その日、世界中に衝撃が走った。
【キングジョージ覇者ホノイカヅチ緊急帰国!その理由は?】
欧州で活躍し、結果を残し続けていた日本のウマ娘ホノイカヅチ。そんな彼女が突如として遠征を切り上げて、一般のファンが気づかないうちに欧州から日本へと帰国していたニュースが流れたのである。
速報を聞いたファンはみな目を見開いて驚いていた。まさか遠征から帰ってくるとは思わなかったからである。
「別に調子悪くなさそうだったのに。なんで帰ってきたんだろう?」
「向こうのG1を3勝してるんだろ? そのまま凱旋門賞に直行するもんだと思ってた」
「でもあれじゃない? キングジョージが大目標って言ってたし、目標達成したから帰ってきたとか?」
理由は明かされておらず、ただ帰ってきたという事実のみが報道されている。日本のみならず、欧州でもだ。一部の人間以外にはホノイカヅチが突然帰国したと報道されており、その足取りを掴むことができないでいる。
「『そんな~! ずっとイギリスで走ってくれると思ってたのに~!』」
「『頼むから帰ってきてくれホノイカヅチー! 君にはイギリスのターフが似合っているぞー!』」
「『褒めが足りなかったって言うのかい? なら、もっともっと褒めないといけなかったか!』」
特にイギリスのファンは嘆き悲しんでいた。和製ハイペリオンと呼ぶほどに人気を博していた彼女、すでに欧州の顔役にまで有名になっており、次のレースを期待しているファンも大勢いたのだ。消えるようにいなくなったと思えば、日本へ帰国していたと知れば悲しくもなるだろう。それはもう悲しんでいた。それだけ現地のファンに愛されていたということでもあるのだが。
理由の分からない緊急帰国。マスコミはこぞって取材をしようと意気込んでいたが……ここで立ちはだかったのが、ホノイカヅチへの取材問題である。菊花賞での出来事は今でも尾を引いており、一部の会社を除いて取材することが難しいのは変わっていなかった。
そもそも、いつ帰国したのかすらも分からないのである。空港で出待ちなどできるはずもなく、なんとか取材しようにもトレセン学園の警備が立ちはだかる現状。
「今現在におきまして、ホノイカヅチさん関連の取材は一切お断りしております。お引き取りをお願いします」
トレセン学園の理事長秘書である駿川たづながにこやかな、なおかつ凄みのある笑顔で記者を追い払い、大人しく帰っていく記者の姿を見た者は多い。それほどの厳戒態勢を敷いていた。
今も分からないホノイカヅチの帰国理由。世界中のファンがどうして帰国したのか、何故何も言わないままに去っていったのかを知りたがっている。SNSでは勝手な憶測が広がっており、一刻も早い事態の詳細な発表が待たれていた。
そして、知りたがっているのはトレセン学園内でも同じ。
「ホノちゃん心配なのです。どうして急にこっちに帰ってきちゃったのでしょう?」
「う~ん、御幸くんとも連絡が取れないからね~。何かあったのは間違いないんだけど」
「どうしちゃったんでしょう、ホノイカヅチさん……」
「心配です……」
学園でも特に仲の良かったアストンマーチャンとそのトレーナーもまた、帰ってきた理由を知りたがっていた。彼らにも知らされていないのである。今は主がいないはずの御幸トレーナーのトレーナー室、その前で心配するような表情を浮かべていた。
最初帰ってきたことを知った時、会いに行こうとしていた。ただ、トレーナーである御幸の姿は学園にはなく、同様にホノイカヅチの姿もない。同室の子に詳細を尋ねようにも、同室の子もどこにいるのかを知らなかったのだ。
そうなると手掛かりを握っているのは学園側。彼女らなら間違いなく知っているだろうと、アストンマーチャン達は理事長である秋川やよいの下へと向かった。
返ってきたのは、申し訳なさそうな表情と共に送られる言葉。
「苦渋ッ! 今のところ教えるわけにはいかないのだ。まだこちら側も混乱していてな、詳細が出次第、君達にも教えることを約束しようッ」
「少なくとも、無事ではあります。ただ、現段階ではまだわからないことが多く。今はどこから情報が漏れるかも分からないので、コメントは控えさせていただきます」
よほど重い事態なのか、理事長側から教えるわけにはいかないと言われた。そのことがさらに不安を募らせ、アストンマーチャン達を焦らせる。
引き下がりたくないが、理事長側も頑として口を割る気はなく。仕方なくアストンマーチャン達は引き下がる他なかった。
それから3週間ほど経ち、ホノイカヅチ帰国のニュースが遠い昔のように思えるほどの時間を過ごす。8月頭にニュースが流れて今は8月の終わり。いまだ明かされない詳細を待ち続けて、交流のあった子達はまた御幸トレーナーの部屋の前に集まっていた。
「ホノちゃん……」
可愛がっていた相手、いつも一緒にトレーニングしていた相手の人形、ホノちゃん人形を抱きしめて、不安げに名前を呟くアストンマーチャン。そんな彼女に寄り添うアストンマーチャンのトレーナー。
「たづなさんが言うには、2人はちゃんとこっちに帰ってこれたんだ。詳細は分からない、だけどあの2人なら大丈夫。だから信じて待とう、マーちゃん」
アストンマーチャンのトレーナー、マートレも2人のことを心配している。それでも大人の自分がしっかりしなければと、アストンマーチャン達が不安にならないように元気づける。着ぐるみ姿なのに頼もしかった。
ひとまず解散しようと別れようとする、が。ふとマートレが扉に手をかけると。
「……あれ? 開いてる」
「え? 御幸トレーナーの部屋が開いてるんですか?」
「うん。扉に手をかけていなかったけど、どうやら開いてるみたいだ」
扉が開いていることに気づく。扉が開いているということは、中に人がいるということだ。そしてその中に誰かいるのだとしたら、ここの鍵を持っている人物に他ならない。
理事長達は先ほど中庭の方にいた。だとしたらこの中にいるのは。
「御幸く~ん? 中にいるのか~い?」
名前を呼んで、部屋に入るマートレ。泥棒という可能性を考慮して、まずはマートレが先陣を切ることにした。他のメンバー、アストンマーチャンにブエナビスタ、スティルインラブは外で待つ。
部屋に入ったマートレは思わず目を見開いた。
(酷いな。全然整頓がされていない)
部屋は荒れに荒れ、カーテンを閉め切っているためかかなり薄暗かった。まずは電気をつけようとして、スイッチに手をかける。
電気を点けた彼らの目に入ってきたものは。
「……」
「随分、荒れてるね。御幸くん」
普段の姿からはかけ離れたホノイカヅチのトレーナー、御幸の姿だった。
スーツのシャツはヨレヨレで、手入れをしていないのが丸わかりだ。それに、今まではなかった無精髭を生やしている。本の棚に体重を預けるように倒れており、一見すると生気のない姿をしていた。
後から入ってきた3人は御幸の姿を見て驚く。今まで見たことがない姿に一歩後ずさった。
マートレはお構いなしに御幸に近づく。落ちている本や資料にちらりと目をやりながらも歩みを進め、御幸の下へと足を運ぶ。できる限り刺激しないように優しい声色で話しかけた。
「久しぶり、御幸くん。今日まで会えなかったから心配していたんだよ?」
「……」
無言。何も喋らない。マートレの呼びかけに対し、御幸はなにも答えなかった。
嫌でも気づくだろう。これは何かがあったのだと。それに、ホノイカヅチがいない。彼女がいないこの状況で、御幸の荒れようを見て、最悪の想像が4人の中で出てくる。
それでも表に出さないように、マートレは御幸を刺激しないように気を付けた。
「こっちに帰ってきてたんだね。久しぶりの日本の空気、懐かしいんじゃない?」
無言。
「懐かしい、っていっても2ヶ月ちょっとぐらいしか離れてないか。でも、海外から日本だからね~。僕も1ヶ月香港に遠征したことあったし、あの時は日本が懐かしいって思えたな~」
無言。
「ま、マートレさん。あんまり刺激しない方が」
ブエナビスタが代表して止めようとするが、マートレは諦めない。懲りずに話しかける。
「ねぇ御幸くん。もう話題を逸らそうとしないから単刀直入に聞くね。ここを逃したら、いつ会えるかもわからないし」
真剣な空気で、彼は御幸がこうなったであろう直接の原因について口にする。
「ホノイカヅチちゃんになにかあったの? 君がそこまで荒れるなんて、彼女に何かあったとしか思えないんだ」
「ま、マートレさん。さすがに、ここで聞くのは」
「ごめんスティルちゃん。でも、知らないままじゃいられないんだ。御幸くんがここまで荒れているのに、僕はただ黙って指を咥えて見ているなんてできない」
強い決意の籠った言葉。一歩も退かない態度を前にして、スティルインラブは引き下がるしかなかった。
沈黙を貫く御幸。マートレがこのまま帰ることはないと悟ったのか、ようやく。
「……キングジョージの後、ホノイカヅチが倒れたんです」
ポツポツと、帰国した理由を語りだした。
キングジョージを勝利で飾った後、控室でホノイカヅチが倒れているのを発見したこと。気が動転しながらもどうにか病院へ連れて行き、彼女の無事を祈り続けたこと。医者からは問題なく復帰できるだろうと言われて安堵したこと。そして……その後告げられた言葉によって、残酷な現実に気づいたこと。
「ホノイカヅチにとって、レースで走ること自体がストレスだったんです。だから、あの子は倒れてしまった」
「……そっか」
「確かに、ホノちゃん前々から言ってましたもんね。レースを走るの、そんなに好きじゃないって」
ブエナビスタの言葉に頷く面々。倒れた理由がストレスにあり、これまで溜め込んでいたものがキングジョージ後に一気に爆発したのが原因であることが語られる。
「こんな状態じゃ、もうレースに出るのは無理だ。だから俺達は、日本に帰ってきました。誰にも知られないように、理事長達にお願いして」
「……ホノイカヅチさんの存在は、あまりにも大きくなり過ぎました。この事実が報道されたら、余計な混乱を招いてしまう」
「その通りだよ、スティルインラブ。混乱を防ぐためにも、この情報は秘匿する必要があった」
淡々と、表面上は冷静に語っている御幸。ただ全員気づいていた。かなり憔悴していると。
その理由は。
「……前に夢の話をしましたよね? ホノイカヅチがどんどん痩せ細っていく、あの夢の話を」
「確かに、してたね……まさか!?」
「なんも回避できていませんでした。ホノイカヅチは今彼女のお家が管理している屋敷にいますが……過度なストレスから食事が喉を通らないんです。日本に戻ってきた今でも」
「そ、そんな!?」
かつて御幸が夢で語っていた内容。ホノイカヅチがどんどん痩せ細っていく夢。現実で、まさにその通りのことが起こっていると御幸の口から語られる。
頭を抱え、震える御幸。自らのやってきた行いに、ホノイカヅチの異変に気づけなかった自分に。心の底から後悔していた。
「俺はっ、俺はっ! なんも気づけなかった! あの子の辛さも、苦しさも! なにも気づかずに! ただのうのうと彼女のためにって行動してっ。それがホノイカヅチを苦しめていることに、なにも気づいていなかった!」
「御幸くん!」
錯乱し始める御幸。下手をすれば自分さえも傷つけてしまいそうな雰囲気に、思わずマートレは止めに入ろうとした。
深く後悔している。自分のやってきたことに、ホノイカヅチの救難信号に気づけなかった自分に。御幸は自己嫌悪に苛まれていた。
ようやく見えた表情も痛々しいものだ。普段の清潔感溢れる姿からは想像もできないみずぼらしい姿。目の下には深い隈ができており、ろくに眠れていないことがよく分かる。唇も肌も荒れ放題、髪も手入れされていない影響で痛んでいる。自分の姿に気づかないほど今回の一件を気に病んでいることが理解できる惨状。
「本当に、本当に大バカ野郎だ俺はっ。苦しみを、辛さを、痛みを。なんも分かっていなかった……っ」
「御幸トレーナーっ」
御幸の姿に、ブエナビスタは涙を流す。今の御幸の状態に、後悔の涙を流す姿に。彼もまた傷ついていることを悟った。
しばらく経って。マートレは辺りを見渡した後に御幸へと視線を移した。
「それで、御幸くんはこの先どうするの?」
「……」
「ホノイカヅチちゃんの状態は分かった。無理に聞いちゃってごめん。でも、その上で……君はどうするの?」
「トレーナーさんっ!」
アストンマーチャンが思わず大声で止めようとするが、マートレは聞く耳を持たない。今も項垂れている御幸を真っ直ぐに見つめて、彼は答えを待っていた。
「君は、このままでいいと思っているの? このまま、君は過ごすのかい?」
「……」
「別に止めはしないよ。御幸くんは十分に頑張った、いっぱい休んでもいい。だけど……君はこの先どうするのか? それが気になったんだ」
口を閉ざしたままの御幸。1分か、2分か。はたまたそれ以上か。普段なら瞬く間に過ぎていく短い時間が、永遠のように長い時間にも思える。
御幸の答えは。
「……今は、お引き取りを願えますか」
拒絶だった。その言葉を聞いて、マートレは少し考えこんだ後。
「分かった。それじゃあ、僕達はこの辺でお暇させてもらうよ。許可も取らずに、いきなり押しかけちゃってごめん」
「別に構いません。マートレさんには、たくさんお世話になりましたから」
「そっか。それじゃあみんな、帰ろうか。最後に一言、いいかな? 御幸くん」
「……」
「僕はいつでも手を貸すよ。その気持ちは、今も変わっていない。だからそうだね……待ってるよ」
御幸のトレーナー室を立ち去る4人。マートレを除いた3人は、部屋を出る最後の時まで御幸を心配そうに見つめた。
部屋を出てトレーナー室から離れた後、アストンマーチャンは膨れっ面でマートレへと詰め寄る。
「トレーナーさん? さっきのはマーちゃん的になしです。いくらなんでもあんまりなのです」
「ごめんよマーちゃん。どうしても気になったんだ」
「だとしても! さすがにあの状態の御幸トレーナーにいろいろ聞くのは!」
ブエナビスタも抗議するように詰め寄る。加えて、マートレからは心配するような気持ちは感じられず、それが余計に神経を逆撫でした。
「それに、マートレさんあんまり心配してませんよね? どうしてですか!」
「待って待って、ちゃんと説明するから。ちゃんと説明するからそんなに詰め寄らないで」
着ぐるみ越しでも慌てているのが分かるマートレ。スティルインラブにブエナビスタを引きはがしてもらい、説明をする。
「まずだけど、確かに御幸くんの状態は酷いの一言に尽きる。それも仕方ないよ、ホノイカヅチちゃんが大変になってるんだから」
「……はい。御幸トレーナーがホノイカヅチさんを大事にしていたのは、私達もよく知っていますから」
2人の仲の良さはこの場にいる全員が知っていることだ。ホノイカヅチが信頼を寄せる相手で、御幸トレーナーもまたホノイカヅチを信頼している。だからこそ、今の惨状が見ていられなかった。
その上で、マートレは部屋の惨状で気づいたことがある。
「だけど、彼はまだなにも諦めちゃいない。深い絶望に落ちても、彼はまだ足搔こうとしていたんだ」
「えっ!?」
予想外の言葉に驚きの声を上げる3人。さっきの惨状を見てなんでそんなことが言えるのか。気になって仕方なかった。
「部屋に散乱していた本や資料は、全部体の負担が少なく済むトレーニング理論に精神治療の本、資料も治療法の類が書かれていた」
「……っ! それって」
「それに、目の奥はまだ死んでいなかった。彼の目には、まだ光がある」
内容を聞いてハッとする。マートレは着ぐるみの中でふっと笑った。
「なにも諦めていない。暗闇の中で彼は、必死に足搔いている。だからこそ、僕はただ伝えたんだ……いつでも手を貸せるように待ってる、ってね」
信じて待つ。それが自分たちにできる最良の判断だと信じて、ただ待つことにした。
まだ諦めていない模様。