幻想博打録カイジ 作:名もない石
まだまだカイジが本格的なギャンブルをするまでの道のりは遠いですが、確実に近づいてはいます!
それまでカイジがどのように紅魔館と向き合っていくのか、是非ご覧ください!
感想や評価も是非是非是非是非!!!!お願いします!泣いて喜びます!
※Xでの活動報告等も始めました!良ければご覧ください!
https://x.com/Noname_Ishi
「……立てるかしら? いつまでもそこで休まれていると廊下の美観を損ねるのだけれど」
咲夜の冷ややかな見下ろす視線にカイジは慌てて壁伝いに立ち上がった。
大図書館での極度の精神的緊張から解放されたのも束の間、今度はこの紅魔館で最も恐ろしい『実質的支配者』による直接指導が始まるのだ。
「す、すまねえ……。で、オレはこれから何をすればいいんだ……?」
窓拭きか床磨きかはたまた重い荷物の運搬か。どんな過酷な肉体労働を命じられるのかと身構えるカイジに対し、咲夜は小さく息を吐いて背を向けた。
「ついてきなさい」
連れられて来たのは厨房の奥にある広い作業室だった。そこには大きな長机が置かれており、その上には山のような──文字通り山のような食器が無造作に積まれていた。
スプーン、フォーク、ナイフ、ティーポットから大皿まで夥しい量である。
「これが今日から十五時以降のあなたの仕事よ」
咲夜はカイジの前に研磨用のペーストと数枚の柔らかいネル布を置いた。
「初日だしまずは基礎的なことから覚えてもらうわ。この食器たちを一つ残らず磨き上げなさい。チリ一つ、曇り一つ残すことは許されないわ。……できるわね?」
(なんだ食器磨きか……)
カイジは内心ホッと胸をなでおろした。
確かに量は多いが、ただ布に薬をつけて擦るだけの単純作業。大図書館での「本を傷つけたら死」という命懸けのトラップ地帯に比べればあまりにも安全で平和な仕事だ。
「任せてくれ。これでも昔、清掃のバイトとかで慣れてるからな。ピカピカにしてやるよ」
カイジが少しだけ余裕を取り戻したような顔でそう言うと、咲夜は「そう」とだけ短く返し、なんとカイジのすぐ隣の椅子に腰を下ろした。そして自分用の布と研磨剤を手に取る。
「私もここで今日の分のナイフの手入れをするわ。あなたのお手並み……隣でじっくりと見せてもらうわね」
その瞬間。カイジの背筋にツー……と冷たい汗が流れた。
(と、隣で監視しながらだと……!?)
ただの単純作業だと思っていた。だが状況が一変した。
この紅魔館のメイド長……一切の妥協を許さない完璧主義者の女が数十センチという至近距離で自分の作業を一挙手一投足に至るまで監視しているのだ。
これはもはやただの食器磨きではない。針の穴を通すような極限の『実技試験』。
「……さあ始めなさい。時間は有限よ」
「お、おう……!」
カイジは震える手で一本の銀のスプーンを手に取り布にペーストをつけて磨き始めた。キュッ、キュッ、という布が擦れる音が作業室に響く。
隣を見ると、咲夜は恐ろしいまでのスピードと正確さで愛用のナイフを磨き上げていた。その手の動きは滑らかで美しく全く無駄がない。瞬く間にナイフは鏡のように輝きを取り戻していく
(すげえ……。流石はプロってことか……!)
カイジも負けじと手を動かす。
単純な作業だ。擦れば光る、それだけのこと。
十分ほど懸命に磨き、カイジはスプーンを灯りに透かして見た。まあまあ綺麗になっただろう。初日にしては上出来だ。
「……十六夜さん、こんなもんでどうだ?」
カイジが少し自信ありげにスプーンを差し出すと、ナイフを磨いていた咲夜の手がピタリと止まった。
彼女はカイジの手からスプーンを奪い取るように受け取ると、冷たい氷のような視線でその表面を嘗め回すように検分した。
そして、ポイッ、と。
スプーンを未処理の山の中へと無情に放り投げた。
「……やり直し」
「なっ……!? なんでだよ! 結構綺麗に磨けてただろ!?」
「綺麗? あれのどこが? 柄の裏側に研磨剤の拭き残しがあったわ。それにすくう部分の真ん中にあなたの指紋によるわずかな曇りが残ってた。あんな曇ったスプーンでお嬢様に食事をさせるつもり? お嬢様の美しきお顔が歪んで映ってしまうじゃない」
咲夜の言葉は冷徹で、そして理路整然としていた。
「いいこと? 食器を磨くというのはただ光らせればいいというものではないの。自分の顔を映してみて毛穴の一つ一つまで歪みなく完璧な鏡のように反射する。そこまでやって初めて『磨き終えた』と言えるのよ」
「毛穴の一つまでって……そんな無茶な……!」
「無茶ではないわ、みんないつもやっていることよ。……それとも、あなたはその程度の仕事もできない無能だというのかしら?」
その見下すような絶対的強者の視線。カイジの胸の奥でカチンと火が点いた。
(クソっ……! たかが食器磨きだろ……! やってやろうじゃねえか……!)
カイジは別のスプーンを手に取り、今度はさらに力を込めてゴシゴシと力任せに磨き始めた。
早く完璧に仕上げてこの女を認めさせてやる。その焦りがカイジの手元を狂わせた。
「痛っ……!」
力を入れすぎたせいで布を持つ手が滑り、スプーンの縁で指を軽く切ってしまった。カチャッ、と音を立ててスプーンが机の上に落ちる。
「……何をやっているの」
咲夜の底冷えするようなため息。
「力を入れればいいというものではないわ。力任せに擦れば見えない無数の傷がついてかえって輝きを失う……それに研磨剤をつけすぎ。布の繊維に少しだけ馴染ませて優しく、そして確かな圧をかけて磨くの。……貸しなさい」
咲夜はカイジが落としたスプーンを手に取るとほんの少量の研磨剤を布に取り、流れるような手つきで磨いてみせた。
力は入っていないように見えるのに、スプーンはあっという間に眩いばかりの輝きを取り戻し鏡のように咲夜の端正な顔を映し出した。
「見てみなさい。これが『磨く』ということよ」
突きつけられた完璧な手本。圧倒的な技量の差。
カイジは己の未熟さを痛感させられぐうの音も出なかった。
(すげえ……。こいつ、マジでただのメイドじゃねえ……! 『プロ』だ……! 掃除や洗濯といった家事全般において一切の妥協を許さない極限のプロフェッショナル……!)
「……すまねえ。もう一回やらせてくれ」
カイジは素直に頭を下げ、再び新しいスプーンを手に取った。
今度は咲夜の動きを思い出しながら力を抜き、優しく、丁寧に磨いていく。だが頭で分かっていても長年の自堕落な生活で染み付いた『大雑把さ』はそう簡単には抜けない。
拭き残し。指紋の付着。力の入れすぎ。
カイジが磨き上げた食器を提示するたびに咲夜の容赦ないダメ出しが飛ぶ。
「……やり直し」
「……曇っているわ。やり直し」
「……まだ汚れがついてる。これもやり直し」
カイジの心は徐々に、しかし確実に削られていった。
(終わらねえ……! いつまで経ってもオッケーが出ねえ……!)
目の前に山積みになった未処理の食器。磨いても磨いても咲夜の厳しいチェックの前に弾かれ再び元の山へと戻されていく。まるで賽の河原で石を積むかのような終わりのない無間地獄。
単純作業だからこそ己の不甲斐なさが浮き彫りになる。
隣で涼しい顔をして何十本ものナイフを完璧に仕上げていく咲夜の存在が強烈なプレッシャーとなってカイジを押し潰す。
(クソっ……! オレはただの食器一つまともに磨けねえのか……!)
額から汗が滴り落ちる。指先は研磨剤で黒く汚れ、腕の筋肉が疲労で悲鳴を上げ始めた。カイジの顔に焦燥と絶望の色が濃く浮かび上がる。
そんなカイジの様子を咲夜は磨き上げられたナイフの刃越しに静かに、そして冷徹に観察していた。
* * *
それからきっちり一時間。作業室には布と銀が擦れる単調な音と、時折響く冷徹なダメ出しの声だけが響き渡っていた。
「……やり直し。柄の裏側に曇りが残っているわ」
「……力が入りすぎ。銀微細な傷がついているわよ。これもやり直し」
「……拭き取りが甘い。もう一度」
咲夜の審査はまさに針の穴を通すかのような精密さと厳格さを極めていた。
カイジの腕は既に悲鳴を通り越し感覚すら麻痺し始めていた。指先は研磨剤で更に真っ黒に汚れ、肩から背中にかけては鉛を背負わされたかのような重い痛みが走っている。
(終わらねえ……! 磨いても磨いてもこの女の基準に達しねえ……!)
何度心が折れそうになったか分からない。
帝愛の地下労働での岩盤割りとは違う。あれはただの肉体労働だったがこれは極限の『集中力』を要求される精神的拷問だ。
少しでも気を抜けばわずかな指紋や研磨剤の拭き残しが発生し、即座に咲夜の氷のような視線で弾き返される。
しかし、カイジもただ黙って削られていたわけではない。
数々の修羅場を潜り抜けてきた博徒としての『順応力』がこの極限状態の中で徐々に発揮され始めていた。
(……力の入れ具合じゃない……。布の繊維に研磨剤を馴染ませて撫でるように……光の反射角を利用して曇りを見極める……!)
怒られ、弾かれ、やり直す。
その
後半の三十分は明らかに咲夜から突き返される回数が減っていた。
そして、ついに。
カイジが最後の巨大なトレイを磨き上げ、震える手でそれを咲夜の前に差し出した。咲夜は磨き上げられた自身のナイフを置くと無言でそのトレイを受け取った。
トレイを傾け、窓から差し込む夕暮れの光に当てて表面の仕上がりを嘗め回すように検分する。
沈黙。永遠にも似た重く息苦しい数秒間。
ざわ… ざわ…
ざわ…
ざわ…
ざわ…
ざわ… ざわ…
ざわ… ざわ…
(どうだ……? 曇りはねえはずだ……傷もつけてねえ……! 頼むいってくれ……合格してくれッ……!)
極度の緊張で喉がカラカラに乾く。
やがて、咲夜は小さく息を吐くとトレイをコトリと机の上に置いた。
「……まあ、あくまで初日としては許容範囲内といったところね」
「おおおおおっ……!」
その瞬間、カイジの口から魂の底から絞り出したような安堵の息が漏れた。
やった。通った。認められた。
完璧とは言われなかったが、「許容範囲」という言葉が今のカイジにとってはどんな賛辞よりもありがたかった。
「はぁっ……はぁっ……! お、終わった……! 全部終わったぞ……!」
カイジは机に突っ伏すようにして荒い息を吐いた。両腕は完全にパンパンに張り詰め指先は小刻みに痙攣している。だがその疲労感の奥には確かな『達成感』があった。
壁に掛けられた豪奢な振り子時計が、ボーン、ボーンと重厚な音を立てる。
時刻はきっちり『十七時』を指していた。
「……何を一人で燃え尽きているのかしら。だらしない顔を見せないでちょうだい」
咲夜はカイジが磨き上げた食器たちを、慣れた手つきでクロスに包みながら冷ややかに言い放つ。
「たかが食器を一時間磨いたくらいで死にそうな顔をしないで。紅魔館のメイドたちはこれの三倍の量を半分の時間で終わらせるわ。あなたが今日やった仕事はあくまで『最低限のチュートリアル』よ」
「ぐっ……」
相変わらずの辛辣な言葉。だがカイジは言い返せなかった。
実際に咲夜はカイジがヒィヒィ言いながら食器を磨いている隣で、その何倍もの量の刃物や調理器具のメンテナンスを涼しい顔で終わらせていたからだ。圧倒的な力量差。
「……わかってる。でも今日はもうこれで……」
「ええ、食器磨きはこれで終わりよ……でも、あなたの今日の仕事が全て終わったわけじゃないわ」
「なっ……!?」
カイジは跳ね起きるように顔を上げた。
「まだあんのかよ!? もう十七時だぞ! 十九時の飯まで少しは休憩させてくれたって……!」
「休むのは全ての業務が終わってから。それがこの館のルールだと言ったはずよ」
咲夜は一切の甘えを許さない視線でカイジを射抜くと、立ち上がって作業室の扉へと向かった。
「ついてきなさい。……安心なさい、次は先ほどのように腕を酷使する仕事ではないわ。今日最後の比較的簡単な仕事よ」
その言葉にカイジは重い身体に鞭打ちながら渋々立ち上がった。
(比較的簡単、ね……。この女の言う『簡単』がどこまで信用できるか分かったもんじゃねえが……)
疑念と疲労を抱えながらもカイジは咲夜の背中を追って作業室を後にした。
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咲夜に連れられてやってきたのは紅魔館の西側に位置する長大な回廊だった。窓からは血のように赤い夕暮れの光が差し込み、真紅の絨毯をさらに深い色合いへと染め上げている。
咲夜は回廊の壁に等間隔に設置されている美しい細工が施された燭台を指さした。
「十七時を過ぎれば日没はすぐそこよ。お嬢様をはじめ、この館の住人たちが夜の活動を始める時間帯に入るわ。……あなたの最後の仕事はこの館の指定されたエリアの『ランプと燭台への点灯』よ」
咲夜はそう言うと、懐から銀色の小さなライターのような魔道具を取り出しカイジに手渡した。
「この点火器を芯に近づければ魔力で自動的に火が灯るわ。西棟の回廊から始まり一階のゲストルーム、そして大広間の周辺の燭台に全て火を点けて回りなさい。それが終われば今日のあなたの業務は終了よ」
「……火を点けて回るだけ?」
カイジは手渡された点火器を見つめながら拍子抜けしたように問い返した。
「ええ、歩いて火を点けて回るだけよ。……ただし、絶対に点け忘れがないようにすること。暗がりはお嬢様たちの好むところではあるけれど、真っ暗闇では美観を損ねるからね」
「……ああ、わかった。それくらいなら……」
カイジは内心、心の底から安堵のため息を漏らした。ただ歩いて火を点けて回るだけ。
先ほどの腕がちぎれるかと思った食器磨きや、命の危険を感じた大図書館の清掃に比べればまさに天国のような仕事だ。圧倒的僥倖。
「終わったら私のところへ報告に来なさい。……いいわね、絶対にサボったり関係のない部屋を覗き見たりしないこと。もし妙な気を起こせば……」
咲夜が目を細め静かな凄みを利かせる。その言葉の裏にある「明日はないと思いなさい」という暗黙の脅迫にカイジは慌てて首を縦に振った。
「わ、わかってる! 寄り道なんてしねえよ! さっさと終わらせて報告に行くからよ!」
「よろしい。では始めなさい」
咲夜がふっと姿を消すと回廊にはカイジ一人だけが残された。
カイジは点火器を握りしめ回廊を歩き始めた。カチャッ、と点火器のスイッチを押して燭台に近づけると、ポッ、と温かみのあるオレンジ色の炎が灯る。
一つ、また一つ。
等間隔に並んだ燭台に火を灯しながらカイジは静寂に包まれた紅魔館の廊下をゆっくりと進んでいく。肉体的な負荷が少ないこの単純作業はカイジの頭に『思考する余裕』を与えた。
揺らめく炎を見つめながら、カイジは今日一日のあまりにも濃密だった出来事を反芻していた。
(理不尽な拉致から始まって……吸血鬼の館での強制労働。十六夜さんのあの血も涙もねえ監視とシゴキ……。まさに踏んだり蹴ったりだ……)
だが、とカイジは思う。
(……それでも、帝愛の地下労働に比べりゃずっと『人間らしい』生活だ……)
地下でのあのペリカを巡る醜い争い、チンチロリンでの裏切り。それに比べれば咲夜の指導は確かに鬼のように厳しいがそこには『悪意』はなかった。
彼女はただメイド長としての完璧な仕事を求めているだけだ。不正や裏切りで人を陥れるようなあの悪魔的な黒服たちとは根本的に違う。
きちんと仕事をこなしさえすれば理不尽な暴力は振るわれない。豪華な三食が支給され、清潔なベッドで眠ることができる。
そして何より、あの食堂の妖精たちのように自分を気にかけてくれる『仲間』がいる。
(悪くねえ。……いや、むしろ……破格の好待遇じゃねえか……)
カイジは、ポッ、と次の燭台に火を灯しながら自然と口元に笑みを浮かべていた。腕はまだ酷く痛むし精神的にも疲労困憊だ。だが不思議と心は軽かった。
明日もまたあの過酷な食器磨きや掃除が待っているのだろう。だがそれを乗り越えればまたあの温かい夕食にありつける。
そして、いつか八雲紫と交渉するチャンスが与えられるのだ。
「……やってやるさ。どんな無理難題でもこのオレが完璧にこなして……あのすまし顔のメイド長に文句一つ言わせねえようにしてやる……!」
カイジは誰に言うでもなく力強くそう呟いた。
夕闇が完全に紅魔館を包み込み、カイジが灯した無数のランプの炎が赤い絨毯の敷かれた廊下を幻想的に照らし出している。
ㅤㅤㅤㅤㅤNowLoading…
それからおよそ一ヶ月という月日が流れた。
紅魔館という常識も物理法則も通用しない異界の館での労働。それはカイジにとってまさに『血を吐くような』という形容が相応しい過酷にして濃密な三十日間だった。
咲夜からの指導は初日の食器磨きなど単なる小手調べに過ぎなかったことをカイジは嫌というほど思い知らされることになった。
広大な館内の清掃、重い荷物の運搬、時には得体の知れない魔法薬の材料(それが生きていることもあった)の仕分けまで。
次から次へと押し寄せる息をつく暇もない業務の波。そしてその全てにおいて咲夜は『完璧』を要求してきた。
少しでも埃が残っていれば「やり直し」。指定された時間から一分でも遅れれば氷のような視線と共に飛んでくる容赦のない罵倒。
「ふざけんなっ……! オレは機械じゃねえんだぞ! こんな殺人的なスケジュール、こなせるわけがねえだろ!」
「うるせえ! たかが数ミリのズレでガタガタ言うな!」
慣れない仕事の連続とあまりにも高い要求水準に、カイジは何度となく不満を爆発させ咲夜に噛み付いた。
時にはモップを床に叩きつけ、こんな奴隷船のような館など今すぐ逃げ出してやると本気で荷物をまとめようとした夜もあった。
だが……。
それでもカイジは結局のところ逃げ出さなかった。
なんだかんだと悪態をつき文句を垂れ流しながらも、与えられた仕事を泥臭く這いつくばるようにしてこなし続けたのだ。
なぜならこの過酷な労働の対価として与えられる『報酬』がカイジにとってあまりにも大きかったからだ。
毎食食堂で支給される妖精メイドたちが作る極上の料理。
労働の汗を洗い流す広々とした清潔な大浴場。
そして何より一日の終わりに倒れ込むふかふかのベッドが用意された個室。
月末には約束通りにずっしりと重い『給金』が支払われた。
(帝愛の地下労働に比べりゃここは天国だ。……文句を言うだけ贅沢ってもんだ……)
カイジは己の内に巣食う怠惰な心をその事実で何度もねじ伏せた。
それにあのライラやセレス、リノンといった妖精メイドたち、そして小さなユーナが不器用ながらも必死に働くカイジを何かと気遣ってくれたことも彼の心を繋ぎ止める大きな要因となっていた。
そうして不格好に、しかし確かな執念を持って食らいつき……。
カイジはついにこの狂気の館での『最初の一ヶ月』を見事にやり通して見せたのである。
その日の夜。
全ての業務を終え、自室のベッドにどさりと横たわったカイジは天井の豪奢な模様をぼんやりと見つめながら静かに息を吐いた。
「ハァ……終わった……。とりあえず一ヶ月……生き延びたぞ……」
身体中の筋肉が悲鳴を上げている。手にはマメができ、執事服の着こなしもすっかり板についてきた。
カイジは自分自身の『適応力』に我ながら呆れると同時に深い安堵感を覚えていた。
柔らかなシーツの感触を背中に感じながらカイジの思考はこの一ヶ月の間に起きた出来事、そして『起きなかった出来事』へとゆっくりと向かっていった。
(あの吸血鬼……レミリアからの『干渉』が驚くほど無かったな……)
それがカイジにとってこの一ヶ月における最大の『予想外』であった。
そもそも自分がこの紅魔館に引き抜かれた理由は、「運命が見えないから近くに置いて観察したい」というレミリアの傲慢で気まぐれな娯楽のためだったはずだ。
だからこそカイジは働き始めたら毎日のように呼び出され、奇妙なゲームに巻き込まれたり理不尽な命令で弄ばれたりするのだろうと常に神経を尖らせていた。
だが、現実は全く違った。
レミリアからの直接的な接触は皆無に等しかったのだ。もちろん同じ館に住み清掃などで大広間に出入りしている以上、顔を合わせる機会はある。
しかし、その時に交わされるのは、「ごきげんようカイジ。仕事には慣れたかしら?」といった形ばかりの挨拶や短い近況を尋ねられる程度。
カイジが「ええ、まあ、なんとか」とそっけなく返せばレミリアも「そう、精々励みなさい」と優雅に微笑み、それ以上踏み込んでくることはなかった。
(……拍子抜けだぜ。……まあ観察するって言っても四六時中監視してるわけじゃねえってことか。あるいはただの掃除や雑用をしてるオレの姿を見ても大して面白くねえってことかもしれないがな……)
レミリアだけではない。他の住人たちとの関係も驚くほど希薄だった。
大図書館の主であるパチュリーは相変わらずカイジに対して微塵も興味を示さなかった。ユーナの補佐として大図書館の清掃に入っても彼女は本から目を離すことなく、「そこの埃を払っておいて」「その本には触らないで」と、必要最低限の業務指示を機械的に飛ばしてくるだけ。そこには会話のキャッチボールなど存在しない。
門番の美鈴に至ってはそもそも『門番』と『館内清掃』という仕事の領域が全く重ならないため館内で偶然すれ違う程度。
すれ違いざまに「あ、お疲れ様ですー!」と能天気に手を振られることはあっても立ち止まって長話をするような機会は一度もなかった。
そうなるとこの一ヶ月間でカイジが一番言葉を交わした相手は必然的にメイド長である咲夜ということになる。
しかしその咲夜との会話も九割方は「あそこが汚れているわ」「手順が遅い」「もっと効率よく動きなさい」といった血も涙もない仕事の指示とダメ出しばかりであった。
一見すればそれはひどく孤独で寒々しい人間関係に思えるかもしれない。
だが。
(これでいい……いや、これがいいんだ……!)
ベッドの上でカイジは一人満足げに口の端を吊り上げた。
そう、カイジにとってはこの『乾ききった関係性』こそが何よりもありがたかったのだ。
貴族の真似事をして上流階級のティーパーティーに付き合わされたり、心にもないお世辞を並べて機嫌を取ったりするような真似はカイジの性分に最も合わない。
仲良しこよしで馴れ合い、表面上だけの絆を築くことも、過去の裏切りに満ちた人生を歩んできたカイジにとってはただ煩わしいだけの『ノイズ』でしかなかった。
(仕事は仕事、雇い主と従業員。それ以上の感情も干渉もねえ……シンプルで実に合理的だ。余計な神経を使わなくて済む)
この紅魔館の住人たちはそれぞれが確固たる己の領域を持ち他者に無闇に踏み込まない。冷たいようだが、そのドライな距離感はカイジに奇妙な居心地の良さを提供していた。
(……まあ、あの吸血鬼が本当に何企んでるか分からねえってのは心懸かりではあるがな)
レミリアのあの意味深な笑み、運命を観察するという言葉。それが完全に嘘だとは思えない。いつか突然牙を剥いてくる日が来るかもしれないという警戒心は常に心の奥底に燻っている。
(だが……今のところは安全圏だ。このまま波風立てず与えられた仕事をこなしてりゃあ……いつか八雲紫と交渉する切符は確実に手に入る……!)
カイジは暗闇の中でギュッと拳を握りしめた。
見えない運命の糸がどう絡まっていようと知ったことか。今はただ、この狂気と静寂の入り混じる館で息を潜めて『時』を待つ。
「上等だ。悪くねえ夜だぜ……」
カイジは誰に言うでもなく小さく呟くと、疲労に包まれた身体をシーツに沈め、深い、深い眠りへと落ちていった。
幻想郷での一ヶ月目の夜は、こうして静かに更けていくのだった。
お読みいただきありがとうございました!
ちなみになんですけど、一話を動画化(茶番劇みたい感じで)しようと思って作ってたんですけど、難しくて断念しました……
誰か作ってくれる方いたりしないかな…(他力本願)
この小説の動画化(とりあえず一話だけ)について
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見てみたい!
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それよりも小説の続き!
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作ってあげようか?(XでDM待ってます)