転生者達の新エリー都、二足のわらじ生活   作:フライパンソルジャー

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感想、誤字報告ありがとうございます!

今回曇らせ注意かもしれません。すぐに”ネタバレ”は芸がないかなと思い、トリックの前に皆の反応を無理やり入れました!(人の心無)



曇りのち、雷

六分街のビデオ屋『random play』―――。

 

アキラは鉛を詰め込まれたように重たい体を引きずりながら、裏口の扉を押し開けた。

 

「お兄ちゃん!大丈夫!?」

 

慌てた足音とともに、リンが駆け寄ってくる。

いつもの元気な声よりも少し高く、少し震えていた。

 

その顔を見た瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが、ようやく緩んだ。

 

(――ああ、戻ってきたのか)

 

生きて、ここに。

 

そう実感した途端、足元から力が抜ける。

 

頭の奥が鈍く、重く痛む。

侵蝕の後遺症だと分かってはいるが、思考は泥の中を進むように遅い。

言葉をまとめようとすると、どこかで引っかかり、形になる前に霧散してしまう。

 

「無理しないで少し休んでて!ほら、水!」

 

「ああ……、ありがとうリン」

 

リンに促されるままソファに腰を下ろす。

 

――エレグは、死んだ。

 

その事実だけが、異様な重さで胸に残っていた。

 

あの後は、ほとんど記憶の断片でしかない。

 

動かなくなった”彼を運び”、傭兵の包囲を突破し、パイパーが無茶な運転でトラックを走らせ、後ろからミサイルが撃ち込まれ、天地が反転する感覚。

 

体が宙に投げ出され、そのままホロウへと落ちた。

 

暗闇。

 

上下の感覚が曖昧になり、重力が歪む。

エーテルが皮膚の内側から圧迫してくるような不快感。

肺の奥が軋み、視界の縁がじわじわと侵されていく。

 

その場で六課の課長、星見雅さんと合流できたのは奇跡に近かった。

だが、ホロウ内部で起きた異変はそれ以上に不穏だった。

 

彼女の刀が突如として、狐火のような蒼い炎を噴き上げたのだ。

揺らめく炎は刃に絡みつき、制御を失ったそれは、まるで意思を持つ生き物のように暴れ始めた。

空間が歪み、エーテルが濁流のように溢れ出す。

 

その光景を見て、一瞬恐怖で逃げるという選択肢が頭をよぎった。

 

だがその直後、目の前で撃ち抜かれたエレグの姿が鮮明に蘇った。

 

血の色。

倒れ伏す身体。

言葉になる前に途切れた、最後の視線。

 

見捨てるなんて、そんなことできるはずがなかった。

そもそもこの時の自分は彼女のプロキシだ。何があっても彼女を外へ連れ出す義務がある。

 

アキラは反射的に地面に落ちた鞘を拾い上げ、狐火の中に踏み込み、彼女と協力して刀を抑え込んだ。

 

怖気が背筋に走るほどの奔流、耳鳴りを伴う圧力。それでも離さなかった。

 

その後、何とか刀を鞘に納めた後に、雅さんは刀について教えてくれた。

代々星見家に伝わる家宝であり、このような事態は初めてだ、と表情は変えないまでも少しの不安を吐露していた。

 

その告白を聞いた時、二人の距離は確かに縮まったように感じた。

言葉は少なかったが、互いに背中を預けるだけの信頼はそこにあった。改めて協力してホロウを脱出することになった。

 

道中、雅さんは何も言わなかったが、その表情には確かな悔恨が滲んでいた。

エレグを失ったことを彼女もまた悔やんでいたのだ。

 

その後は、ほとんど意地だけで動いていた気がする。

雅さんが敵を倒し、何とか刀の不具合を解決したところでアキラの意識はそこで途切れた。

 

――侵蝕症状により既に体が限界に達していたのだ。

 

次に目を覚ましたとき、そこは既に外だった。

乾いた空気と、ざらついた地面の感触。

 

邪兎屋と六課は襲い掛かってきた正体不明の敵を制圧していた。

捕虜から情報を引き出している最中だという説明を朦朧とした意識で聞いた。

 

その中で、最も重い報告が投げ込まれる。

 

混乱の最中、パールマンを敵に奪われたこと。

そして――エレグの死体が、現場から消えていたこと。

 

誰もが、言葉を選びながら話していた。

それでも伝わってきたのは後悔だった。

 

「あの時、もっと早く協力をしていれば――」

 

「別の動きができていれば――」

 

誰もが、同じ考えに囚われているようだった。

“あの瞬間”に戻れたならという叶わない仮定に。

 

だが、休む間もなく敵の増援が再び向かっている、という報告が上がった。

それについてはパイパーが、うちの大将が何とかするぜいと言い。アキラはみんなから休むように促された。

 

それが今、このビデオ屋に戻ってきている理由だ。

 

ソファに沈み込み、深く息を吐く。

静かな室内に、外の喧騒は届かない。

 

TOPSである、あのエレグは死んだ。

 

敵は強大だ。

このまま成り行きに任せれば、次に命を落とすのは誰になるか分からない。

 

ソファの上でアキラはゆっくりと体を起こした。

休めと言われた。

確かに身体にはひどい倦怠感が残る。

 

――それでも。

 

「……じっとしてるだけじゃ、何も変わらない」

 

誰に聞かせるでもなく、低く呟く。

 

アキラは端末を取り出した。

画面に映る連絡先の一覧を指でなぞる。

迷いはほとんどなかった。

 

呼ぶべき相手は決まっている。

いままで修羅場を共に越えてきた者たち。

利害ではなく、背中を預けられると信じられる存在。

 

自分が信頼できる――”彼らに”。

 

 

 

ーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

郊外を根城とする走り屋集団、覇権を握ったばかりの陣営『カリュドーンの子』の面々は、重苦しい沈黙に支配されていた。

 

「……死んだ、ですって……?」

 

ルーシーの声はあまりにもか細く、現実感を伴っていなかった。

彼女自身、その言葉を理解しようとしていなかったのかもしれない。ただ、音として耳に入ったものを反射的に繰り返しただけだった。

 

死んだ。

死んだ。

 

誰が?

――エレグが。

 

その答えに辿り着いた瞬間、唇がわずかに震え、声は空気の中でほどけるように消えていく。彼女の視線は虚空を彷徨い、誰を見ているわけでもなかった。

 

つい先ほど、郊外を荒らしまわっていた不届き者の傭兵団を叩き潰したばかりだった。

砂煙の向こうで倒れ伏す敵影、ようやく訪れた静けさ。

勝利の余韻が残っているはずの場所で、今は誰一人としてその成果を噛みしめる余裕を持てずにいた。

 

その衝撃的な報告をもたらしたのはパイパーだった。

埃を払うことも忘れ、彼女は壁に背を預けたまま立っている。普段の気だるげな態度は影を潜め、淡々と、しかし一言一句を噛みしめるように語った。

 

「……六課が出張ってた。邪兎屋の連中も、プロキシもいた。……けど、エレグが……狙撃されちまったんだ……」

 

それだけで十分だった。

続く言葉が、誰の胸にも深く突き刺さる。

 

「近くで見た訳じゃあねぇけどよぉ……ほとんど即死だった。……多分遺体は……パールマンと一緒に持ってかれちまったんだと思う」

 

抑えた声の奥に、悔しさと怒りが渦巻いているのが分かる。

無気力に振る舞うことの多い、普段のパイパーからは考えられないほどの感情の奔流だった。

彼女は一度言葉を切り、最後にぽつりと付け加える。

 

「あいつ……死ぬ直前まで、新エリー都のことを心配してたんだぜい?」

 

その瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。

空気がさらに重く沈む。

 

シーザーは黙って拳を握りしめていた。

革手袋越しでも分かるほど、力が込められている。

奥歯を噛み締め、悔しさを押し殺すように唇を噛む。

 

「……ちくしょう」

 

低く、吐き捨てるような声。

 

「アイツは、こんなところで死んでいい人間じゃなかったろ……!」

 

誰に言うでもない言葉だった。

だが、それはここにいる全員の本音でもあった。

 

エレグという男は、常に危うさを孕んでいた。

立場も振る舞いも思考の軸も、あまりにも都市寄りで、郊外に身を置く者としては警戒せざるを得ない。信用しきれない部分も確かにあった。

 

それでも、今日までの付き合いから彼が多くの部下に慕われ、新エリー都を大きく支えている人間であるというのは理解していた。

 

だからこそ、その喪失は重い。

彼一人が欠けただけで、いくつもの均衡が崩れ、数えきれない人々の未来に影を落とすだろう。

 

「……あの人、いつも自分が前に出るの、当たり前みたいにしてたんですの……」

 

ルーシーが、かすれた声で口を開いた。

視線は床に落ちたまま、ぽつりぽつりと言葉が零れる。

 

「私がどれだけ冷たく接しようとも、どれほどぞんざいに扱っても、危ないことでも、嫌な役回りでも……笑みを浮かべながら最後まで……」

 

それ以上は続かなかった。

 

「ルーシー……」

 

そんな彼女の様子を見かねたように、バーニスが静かに近づき、そっと肩に手を置く。

喉の奥で言葉が詰まり、ルーシーはただ俯いた。

 

それは後ろめたさからなのか、彼に対する深い後悔からなのか。彼女自身にも分からなかった。

 

拠点の外では乾いた風が吹いている。

郊外特有の、どこか埃っぽい匂い。

いつもと何も変わらないはずの景色が、今日はやけに遠く感じられた。

 

「……死体まで連れていくってのが、気に入らねぇ」

 

シーザーが唸るように言った。

向かいに座るライトが、サングラスを直しながら低く応じる。

 

「まるで最初から郊外で“消す”つもりだったみたいだ。立場上、都市に敵が多いのを知ってはいたが、まさか相手がこんな大胆に踏み切るとは思わなかったな……」

 

シーザーはゆっくりと顔を上げる。

その瞳には怒りだけではない、氷のように冷えた決意が宿っていた。

 

「……ああ。間違いねぇ。ビリの字から聞いたが、黒幕は治安官のブリンガーらしい……。パールマンを餌に罠に嵌めたんだろうよ……」

 

彼女は一度、深く息を吸う。

 

沈黙が、再び場を支配した。

 

郊外で起きた出来事。

エレグの死に際の言葉。

都市を想い、誰かに託した願い。

 

それを無駄にしていい理由など、ここには一つもなかった。

 

「……覚えとけよ」

 

シーザーは低く告げる。

 

「オレ様たちカリュドーンの子はエレグに借りがある。けど借りを返す前にアイツは、都市を想って道半ばで死んだ。……なら覇者として、その続きを見届ける義理がある」

 

拳を握り直し、静かに言葉を継ぐ。

 

誰も反対しなかった。

沈痛な面持ちのまま、それでも全員が同じ方向を見据えていた。

 

郊外の空は変わらず広く、無情なほど青い。

その下で、確かに一人の男が残したものが、静かに、しかし確実に彼女たちの胸に刻まれていた。

 

シーザーが次の行動を取ろうと言葉を発しかけた、その瞬間だった。

 

 

 

「――待ってください」

 

静かで、しかし不思議と耳に残る声が場を制した。

 

全員が一斉にそちらへ目を向ける。

拠点の入口、逆光の中に立っていたのは、長い髪をフードで隠した一人の女性だった。顔の上半分は影に沈み、表情は読み取れない。だが、その佇まいは、この場の空気を乱すことなく、むしろ溶け込んでいるようにさえ見えた。

 

数秒の沈黙。

やがてシーザーが低く問いかける。

 

「……アンタか。待てってのは、一体どういうことだ?」

 

女性は一歩だけ前に出て、深く頭を下げた。

 

「彼の不幸については聞いています。どのような覚悟で行動していたかも。……そして、皆さんが今、どれほどの怒りと無念を抱えているかも理解しているつもりです」

 

一瞬、フードの奥で視線が巡った気がした。

カリュドーンの子の面々、その一人ひとりを確かめるように。

 

「ですからこそ……お願いがあります」

 

シーザーは腕を組んだまま、表情一つ変えずに女性を見据えていた。

その沈黙は威圧でも拒絶でもなく、ただ聞く価値があるかを量るためのものだった。

 

女性はその視線を真正面から受け止め、小さく息を整える。

そして、はっきりと告げた。

 

「今は、動かないでください」

 

その一言に、空気が張り詰める。

まるで張り詰めた鋼線に指を引っかけられたかのようだった。

 

「……なんだと?」

 

シーザーが低く唸る。

 

「彼の死は、新エリー都にとって非常に危険な火種です。市政選挙で、ただでさえ治安局が神経を尖らせているこの時期に皆さんが動けば、真相が明らかになる前に“騒乱”として処理されかねない――」

 

視線が交錯する。

それは脅しではなく、現実の指摘だった。

 

「――それは、彼の望むところではないでしょう」

 

彼女は言葉を選びながら慎重に続ける。

エレグについて、あまりにも自然に口にしたことで誰も遮れなくなった。

 

「その混乱は黒幕の思う壺です。都市が疑心暗鬼に陥れば、真実は霧の中に隠される。……だから彼は、最後まで“順序”を重んじていました」

 

その言葉にルーシーが思わず反応した。

 

「”順序”?つまりエレグはこの事態を想定していたんですの?」

 

かすかな震えを含んだ声。

問いというより、確認に近かった。

 

女性は静かに頷く。

 

「……ええ、エレグは自分の身が危ないことを承知の上でパールマンと接触し、黒幕を探ろうとしました」

 

その場の誰もが息を呑む。

 

「だからこそ、自分がもしいなくなっても郊外の活動に影響が出ないように、仕事を私たちに引き継いだのです」

 

「……!」

 

その言葉が遅れて重くのしかかる。

確かに、ここ最近エレグは信頼できる人物を前に出し始めていた。

 

連れてこられたのは今目の前にいる女性、そして部下であるダイナという大男。

彼らに事業を任せ、シーザーたちとも意図的に顔を合わせていた。

 

それは偶然ではなかったのだ。

 

女性は小さく息を吸い込み、覚悟を決めたように告げる。

 

「都市の事業運営についても心配はいりません。CEOであるエレグが不在でも、元代表のヨシダが前面に立つ予定です。表向きには……“エレグは都市を離れて郊外にいる”という扱いになります」

 

静かな声だったが、内容は重い。

その意味がゆっくりと、だが確実に浸透していく。

 

「……隠せってのか」

 

シーザーが絞り出すように言った。

怒りと理解、その両方が混じった声だった。

 

女性は深く頭を下げる。

 

「はい。どうか……今は、彼の死を伏せてください」

 

それは懇願というより――託す、という姿勢だった。

 

「それが、彼が命を賭して作ろうとした“時間”を守る唯一の方法です」

 

風が拠点を吹き抜ける。

埃が舞い、誰かの衣服を揺らした。

 

ルーシーは唇を噛み、俯いた。

拳が震えているのが分かる。

 

「……そんなの……いえ……、そう、ですわね」

 

声にならない言葉が零れそうになるのを必死に堪えている。

 

シーザーは舌打ちを一つして、天を仰ぐ。

 

「……クソったれが」

 

低く吐き捨てるように呟き、再び彼女を見る。

 

「……分かったよ。今は動かねぇ」

 

その言葉に、周囲がざわめく。

 

「大将……?」

 

「けど!」

 

「分かってる」

 

シーザーは片手を上げて全員を制した。

 

「分かってるからこそ、だ」

 

拳を握りしめ、歯を食いしばる。

 

「アイツが命張って作った流れってことだろ。ここでオレ様たちが壊すわけにはいかねぇ」

 

やるせなさが、声に滲む。

 

「……待つ。だが忘れねぇ」

 

彼女のその視線は、郊外の彼方――新エリー都の方向を射抜いていた。

 

「この借りは、必ず返す」

 

女性は深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます」

 

誰一人、笑みを浮かべる者はいなかった。

理解はしても、誰一人として納得はしていない。

 

それでも、カリュドーンの子たちは、時が来るまでこの場に留まることを選んだ。

怒りと無念を胸の奥に押し込み、ただ耐えるという選択を。

 

郊外の空は、変わらず広い。

だがその下で、確かに一つの“嵐”が、静かに力を溜め始めていた。

 

 

 

 

 

 

その後、念のため傭兵団の襲撃を受けた現場へ向かうことになった。

 

郊外の外れ、風の通り道になっている一角だった。瓦礫は片付けられた後のようで、荒らされた形跡だけが残っている。だが、地面に染み込んだ赤黒い跡だけは、どれほど時間が経っても消しきれなかった。

 

「これは……」

 

思わず声が漏れる。

ルーシーは屈み込み、地面に残された痕跡を慎重に見た。乾きかけた血の色、引きずられた跡、飛び散り方――どれも、軽傷で済む類のものではない。

 

誰が見ても分かるほどに量が、多すぎる。確かエレグは心臓部を撃たれたという。

 

死体は未だ見つかっていない。

だが、それだけが救いだと考えるにはこの血痕はあまりにも雄弁だった。

 

生きている可能性を否定しようとする思考が頭をもたげる。

それを事実が冷静に押し潰してくる。

 

向こうに視線をやると、共に現場に来ていたダイナの大きな背中が目に入った。

郊外の埃っぽい空気の中でも、彼の体躯はひときわ目立つ。その正面には、猫耳を生やした少女が立っていて、落ち着かない様子で何度も頭を下げていた。小さな肩が震えている。

 

何かを必死に伝えようとしているのだろう。

 

彼女は確か、邪兎屋の従業員だったはずだ。

 

――エレグが死んでしまった、その現場に居合わせていた少女。

 

謝る必要なんて、本当はどこにもない。

彼女が背負うべきものではない。分かっている。

 

そう思いながらも、私は声をかけることができず、ただ遠くからその光景を眺めていた。

 

エレグのことを最初から信用していたわけじゃない。

むしろその逆だった。

 

郊外に企業が進出するという、稀で、そして警戒すべき事態。

彼はツール・ド・インフェルノの最中に発生した事件による混乱に乗じて姿を現し、マオを引き抜き、契約を持ちかけてきた。どこか人を食ったような笑み。軽やかで、掴みどころがない。

 

怪しい。

油断ならない。

裏がある。

 

そう決めつけるには、十分すぎる材料が揃っていた。

 

けれど、思い返してみれば――。

 

彼は、怪しかっただけだった。

悪事らしい悪事を働いたことは一度もなかった。

 

郊外の人々を切り捨てることも、踏みにじることもなかった。

むしろ常にこちらの事情を優先していた。

カリュドーンの子が動きやすいように段取りを整え、面倒な交渉や調整は、表に出ないところで片付けていたように思う。

 

企業の利益よりも、郊外の人間を。

少なくとも、そう見える行動を彼は一貫して続けていた。

 

彼の企業で働く人々からの人望は厚く、従業員たちもまた、決して傲慢ではなかった。

都市の人間が郊外を見下すような態度を取ることもなく、対等に、自然に接していた。

 

――彼に対する印象が大きく変わったのは二週間ほど前。

 

その日も彼はいつものように笑っていたはずだった。

軽薄とも取れる、どこか掴みどころのない笑みを浮かべて。

相手の懐に踏み込みつつ、決して本心を覗かせない、あの表情で。

 

だが、その日は違った。

 

バーニスが何気なく差し出した酒を、彼はためらいもなく受け取ったのだ。

”仕事中ですので”と、普段なら丁重に、しかも隙のない笑顔で断るはずなのに。

 

一瞬、場の空気が止まったのを覚えている。

バーニス自身も意外に思ったのか、冗談めかして杯を重ねた。

彼はそれを断ることなく、一杯、また一杯と、黙って飲み干していった。

 

そして、気づけばあの油断ならない笑みは消えていた。

 

代わりにあったのは、赤らめた顔に滲む、本当に困り果てたような戸惑いの色。

 

”うぅ~……皆さんはぁ……私のこと……どう思ってるんですかぁ? やっぱり……すごく怪しい、ですよねぇ……?”

 

”……は?”

 

間延びした頼りない声。それを見てシーザーが目を丸くするが、彼は少し間を置き、視線を彷徨わせてから続けた。

 

”……だとしたら、それは本当に……自分の責任です。申し訳ないですぅ……”

 

探るようでもなく、駆け引きでもない。

ただ真正面から不格好に問いかけ、頭を下げた。

 

その場にいた私たちは、彼の様子に揃って言葉を失った。

私も、呆けたように彼を見ていたのを覚えている。

 

曰く、自分はずっとカリュドーンの子に誤解を与えていたらしい、と。

人を試すような調子でもなく、自己弁護でもなく、ただ不器用に言葉を探しているようだった。

 

あの時の表情には嘘は覗えなかった。

企業のCEOという肩書きも、計算高さも、すべてが一度剥ぎ取られたような、人間味のある顔だった。

 

代理の担当としてダイナたちを連れてきたのはその翌日であった。

 

前日のことに触れると、彼はいつもの調子で肩をすくめ、曖昧な笑みを浮かべた。

 

”昨日のこと?いや~……申し訳ありませんが、ちょっと覚えてないですねぇ……”

 

曰く、酒のせいか記憶はほとんど残っていないらしい。

覚えていない――そう前置きしながらも、言葉の端々には確かな気まずさが滲んでいた。

 

だからしばらくの間、この場の担当は彼らに任せるつもりだと。

 

それは逃げにも見えたし、同時に余計な踏み込みを避けるための彼なりの配慮にも思えた。

 

郊外の仕事を手伝い、悩みを解決し、事業で金を稼ぐ。

それ自体は事実だ。だが、それを第一にしているようにはあの時はどうしても見えなかった。

 

人を気遣う仕草。

言葉を選ぶ沈黙。

あれは――紛れもなく本心だったのだろうか。

 

カリュドーンの子の中で、組織の財政を管理する私が必然的に彼と関わる機会は多かった。

今まで私は感情を見せず、距離を保ち、冷たく接していた。

 

それでもエレグはいつも変わらず明るく、丁寧に話しかけてきた。

拒まれていると分かっていても、歩み寄ることをやめなかった。

 

一度も、彼は私の家のことを聞かなかった。

それは、都市の名家のお嬢様としてではなく、ただの”カリュドーンの子のルーシー”として接していたのではないだろうか。

 

そのことに、今さら気が付く。

 

「……っ」

 

胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

呼吸が、一瞬遅れる。

 

次の瞬間、視界が滲んだ。

 

「――え?」

 

意図せず溢れた”それ”に、私は一瞬何が起きたのか理解できなかった。

頬を伝う感覚にただ唖然とする。

 

(……泣いている?)

 

「な、何で私が……こんなのおかしいですわ……」

 

言葉にすれば止まると思った。

理屈を並べれば、押し戻せると。

けれど、それは決して止まらなかった。

 

どうして。

私が、彼を?

頭の中で理由を探そうとするほど思考は絡まり、形にならない。

 

呼吸を整えようとすればするほど、胸の奥に重たいものが溜まっていく。

まるで、長い間蓋をしてきた感情が一気に溢れ出そうとしているみたいに。

 

エレグの顔が、ふと浮かんだ。

 

あの、どこか人を食ったような笑み。

軽い冗談を挟みながらも、こちらの反応を一つも見逃さない視線。

そして、あの夜に見せた、戸惑いと不安を隠しきれない表情。

 

「……あ」

 

胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 

もしかすると私は、ずっと彼を自分の父に重ねて見ていたのかもしれない。

 

お金儲けを第一に考え、効率と結果だけを追求してきた父親。

正しい道だと言いながら、息苦しいレールを敷き、そこから外れることを許さなかった人。

優しさを語りながら、私を“役割”としてしか見なかった、あの背中。

 

エレグを見るたび、胸の奥で湧き上がっていた理由の分からない反発。

胡散臭さへの嫌悪。

信用してはいけないという強い警戒。

 

(……違ったのに)

 

彼は父とは違った。

けれど私は、その違いを見る前に勝手に決めつけていた。

 

だから、彼が差し出していたものをずっと見ないふりをしていたのかもしれない。

警戒という名の下で、理解しようとすることを意図的に避けていた。

 

それに気づいた瞬間、喉の奥が詰まり、嗚咽が漏れそうになる。

唇を噛みしめても、涙は止まらなかった。

 

それでも彼は、最後までこちらを気遣っていた。

 

自分がいなくなっても郊外が混乱しないように。

カリュドーンの子が、余計な火種を背負わないように。

 

(……ああ)

 

ようやく、分かってしまった。

 

この涙は喪失だけのものじゃない。

受け取らなかったことへの後悔だ。

見ようとしなかったことへの、自分自身への怒りだ。

 

そして――気づくのがあまりにも遅すぎたという自覚だった。

 

自分はいつもこうだ。

大切なものほど、生きているうちは見ないふりをして、失ってから初めてその重さを知る。

 

シーザーが命を投げ打って、燃え盛る油田に飛び込んだ時もそうだった。

普段はいがみ合い、簡単に嫌いだと言えてしまうくせに、本当の気持ちは胸の奥に押し込み、決して見せない。

そして、すべてが終わった後で遅れてこの感情が溢れ出す。

 

どうして、素直になれないのか。

どうして、生きているうちに伝えられないのか。

 

(ああ、自分は何て――)

 

胸に込み上げる言葉は最後まで形にならなかった。

ただ涙だけが、彼の血で赤く滲んだ砂に吸い込まれるように、静かに、静かに落ちていった。

 

 






リーダー「俺の死でみんな悲しんでるね。どうしてだい?」

作者「そうだったらいいなって」

リーダー「……そう」
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