曇り空が広がる阪神レース場。18人のウマ娘による大地を蹴る音が響き渡り、栄光を勝ち取るために争っている。
《先行争いを制したのはミッキーチアフル、ミッキーチアフルが先頭に立ってペースを握ります。その後ろ2番手は1バ身離れてロードアリエス、その外スマイルジャック。2人を見るようにホノイカヅチ。1番人気ホノイカヅチは絶好のポジションについています》
《いつ見ても冷静なレース捌きですね~。難なくあのポジションを取りましたよ》
《入り乱れるポジション争いの中で、絶好のポジションを何でもないように掴み取る。これこそがホノイカヅチの強みでもあります。その後ろにはこれは珍しいディープスカイがつけています。ホノイカヅチの後ろ、ディープスカイがマークしている》
《日本ダービーの屈辱がありますからね。ここで晴らしたいところ》
熾烈な先行争いが終わり、第1コーナーを抜けて第2コーナーを走る。最注目のホノイカヅチは先行集団を引っ張るようにレースを展開し、2番人気のディープスカイがそれに続く。バ群はまだ密集しており、縦長ではなく集団で動くのが予想されていた。
ウマ娘達の意識にあるのはホノイカヅチの存在。彼女の存在がどうしても頭にチラつく。意識しすぎるのはよくないが、それでもだ。
理由は1つ。彼女がこのレースで最も強いウマ娘だからである。
いまだ黒星を刻まれていない無敗のウマ娘。あらゆる場面で最適に近い答えを叩き出す頭脳と、一切の迷いなく踏み込んでくる判断力、相手をまとめて撫で切る末脚。今まで味わってきた、ホノイカヅチの強さ。無意識に警戒するには十分すぎるものだ。
ディープスカイもそうである。日本ダービーでの敗戦は彼女にとって忘れられるものではなく、今もなお記憶の深いところに刻みつけられている。
ホノイカヅチの後ろに付け、彼女の動きに注目する。完璧に近いレース運びをする姿に、尊敬の念を抱く。
(本当にぃ、ホノちゃんは凄いですぅ。冷静で、速くて……全てが完璧に近いぃ)
しかし、ディープスカイは知っている。完璧に近いホノイカヅチではあるが、完璧ではないということを。それこそ、前走の日本ダービーで知っていた。
《第2コーナーから向こう正面へ。ここで少し落ち着きたいところだ。先頭集団は変わりません。ディープスカイの後ろにはヒルノラディアン7番手。ヤマニンデュバン、メイショウクオリアと続きます。まだ固まったバ群、先頭から最後尾まで14から5バ身以内に収まっている》
最後の直線前、第4コーナーのあの場面でホノイカヅチは外を選択した。それとは逆に、ディープスカイは内を選択した。あの場面を思い出す。
(結果論、と言えばそれまでですぅ。だけどあの時、わたしでも通れるほど空いていたのにぃ、ホノちゃんは内には来なかったぁ)
判断を誤った、とは言えないレベルのものだ。結果的に彼女は4と半バ身差でディープスカイを下した。間違っていたわけではない。
けど。
(無意識にリスクを避けただけかもしれません。でもぉ、ホノちゃんのレース運びは常に完璧ってわけじゃないぃ!)
あくまで100点に近いだけであり、いつも最善の道を選択できるわけじゃない。極稀に間違ってしまうこともある。ディープスカイはそう考えていた。
それも当然だ。目まぐるしく動くレースの状況、その中でたった1つの正解を導き出すことがどれほど難しいか。数ある中から最善を選ぶだけでも凄いのに、それを一度たりとも間違えないのがどれほど凄いものなのか。
アグネスタキオンの言葉。ホノイカヅチを相手にするうえで大事な、彼女の考え。
「彼女はとにかくリスクを嫌う。ハイリスクハイリターンを嫌い、リスクとリターンが等倍の勝負しかしてこない……それが強みであり、弱点でもある」
無理な勝負を仕掛けてこない。あくまで、自分にできる範疇のことしかやってこない。冒険心がないと言えばいいのか、悪く言えば予想外のことはやってこないのがホノイカヅチだ。これが爆発力のなさの正体である。
もっとも、理解したところで彼女に勝つことができるかと言われたら、また別の話なのだが。
(ホノちゃんにとっての普通はぁ、わたし達にとっての普通ではありません。彼女の普通は、とても高い次元の領域にありますぅ)
そもそも、ホノイカヅチのこなす当たり前が普通のウマ娘にとっての最大値であることが多い。凡人のウマ娘がこなす普通の、2つも3つも上をいっているのがホノイカヅチの普通なのだ。
普通のことしかやってこないから爆発力がない、当たり前のことしかこなさない。ただ、別の見方をすればそれは、及ばなかったのは自分の実力不足だと言われているようなものだ。力が足りないから負けた、当たり前のことしかしてこない相手に勝てなかった、純粋に実力が足りなかった。今まで負けてきたウマ娘達はその事実を突きつけられる。
無論、ディープスカイとて例外ではない。日本ダービーでの敗戦が今も頭に残っているのは、ホノイカヅチの強さ以上に……自らの実力不足を突きつけられたからだ。
(だけどぉ、あの時以上に強くなりましたぁ。わたしだって、わたしだってぇ!)
一度は折れかけた。日本ダービーで強さを見せつけられて、挑むことを諦めそうになった。
それでも、もう一度挑もうとディープスカイは思った。このまま逃げるのは嫌だと、ホノイカヅチに挑むことを諦めたくないと決めた。敬愛するアグネスタキオンにお願いして、努力を重ねてきたのだ。
負けない。その思いを抱いて、彼女はホノイカヅチをマークし続ける。勝利に向かって。
まもなく第3コーナーのカーブ。緩んだペースが戻ろうとしており、先頭は後ろを引き離そうと徐々にペースを上げていく。
《向こう正面を走ります各ウマ娘。ペースは落ち着いてきたか? 後方集団はモンテクリスエス、そしてヤマニンキングリーが引っ張ります。内を走るオウケンブルースリ、後ろから3番目の最後方。先頭集団はまもなく第3コーナー、第3コーナー前の坂を上がっています》
先頭を走るミッキーチアフル。冷静に自分のレースを展開しようとしているロードアリエスとスマイルジャック。スマイルジャックは隣を走るロードアリエスを競り落とし、ミッキーチアフルに並ぼうとしている。
スマイルジャックが走ったスペースに空きができた。その瞬間の出来事。
《第3コーナーのカーブを曲がります。ミッキーチアフルに並ぶスマイルジャック、ロードアリエスが内を走りスマイルジャックが走っていた場所にホノイカヅチがつけた。ホノイカヅチがロードアリエスの外につけます。一瞬の判断力、ディープスカイも慌てて追走》
予測通りに事が運んでいる、が。この判断力はついていくので精いっぱい。それでも、ディープスカイに焦りはなかった。
(まだ、まだついていけますぅ。まだ、まだぁ!)
諦めはない。余裕はないがついていける。最後に爆発させるだけの末脚を残して、ちゃんとホノイカヅチについていけている。自らを大丈夫だと鼓舞し、阪神の第3コーナーを曲がる。
大丈夫。そう、大丈夫だ。自分はちゃんとついていけているんだ。そんなディープスカイの安心を……ホノイカヅチは容易く壊す。
戦局が動いたのは第4コーナーに入った直後。ここで、ホノイカヅチが仕掛けた。ロードアリエスと並んでいたが、スマイルジャックを捉えんばかりに動き出したのである。
《第4コーナーに入ります。先頭を走るミッキーチアフルそしてロードアリエス。その外からホノイカヅチが上がってきた。ホノイカヅチが上がってきました。一気に仕掛けますホノイカヅチ、ついていきますディープスカイ。一気にペースが上がる終盤戦、最後の直線に向けてさらに苛烈になります位置取り争い》
だが、それを読んでいたディープスカイ。抜け出すならここではないかと、空気が震えたのを感じて、ホノイカヅチと同じタイミングで仕掛けた。ロードアリエスは一拍遅れたものの、なんとか食らいつこうとしている。
1バ身後ろに控えていたディープスカイ。この仕掛けたタイミングで、ホノイカヅチとの差を0にしようと動き出す。
(ここでぇ、並びますぅ!)
大きな体躯を駆使して、ホノイカヅチのさらに外につける。内はガッチリ閉じられており、外を回る他ない。これはもう仕方がないと諦めた。
もっと冷静に、大局を見誤った。そういうわけではない。ここで動かなければ、それこそ完全に詰みの状況にもっていかれる。前を壁にされ、蓋にされて加速を鈍らされる。ディープスカイが仕掛けるタイミングはここしかなかった。
(トップスピードに、差はありません。だからぁ、動けないことが最悪手ぇ!)
「やぁぁぁ!」
裂帛の気合と共に、ホノイカヅチへと急襲するディープスカイ。対するホノイカヅチは──無。変わらぬ表情でレースを展開していた。
(分かって、いますぅ。ホノちゃんは、そういう子だってぇ)
普段の気弱でオドオドしている姿からは想像ができないほど冷徹なレース運び。クールに、正確に決めてくる、機械のような走り。少しだけ、憧れを抱いていた。
(だけどぉ、その涼しい顔をぉ!)
「わたしがぁ、崩してやりますぅ!」
ディープスカイが一気に加速する。ホノイカヅチすらも抜き去って、先頭を走るミッキーチアフルとスマイルジャックすらも抜いて、ディープスカイは先頭に躍り出ようとする。
《最後の直線に入ります。最後の直線、最初に入ってきたのはディープスカイだディープスカイだ! ホノイカヅチが2番手に浮上、ミッキーチアフルとスマイルジャックが並んでいる! 後方内からはオウケンブルースリが果敢に進みます! オウケンブルースリが上がってくる上がってくる!》
ディープスカイの加速。後続を突き放しにかかり、ミッキーチアフルとスマイルジャックを置き去りにする。
だが、しかし。
《ディープスカイ一気に加速、しかしホノイカヅチがしっかりと追従! ぴったりと、今度はホノイカヅチがディープスカイをぴったりと追従している! その差は半バ身もありません、ホノイカヅチとディープスカイの競り合いになる!》
ホノイカヅチだけは振り払えない。懸命に脚を動かし、必死になって走るディープスカイ。それでも、ホノイカヅチを振り払うことは叶わない。
(まだ、まだぁ……!)
気持ちは折れていない。スタミナが切れても根性だけで走り切る。そう言わんばかりに、身体中にあるありったけの力を込める。必死の形相で、なんとしても勝ちたいという意思を感じる。残り200m、何としてでも持たせるという強い思いを、スタンドにいるファンは感じ取った。
また、ディープスカイは不思議と走れていた。本当なら限界ギリギリなのに、きついはずなのに。体中からアドレナリンが出て、ディープスカイを走らせていた。
残り100m手前。隣を走るホノイカヅチの表情が視界に映る。ディープスカイは、全てを察した。
(こんなに一生懸命なのにぃ、頑張ったのにぃ……それでも、なお)
「ホノちゃんには、届かないんですねぇ」
懸命に走るディープスカイ。対するホノイカヅチは──変わらない。全てが計算通りとばかりに、あらゆる物事を勘定に入れているかのように、自分には不要と言わんばかりに──ディープスカイを競り落とした。
《ディープスカイが先に音を上げた! ホノイカヅチが先頭、ホノイカヅチが先頭! 後方からオウケンブルースリがもの凄い脚!? これは届くかどうか! 残り100m、ホノイカヅチが完全に先頭に変わった!》
観客席にいるアグネスタキオンが、悔し気に呟く。
「スタミナ切れ、か」
早仕掛けしなければ、じっくりと溜めていれば、外を回らなかったら……あらゆる要素が頭に浮かぶが、事実はただ一つのみ。
どこまでも冷静に、いつだって冷徹に。ホノイカヅチは──レースを走るだけ。
《ホノイカヅチだホノイカヅチだ、ホノイカヅチが神戸新聞杯を制しました! ディープスカイを1バ身差で競り落としたホノイカヅチ! 無敗の三冠に向けて視界は良好! 曇天の空でも変わらないレースっぷり! これがホノイカヅチの強さです! ホノイカヅチが見事に神戸新聞杯を制しました!》
(あぁ、やっぱり強いですねぇ、ホノちゃんは)
ブレない強さ。圧倒的なまでの力に、ディープスカイは憧憬の気持ちと──いつか届いたらいいなという、願いを抱いた。
ホノちゃん強い子。