僕、相川陽太。
どこにでもいるごく普通の小学三年生だと思う。
そのごく普通の僕が住んでいる日本が世界の他の国と少しだけ違うのはきっと「神様」のせいだ。
ちゃんと学校で習ったよ。
日本には
偶像でも概念でもない、れっきとした本物の神様。
その神様たちの中でも今の僕に一番関係があるのは、間違いなく「TSの神様」だろう。正式な神様の名前は誰も知らない。いつから
昔ある人が「男女の性別を入れ替えちゃう神様だっているんじゃないかな」なんて想像した瞬間にその神様は遥か太古の昔からこの国に存在していた、ということになったという学説が学会では主流らしい。
シュレディンガーの猫って言うの?
僕にはよく分からないけど、誰かが思いついて観測した瞬間に過去から在られたことになったらしい。
難しい理屈はよく分からないけど、とにかく僕らは物心ついた時からそのTS神様の存在を当たり前のこととして受け入れていた。
TSの神様は、パーカーみたいなパンダの着ぐるみを着た、それはそれは可愛い美少女の姿をしているという。
伝聞系なのは、神様の姿を映す方法がないからだ。
カメラだってTVだって神様の姿を映すことはできない。人の技では神様の姿の
そしてこのTSの神様の気まぐれか、あるいは深い思し召しなのか、この日本でだけ奇妙でおかしくて、そしてとても不思議な儀式が太古の昔から行われていた。
『
と、言うんだそうだ。
子どもが九歳になる年の夏。
第二次性徴を迎える前の全ての子どもに、たった一度だけ与えられる性の選択の権利。TS──つまり性転換して、今とは違う性で生きていく未来を選ぶか、あるいは、生まれ持った性のまま大人になっていくか。
人生で最初の、そしてやり直しのきかない大きな選択が求められるのだ。
神様の不思議な御加護で、TSすることを選べば元の顔立ちに関係なく誰もが息をのむような美少女か、あるいは美少年になることができる。
だから、この儀式は人によっては人生最大の一発逆転カードにもなり得た。
儀式のルールは少し変わっている。
神社の拝殿で、パンダの着ぐるみを着たTS神様の前で一人頭を垂れ、静かに祈ると心の奥を覗き込まれるのだ。
そこで強い願いに応じて未来の性が決まる。変化はすぐには訪れない。
翌日以降、第二次性徴期という体の成長に合わせ数年かけてゆっくりと現れる。
だから自分の願いがどう聞き届けられたのか、儀式が終わった時点では自分自身ですら分からない。
誰だって自分の本心が本当に分かっているわけではない。
そして自分自身だけではなく周りのクラスメイトだってそうだ。
隣の席の鈴木くんが来年には女子の制服を着ているかもしれないし、あるいは何も変わらないかもしれない。僕らの未来は神様だけが知る人生ガチャみたいなものだった。
そして今、僕と親友の
教室は毎日毎日その話題で持ち切りで、不安と期待でざわざわしっぱなしだった。
「ねえねえ、月島くんはどっちにするの?」
昼休み。
僕が隣の席の鈴木くんと昨日のテレビゲームの話で盛り上がっていると、教室の反対側から聞こえてきた明るい声に思わず視線を向けた。
声の主はクラスで一番大きな女子グループのリーダー、佐藤さんだ。彼女たちのグループ数人が一つの机を取り囲んでいる。その中心にいるのは僕の親友の月島蒼だった。
蒼は僕とは正反対の人間だ。
黒髪だけど少し色素が抜けて赤みがかったサラサラの髪に通った鼻筋。黙って窓の外を見ているだけでそれが一枚の絵になってしまうような美少年。運動も勉強もできて、物静かで誰にでも優しい。当然女子からの人気は絶大だった。
「私、月島くんには男の子のままでいてほしいなー!」
「えー、でも女の子になったら、絶対すっごい美人さんになるよ!」
「どっちも見てみたい! 選べないよー!」
女子たちはきゃあきゃあと騒ぎながら、蒼の選択に興味津々のようだった。
蒼はそんな騒がしい女子のたちに囲まれながら少しだけ困ったように眉を下げながらも静かに微笑んでいた。
「ありがとう。でも、まだ決めてないんだ」
その穏やかな声が響くと女子たちは「えー!」と言いながらも、どこか満足そうに散っていった。
まるで、蒼に構ってもらえただけで嬉しい、とでもいうように。
僕はその光景を少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。羨ましいとか、妬ましいとか、そういう気持ちはもう無い。
蒼はそういう特別な人間なのだ。生まれた時から僕みたいなその他大勢とは違う場所に立っている。
「陽太、お待たせ。次の授業、体育だけど準備できたか?」
女子たちが去った後、蒼は何事もなかったかのように僕の席までやってきた。
さっきまでの女子たちの喧騒に蒼は何も影響を受けていなさそうだ。
「お、おう。まあな」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「別に……。お前は大変だな、いっつも囲まれて」
僕がそう言うと蒼は苦笑した。
ああ、いかん。
これじゃ僕が拗ねているみたいじゃないか。
「そんな大変でもないよ。それよりさっきの話に混ぜてくれよ。昨日のゲーム、どこまで進んだんだ?」
蒼は僕が好きなことを僕以上に覚えてくれている。
僕が夢中になって話すのを楽しそうに聞いてくれる。だから僕は蒼と一緒にいるのが好きだった。彼がどんなに特別な奴でも、僕にとってはたった一人のかけがえのない親友なのだ。
でも、心のどこかでいつも小さな棘が刺さっていた。
蒼の隣に立つ自分は、あまりにも「普通」すぎるんじゃないか、という棘が。
その棘が一番はっきりと痛みを感じさせるのは、ふとした瞬間に現実を突きつけられた時だった。
その日の放課後、僕は教室の後ろの壁に貼り出された掲示物の前で立ったまま固まっていた。
先月行った春の遠足の集合写真だ。みんなが満面の笑みでピースサインをしている。
僕もその中にいるはずだった。
目を凝らして自分を探す。
──いた。
後列の端から三番目。何人かの肩越しにやっと顔が半分だけ見えていた。
表情はどこか引きつっていて髪の寝癖も直っていない。集合写真に写る僕はいつも大体こんな顔をしている。
クラスという集団の中で完全に埋没している個性の欠片も無い、まさに
ため息をつきながら視線を写真の中で滑らせる。
自然と特定の場所で視線が止まった。
蒼だ。
彼は最前列の先生のすぐ隣に座っていた。女子数人に両側から腕を組まれて、少し照れたように、でも嬉しそうに笑っている。
太陽の光を浴びて蒼の髪がキラキラと光って見えた。
写真の中ですら蒼と僕の間にはどうしようもない絶対的な差が存在していた。
──僕がTSして美少女になったら?
ふとそんな考えが浮かんだ。
性択の儀式の御加護は絶対だ。僕みたいな冴えないモブ顔の男の子でも、儀式さえ受ければ誰もが息をのむほどの美少女になれる。そうなれば僕も写真の真ん中で笑えるようになるんだろうか。蒼みたいにみんなから注目される存在になれるんだろうか。可愛い服を着て、キラキラした毎日を送れるんだろうか。
それはあまりにも甘美な誘惑だった。
僕みたいな「普通」の人間が人生を劇的に変えるための、たった一度の魔法。
その選択の権利を僕はもうすぐ手にすることになる。
「……陽太? 何見てるんだ?」
考え事に没頭していると後ろから声をかけられた。
振り返ると蒼が不思議そうな顔で後ろから僕の顔を覗き込んでいた。
「いや、集合写真見てただけ」
「ああ、陽太はココだね。変な顔で写ってるな」
「うるせえ! 分かってるよ!」
写真を一目見ただけで僕の場所を指さして蒼が笑う。
僕が少しムキになって怒鳴ると蒼は「悪い」と言って少し笑った。
──蒼の笑顔はやっぱり綺麗だった。
僕たちは連れ立って学校を出ていつもの秘密基地に向かった。
学校の裏手を流れるかなり大きな川の河川敷だ。
草が人の背丈ほどに生い茂った一角が、僕たちの秘密の場所だった。
二人で土手に腰を下ろし、コンビニで買ったアイスを食べる。
茜色に染まり始めた空を眺めながら……僕は写真を見て考えていたことを、ぽつりと口にした。
「なあ、蒼。僕、TSしようかな……」
蒼が、アイスを食べる手をぴたりと止めた。
視線が僕に突き刺さる。
「……本気で言ってるのか?」
「本気っていうか……なんか、そう考えたりもするってだけ。だって、考えてみろよ。僕みたいな凡人がさ? 男のまま大人になっても多分パッとしない人生を送るだけだ。でも、もしTSしたらさ? すごい美少女になるわけだろ?」
ちらりと蒼を見る。
「そしたらさ……全てが変わるかもしれないだろ? 別にそれで人生イージーモード、みたいなことは言わないけど」
写真の中の自分と蒼を比べて感じたあの劣等感。
それが僕にそう言わせていた。
蒼は何も言わず僕の話を真剣な顔で聞いていた。
「でもさ、今のままも嫌だってわけじゃないんだ。お前らとサッカーしたり、くだらない話で笑ったり。男の子のままでいてこの先もきっと楽しいことは一杯あるんだと思う。TSして女の子になるって、どんな感じなのかまだ全然想像もつかないし……怖いって気持ちもある」
そう。
これが僕の全てだった。
美少女への憧れと現状への愛着。変化への期待と、未知への恐怖。二つの感情が心の中で綱引きをして、僕は身動きが取れなくなっていた。
一通り話し終えると僕と蒼は黙りこくった。溶けたアイスがぽたりと地面に落ちる。
……やがて蒼が静かに口を開いた。
「陽太は……陽太が、一番どうしたいかが大事なんだよ」
「うん……」
「周りがどうとか、人生がどうとか、そういう難しいことじゃなくてさ。陽太自身が、鏡に映る自分を見て、『こっちでよかった』って笑えるのは、どっちだと思う?」
蒼の目が夕日を受けて僕を正面から見つめていた。
普段の蒼とは全然違っていた。
どこか必死な感じ。
僕の親友が真剣に悩みに向き合ってくれてる気がして僕は少しだけうれしかった。
「……分かんない。どっちの僕も、笑ってる姿が想像できるから。だから、困ってるんじゃんか」
僕が力なくそう答えると、蒼は「そっか」とだけ呟いて、寂しそうに少しだけ笑った。
僕たちの九歳の夏はこうして静かに始まろうとしていた。
僕が僕のままでいるか、あるいは全く新しい僕になるかを決める、人生でたった一度の夏。
そして、僕らの友情が全く違う形に変わるかもしれない、そんな運命の夏だった。