今回は掲示板世界でのリアル事情のお話です。なので、馬の漢字が普通の馬になっています。ご了承ください。
カランダガン鬼つえぇ!
彼は、凄く臆病な子だった。本当にレースに出走しても大丈夫なのかな? と思ってしまうほどに。
「え~っと……伊司阪さん? この子が」
「あぁ。君に騎乗してもらおうと思っているホノイカヅチだ。乗ってくれると嬉しい」
調教師の伊司阪さんと調教助手の人の後ろ、僕から隠れるように縮こまっている彼は、ホノイカヅチという子だった。牡馬で、そこそこの素質を持っている馬だと説明を受けている。
ただ、この子は元々別の騎手が乗る予定だった。磐田さんが騎乗する予定だった子なんだ。それがどうして僕に回ってきたのかというと。
「その、だね。前任の磐田くんはホノイカヅチに乗れなくなってしまったから。いや、別に彼が悪いわけではないぞ? 悪いわけではないんだが……まぁ、絶望的にホノイカヅチには合わなかったんだ」
「は、はぁ。それで、僕に?」
「うむ。君ならばホノイカヅチに騎乗できるだろうと、我々は判断した。君ならば信頼に足ると、ホノイカヅチも乗せてくれるだろうとね」
なんでも、少しキツいことを言ってしまったら磐田さんの姿を見るだけで逃げるようになったらしい。無理やり乗せようにもこの子自身が臆病なのもあって、ストレスがかかってしまう。だからこそ、なし崩し的に他の騎手を探すことになったのだとか。
そこで声をかけられたのが、僕だ。どうして僕なのかは分からなかったけれど、乗せてもらうのだとすれば全力を尽くすだけ。
「分かりました。とりあえず……まずは仲良くなることから、ですかね」
「あぁ。ほ~ら、大丈夫だぞホノイカヅチ。この人は前の人と違って叱ったりしないからな~大丈夫だからな~」
子供をあやすように接している伊司阪さんの姿に、不安を感じずにはいられなかったけど。
「初めまして。僕は御幸秀昭、これからよろしくね? ホノイカヅチ」
無理に触ろうとはせず、少し離れた位置で手を差し出す。勿論握手をしてくれるわけじゃないけれど、こっちに敵意がないことを分かってもらうためだ。
ホノイカヅチはじっとこちらを見ている。少しの間見た後、ぷいっと明後日の方向を向いた。
(うん。分かってたことだ)
まずは信頼を積み重ねるところから。頑張ろう。
それから調教でホノイカヅチに騎乗することになった。よく分からない、どうしてこんな血が残っているのか不思議でならない血統の子。正直な話、あまり期待はしていなかった。
でも、その認識は一度の調教で吹っ飛んだ。この子の走りからは、素質を感じずにはいられなかったから。
(凄い……!)
「どうだ、御幸くん。ホノイカヅチに騎乗した感想は?」
「いや、凄いですよこの子! 明らかに他の子とは違うって感じがします!」
ホノイカヅチを褒める言葉がポンポン出てくる。矢継ぎ早に、まくしたてるくらいに。それだけこの子に素質を感じていた。僕なんかの言葉じゃ、説得力はないかもしれないけれど。
それからホノイカヅチを褒めていると、こちらの様子を窺っていたホノイカヅチが突然僕の下へと歩み寄ってきた。さっきまで僕に怯えていたこの子が、騎乗するのにも苦労した子が。なぜか僕の下に来た。
そして、顔を舐めてきた。
(え、え? な、なんで?)
急な態度の変わりようにびっくりする。驚いた表情で伊司阪さんの方を見ると、伊司阪さんも驚いていた。
「い、いやぁ。この子は頭が良いから人の言葉を理解していると思っていたし、褒められるのが大好きとは思っていたが……まさかここまでとは」
「え、え~っと……つまり?」
「君は気に入られたということだ、うん」
どうやら僕は、この時ホノイカヅチに気に入られたらしい。ゆっくり絆を育んでいこうと思ったのに、その目的はたった1日で達成されてしまった。
ちょっと拍子抜けだけど、今も顔を寄せてくるホノイカヅチの頭を撫でる。
「これから頑張ろうね、ホノイカヅチ」
「ぶるる」
これが僕と彼の出会い。この後やたらとキャラの濃い馬主さんだったり、それにキレる牧場主さんの姿をたくさん見ることになるけど、良い日々だった。そう思えるくらいには、楽しかった。
◇
ホノイカヅチは才能溢れる子だった。新馬戦を楽々と抜け、勢いのままに重賞を連勝。4戦4勝の無敗で皐月賞に、クラシック戦に乗り込むほどに。
レーススタイルは前目につける王道の走り。好位抜出の普通の走りだ。そう、ホノイカヅチの性格からしたらありえないことだけど、先行のレースをしている。
本来なら、臆病な子だから先頭を走るか一番後ろにつけるかのどちらかだと思っていた。他の子に怯えてしまうから調教相手にも苦労するのに、レースでは不思議なほどゆったりとしている。問題なく実力を発揮しているんだ。
このことに関して、伊司阪さんによると。
「レースというものを理解している。一番勝ちやすい勝ち方を、一番取りこぼしのない戦い方を熟知している。この子は、本当に賢い」
「そうですね。ものすごく賢いです」
「勝てば褒められるのが分かってるからな。褒められるためならば、馬群に揉まれても構わないと判断しているんだろう」
「はい。正直な話、鞭を使うよりも誉めた方がやる気出すと思いますこの子」
「……ありえそうな怖い話を言うな」
馬自体が先行の走りを勝ちやすいと判断している。身体が震えてしまうような賢さを、ホノイカヅチは2歳馬の時点で発揮していたことになる。僕の感じた非凡な才能は、間違いなくあったということだ。
「いやっふ~! ホノイカヅチちゃんさいこー! このままクラシック三冠取りましょう!」
「バカなこと言ってないで現実的な見方をしろテメェは! そう易々と三冠を取れるか阿呆! ここまで来れただけでも奇跡だぞ!」
馬主さんと牧場主さんもこの喜びようだ。お祭りのように盛り上がるのも仕方ない、それだけの強さを発揮していたのだから。
それと同時に、僕は自分自身の騎乗に疑問を思っていた。ホノイカヅチが賢いが故に、あの子があまりにも強いが故に思ってしまう。
(僕の技術が拙い。もし彼が負けるとしたら、それはきっと僕が原因だ)
馬の能力に胡坐をかいて、僕自身の技術はなにも関与していないことを。ただホノイカヅチに懐かれただけで、騎乗しているだけに過ぎないことをよく分かっていた。
痛感したのは皐月賞の時。有力候補だったホノイカヅチは道中ずっと囲まれていて、進路はないに等しい状況だった。
(クソ、どこかに道は……っ!?)
焦り、視界が狭まる。冷静な判断能力を奪われて、ずっと閉じられている外の進路を見てしまう。
あるはずがない。抜け出すための進路が見つかるはずがない。もう終わりだ。そう思っていた、矢先のことだった。
ホノイカヅチが突然内へと進路を取った。僕の手綱に逆らうように、内ラチへと突っ込んだ。
「ッ!?」
驚いた。けれども、結果的にそれは正解だった。何故なら……ほんの一瞬だけ、空かなかった隙間が空いたのだから。ホノイカヅチは寸分の狂いもなく突っ込んで、見事に包囲網を抜け出した。
レース後、異常がないかを調べた。ラチに激突していないかどうか。とはいっても、僕が無事だから本当にただの確認でしかないけれど。
結果は、何事もなく終わった。この時に、なんとなく察するものがあった。
クラシックを勝ったことよりも先に、僕はホノイカヅチという馬に対して。
(僕以上に、競馬を理解している。レースそのものを理解している)
あの進路を迷わず取ったこの子に対して、嫉妬にも近い感情を向けてしまった。褒めてと催促するように首を下げるホノイカヅチの頭を撫でながら、僕はこの子に醜い感情を向けてしまった。
これがきっと、過ちの始まり。素直に尊敬すれば、彼から学べばいいという気概さえあればよかった。その結果として、この先ずっと後悔することになる……過ちだ。
ホノイカヅチはクラシック三冠を取った。ダービーも有力馬だったアグネスタキオン産駒のディープスカイを蹴散らして、菊花賞ではジャングルポケット産駒のオウケンブルースリを17馬身も引き離して圧勝した。特に菊花賞はすさまじいインパクトを残した。歴代最強の三冠馬と呼ばれるくらいには、ホノイカヅチの名を押し上げた。
本当は臆病な子なのに、先行で走って彼は勝ち続けた。華はないけれど確かな実力、退屈とも称されるレース運びとそれでも送られる賞賛の言葉を糧に、彼はレースを走り続けた。
ディープインパクトすらも超えたと、間違いなく今後の競馬界の顔役になる馬だと、誰も彼もが持て囃した。ホノイカヅチという馬を、最強の馬だと認知していた。
だからこそ、僕はいつも重圧に圧し潰されそうになっていた。ホノイカヅチに相応しい騎手になろうと、騎乗技術を磨こうともがいていた。彼に相応しい騎手になろうと、僕自身も強くならなければダメだと足搔いていた。
けれども、現実は甘くない。毎日のように吐きそうになっていた。
「結局は馬が良いだけだろ」
「ホノイカヅチなら誰でも三冠が取れる」
ありもしない幻聴に苛まれ、神経をすり減らしていく日々。
「馬はよくても騎手はいまいちだよな~」
「乗り替わったらもっと強くなるだろ。こだわる必要なんてない」
理想の姿は程遠く、現実との違いに潰されてしまいそうになる日々。かつての愛馬だったスティルインラブを喪って間もないというのもあって、僕のメンタルはボロボロだった。
そんな僕を、伊司阪さんや馬主さんはいつも慰めてくれた。
「大丈夫大丈夫! 御幸くんはよくやっているよ! 君だからこそ、ホノイカヅチちゃんは十分な力を発揮できるんだ!」
「そうだ。あまり自分を追い詰めるのはいかんぞ御幸騎手。君だからこそ、ホノイカヅチはホノイカヅチらしく走れるんだ」
「……ありがとう、ございます」
けど、その慰めが痛かった。僕の至らなさを突きつけられているようで、僕は素直に受け取ることができなかった。
ホノイカヅチの実力は圧倒的だ。僕はただ乗っているだけで、クラシック三冠に有馬記念も制して、ナリタブライアン以来の、ディープインパクトですら達成できなかった無敗四冠を成し遂げた。しかも、当時牝馬最強格と呼ばれていたダイワスカーレットを倒して、だ。
喜ばしい。ホノイカヅチをうんと褒めてあげて、僕自身も誇らしい気持ちでいっぱいだった。
僕が褒めてあげると、ホノイカヅチは凄く喜ぶ。今日も頑張ったねとか、いつもお疲れ様とか、今日は末脚の調子が良かったねとかいろいろと褒めてあげると、彼は嬉しそうに目を細める。なんとも愛らしい子だ。
ただ、それと同時に、暗い気持ちが沸いていた。
(本当にこのまま、僕が騎乗していいんだろうか?)
伊司阪さんや馬主さん、牧場主さんは気に病む必要はないと言ってくれている。僕が乗ってもいいんだと言ってくれる。
「ぶるる」
「今日も頑張ろうか、ホノイカヅチ。頑張って、みんなにいっぱい褒められよう」
「ヒヒン」
けれども、その言葉に甘えてしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。最初の頃は感じなかったのに、ホノイカヅチが活躍するのと同時に……僕は怖くなった。
スティルインラブと同じことをしてしまうんじゃないかと。自分の弱さのせいで、いつかこの子を負けさせてしまう日が来るんじゃないかと。その時僕は、この子になんて言ってあげればいいのかと。不安に思う日々が続いた。
◇
転機が訪れたのは年が明けての古馬。ホノイカヅチにある1つの提案が持ち込まれた。
「海外遠征、ですか」
「そう。ホノイカヅチを海外に遠征させようと思っていてね。その時の鞍上も、君にお願いしたいんだ」
馬主さん直々の言葉。ホノイカヅチの海外遠征の話だ。凄くありがたいことに、海外でも僕を起用する予定だと言ってくれた。
心の底から嬉しかった。まだホノイカヅチに騎乗できる、彼に乗っても許されると思ったから。
同時に、怖かった。ただでさえ経験したことのない海外の場、僕なんかが活躍できるはずがない。彼の輝かしい経歴に傷をつけてしまう。そう考えると、どうしてもはいと即答することができなかった。むしろ、怖い気持ちの方が大きかった。
悩んだ。海外遠征でも騎乗するべきか、誰かに譲るべきか。悩んだ末に、僕が出した結論は。
「……僕なんかよりも、海外経験が豊富な騎手を乗せた方がいいと思います。きっと、伊司阪さんも同じことを思っているはずですから」
「確かに、伊司阪くんにも同じことを言われたよ。変えた方がいい、海外経験豊富な騎手の方がいいって。でも、私は」
「なら、その判断が正しいと思います。僕よりも良い騎手で、ホノイカヅチを勝たせてあげられる最良の判断をした方がいいです」
自らホノイカヅチから降りる。僕よりも良い騎手が騎乗して結果を出す、なんてそれらしいことを言いながら……僕は彼を負けさせてしまうことが怖くて、逃げ出してしまったんだ。
海外の競馬場が未経験だから。そんな舞台で僕のような騎手が乗っていいと思わなかったから。ホノイカヅチの最良のパートナーは他にもいるから。もっともらしい言葉を並べたけれど、結局のところ僕は怖かったんだ。彼を負けさせてしまうことが、僕が原因で彼が気に病んでしまうことが。とてつもなく怖かった。
ホノイカヅチは臆病な子だ。気弱で、本当ならレースで走ることも厳しい性格の子。それでも頑張って三冠を取って、彼は結果を残し続けた。僕が最後に騎乗した春天でも、大差圧勝という輝かしい強さを残した。
褒められるのが大好きで、いつも一生懸命な子。そんな彼の頑張りを、僕なんかのせいで無駄にしてほしくなかった。僕の騎乗技術が拙いせいで負けさせてしまうのが、どうしても我慢できなかった。
馬主さんは最後まで僕を説得してくれた。
「本当にいいのかい? 御幸騎手。今ならまだ説得を手伝うから」
「いいんです。お気遣い、ありがとうございます。僕は、大丈夫ですから」
でも、僕は最後まで折れなかった。後任の騎手に岳さんを据えて、僕はホノイカヅチを見送る選択をした。
「向こうでも頑張ってきてね、ホノイカヅチ。日本で僕も応援しているから」
「ぶるる」
「しばらく、お別れだね。元気でやるんだよ」
胸に大きなしこりを残したまま、ホノイカヅチは欧州へと旅立った。願わくば、彼が活躍できることを祈って。
ホノイカヅチは向こうでも強かった。岳さんとの相性も悪くなく、むしろ僕が騎乗している時よりもいいんじゃないか? と思えるほどの活躍を残した。
プリンスオブウェールズステークスの圧勝。エクリプスステークスで欧州最強と名を馳せることになるシーザスターズを下して、一気に欧州最強の地位を確立した。特にイギリスの人達は、彼を【和製ハイペリオン】と呼んで持て囃していた。向こうでも活躍していることが誇らしくて、僕も頑張ろうって気持ちになれた。
同時に、不安もあった。ただでさえ気弱なホノイカヅチが、向こうで大丈夫なのかと。岳さんが無事に騎乗できていることから、大丈夫と信じる他なかったけど、それでも不安があった。
不安の理由は分からない。それでも不安で仕方なかった。大きな見落としをしているような、大事な何かを忘れているような。そんな気がして、不安で堪らなかった。
──その不安は、最悪の形で的中した。
8月の頃だった。突如としてホノイカヅチの遠征が取りやめになったと報道され、我が耳を疑った。
(どうしてだ? どうして、海外遠征を止めたんだ?)
予定では凱旋門賞まで出走する予定だったはず。その予定を繰り上げて、ホノイカヅチは日本へ帰国したとのニュースが飛び込んでいた。大きくなる不安、嫌な可能性が頭によぎって、僕はホノイカヅチの下へと向かった。
ただ、検疫の都合からそうそう簡単に会えるものではなく。最終的に会えたのは10月の初めの頃になる。彼と久しぶりに対面して……僕は絶望した。
「ホノ、イカヅチ……?」
痩せ細っていた。ただでさえ小柄な彼の身体が、とても小さく見えるくらいに彼は衰えていた。医者曰く、430㎏前後だった体重が390㎏近くまで落ち込んでいるらしい。輸送の影響を考えても、この数値は異常だった。
おかしい、どうして。輸送の影響は少なく済んだと報告を聞いていたし、現地でも問題はなかったと岳さんから聞いている。どうして、何があってこの子はこうなったんだ? そう思わずにはいられなかった。
「帯同馬だったマリンスナップの予後不良もあった。いろいろと悪いことが立て続けに」
「我々の見えないところで、海外遠征の影響があったのかもしれない。本当に、この子には申し訳ないことをした……」
「ごめんな、ホノイカヅチ……もう、もうゆっくりしていいんだ。気を張らなくていいんだ……!」
考えて考えて。あることが思いついて、僕は深く絶望することになる。
(僕の、せいなのか?)
僕が彼から離れてしまったから。影響は少なからず出てしまったのだとしたら? 僕が逃げ出して、親友だった馬が亡くなって、ホノイカヅチは……。
「あ、ああ、ああ……っ!」
膝から崩れ落ちる。手で顔を覆い、その場に蹲る。彼にやってしまった過ちを、僕の醜い嫉妬のせいで起こってしまった悲劇を。僕は嘆くことしかできなかった。
そんな僕に対して、ホノイカヅチは──慰めるように、僕を舐めようとしていた。
弱弱しく、起き上がるのも難しいのに。頑張って体を置き上がらせて、僕を慰めるように近づこうとしていた。
「ごめん……ごめん……ホノイカヅチっ。僕は、僕は……っ!」
後悔しても遅い。
「側を離れてしまった。離れるべきではなかったのに……っ」
僕がこの子を、ここまで追い詰めてしまった。
「僕の醜い気持ちが、彼を傷つけたっ。あってはならなかったのに……!」
僕が彼から逃げ出したから、こんなことになってしまった。側にいなかったから、近くにいなかったから。
「僕はまた、間違えた……っ!」
いや、いなくてもきっと……。悪い考えばかりが浮かんでしまう。
もし、この悲劇を回避する方法があるのだとしたら。それはきっと──
なんでこう、この世界のスティルインラブの主戦騎手お労しいことになってるの?(ちなみに掲示板でも判明している通りホノイカヅチはご存命です)