(仮)豹頭王の物語の一登場人物に憑依する話。 作:Marchhatter
(第三者視点、クリスタル市、夜)
ナリス公は思った以上に馬を急がせたのだろう、
駿馬に乗った先ぶれが、公女アムネリスのもとにそれに先んじて到着していた。
公女は正直、彼と話をすることに、先に述べた理由から。
気が重い、とまでは言わないまでも、どこか少々後ろめたい気持ちもあったのだが。
彼が彼女の公認の婚約者であることは事実だし、紆余曲折はあれど良好な関係である。
もっとも今は良好な関係だとしても、(彼女が信じる傭兵の警告から)彼が悪意はなくとも危険な人物である、ということは彼女の心に残っている。
ただ、彼に心を許しているわけではないとしても、市政の安定に協力してくれている、彼への感謝の念は示しておくべきであろう。
そう考えた公女は、許婚者として、また彼へのねぎらいを兼ねて、夕食をともにすることにしたのだった。
──────
1ザン後。日が没してしまい、夕闇のとばりが降りきったころ。
公は旅塵を感じさせない装いで、公女との夕食の席に現れた。
夕食の席は公の趣味に合わせ、クリスタルの高級な料理店の場を借りたごくごく非公式なもの。お忍びの貴公子と姫君の逢引きにありそうなものとなった。
つまり紗を引いての、主賓だけでの対面の席に加え。
2、3タールほど、普通の会話は聞き取れるが内緒話は聞こえないくらい離れた卓で最側近が食事をとり。
それに、ごく少数の腕利きの護衛たちが付く、というものだ。
公はあまり体は丈夫でないが、それでも武将のはしくれである。
疲れを見せることなく、ごくわずかな食事(彼は非常に小食だった)を取り。
最上級のヴァシャ酒をごくわずかに口にして、行啓の土産話を公女に聞かせていた。
彼の観察眼は鋭く、語り口もなかなかに面白い。
公女は興味深く耳を傾け、ときには気になる点を質問したり、施策について意見を交換したりしていた。
こうして親しく話している分には、彼は全く相手に隔意を感じさせない話術がある。
そして今は、公女のためにとは言わぬまでも(公にも公なりの思惑があろう)、公女の望む方向にその力を貸してくれている。
敵に回ると非常に厄介だろう。しかし今、同盟者としての彼は頼りになる。
こちらとしても誠実であらねばならぬ、と公女は思う。
(聡明であられる公なら、自分でそのうちお気づきになるかもしれぬが。
やはり、私から勘違いについては伝えねばならぬだろう。そうでなくては公正とはいえぬ。ご自身で気づいたときの失望も、大きかろう。
それにわが父のたくらみのこともあるな。──いつか、また余人を交えず話をせねば)
彼女は、そう思った。
──────
「(さて、目的は果たしつつあるのだが──思うところと違ってきてしまっているな)」
公はもちろんのこと、母国を侵略したモンゴールに対して怒りと復讐心を抱いている。
それゆえ少なくとも当初は、この押しつけられた婚約者に対して含むところがあったわけなのだが。
表面上は親しみやすくふるまうすべを心得、クリスタルきっての人気者でありながら。
本当は孤独で非常に気難しく、心の裡に他人を容れることがないこの貴公子は。
自分でも意外なことに、この敵国の姫君への感情を整理しかねていた。
公は美しくない者や愚かな者、あるいはその両方を兼ね備える者は大嫌いであったが。
公女にはパロの女たち、特に彼の育てた
そして最初は非常に頭にきたこともあったが、彼女のことに興味が出てきて会話を交わすうちに。
彼女はなかなかに聡明であり、彼の思わぬような新鮮な視点を示すことを発見し。
今では、彼は彼女との対話を楽しみにするようになっていた。
もっとも基本的に文若の貴公子たる彼と、強国の女性軍人である彼女とは、対照的ではある。
たとえば公女は、公とは違って健康で食欲旺盛であって。
パロでの食事の作法に自信があるわけではないようであり。
最初、彼の目を慮って食事も少量にとどめていた様子を、観察眼の鋭い彼は見咎め。
人目のない二人の会食の折は、彼に構わず公女には好きなように気安く食事を摂ってもらうように伝えており。
彼女もある程度打ち解けた今は、その言葉どおりに、特に彼の目を気にすることなく食事を楽しんでいる様子であった。
趣を凝らした前菜を──これだけで小食なナリスはもう十分かな、などと思うのだが──彼女は文字どおりぺろりと平らげてしまう。
それもまた、彼は好意的に見守った。
主菜を取りながらの話の中には、実務的なこともまじる。
ちょっと現実味はない施策の思考実験をめぐる議論を、交わしたりもする。
そのさまはボッカの名手が間を置かずぽんぽんと指し合っているようで、側近たちもときに話の筋を追いかねたりもしていた。
(今宵の公女は、何か心にかかっていることがあるようだ)
後菜に入る。公は、どこか彼の婚約者がもの言いたげなことに気づく。
いや、正確にいえばこれまでも公はそれに気づいていたが、あまり深追いしてこなかった。
ひとえにそれを問いただしてしまえば、自分にも同じ疑問の刃が返ってくるゆえに。
この夜、彼がやや踏み込んで公女に問いただしたのは。
公女が持ち込んで提供してくれた、クリスタルでもめったに味わえない最上級のヴァシャ酒が、彼のきまぐれを誘発した結果だったのかもしれない。
「(アムネリス姫。何か私に言いたいことが、あるのではないでしょうか?)」
「(──いえ、この場ではふさわしくないことにて。
ただ、近く機会を頂ければ、と)」
側近や護衛にも聞かれぬ小声の会話を、彼らは交わす。
おそらくは、あのことだろうな──この婚約者、蠍の娘とはいえ妙なところで律儀だからな、と彼は思う。
「(そうですか。楽しみにしていますよ)」
「(楽しみになさるようなことでは、ありませぬ)」
苦笑する公女に、彼も笑みを返す。
先に述べたように、この力強く美しい、端正な美女を彼は意外にも気に入るようになっていたが。
ただ彼の彼女に対する感情は、必ずしも健やかなものだけでない。
国を侵されたことへの怒りや、報復の念。
さらには打ち拉いでやりたい、屈服させたいというどこか黒い衝動をも併せ持ったものである。
しかし彼は今は、その不穏な気分を相手に悟らせぬように隠していた。
「そうですか。──私も、似たような相談ごとがあるかもしれません。
まあ、それとは別に、一度姫に伺ってみたいことがあります」
側近として、彼らの会話が聞こえるこの場に控えているのは、パロ側からは聖騎士候ルナン、モンゴール側からは黒髪の公女の側付きの女官。
女官は美しくはあるが、体格からも特に武芸をこなすというわけでもなさそうであり。
有能ではありそうだが控えめで政務には疎い様子。公と公女が交わす会話の内容もよくわかっていないだろう。
そうした者を選んでいるのは、文官にせよ武官にせよ、公女が全面的に信頼できる者がいないのかもしれず。
あるいは高位の者を選んで連れてくること自体がモンゴール側の勢力の均衡を崩すと懸念しているのかもしれない、と彼は読み取る。
その意味でモンゴール側によるクリスタル施政は、現時点は好転しているとはいえ、脆弱な均衡の上にある。
文官を多く入れたとはいえ、基本的に公女一人に政務が集中してしまっている体制は変わっていない。
それはともかく、ここに控えた腹心たちの前であれば、これくらいの会話はしていいだろう、とナリスは思い。
公女が気にかかっているのとは違うであろう、全くの自分個人の悩みを口にのぼせることにした。
「はて。公がご存じないようなこと、私に答えられるかわかりませぬが。
私などでよろしければ、何なりと」
「そうですね、──まあ、普通に市井で暮らすには、どうでもよいことなのです。
公女、あなたはご自分が何だと思っておられますか。なぜあなたは、あなたなのだと思いますか」
「私はモンゴール公女アムネリス、ヴラドの娘。そう生まれた故に。
ただ公は、そのようなことをおっしゃりたいわけではないのでありましょうな」
打てば響く彼女の返答を、快く思いながら。
彼は自分の思考と感情を
「さよう、──お答えになられたのは、どちらも貴女の与えられた役割。
しかし、あなた以外にもヴラド公に娘がいれば、あなたはあなたでなくなるのでしょうか?
そうではないでしょう。貴女の本質は何か。何が貴女を貴女であらしめているのか」
「なるほど。──生まれつきの『己の役割』は、変えられぬ。だから『己の役割』がすなわち『己そのもの』だ──とこれまで私は思っておりましたが。
たしかに、そうではないでしょうな」
「私は、クリスタル公アルド・ナリス。中原の古き王国の末裔。
ただ、それはたまたま与えられたもの。私がその役を演じている、役割にすぎぬもの」
公は、ヴァシャの杯で唇を湿した。
そろそろ、カラム水に移るか。酔ってしまったかもしれぬな、と、公女の困惑を感じ取りながら彼は思う。
「我々王族や貴族には、選ぶ余地が乏しい。だから『己』と『己の役』とを、混同してしまうのかな?
役割、役目こそが自分である、自分の本分は役目である。だからそこから離れられない、と考えてしまう」
──まあ、我が弟ならば、委細構わず好まぬ役目などからは逃げだしてしまうがな。羨ましいことだ。
そう思って、ナリスはわずかに苦い笑みを浮かべた。
「私は、まあ多少自惚れてよければ多少は外見に恵まれ、技芸に器用で、人にすぐれた才の持ち主と思われています。──だが、そのような外見や技芸や才こそが、私というわけではない。
仮に、私と全く同じ容貌、同じ程度の技芸、同じような才智を持つ誰かがすり替わったら。
その者が、私でしょうか。人々は、私だと思うのではないでしょうか」
「私と全く同じ私、ですか。
──たとえば、双子のような?」
「そうですね、まさしく。
ただ、双子にもいろいろある。
あのパロの双子は、双子とは言っても姉弟がたまたま同じ日に生まれただけというものです。
そうではなく、全く同じ性別、同じ体格、同じ性格の者が生まれる場合もある」
「ええ、存じております。かつて私の部下であったタロスの騎士が、そうでしたな。
その者たち、極端なまでに片割れと心が通じ合う。癖も好きな食事も同じ、恋した女子まで同じでしたな」
「ふふ、それは興味深い。
どうです?私と同じ顔、同じ才の私。考えも同じかもしれない者が、だれにも知られずすり替わり、『私の役割』に就く。
──もし、そうなれば。私は、もはや不要になりましょう」
さきほどからあの側近の聖騎士候殿は、食事の手が止まって腰が浮きかけているな、と公女は看取する。
無理もない、下手をすると公に影武者がいる、という話になったり、監禁されている生き写しの双子がいる、などというよからぬ噂が立ちかねない話題ではある。
人によっては「今の役目」に飽き足らずパロの王位を狙っているのではないか、などと曲解する向きすらも。
「さて。──思うに、要か不要かは、まつりごとの話。
公が──と呼ぶと、まさにナリス殿下の
仮に私に双子がいて、そのもう一人が私とすり替わってもまつりごとに支障はなく、知らぬ者は気づかぬかもしれませぬ。
それでも私は、私でありましょう」
もしそんなことがわが身に起きれば。
それはいい、その双子の片割れにこの役目を押し付けて私はエルと開拓村に赴こうぞ、と。
公女は、良からぬことを考えてわずかに顔を赤らめた。
「そうでしょうね、──まつりごとにおいて大切である、ということと私が私であることとは異なる。
少し前のパロの学者は、国とは国の民を運ぶ荷馬車のような
王とは、その荷馬車の重要ではあるが替えのきくもの、例えて言えば御者や車軸のごときもの、と述べた者がありましたな。
そのこととは別の理由で、追放されましたが」
「なるほど、──大胆ながら、腑に落ちるところがありそうに思いますな」
「そのとおり。真を突いているところはある。
ただ、まつりごとの話とは、別として。
もしその役に必要がなければ、あるいは役に必要があっても。
気に入らなければボッカの駒のごとく同じ種類の駒に取り換えられ、打ち捨てられて忘れ去られる、というものであったとすれば」
「はて、神々の盤面とは、あるいはそのようなものなのかもしれませぬが──」
公女はナリスの言わんとすることが、つかみかねていたが。
(ひとえにナリスがパロ人らしい婉曲さで何かへの言及を避け、比喩を重ねていたせいかもしれない。)
彼が言わんとすることがあり、それについての悩み自体は本当だ、という気がした。
考え込みながら、公女は言葉を継ぐ。
「──ただ我らただ人、つまりこの私、あるいは側近の方々にとっての貴方は、貴方でありましょう。私たちが貴方を記憶している故。
それにたとえ他のすべてが同じでも、貴方もまた私たちを記憶している、その記憶は貴方だけのものなのではないでしょうか」
「──では、その記憶すらも同じだとすれば?」
「それは、──『泥の姫君』の昔話のごとき話でありますな」
公女は、有名な昔話を思い出す。
高名な錬金術師が、死せる姫君を惜しんで作り出した、姿形もふるまいも、すべてがその死んだ姫君のとおりの、泥で作り出された人形の話。
「おお、まさにその通りなのですよ、姫。こちらでは古代の哲学者によって考案された、『沼の男』と呼ばれる寓話がそれにあたるのです*1。
おお、しかしここでこれ以上話すことは適切でないのかな。ルナンがにらんでいる、怖い怖い」
「──姫も、お困りでありましょう」
思わずルナンは乗せられて、仏頂面で一言さしはさむ。ナリスと公女も笑い、場が和んだ。
「ふふ、残念だ。──では近く、また親しくお話ししよう。その折にでも」
「楽しみにしております、ナリス殿下」
二人は、もっとあたりさわりのない話題に移り。
コースの食事を終え、
──────
「ナリス様、どうしてしまわれたのですか」
帰りの、馬車の中。
街灯などのないこの時代、月明かりが乏しいときは馬はそれほど急がせることもできない。
「どうしてしまった、とは?私は、変わったのかな、ルナン?」
「ええ。最近のナリス様は、変ですぞ。
だいたい、あのモンゴールの雌犬にあれこれ協力してやるいわれなど、ありませぬ。
まるで本当の許婚者のように、かような──」
「おや、彼女は私の本当の許婚者、婚約者ではないのかな?
それに雌犬とは、──ああ、ルナンが憤るのはわかるよ。わが民を殺した狼の一員だ、あの娘は。
だが、ルナン。実に気高く美しくはないか、あの雌狼は」
「まあ、あの野良犬どもよりは知恵は回りますな。外見も──見れる面ではあります。
しかし、犬は犬。われら人間とは違いますぞ。まして高貴なる血の聖王家とは」
「──そうだな」
ナリスはどこかわずかに愁いをみせて、馬車の窓から月の光に照らされた路面をながめやった。
「ナリス様。まさかナリス様に限って、とは思いますが。
あの雌犬に、情が移ってはおりませぬか。
いつか責を取らせ、牛車で八つ裂きにすることになるのですぞ」
「さて、違う道もあるように思えてね。
なんといっても、彼女はモンゴールの大公位継承権者だ」
「まさか、このままあの雌犬と結婚し、外交でパロの独立を回復すると?」
「さて、どうかな」
「ナリス様。あれは、アルドロス三世陛下とお妃さまの仇ですぞ。
パロの青い血に仇為す者。この聖なる都を侵し、土足で汚したやからです」
「確かにな、──だがその先王陛下は、私の家を公平に扱ってくれたと云えようか。
わが祖により聖なる都が築かれる前のこの地は、果たして無人だったのか」
「──ナリス様!」
さすがに不敬と言ってもいい言葉に、ルナンもぎょっとしてあたりを憚る。
ナリスは、苦い笑みを浮かべた。
「ルナン。そなたの、云いたいことはわかっている。
ただそなたが思うより、ことは複雑なのだ。今は、私を信じてくれ。
パロはまた遠くない将来、ゴーラの
あの美しい婚約者殿の首も、わが手で城門に吊るされることになるかもしれぬ。
だが今は、彼女の力が必要だ」
「──御意」
ルナンはパロ人には珍しい直情径行の武人だが、馬鹿ではない。
ナリスがあまりこの場で言いたくない何かがある、と悟って、口をつぐんだ。
パロも一枚岩ではない。もしかすると魔道での聞き耳をおそれておられるのか、と彼は思い。
主人に迂闊なことを発言させてしまったことを、後悔する。
「その、ナリス様」
「まだ何かあるのかな、ルナン」
「さきほどの話。
──お悩みなのですか。ナリス様が、本来与えられるべき地位でないことに?」
ナリスは、本来であればパロ聖王家の正統の血筋。
ただ、政争の末、ナリスの父がその弟に王位を譲ったという経緯がある。
ルナンは、さきほどの役割をめぐるよくわからない会話が、これについてのものではないかと思っていた。
「いや、少しそれとは違うのだ、ルナン。
まつりごとの話なのではない──ただ入り組んだ話だ、またそのうち話を聞いてくれ」
「は」
しばしの沈黙が下りた。
そしてぽつりと、ルナンが言葉を発する。
「ナリス様。──私の娘が今宵、伺って話したいと」
「──なぜ先に伝えぬ。構わぬぞ、是非に」
ナリスは、さきほどから軽く目を閉じていた。さすがに昼の長行軍に、疲れていたからだ。
しかしルナンの言葉に、喜色を浮かべて、ぱっと目を見開いた。
「お疲れのことでは、ありませんか?」
「いや、大丈夫だ。それより大事なことなどあり得ぬ。
本当なら明日はロードラントからの帰路だったはずだからな、予定が空いている。遅くでも大丈夫だ」
「有難く」
二人を乗せた馬車は、公の私宮に着き。
そこからモンゴール人の側付きや侍童の耳を憚り、二人は聞かれても構わぬ事務的な会話を交わし、別れた。
(リギアか。──さぞ、怒られることになるだろうな)
彼の変節(?)に、憤っているだろうか。
リギアは、危険な任についていたはずだ。大丈夫だったのだろうか。
彼は乳姉弟の関係にある幼馴染の女騎士のことを思う。
(少しでも、寝ておくか。あまり薬に頼ってはいけないだろう。
世に長くあるつもりもなかったのだが、この身も惜しくなってしまったな)
侍女や側付きには人払いを命じ、非常に高価な
彼は、訪いを楽しみに仮眠をとることにしたのだった。