転生者達の新エリー都、二足のわらじ生活 作:フライパンソルジャー
最近のゼンゼロは新たな虚狩りの姉弟子や次登場すると期待のかかる妄想エンジェルの話題が中心ですが、久しぶりに星見雅のショートアニメを見返して、思わずむせび泣いた作者です。
壁に絵が掛けられた長い廊下が静かに奥へと伸びていた。床は淡く光を映し、落ちる陽が帯のように空間を照らしている。
母子はその廊下を手を繋いで歩いていた。
小さな指が母親の指に絡みつき、離れまいとする力が伝わってくる。母親はその重みを確かめるように、歩調を自然と落としていた。光は二人の肩や髪を淡く撫で、絵の額縁に反射して柔らかな陰影を床へ落とす。
「私も……当主さまたちのような英雄になる」
「え?」
静かな空間に幼い声が響いた。
子どもの突然の宣言に母親は少し驚いたようにする。
そしてすぐに微笑みを浮かべ、問いを差し出す。
「……英雄となって雅は何を成すのです?」
少し考える素振りを見せてから、その子どもははっきりと言った。
「ワルモノを、成敗するっ……」
言葉は単純だったが、その子どもなりに世界を切り分けた結果の答えだった。怖いもの、泣く人を生むもの、それを無くせば皆が笑える。幼さゆえの純粋さが描いた、迷いのない英雄像。
「!」
母親は一瞬息を飲む。だが眉を顰めることも、声を強めることもしなかった。廊下に並ぶ絵と同じように、その答えもまた一つの時代の真実なのだと受け止める。
「英雄とは守るために生まれるのです……滅するのではなく」
子どもは首を傾げるが、否定はしない。母親の言葉の奥にあるものを完全には理解できずとも、軽いものではないと感じ取っていた。
「ですが“雅”が壮健であれば母は充分です」
そっと頭に手を置く。絵の中の英雄ではなく、目の前の子どもを見つめながら髪を撫でる。その温もりを確かめるように掌を留める。
再び歩き出すと、廊下はなおも続いている。壁の絵は次々と変わり、栄光と悲劇が無言で並んでいく。母親は前を見据えたまま、誰に向けるでもなく、ほとんど独り言のように呟いた。
――英雄の旅路には喪失が伴うのですから……。
ーーーーーーーーー
「あ、あはは……これは、困りましたね」
最悪、という言葉ではまるで足りなかった。
この胸の内に渦巻く感情を形容するなら、もっと具体的で、もっと忌々しい言葉が必要だ。
これほどの危機を感じたのはいつ以来だっただろうか。
出勤したばかりの朝、机の上に遠慮という概念を知らない高さで積み上げられた決裁書類の山を前にした時か。
それとも倫理も常識も踏み潰してくるあのTOPS連中から、いともたやすく行われるえげつない妨害工作を叩き込まれた時か。
どちらも胃が痛くなる経験ではあったが、今感じているこの圧迫感はそれらとは質が違う。
演説会場の出口付近。遠くでは人々が避難するざわめきが夜気を震わせている。
そして俺の目の前には、何度瞬きをしても消えないイアス(アキラ)の姿があった。
視線を逸らしても、現実逃避を試みても、きっちりとそこに存在している。
ガッデム!
どうやら、夢でも幻覚でもないらしい。非常に残念ながら神は自分を嫌っているとしか思えない。
向こうは完全に思考停止している。
驚愕、困惑、混乱。感情が渋滞を起こし、言葉にならないまま固まっているのが手に取るように分かる。
理想を言えば「よかった、生きてたんだね!」そう言って、感情の棚卸しを済ませてくれるのが一番ありがたい。
だが、それはさすがに都合が良すぎる。なにせ彼の目の前で、がっつり死んだところを見られているし、最期の台詞すら聞いてもらっているという致命的な状況だ。
このままアキラが抱いている驚きが、疑念へと転じれば、“何かを仕組むために死を偽装した、胡散臭い人物”というレッテルは瞬時に、そして強固に貼り付いてしまう。
それは本当にまずい。笑えない冗談にもならないレベルでまずい。
(だが……まだだ!まだ、終わってはいないっ!)
そう、順序が少し狂っただけだ。元より、事件が片付いた後で生存を明かす予定だった。
それは再登場の伏線としては致命的で、映画のエンディング直前に不穏な影を落とす様なものではなく、「実は俺、生きていたんだぜ!」と爽やかに登場し、一気に喪失の痛みを吹き飛ばし、物語をハッピーエンドに導く――そういう“仲間ポジション”での再登場だったはずだ。
タイミングが前後しただけ。本質は変わらない。
そう、また誤解される前に説明すればいいのだ。落ち着いて、論理的に、納得できるようにこの場に立っている理由を。
「エレグ。……君、あの時、死んだはずじゃ……」
ほら、来た!
アキラが気にしているのは、今のところ“何故俺が生きているのか”だけだ!
裏があるとか、企んでいるとか、そういう段階にはまだ至っていない。
(よし!用意していた言い訳――いや、説明はすでに組み立ててある!ならばすぐに切り出すだけだ!)
今この場で、なぜ自分が生きているのか。
誰のために、何のために、あの“死”が必要だったのか。それを今から誤解されることなく伝えて――、
「何だって?エレグが……死んだはず?」
エレグが口を開こうとした途端、横からヨシダの困惑した声が響く。
(ぐわぁあああああああ!?そうだ!ここには、ヨシダさんがいたんだったああああ!?)
手にしていた計算式に、大きな変数である“事情を一切把握していないヨシダ”が、満を持してエントリーしてきた。
脳内で、非常ベルが一斉に鳴り響く。
一瞬で丹念に用意していた説明原稿はゴミ同然と化してしまった。
「………っ」
必死に引きつった笑顔を顔面に貼り付けたまま、内心で頭を抱えた。
沈黙が致命的な重さであたりを満たしていくのを感じる。
頭の中では無数の説明案が生成されては破棄される。
当然だ。ヨシダさんだけは巻き込まないように、どれもヨシダさんの存在を想定していない。どれもこの沈黙を正当化できない……!
「ヨシダ社長は知らなかったのか?……エレグ。答えて、くれないのかい?」
その間は致命的だったようで、アキラの表情がわずかに変わるのが分かる。混乱と驚愕が支配していたが、そこに別の色が混じり始めている。戸惑いの奥で、何かを測るような目。答えを要求する視線。
(あ、あ、あ……!これダメな流れだ!今は考える時間が無ぇ……!)
後ろからも説明を待つヨシダさんの視線が突き刺さっている。
複数の目が、何も言わず、笑顔のまま立ち尽くす俺を見つめている!その視線が確実に疑念へと形を変えていくのがはっきり分かる……!
(まずいまずいまずい……!何か言え!今すぐ、何か!)
喉が渇き、背中を冷たい汗が伝う。
だが、ここで下手な言葉を吐けば逆効果だ。慌てれば、それはかえって事態を悪化させる!
(落ち着け……!外面だ、外面を保て……!)
ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着かせる。あくまで自然に。あくまで余裕があるように。
――そして。
エレグが最初に視線を向けたのはアキラではなかった。静かに顔を上げ、ヨシダの方へ向き直る。
「……ヨシダさん」
低く、落ち着いた声。
内心の狼狽を一切感じさせないトーン。
「今の彼の発言には、少々込み入った事情がありましてね。誤解を招くやり取りになってしまいましたが、心配はいりません」
「え?あ、ああ……そうなのか?」
この場で最も危険なのは、疑念が“増殖”することだ。ならば、まずはその芽を一つ摘む。
「こちらの方々は、私の知り合いです。疑問に思われる点も多いでしょうが、ひとまず私が対処します。詳しい説明は後で必ず。ですからヨシダさん、今は避難を最優先で続けてください」
“後で”。
この言葉ほど、状況を先送りにする魔法はない。できればアキラにも使いたいがそんなことをすれば俺への誤解を確定させるだけだろう。
ヨシダさんは俺の顔を見つめ、何かを測るように視線を走らせた後、ゆっくりと息を吐いた。
完全に納得したわけではない。だが、少なくとも今この場で追及する気配は薄れた。
「……分かった。何かあったら後でちゃんと話してくれよ」
「ええ。必ず」
ヨシダが背を向け、歩き出す。足音が遠ざかり、気配が消えた。
(よし。一段階クリアだ。後は……ってアレぇ!?なんかさっきよりも怪しまれてないか!?)
アキラへと視線を戻したが、何故かより明確な疑念がイアスの目に宿っているような……。
いや、気のせいだ。そうに決まっている。これは焦りが生み出した単なる心理的錯覚だ。そうだ、きっとそうだ(自己暗示)。
何故か隣にいる朱鷲さんの表情にも変化が見られる。ヨシダさんを無理やり下げたのが、逆に不自然だっただろうか!?と、混乱しつつも、言葉を選びながら口を開く。
「……失礼。彼は事情を何も知らないため、席を外してもらいました。……私に対して、気になる点は山ほどあるでしょう。死んだはずの人間が、何事もなかったように目の前に立っていれば、疑問を抱かない方が不自然ですから」
「エレグ……!やはり君は、あの時のことを……」
「あの時はご迷惑をおかけしました。結果として、皆さんを欺く形になってしまったことも、お詫びします。ただ――これには理由がありました」
「理由……?」
その問いに、エレグは静かに首肯した。
「ええ。ブリンガーを表に引きずり出すためです」
一瞬、場の空気が張り詰める。
「彼らにとって、私は邪魔な存在でした。まあ私も彼らを同様に厄介だと思っていますが……。兎に角、向こうは数が多い。影に潜まれ、執拗に揺さぶられては堪りません。ならば、無理やりでも表舞台に引きずり出すしかない。そのためには――“煩わしい存在が死んだ”と信じ込ませるのが最も効果的でした」
淡々と、事実を並べるように続ける。
「私は、そのための餌になったのです。ブリンガーと、その背後にいる連中をまとめて表に引きずり出すために」
アキラは思わず言葉を零す。そこには非難にも似た色が滲んでいた。
「……あまりにも危険だ。自分が狙われていると分かっていたなら、なぜ一人で動いたんだい?」
それは騙されていたことに怒っているというよりも、身を案じてくれる心配からくるものであった。
相変わらずアキラは優しく、非常に後ろめたい気持ちになる。
「すみません……。あくまで、これは私個人の判断です。前にも言ったように、私の身勝手で企業の人間を巻き込むわけにはいきませんでした。それに、私は決して独りではありません。協力してくれる仲間もいます。アキラさんはご存じでしょう?“腕のいい薬師”などね」
「………!」
自然と、その薬師の顔が脳裏に浮かぶ。そしてアキラはエレグの覚悟に言葉を失った。
「信じていただけないかもしれませんが、決してあなた方を信用していなかったわけではありません。敵を欺くには、まず味方から……そうせざるを得なかったのです。本当に、申し訳なく思っています。ですが、あなた方の自然な反応は敵を見事に惑わせ、さらに今この瞬間まで、彼らの注意を引きつけてくれました。……っ!」
その時、不意にエレグの動きが止まる。空気が明らかに変質した。
「エレグ……?」
「失礼。……おかげで、私の目的はほぼ果たされています。彼らはすでに表舞台に姿を現した。残るは捕えるだけです。まだ説明すべきことはありますが――この件については、ひとまず保留としましょう」
突如、追及を逃れるように話しを中断し、エレグは視線を上げてアキラと朱鷲を見る。
そして二人に衝撃の報告を入れる。
「……そういえば……お二人は本来別の目的があってここへ来たはずでしょう?であれば、今は私に構っている場合ではありません。先にあなた方の用件を果たしてください。たった今、“星見雅執行官が”医療施設へ運び込まれたようですので」
「「っ!?」」
ーーーーーーーーー
どれほど斬ったのか、もはや数える意味は失われていた。
「はぁっ……はぁ、はぁっ……!」
四方から溢れ出すエーテリアスは、倒しても倒しても尽きることがなく、霧のように湧き、影のように形を成し、次の瞬間には牙を剥いて襲いかかってくる。
そのすべてを、星見雅は斬り伏せてきた。剣閃は鈍り、踏み込みは浅くなり、呼吸は胸の奥で引き裂かれるように荒れている。それでも身体は止まらず、意思だけが惰性のように刃を振るわせていた。
体力は、とうに尽きていた。
それでも倒れなかったのは、倒れるという選択肢がこの幻の中には存在しなかったからだ。斬り続けるか、それとも殺されるか。その二択だけが延々と突きつけられていた。
雅は遂に刀を振るうのをやめた。それは諦めたからではなく、突然エーテリアスの代わりに守るべき市民、知り合いや仲間たちの姿が現れたからだ。
(これは、斬ってはならない……!)
彼らは敵ではない。
自分が刃を向けるべき存在ではない、自分が守るべき者たちだ。
震える腕で、雅は無尾を引き寄せ、鞘へと押し込む。
刃が収まる澄んだ音が響いた瞬間、身体の奥から噴き上がっていた衝動が、まるで檻を破ろうとする獣のように暴れ出した。
『斬れ、先ほどあの忌まわしい災厄を斬った時のように!』
『斬らなければならない』
『斬ることでしか終わらない……!』
複数の声が、思考の隙間に入り込み、意識を侵食する。
それらは命令であり、誘惑であり、抗えぬ理のように響く呪詛だった。
雅は歯を食いしばり、鞘を押さえる手に力を込めた。
(っ!?また、狐火が……!)
やがて蒼い炎が雅の周囲を包み込む。
老人の声が耳を打つ。
『――これなるは、掟を砕かんために定めし掟。屈従せぬために成されし屈従、災厄を滅ぼさんがために鍛えられし災厄……』
『これなるは――星見の宿命ぞ』
「星見の宿命……だと?」
その言葉を聞いた瞬間、雅の脳裏に、一つの光景が鮮明に蘇る。
あの日、自分を助けるために刀に貫かれた母の姿。雅の手の中で冷たくなっていく彼女。
掟は、刀の所有者が次の所有者に刀で殺されることで継承される。
それは避けられぬ絶対の決まり。妖刀を持つ限り、血によってのみ続く循環。
「……あの時もこうして母上に宿命を促したのか?挙句に彼女を贄へと仕立て上げたのか!?」
その記憶は今の自分の根幹だった。
雅の胸に湧き上がったのは怒りを通り越した憎悪。
個への感情ではない。仕組みそのものへの拒絶だった。
『我らに憤るか?若き星見よ。だが、我らは最も強き『力』。苦しみも、欲望も、求むるものもない。そのようなものはお主のみが抱えるものに過ぎぬ……』
(力……力だと……?)
その言葉で、雅は気づいた。
彼らは自分とは違う。犠牲を“強いている”のではなく、初めから犠牲という概念を持たぬ存在なのだ。
脳裏を掠めるのは護送車の中で、悪党が妖刀の力を引き出していた光景。
外界にはすでにこの血の掟を無視し、力を盗み取る手段が確立されてしまった。
母の決断は自分を助けるためのもの。
同じように、星見家の過去の犠牲は、それ以上の犠牲を防ぐためのものだった。
ホロウ災害が猛威を振るう中で、彼らが一体どのような苦渋の決断を下したのだろうか痛いほど理解できる。
――だが。それだけではもう足りないのだ。
「一つ……提案をしたい」
長い沈黙の末、雅は答えを出した。
かつて、この声の主たちに犠牲を強いた真の悪。
斬るべきはそれであり、無差別な殺戮ではない。
その悪と共に、自らも、声の主たちも、すべてを終わらせる覚悟があるということ。
「私には剣術がある……!この一点だけにおいて私は正真正銘の天才だ。もし、お前たちが私の命を聞き入れてくれるなら、この手で星見家の運命を書き換えてみせる!お前たちに払われる犠牲は我が母上で終わりだ!これよりは、私の手でお前たちを真の天下無双にしてやる!」
「私と……手を組め!」
その意思は刃ではなく、言葉でもなく、ただ存在として投げかけられた。
『……手を組む?』
声たちはざわめいた。
『無垢……!』
『理想……』
『――貪欲』
『未熟ッ』
驚き、興味を示し、愉快そうに歪み、嘲る気配が広がる。
何を言うのかという嘲笑と、それでもなお芽生える期待が混ざり合って渦を巻く。
『そして、傲慢。我らが見てきた中で、かようなまでに身の程を知らぬのは“二人目”じゃ……。だが……面白い』
やがて、そのざわめきは、奇妙な静けさへと変わっていった。
受け入れられたのか、拒まれたのか。
答えを確かめようと、雅が意識を向けた、その刹那だった。
「うっ!?」
穏やかになったはずの狐火が、突如として爆ぜた。
これまでとは比べものにならないほどの激しさで、炎は刀を中心に燃え上がり、雅の内側を直接焼き尽くす。
「うああああ!?ぐはっ!お、お前たち……!?」
『――証明するがよい……。もし本当におぬしが誓いを果たせるのなら、力を与えることを考えてやらぬでもない……。それまで、我らは見守ろう。お主が“災厄”に立ち向かうその日を……若き、星見よ』
激痛が全身を貫いた。
視界が点滅し、膝が崩れ落ちそうになる。それでも雅は刀を押さえる手を緩めなかった。斬ることで逃げるという選択肢を自ら否定したのだから。
「~~~っ!?」
喉の奥から、抑えきれない苦悶が漏れ、それでも身体は必死に立ち続けた。
――どれほどの時間が経ったのか、もはや判別はつかなかった。
(視界が、揺らぐ……もう……意識が……)
そもそも時間が進んだのか、それとも止まったままだったのかさえ曖昧で、時という概念そのものが剥がれ落ちていく。
焦点を結ばない景色が、波打つように歪む。思考は細切れになり、身体の境界も溶けかけていた。それは瞬き一つ分にも感じられ、同時に永遠にも思える、奇妙な間だった。
その揺らぎの中で、ふと気づく。
いつの間にか、前方に一人の女性が立っていた。
見覚えのない三つ編みの人物。この場にはあまりにも不釣り合いな静かな佇まい。
市民だろうか……そう思った瞬間、雅の胸の奥が冷たく締めつけられる。
(――不味い。斬ってしまう……!)
焦燥が一気に身を焼いた。
考えるよりも早く身体が反応する。意志が追いつく前に鞘から刃が引き抜かれ、鋭い刀の切っ先が罪のない女性へと向けられる。
(……や、止めッ!)
その刹那だった。
優しさを伴った感触が雅の手に触れた。
(………え)
それは炎の熱とはまるで違っていた。
静かで、柔らかく、どこか懐かしい温度。痛みを拒絶するのではなく、すべてを包み込むような感触だった。狂気に染まりきっていた神経がその瞬間だけ、ふっと緩む。
驚きに顔を上げる。
視界に流れ込んできたのは、黒く長い髪。
逆光のように人物の顔ははっきりと見えない。それでも不思議と分かった。その存在が確かに自分に向かって微笑んでいることだけは。
次の瞬間、刀は静かに取り上げられていた。
「……ぁ」
奪われた、という感覚はなかった。
ただ、手の中から重みが消えた。そして、それに続いて、あれほど身体を苛み続けていた激痛が嘘のように霧散する。燃え盛っていた狐火は力を失い、揺らめきながら次々と消えていき、空間全体がゆっくりと静まり返っていった。
だが、雅にとってそんなことはどうでもよかった。
「はは……うえ……?」
喉から零れ落ちた声はあまりにも幼く、無防備だった。
その人物から漂う気配があまりにも懐かしかったのだ。
かつて刀に興味を示した幼き雅に対し、あの手この手で距離を取らせようとした彼女。
剣を振るう前に生き方を教えようとした人。
野菜を残さないこと。
八時間眠ること。
一族の名前をきちんと暗記すること。
剣とは何の関係もなさそうな数々の“修行”。それらを通して、生きるということそのものを教えてくれた存在。
優しく、そして誰よりも愛情深く雅を育ててくれた人。
――そして、旧都陥落のあの日。
自分を守るために腕の中で散っていった母の記憶が鮮明によみがえる。
『雅、目を閉じてよく聞いて。これは……最後の修行』
『雅、どうか恐れず……生きて』
『愛していますよ……』
目を背けたくなる惨状だけではなく、彼女が最後に自分に残してくれた言葉を伴って胸の奥に深く沈み込んでいった。
周囲の狐火が、ひとつ、またひとつと消えていく。
それに合わせるように目の前の人物の輪郭も次第に朧げになっていった。現実と幻の境界が溶け、存在そのものが遠ざかっていくのがはっきりと分かる。
「待っ……!」
雅は、咄嗟に手を伸ばした。
だが、指先は虚空を掻くだけで何にも触れられない。
待ってほしいという思いが、言葉になる前に溢れ出る。
行かないでほしいという願いが、幼子のように喉を震わせる。
けれど……止めることは出来なかった。
その姿が完全に消えたとき、幻の世界は静かに崩れ始める。空間は歪み、白い光が差し込み、意識が強引に引き戻されていった。
ーーーーーーーーーー
――現実世界、ホロウ内部。
――ザンッ!!
狐火に包まれた刀がためらいも、慈悲もなく振り抜かれた。
鋭く走る斬撃は目の前に立ちはだかった存在の身体を袈裟懸けに切り裂き、抵抗という概念そのものを断ち切る。
斬撃は完全に通り、勝敗を分ける決定的な感触だけが遅れて神経を伝っていた。
幾度となく命を奪ってきた感覚であり、間違えようのない終焉の徴だった。
――ギィンッ、ガランカラン……。
「………?」
しかし、斬り裂かれた先に現れたものを視界に収めたとき、雅の体は思わず停止する。
――そこには何もなかった。
血がない。
肉がない。
骨も、臓腑も存在しなかった。
相手が知能機械人なのだから当然だ、と理屈では理解できるかもしれない。
だが、そこには内部構造と呼べるものすらなかった。切断面の内側は“ただの空洞”だったのだ。人の形を模した外装だけが裂け、殻のような構造体が虚無を晒したまま、地面に力なく崩れ落ちていく。
生命を断った感触の正体がただの錯覚であったことを無惨なまでに突きつけられる。
「……隙ありィッ!」
雅の身体が硬直していたその瞬間を狙っていたかのように、刹那、横合いから何かが投げ込まれた。
「っ!」
確認するより早く、雅の身体は反応した。斬るべき対象として認識される前に、無尾が閃き、それを切り裂く。
ほとんど反射的な行動。避けるという選択肢を行わず、不用心にも“それ”が何か把握しないまま斬り裂いてしまった。
割れた容器から液体が飛散し、その一部が無尾の刀身に直接触れた。
瞬間、ギュオッ!と激しい音を立て、雅の周囲を渦巻いていた焔が乱れた。
「……!?」
燃え盛っていた狐火は、まるで空気を奪われたかのように勢いを失い、狂気のうねりが急激に萎んでいく。
刀に宿っていた圧倒的な存在感が薄れていく。
「あ~~……本当に死ぬかと思った」
そう言って、呆れたように息を吐く声が響く。
「!」
そこに立っていたのは、三つ編みの女性だった。
この場にはあまりにも不釣り合いな佇まい。しかし、人の身体から伸びる鋭く湾曲したサソリの尾が、その正体を言葉以上に雄弁に語っていた。
「そっちの刀身と鞘と同じだ……。私自身も外装から“中身を離脱しただけ”だ……意表を衝くには丁度良いだろ?」
サソリのシリオン、すなわちマオは笑みを浮かべ、疲労を隠すことなく身を支えながら、刀身に付着した薬品の効果を見極めているようだった。
鎮火していく様子を見て、限界まで張り詰めていた緊張がほんの少しだけ解ける。一つしか用意できなかった切り札が狙い通りに届いた。その安堵が表情と姿勢の端々に滲んでいる。
炎は確実に弱まっていた。
狐火はもはや消えかけの残り火に過ぎない。完全に鎮火すれば、雅を縛り付けていた狂気は終わりを告げ、暴走は収束するはず。
「~~~……!!」
だが、無尾は黙して従う存在ではなかった。
刀身の奥底で、なおも燻る憎悪が蠢く。
災厄に対抗するために積み重ねられた怨嗟が、最後の力を振り絞る。抑え込まれた炎が一瞬だけ激しく収束し、刃は再び殺意を帯びた。
「えぇ……まだやるのか……?」
雅の意思とは無関係に身体が前へと引き出される。
狙いはただ一つ。
疲弊し、隙を晒したマオの存在。
今度こそ命を刈り取ろうと強烈な一太刀が放たれようとする。
「……諦めろ。もう勝負はついただろ」
しかし、迫りくる刃を前にしてもマオの動きに焦りはなかった。そこには揺るぎない確信があった。
「この場には“伝説の元怪盗”さんがいるんだぞ?そんな不用心な真似をすれば格好の獲物だろうに」
――バッ!
次の瞬間、音も、振動も、予兆すらない。ただ闇だけが刃と雅の間に滑り込んだ。
「ッ!?」
黒い影が、形を成す。
それは機械スーツの騒々しい駆動音を完全に捨て去り、徹底的に静寂へと溶け込んだクロエの姿だった。
闇に潜み、存在を薄め、気配そのものを断ち切ったその動きは戦闘技術ではなく、盗みの極致に近い。
「左を失礼……!」
その声が届くと同時に、雅の手の中で掴んでいたはずの重みが消え、空を切った指先だけが取り残される。
視界の端で、クロエが刀を確実に確保し、間合いの外へと退くのが見えた。
その姿は、伝説の怪盗と呼ばれた存在に相応しいものだった。無駄のない動作、完璧なタイミング、そして圧倒的な手際。戦場であることすら忘れさせるほどの鮮やかさで、役目を果たしてみせた。
――虚狩り、星見雅からの無尾の奪取。
過去に邪兎屋の女社長しか成し得なかった偉業を見事に果たして見せたのだ。
怪盗らしい優雅な所作のまま、地面に落ちていた鞘を華麗に拾い上げる。そして、手の中で蠢く狐火に大胆に告げる。
「……妖刀に宿りし数多の意思よ。今は黙して退いてもらおう」
きざにそう告げ、クロエは奪い取った妖刀をそのまま鞘へと叩き込む。
その瞬間、狐火は完全に消失し、無尾は完全に沈黙した。
ーーーーーーーーー
無尾が封じられたことで、雅の身体から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
「おっと……!」
即座に反応したクロエがその身を逃さず受け止める。倒れ込む勢いを殺し、そのまま自身の胸元へと引き寄せる。その一連の動作には一切の無駄がなかった。
戦場の余韻がまだ空気に残る中、その所作だけが不釣り合いなほど穏やかで、慣れ親しんだ日常の延長のようでもあった。
雅の身体は完全に脱力していた。呼吸は浅く、不規則で、それでも確かに生きていることを示している。
クロエはその様子を確かめると張り詰めていた気配を緩める。
「う……ここ、は……?」
意識が完全ではないながらも雅の視線が焦点を探すように彷徨い、かすれた疑問が零れる。
クロエはそれに応えるように、警戒心を与えぬよう穏やかに微笑んだ。
雅の額に落ちかかった前髪を指先でそっと払いのける。その仕草には労いと安堵が静かに込められている。まるで幼い子を寝かしつける母親のように、低く、柔らかな声で語りかけた。
「ふふ……よく頑張りましたね。もう大丈夫です。すぐに近くの医療施設に運ぶので今は休んでてください」
その言葉から警戒を解いたのか、それとも極度の疲労からか。抱えられた雅の瞼がゆっくりと落ちていく。意識が途切れる直前、クロエを見ながら喉の奥から零れ落ちたのは、無意識の呼び声だった。
「はは……う……え?」
そこに宿っていたのは、ただの子どもとして刻み込まれた記憶に根差した、あまりにも素朴で、無防備な欲求の名残だった。
「ひょっ!?」
「……は?」
同時に、二人の動きが止まる。
クロエは目を見開いたまま固まり、マオは一拍遅れて思考が空転し、背後に広大な宇宙でも背負ったかのような虚無の表情を浮かべた。
だが、そのまま雅は深い眠りへと沈んでいった。限界を超え続けてきた身体と精神が、ようやく許された休息を貪るように。
「は、母上……?わ、私を見て?」
クロエの身体に衝撃が走る。電流にも似た感覚が全身を駆け抜け、思わず肩が跳ねる。何故か息が上がり始めていた。
「……不味いな。ホロウに長いこといた影響で、雅さんの脳に致命的な侵蝕症状が出ているのかもしれない。それか、私の薬品の副作用かもしれん。おいクロエ、少し代われ」
マオは即座に現実へと引き戻される。間違いなく異常事態だと判断し、迷いなく検診を名乗り出る。その声には冗談の余地はなく、医療者としての視線に切り替わった瞳が眠る雅を鋭く捉えていた。
「いいえ!結構です!」
「あ?」
だが、クロエは一歩も退かなかった。雅を抱えている腕に込める力をわずかに強め、無尾を持つ腕でマオの進路を遮る。
「心配いりませんマオ先生!うちの雅なら、母親である私が責任をもって最後まで運びますので!」
「いや正気に戻れ!?第一、お前の方が年下だろうが!」
「年齢は関係ありません!大事なのは愛情!そして、雅の母を務められる包容力と安心感です!」
「お前のどこに安心感があるんだよ!いいから診せろ!ちょ、てめ、その妖刀を盾にするなコラァ!」
激しい口論が展開され、一瞬で辺りは騒然となる。
眠る雅は、そんな騒ぎなど露知らず、クロエの腕の中で静かに呼吸を続けている。
その表情は、先ほどまでの戦場で見せていた狂気や痛みをすべて忘れたかのように、ひどく穏やかだった。
久しぶりに、母と過ごした懐かしい夢を見ているのかもしれなかった。
まあ、容姿的に色々と共通点はあるのかもしれない……(尚中身)
暴走を止めたのがアキラでは無いので原作よりも雅さんは疲弊しているかもしれません。まあそれでも原作より強化入っているので誤差ですよ誤差(適当観)
次回はブリンガー戦に入る予定です。
ゼンゼロやる時間が無くてイベントの進捗ががががg……!