蒼に僕の悩みを打ち明けてから数日がたった。
僕の心は相変わらず揺れ続けていた。
性選の儀式の日は夏休みが終わる頃にやってくる。それまでに僕は人生を左右する大きな決断を下さなければならない。
考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになる気がした。
でも、そんな僕の個人的な葛藤などお構いなしに、夏の日差しは日ごとに強まっていった。
「陽太、ぼーっとしてないで、ちゃんと食べなさい。ハンバーグ、冷めちゃうわよ」
「あ、うん……」
「陽太、ぼーっとするな。食事中は食事に集中しなさい」
低いけれど心地よく響く声。
はっと顔を上げると、テーブルの向かいに座る父さんと目が合った。
歳は39のはずなのに、がっしりとした筋肉質の体は全く衰えを感じさせない。
会社帰りにジムに通っていて、その成果なのか厚い胸板と広い肩幅はシャツの上からでもはっきりと見て取れる。
そして丁寧に整えられた短髪に薄い髭の剃り跡がなんとも言えない大人の色気を醸し出している……ような気がする。
こんな人が、元は正美という名前の女の子だったなんて、何度聞いても信じられなかったし、なんなら今でもあまり信じていない。
「ごめん……」
「テレビに夢中だったのよ。今、Re:Birthの特集やってるから」
おヘソの見える肌露出の多いフリルたっぷりのミニスカ衣装がステージ上で華麗に舞って、稀有な水準の美少女たちが足を上げて妖艶に微笑んでいる。
父さんはテレビにちらりと視線をやると、ふっと口元を緩めた。
「すごい時代になったもんだな。俺の頃は、儀式でTSするなんて言ったら、一族の恥だとまで言う親戚もいた」
「あら、でもその反骨精神があったから、今のあなたがいるんじゃない?」
「はは、そうかもしれんね」
母さんの言葉に父さんはウイスキーグラスを傾けながら笑う。すごく渋い。僕の両親の二人は大学のテニスサークルで、父さんに母さんが猛アタックしたのだと聞いている。当時の父さんは女性から男性にTSしたので女性のだれもが振り返るほどの美青年だったらしい。
それでいて女性的な雰囲気も持ち合わせていた父さんの魅力に惹かれたのだと母さんはいつも言う。
「陽太」
父さんの射抜くような鋭い視線が僕に向けられた。
「お前、性択の儀式のことで悩んでいるんだろう?」
どきりとした。隠しているつもりはないけれど、この人に見透かされると、心の奥まで裸にされるような気分になる。
「……まあ、少しは」
「そうか。一つだけ言っておく。選ぶというのはな、陽太。何かを得て、何かを捨てる覚悟をすることだ。だが、捨てたものがお前の価値を無くすわけじゃない。それも全部お前の一部になるんだ」
父さんの言葉はいつも少しだけ難しい。
でも、経験に裏打ちされた重みがあった。
「父さんは後悔してないの? 女の子でいる人生を捨てたこと」
「後悔か。……ない、と言えば嘘になる。俺が捨てた『正子』という女の子が見たであろう景色を俺は永遠に見ることができないからな。だが、後悔はしていない。なぜなら俺は、『正一』として母さんと出会い、そしてお前が生まれた。この幸福と比べれば、あり得たかもしれない未来への感傷など、ちっぽけなものだ」
そう言って父さんは僕の頭を大きな手でわしわしと撫でた。
僕の髪の毛を乱す父さんの手のひらは分厚くて温かかった。
「どっちを選んでもお前はお前だ。俺と恵美のたった一人の自慢の子どもだ。胸を張って、自分の道を選びなさい」
父さんの言葉は僕の心にずしりと響いた。
でもそのあまりにも大きな期待が逆に僕を臆病にさせる。
◇◇◇◇◇◇
「──というわけで、性択の儀は皆さんが自分自身の『ありたい姿』と深く向き合うための非常に大切な機会です。決して人気投票や流行で決めるものではありません」
週に一度の保健体育の授業。
白衣を着た保健の先生が男女の体の変化が見える模型を指しながら淡々と説明していく。
神様の奇跡が起こすTSではなく、体の仕組みやホルモンといった科学的な視点で性別が変わったらどうなるのかが説明される。
保険の授業の度にカウンセリングを受けているような気分になる。僕だけじゃなくて多分みんなもうんざりしているだろう。
でも多分必要なことなのだ。
「なあ、陽太。今日の帰り、駅前のゲーセン寄ってかないか? 新作の格ゲー、入ったらしいぜ」
授業が終わった後、蒼が声をかけてきた。
僕の悩みを知ってから、蒼は以前にも増して僕を気にかけてくれている気がする。
「お、いいね、行く行く!」
僕たちは連れ立って、電車で二駅先の繁華街へと向かった。
駅ビルの中を通り抜けていると、巨大なデジタルサイネージ広告が目に飛び込んできた。新作スポーツブランドの広告で、そこに写っているモデルの経歴を僕は知っていた。
すらりと伸びたしなやかな脚で、美しくボールを蹴り上げる女性モデル。
彼女は10年、「神童」と呼ばれた天才サッカー少年だった。U-12のジュニア全国大会に九歳で出場して得点王に輝き、将来は日本代表を背負うとまで言われていたが、性択の儀式でTSすることを選択。サッカー界からは姿を消し、今はその抜群のスタイルを活かして、スポーツモデルとして活躍している。
「あの人、もし男の子のままだったら、今頃プロになってたかもな」
「……ああ。でも、彼女は今の生き方を選んだんだ。すごく、いい顔をしてる」
蒼は広告の中の彼女をじっと見つめていた。
僕らの住む日本では、こういう人生が大きく変わる人は決して珍しくなかった。
誰もが九歳の時にサッカー選手の未来を捨ててモデルになるような、そんな選択を迫られるのだ。
トイレの案内表示を見ても、「男性」「女性」のピクトグラムの隣に、半分青で半分赤の「オールジェンダー」を示すマークが当たり前のように並んでいる。
この社会は僕らが思う以上に多様な選択を受け入れる体制が出来上がっていた。
ゲームセンターで一時間ほど熱くなった後、僕らはビルの外に出た。すっかり日も傾き始めている。
「なあ、陽太。ちょっと、図書館に寄ってもいいか?」
「図書館? 珍しいな、お前がそんなこと言うなんて」
「調べたいことがあるんだ」
蒼に促されるまま、僕らは駅前の大きな市立図書館に入った。
蒼の目当てはすぐに見つかった。
二階の奥まった場所にある「進路相談コーナー」の、さらにその隣。そこには「性択の儀サポート」という札が掲げられた、専門の棚があったのだ。
『TSして見えた新しい世界』
『男として、父として生きるということ』
『儀式後のメンタルヘルス』
まるで自己啓発本のようなタイトルの本がずらりと並んでいる。
学校の続きみたいでタイトルだけで胸やけがしそうだ。
「もっと手軽なもの……」
僕は美少女になった元アイドルのフォトエッセイを手に取って、パラパラとページをめくった。
綺麗な写真とキラキラした言葉が並んでいる。
いいなあ、やっぱり。
こんな風になれたら毎日が楽しいだろうなと思う。
一方、蒼は僕とは全く違う棚を、鬼気迫るような真剣さで見ていた。彼の視線の先にある本のタイトルを、僕は盗み見る。
『多様化する家族の形』
『親友がTSを選んだ君へ』
『思春期の心と性別の自己認識』
『女になってまず起こる心の変化』
なんであんな難しい本、読んでんだろ……
少し不思議に思った。
あいつ、自分の選択はもう決まっているような口ぶりだったのに。
蒼は必死に情報をかき集めているように見えた。
──僕のためだろうか?
どこか僕はむず痒く感じた。
◇◇◇◇◇◇
図書館からの帰り道。
並んで歩く僕たちはどこか気まずかった。
しばらく黙ったまま僕たちは歩き続けた。
沈黙を破ったのは、蒼だった。
「陽太」
「……ん?」
「お前、本当に真剣に考えてるのか? 儀式のこと」
その声は、いつもより少し低く、非難するような響きを帯びていた。
「考えてるよ、ちゃんと。僕なりに」
「そうは見えない。図書館でもただアイドルの写真集を見てただけじゃないか。あれはお前の人生じゃない。お前はお前の人生を決めなきゃいけないんだぞ」
珍しく感情的な蒼の言葉に、僕は少しむっとした。
「わかってるって! でも考えたって答えが出ないんだから仕方ないだろ! どっちの未来も捨てがたいんだよ!」
「……ッ!」
蒼は何かを言いかけて唇を噛んだ。
それでも僕に伝えなきゃと思ったのか、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「俺は……ただ、陽太に後悔だけはしてほしくないんだ」
蒼の横顔はとても苦しそうに見えた。
僕はその時ようやく気づいた。
蒼は僕が思っている以上に、僕のことを心配してくれている。
僕の人生を自分のことのように真剣に考えてくれている。
「ごめん……いや、違うな。ありがと、蒼。心配してくれて」
僕がそう言うと蒼は少し驚いて、そして小さく笑う。
ああ、こいつは何も分かってないな
そんな声が彼の顔に書いてあるような気がしたけれど、僕は気づかないふりをした。
◇◇◇◇◇◇
その夜、僕は自分の部屋のベッドで天井を見つめながらずっと考えていた。
父さんや母さん、学校の先生、図書館の本。たくさんの情報やアドバイスはあるけれどどれも僕の心にはっきりと響いてこない。僕が本当に知りたいのは、もっと身近な、誰かの「生の声」だった。
その時、ふと一人の顔が思い浮かんだ。
父さんの弟、つまり叔父さんの息子で、僕の従兄弟にあたる拓也兄ちゃん。僕より七歳年上で、九歳の時の儀式でTSすることを選んだ。
だから今の名前は拓美姉さん。小さい頃はよく一緒に遊んだけど最近はなかなか会う機会がなかった。
そうだ、拓美姉ちゃんなら……
TSすることを選んだ人のリアルな体験談。
楽しかったことも、辛かったこと。
それを聞けば、僕のこの終わらない悩みにも、何かヒントが見つかるかもしれない。
◇◇◇◇◇◇
次の日、僕は学校で蒼にそのことを話した。
「なあ蒼、今度の週末、従姉妹の拓美姉ちゃんに話を聞きに行こうと思うんだ」
「……俺も行く。一緒に行っていいか?」
蒼の言葉には有無を言わせない迫力があった。
僕の決断に繋がりそうな情報を一つたりとも聞き逃したくない。そんな必死な思いが伝わってくる。
「お、おう。もちろんいいぜ! その方が僕も心強いし」
僕は笑顔で快諾した。
儀式の日まであと一ヶ月。
僕たちの九歳の夏はいよいよ大きく動き出そうとしていた。