿できそうです……!
VR世界か……よし、ハジけるか……!(ボソッ)