3月初めの中山レース場。天候に恵まれた晴れ空、少しずつ暖かくなってきた春の陽光に照らされ、ウマ娘達がレース場のターフでストレッチをしている。クラシックの第一戦である皐月賞、その前哨戦の1つである弥生賞が今、始まろうとしていた。
本レースにおける1番人気はホノイカヅチ。ジュニア級の成績は3戦3勝、この弥生賞が年明け最初のレースとなる彼女が、16人のウマ娘の中で最も人気を集めていた。
「頑張って~、ホノイカヅチ~!」
「応援してるからね~!」
「今日も鋭い末脚、見せてくれよー!」
観客に応援されている様子は変わらない。いつものように俯きがちに笑い、嬉しくてたまらないとばかりに耳と尻尾をぶんぶん動かす。調子も悪くなさそうであり、好走が期待できる様子だ。
また、彼女のトレーナーがホノイカヅチの名前を連呼しながら応援している。その傍らにいるスティルインラブとそのトレーナーも、ホノイカヅチにエールを送っている。なお、持ち前の影の薄さもあってか、周りの観客はスティルインラブの存在に気づいていなかった。
これを受けてホノイカヅチのテンションはさらに上がる。
(フヒ、フヒヒっ! お、オイラ、1番人気! オイラが1番人気者!)
本人のテンションは絶好調。実力も申し分ない、これまでの3戦3勝という成績が物語っている。
それゆえに、この弥生賞で一番警戒されているのはホノイカヅチである。1番人気なのもあるが、彼女の実力をよく知っているからだ。
冷静に、狂いなくレースを実行する世代の代表ウマ娘。そんな相手を倒すべく、自分こそがクラシック最有力候補と名乗りを上げるべく、他のウマ娘も気合十分と言った様子で弥生賞に臨んできた。
周りのウマ娘はホノイカヅチを睨んでいる子が多い。闘志が抑えきれておらず、今すぐにでも喰らいつきそうなほどのプレッシャーを放っている。かつて朝日杯で苦汁を舐めさせられたキャプテントゥーレも、ホノイカヅチの様子を余すことなく視界に収めていた。
もうすぐゲート入りの時間。ホノイカヅチは一度目を閉じたかと思うと、すぐに開いた。
「……仕事の時間」
たった一言、呟く。その呟きで、ターフの空気が一変した。
ホノイカヅチを中心として広がっていた物々しい雰囲気。それらは全て霧散し、代わりに支配するのはホノイカヅチから発せられる冷たい雰囲気。
(っ、きた)
(相変わらず、同一人物かどうか疑いたくなるっ)
(レースのホノイカヅチ……!)
周りを委縮させるようなプレッシャーではない、気を抜いたら飲み込まれてしまうような圧でもない。ただそこに立っているだけ、それだけなのに。周りを圧倒する独特の雰囲気を放っている。
冷たく、鋭い。闘志は微塵も感じられず、感じられないからこそ寒気が走る。得体の知れなさに、凍り付かせるような雰囲気に恐怖を感じる。
だが、まだレースは始まっていない。ホノイカヅチを睨み返し、負けるつもりはないと自らを鼓舞する。誰も彼も、気合いは十分だ。
ほどなくしてゲート入りの時間が来る。係員に誘導されるまま1人、また1人とゲートに入り、ゲートの中で静かに闘志を滾らせていた。
実況のマイク越しの声が中山レース場に響き渡る。
《中山レース場本日のメインレース弥生賞がやってきました。皐月賞と同条件のトライアルレース、芝2000m良バ場の戦いが幕を開けようとしています。注目されているのはやはり3枠6番のホノイカヅチでしょうか?》
《そうですね。ジュニア級3戦3勝の現在無敗、これは期待しない方が無理ってものでしょう! かつての英雄が辿った蹄跡を刻むことができるのか、目が離せませんね》
《ですが、注目を集めればその分だけ警戒されるということ。連勝で勢いに乗るマイネルチャールズに実力が期待されているブラックシェル、この2人も注目株ですね、っと。そして今、最後のウマ娘がゲートに入ります》
全ウマ娘がゲートに入り、会場に緊張が走る。ゆっくりと、確かに時間は流れていき。
ゲートが開いた。同時に、ウマ娘達が一斉に飛び出す。
《スタートしました。好スタートを切ったのは3枠6番のホノイカヅチ、ホノイカヅチが好スタートで先頭を奪いに行きます! まずは重要なポジション争い、真っ先に動いたのはホノイカヅチだ》
弥生賞が始まった。ホノイカヅチが真っ先に飛び出し、他も倣うように彼女に続く。
ただ、ホノイカヅチに先頭を走ろうという意思はない。
「……っ」
内のポジション、最内の経済コースを取るべく動き始める。坂を上りながらのポジション争い、中山の急坂を難なく上りながら内へ切り込もうとする。
だが、そうやすやすと取らせてはもらえない。ホノイカヅチよりも内にいるウマ娘が続々と上がり始め、これ以上の侵入を防ぐように立ちはだかる。
さらには外のウマ娘も上がってきた。外のウマ娘も最内のポジションが欲しい。同様に内へ身体を入れようとしてくる。
そうなると必然、接触しそうな機会が増える。誰もが取りたいベストポジション、勝つための位置へと収まるために熾烈になる。
他と比べて小柄なホノイカヅチの身体。本来であれば団子状態は不利のはずなのだが。
《熾烈な先行争い、外からホッカイカンティが先頭に立ちます。2番手争いは熾烈、内からマイネルチャールズとホノイカヅチが2番手へ、シングンリターンズもこの位置。外からはキャプテントゥーレが5番手で、まもなく第1コーナーのカーブを迎えます》
その不利を感じさせないほどに、彼女は堂々と走っていた。
◇
レースは進み第3コーナー。ホノイカヅチは現在5番手をキープしながら走っている。
《第3コーナーのカーブを曲がります。依然としてホッカイカンティのペースで進みます。2番手マイネルチャールズは遅れること2バ身差、シングンリターンズにミッキージェットも同じ位置、ホノイカヅチをマークしています》
《いやはや、相変わらずホノイカヅチは凄いですね~。全くと言っていいほどブレません》
《わずかに囲まれているか? ホノイカヅチは現在5番手の位置。キャプテントゥーレにタケミカヅチも加わった4人から集中的なマークを受けていますが意に介さず。自分のペースを貫いて第3コーナーを駆け抜けます。後方集団は》
4人のウマ娘から執拗なマークを受けながらも、だ。
プレッシャーをかけられれば普通、なんらかのアクションを起こすものだ。プレッシャーから逃げるか、立ち向かうか、受け流すか。相手の圧をかけてくる行動に対して何かをするのが普通、通常の反応。走りになんらかのブレが生じるものである。
(クソ、朝日杯もそうだったけど本当に何なんだコイツは!)
(意に介してない、流している……なんてレベルじゃない。この子はっ)
だが、ホノイカヅチは。
(なんでそんなに、なんでもないように走れるんだよ!)
無、だ。何も感じていない、相手の行動に対して常に最善手を打ち続けるだけ。機械のように正確に、AIが導き出したような最良の
周りのウマ娘が起こすアクションに対して反応は示す。進路が厳しいと悟ればすぐさま動きを変える。さすがに、なにも感じていないわけではないだろう。
だが、ブレない。プレッシャーをかけられても、進路が狭められても変わらない。ひたすらに前を見続けるのみである。
外のシングンリターンズに揺さぶりをかけられる。動じない。
内のミッキージェットが仕掛ける素振りを見せる。意に介さない。
キャプテントゥーレが囁く。何も変わらない。四方八方からあらゆるアプローチを仕掛けられても、ホノイカヅチのメンタルを崩すことは叶わない。
(どう、すりゃいいのよ、こんなの!)
対峙するウマ娘からすれば、かなりの恐怖を感じるはずだ。自分たちの圧が意に介されておらず、なんでもないように走り続けられる相手に恐れを抱く。無理もない話だ。
これこそが、ホノイカヅチの武器の1つ。決してブレないメンタル。
無論、武器は1つだけではない。
《第4コーナーを曲がります。ここで堪らず抜け出しを図りますタケミカヅチ、タケミカヅチがマイネルチャールズを躱してホッカイカンティへと襲い掛かるっ、それを見てかホノイカヅチもペースを上げました。ホノイカヅチも進軍を開始》
《嫌でも警戒しなければなりません。さぁ、他はどう動くでしょうか?》
《動き出しに合わせます外のキャプテントゥーレ、内のミッキージェット。シングンリターンズは合わせない、少し出遅れたか? ホノイカヅチがぐいぐい上がっていく、ペースを上げます。まもなく最後の直線、後方集団も目まぐるしく動いています》
レースの流れが変わったことを察知し、すぐさま自分も行動に移す。マークが甘くなった一瞬の隙を突いて動きを変えた。
「くっ!」
「相変わらず、嫌なタイミングでっ!」
コーナーを曲がる際、勢いをつけすぎると外に大きく膨らんでしまう。だからこそ、膨らみが最小限になるように、制御できるスピードで曲がらなければならない。先行気味に走るウマ娘ならば、誰もが徹底していることだ。
ホノイカヅチはその徹底具合が飛び抜けている。思わず感嘆の息を漏らすほどに。誰よりも美しくコーナーを曲がる姿に思わず魅了されるほどだ。
流れを見逃さない。そして。
《最後の直線に入ります、大外からベンチャーナインが上がってきた。先頭はまだホッカイカンティ、しかしタケミカヅチとの差が縮まってきているぞ。マイネルチャールズも動いた動いた、マイネルチャールズが内から伸びてきてっ、ここでホノイカヅチ、ホノイカヅチです!》
《外を走るキャプテントゥーレが外に膨らんだ一瞬の隙! ここを見逃さないのがホノイカヅチです!》
《囲まれていたホノイカヅチがここで抜け出しました。ホノイカヅチが抜けてきます。中山の直線は短いぞ、先頭がホッカイカンティからマイネルチャールズに変わった。アインラクスにブラックシェルが来た、最後に立ちはだかる中山の急坂をどう攻略するか!》
一瞬の隙を突く。少しでも甘くなったとみれば、ホノイカヅチはすぐさまそのポジションを奪いに来る。第2の武器、図抜けた判断力である。
「グ……っ! これじゃあ、朝日杯と同じっ」
キャプテントゥーレは悔しさから唇を噛みそうになるが、後にするべきと判断して走りに集中。前に出たホノイカヅチに続こうとする。
対するホノイカヅチは、末脚を発揮した。坂を前にして、自分のギアを一段階上げる。
《ホノイカヅチが伸びてきます、先頭マイネルチャールズとの差は2バ身程。戦況が目まぐるしく動きます残り200mを切りました! マイネルチャールズ脚色は十分か? しっかりと残しているぞマイネルチャールズが逃げ切りを図る!》
加速するホノイカヅチ。坂のためかあまり加速したように見られないが、それでも着実に先頭との差は縮まっていた。ホノイカヅチ第3の武器である末脚の鋭さが発揮される場面である。
大外から上がってくるブラックシェルと変わらない速さの末脚。あの状況でもしっかりと脚を残しており、最後の勝負どころでも問題がないように走っていた。全ては緻密な計算の下、彼女は走っている。
少しずつ、少しずつ縮めていく。間に合うかどうかはギリギリのライン、焦りが見えても仕方がないこの状況。
ホノイカヅチは、変わらない。なにも、変わらない。
《ホノイカヅチが並んだ並んだ、マイネルチャールズに並びました! 大外からブラックシェルが伸びてくる、ブラックシェルが伸びてくるがっ、最後はホノイカヅチがマイネルチャールズをクビ差で躱しましたゴールイン! 弥生賞を制したのはホノイカヅチです!》
《これは間違いなくクラシックの主役候補。英雄が辿った軌跡を歩んでいますよ! もしかしたら、三冠もあるかもしれませんね!》
《2着はマイネルチャールズ、3着はブラックシェル! 勝ち時計は》
どんなに不利な状況に陥っても、有利な展開に持ち込まれても、最後の勝負所であったとしても。ホノイカヅチは何も変わらないのだ。それが当然とばかりに、自分には不必要とばかりに。
自分の実力を発揮するだけ。やれることを尽くすだけ。彼女にとってはそれだけなのだ。
「ハァ……ハァ……っ、クソっ!」
レース後、キャプテントゥーレはホノイカヅチを睨みつける。嫉妬と羨望の入り混じった瞳で、ホノイカヅチを見つめる。
負けたことの悔しさ、勝者への憎しみ、憧れ。いろんな感情がぐちゃぐちゃになるキャプテントゥーレ。奥歯を力強く噛み締め、拳からは血が流れるほどに強く握っていた。
改めて突き付けられたホノイカヅチの強さと凄さ。朝日杯で刻みつけられ、弥生賞でさらに深く傷つけられた。
(本当に、何も変わらない……っ! アイツは、なにもっ!)
本番の舞台でいつも通りの実力を発揮することがどれだけ難しいことか。プレッシャーのかかる状況、クラシックの進退がかかるレースで冷静を貫くことがいかに厳しいか。重賞を走ってきたキャプテントゥーレには分かる。
冷徹に、氷のようにレースを進める。あらゆる面において完璧なホノイカヅチのレースは、あまりにも冷たい。
いつも通りを忠実に実行する。機械的なレース運びを貫くのみ。
(けど、だからこそ弱点はあるっ)
そんな彼女だからこそ、弱点がある。そう確信したキャプテントゥーレだった。
この子レース前とレース中で別人になってない?