幻想博打録カイジ 作:名もない石
今回は少し話が長いかもしれませんが、どうぞお楽しみください!
ルーミアは春風に舞う花びらのように、重力を無視して宙をくるくると回りながらこの『幻想郷』の不思議について語り始めた。
その声は鈴の音色のように澄んでいて、カイジの恐怖で張り詰めていた心を少しずつほどいていく。
人間と妖怪が奇跡的に共存しているというこの狂った世界のこと。
時折、カイジのように外の世界から迷子として紛れ込む者がいること。
そして──『
カイジは腕を組み、まるで己の人生すべてを賭けた商談を控える実業家のような切実な面持ちで耳を傾けていた。
「……なるほどな。帰れる可能性はゼロじゃねぇ……ってことか」
圧倒的絶望の海に漂っていた彼の胸に小さな灯火がともる。微かだが確かな希望の光だった。
だが、その時──。
ルーミアが突然、恥ずかしがる乙女のように人差し指をツンツンと突き合わせ、まるで告白前の少女のように俯いた。
その仕草はまさに純真無垢な子供そのものだった。
「……あのね、カイジ」
「ん? どうした?」
「……私、カイジを助けたのだー」
カイジは一瞬呆然とした後、慌てて深々と頭を下げる。
「お、おう……! 本当にありがとう! 君は間違いなくオレの命の恩人だ……!」
だが、ルーミアは薔薇色に染まった頬をさらに紅潮させ、瞳を泳がせながらもじもじと宙で身体を揺らしている。
まるでとっておきの秘密を打ち明けるのを躊躇っているかのように。
「……? まだ何かあるのか……?」
その愛らしい仕草を目にした瞬間、カイジの勝負師としての直感が脳裏にどす黒い暗雲のような予感を立ち込ませた。
──まさか、命を救った見返りを求めているのか……?
慌ててポケットの財布を確認するが、そこには哀愁漂う小銭が数枚転がっているだけ。まるで彼の人生そのもののように心もとない有り様だった。
「……悪いなルーミアちゃん。今のオレ、金なんて雀の涙ほども持ってねぇんだ……」
するとルーミアはまるで花が一斉に咲き誇るようにパッと顔を上げた。
林檎のように赤く染まった頬を輝かせ、期待に満ちた無邪気な瞳でまっすぐにカイジを指差す。
「お金なんていらないのだー。お礼はね……カイジでいいのだー!」
「……っ!?!?!?」
──オレ……!?
カイジの顔に夕焼けのような真紅の血が一気に上る。心臓が祭りの太鼓のように激しく鳴り響いた。
(おいおいおい……そういう意味か!? 確かにルーミアちゃんは天使のように可愛い……が、どう見ても純真無垢な幼女だろ! いやいやいや、それはさすがに人として……アウトっ……! 圧倒的犯罪っ……!)
頭の中で理性と欲望と致命的な勘違いがまるで嵐の海のようにぐちゃぐちゃと渦巻く。道徳心と男性的本能が激しく衝突し、カイジの思考回路は完全にショートしかけていた。
だが、次の瞬間──。
ルーミアは天真爛漫な笑顔を浮かべ、まるで無邪気な幼子が「遊ぼうよ」と誘うかのようなこの上なく愛らしい声で口を開いた。
──カイジは食べてもいい人間?
ざわ… ざわ…
ざわ…
ざわ…
ざわ…
ざわ… ざわ…
ざわ… ざわ…
瞬間、カイジの背筋を北極の氷風が駆け抜けた。全身の毛穴が針山のように総立ちになり、ドッと嫌な汗が吹き出す。
まるで死神が首筋に冷たい鎌をそっと押し当てたような戦慄。
(た、食べる……!? そうだ……そういうことか……! コイツ、自分で『妖怪』って言ったじゃねぇか……! 恋愛感情なんかじゃねぇ……! 食事としてオレの肉を……!?)
血の気が音速で引いていく。先ほどまでの甘い誤解が一転して悪夢のような現実に変貌した。
カイジは奥歯をカスタネットのようにガチガチと震わせながら、まるで処刑台から逃れるように必死に後ずさった。
「お、おい……待て……ルーミアちゃん……その、"食べる"ってのは……まさか……」
ルーミアは無垢な子供のようにニッコリ微笑み、真珠のような白い歯を覗かせながら──天使の皮を被った悪魔のような無邪気さで大きく頷いた。
「うん! 人間は美味しいのだー! 生肉はサイコーなのだー!」
その言葉は紛れもない死刑宣告。驚愕で全身が石と化したカイジは溺れる者が藁を掴むように必死に言葉を紡ぎ始めた。
「ま、待ってくれルーミアちゃん! オレを食べちゃいけない! ダメだっ……!」
声は裏返り、喉は砂漠のように乾ききっている。
しかし彼の魂からの命乞いも虚しく、ルーミアの表情からは無邪気な狂気が消えることはない。
まるで美食家が最高のフルコースを前にしたときのような恍惚とした笑み。彼女はじわり、じわりと空を滑るように距離を縮めてくる。
その瞬間、カイジの脳裏に氷のような認識が走った。
──今だからこそ、ハッキリと分かる。
ルーミアの澄んだ瞳の奥に宿るどす黒い光は、先ほどの『毛玉の化け物』が見せたものと本質的にまったく同じだったのだ。
獲物を前にした絶対的捕食者の眼光。違いがあるとすれば彼女が人語を解し、対話の可能性を残しているという一点のみ……!
そうだ──話はできるじゃないか!
絶望の淵でカイジの『勝負師』としての本能が爆発する。
これまで数々の修羅場、利根川や兵藤との死闘で培った極限の交渉術。そして最後の最後まで絶対に諦めない執念。
それらすべてを総動員し、己の命をチップにした大博打を打つ時だった。
慌ただしく上着のポケットを探ると指先が小さく硬い物体に触れた。確か昨夜、坂崎の家を出る前に何となく突っ込んだ飴玉が一つ。
まるで運命の女神が残してくれた最後の切り札のようにそこに眠っていた。
カイジは震える手でその飴玉を取り出し、まるで数億円のダイヤでも扱うように大切に掌に乗せた。透明な包装紙に包まれたそれは薄暗い森の中でささやかに光を反射している。
「……ル、ルーミアちゃんっ……これを見てくれ……!」
声は相変わらず震えていたが、そこには勝負師としての決意が込められていた。
「オレの事を食べなければ──この『特別な甘い玉』をやる! 」
ピタリ。
ルーミアの動きが微かに止まった。人間を食べるという食欲より未知の物品への好奇心が一瞬でも上回った瞬間。
カイジは息つく暇もなく続ける。人生最大の文字通り命懸けのプレゼン。言葉に魂を込めて叫ぶ。
「それだけじゃない! これからルーミアちゃんにこれと同じような甘いお菓子を作って毎日渡してやる! 約束する!」
ルーミアの瞳がまるで子供が新しい玩具を見つけたときのように輝いた。
しかし、まだ完全に心を動かすには至っていない。天秤の上で「人間の生肉」と「未知の甘味」がギリギリのバランスで揺れ動いているのが手に取るようにわかった。
──あと一押しだ!
カイジの頭脳がフル回転する。勝負師としての嗅覚が勝機の匂いを察知していた。
「それに加えて──」
カイジは最後の切り札を切る。ポーカーで手持ちの全チップをオールインするように。
「現代日本の美味しい『極上料理』を作って振舞ってやる! ルーミアちゃんが今まで味わったことのないようなとびきり美味い料理をなっ……!」
その言葉にルーミアの目が大きく見開かれた。未知への圧倒的好奇心が原始的な食欲を完全に凌駕した瞬間だった。
しばしの沈黙。
森の静寂の中でカイジの心臓だけがドッドッドッと破裂しそうなほど鳴り響いている。
ルーミアは首を傾け、まるで高度な数学問題を解くような真剣な表情で何かを考えていた。
そして──。
「……仕方ないなー」
まるで大人に説得されて渋々納得した子供のようにルーミアはそう呟いた。
あの背筋の凍るような狂気的な高揚感は潮が引くように消え去り、元の無邪気な少女の表情へと戻っていく。
カイジは安堵で膝から崩れ落ちそうになった。全身から力が抜け、長距離を走り終えたランナーのように荒い息を吐く。
──やった……生き延びた……!
飴玉一つと料理の約束で命という最も貴重な賭けに勝利したのだ。
この瞬間、カイジは改めて実感した。交渉とは時としてどんなギャンブルよりも過酷で、そして尊い勝負なのだと。
「じゃ、じゃあ……約束通り……これをやる」
カイジは雨に打たれた小鳥のように震える手でその小さな飴玉をルーミアに差し出した。
ルーミアは天使のような笑顔を浮かべて両手を伸ばし、それを大切に掌に包んだ。
「わーい! 早速食べるのだー!」
そのまま勢いよく口へと運ぼうとする──透明な包装紙ごとそのままの状態で。
「お、おい待て待て待てっ!」
カイジは電撃に打たれたように慌てて手を伸ばし彼女の動きを制止した。
「そ、そのままじゃ食えねぇ! 外の紙を剥がしてからだ!」
「ふぇ……? 紙?」
ルーミアは子犬のように首を傾げ手の中の飴玉をまじまじと眺める。しばらく首を捻った後、器用に透明な包装を剥いていく。
すると中からまるで朝日に照らされたルビーのような鮮やかな赤色の飴玉がころりと姿を現した。
「おぉ……美しいのだー……」
その輝きに魅入られるようにルーミアの瞳が宝石のようにきらめく。
「それを口に含んで舐めるんだ。噛み砕くんじゃなくて、ゆっくりと……味わいを楽しむものなんだよ」
「ふむふむ……そういうものなのかー……」
言われた通りルーミアは慎重に飴玉を口の中へ。
そして舌の上でまるで貴重な宝物を転がすようにコロコロと動かした。
──次の瞬間。
彼女の表情がまるで花火が夜空に開いたように、ぱぁっと眩いばかりに輝いた。
「……! 美味しいっ!! すっごく甘くて……頬っぺたがとろけて空に飛んでいきそうなのだー!」
両手で薔薇色に染まった頬を押さえ、瞳を潤ませながら全身で感動を表現するルーミア。
その姿は先ほどまでの肉食の本能を剥き出しにした化け物とはまるで別世界の住人だった。
カイジは呆然とその光景を見つめながら、思考を巡らせる。
(……イチゴ味だ。数十円で買えるありふれたイチゴ味の飴玉。それがこの異世界の妖怪をここまで歓喜させるのか……)
疑問は尽きないが、理屈を超越した現実がそこにあった。
先ほどまで命の危機に晒されていたカイジは、今やその飴玉を味わうルーミアの天真爛漫な笑顔を前にして不思議な安堵感に包まれていた。
──甘さが運んでくれた、奇跡のような平和。
* * *
ルーミアは飴玉を最後まで舐めきると、満足げに無邪気な笑顔を咲かせた。
「ふふー……おいしかったのだー!」
(……いや待てよ。飴玉ひとつで腹がふくれるわけねぇだろ、人間の子供だって無理だ。だがまぁ、そこはあえて突っ込まねぇ方が賢明か……寝た子を起こすような真似はご免だ)
カイジは内心で苦い笑いを浮かべながらわざとらしく「ゴホン」と咳払いをした。
「なぁ、ルーミアちゃん。さっき言ってただろ。人間の里が近くにあるって」
「うん! あるのだー!」
「……そこに連れてってもらえねぇか?」
その問いかけの裏でカイジの胸中では焦燥が渦巻いていた。
もうこの理解不能な狂った森で一人途方に暮れるのは御免だ。同じ人間が暮らしている安心できる場所に辿り着きたい。
ルーミアは少し思案する素振りを見せた後、パンと手を叩き太陽のような笑顔で答えた。
「いいのだー! じゃあカイジを人里まで案内するのだ! こっちについてくるのだー!」
嬉々として歩き始めるルーミア。その小さな背中を見つめながらカイジは胸に溜まっていた重い空気を大きく吐き出した。
(……助かった。とりあえず俺と同じ"人間"が生きている場所に辿り着ける……はずだ……)
──しかし、予想以上に長い道程だった。緑の壁に囲まれたような閉塞感が絶えずカイジの神経を圧迫する。
「……はぁ、はぁ……ルーミアちゃん……本当にまだなのか……?」
「ふふん! もうすぐなのだー! カイジ、がんばれー!」
振り返ったルーミアの表情には疲れの色など微塵もない。
その能天気さを恨めしく思いながらも、カイジは重い足を引きずるようにして少女の後を追い続けた。
そして──ついにその時が訪れた。
「……着いたのだー!」
ルーミアがぱっと振り返り誇らしげに前方を指差した。カイジは息を整えながらその指先の方向に視線を向ける。
次の瞬間──彼の目の前に広がった光景に思わず息が喉の奥で詰まった。
瓦屋根の家々が整然と軒を連ね、踏み固められた土の道には様々な人々が行き交っている。
藍染めの着物に身を包んだ女性、威厳ある紋付を纏った男性、背中に重い荷物を担いで黙々と歩く農民たち。
道端では無邪気な子どもたちが竹の棒を振り回し笑い声を響かせながら駆け回っている。
「……な、なんだ……こりゃあ……」
驚愕と困惑が入り混じった声がカイジの口から漏れた。
それは彼の知る"現代日本"とは完全にかけ離れたまるで別次元の景色。
テレビの時代劇で見たような光景、歴史の授業で目にした江戸や明治の町並み──それらが現実となって息づいているかのように目の前に展開されていた。
「……ここが……人里、なのか……」
信じられない。いや、信じたくない。
しかし、鼻腔をくすぐる炊き出しの香ばしい匂い、古い家屋の木材がきしむ音色……その全てが紛れもない"現実"としてカイジの五感に暴力的なまでに訴えかけてくる。
「どうだカイジ! すごいのだー!」
ルーミアが誇らしげに言い放つ。カイジは乾いた苦い笑いを喉の奥で転がした。
「す、すごいってレベルじゃねぇよ……これ。マジで……一体どうなってんだよこの世界は……」
圧倒的カルチャーショックに頭を抱え込みたい衝動に駆られながらもカイジは悟った。
森の中での恐怖などこの狂った異世界『幻想郷』におけるほんの序章に過ぎなかったのだと──。
カイジは深く息を整えると改めてルーミアに向かって頭を下げた。
先ほどは食べられそうになったとはいえ、結果的に命を救われこうして人里まで案内してくれたのだ。感謝の念が胸の奥から込み上げてくる。
「本当にありがとな。ここまで連れてきてくれて……」
その声には心からの謝意と共にかすかな安堵が込められていた。
ルーミアはぱっと太陽のような明るい笑顔を浮かべる。
「お安い御用なのだー!」
その屈託のない無邪気さにカイジの張り詰めていた心が少しだけ和らぐ。
だが同時に、彼の思考は既に次の一歩へと向かっていた。この時代錯誤な異世界で一体どうやって生きていけばいいのか──その重すぎる現実と向き合わなければならない。
するとルーミアが突然「あ、そうだ!」と手を叩き明るい声を上げた。
「折角だから、けーねに会いに行くのだー!」
「けーね……? そいつは誰だ?」
「寺子屋で先生をしている人なのだー。外から来た人間を助けてるらしいし、カイジの力になってくれるかもしれないのだ!」
「外から来た人間……!」
その一言がカイジの心に稲妻のような衝撃を与えた。
表情がぱっと明るくなり、絶望の底に沈みかけていた心に一筋の光明が差し込む。その淡い期待が胸の奥底で静かに膨らんでいく。
「本当か……! だったらぜひ会わせてくれ!」
「まかせろなのだー!」
ルーミアは嬉しそうに鼻歌を口ずさみながら歩き出す。
その軽やかな背中に励まされるようにカイジも希望という名の灯火を胸に宿し、急いで後を追った。
──しかし。
人里の土の小径を進むうちに、カイジは次第に肌を刺すような妙な違和感に気づき始めた。通りすがる人々の視線がまるで氷の針のように自分たちに突き刺さってくるのだ。
「……おいあれ、人喰い妖怪じゃねぇか」
「また人里に来てるぞ……!」
「連れの男……騙されて喰われるんじゃないのか?」
「いや…あの見慣れぬ身なりの男も妖怪の類かもしれないぞ……関わるな」
押し殺したような囁き声。あからさまな警戒と嫌悪の眼差し。
幼い子どもを抱えた母親は慌てたように道の端へと身を寄せ、皺深い老人は露骨に眉根を寄せて不快感を示す。
商人らしき男は足早に通り過ぎ、若い女性たちはひそひそと何事かを囁き合っている。
カイジの拳が知らず知らずのうちにわなわなと震え始めた。
(チッ……なんだよコイツら……! 俺まで胡散臭ぇ目で見やがって……! この子がいなきゃオレはとっくに森で別の化け物の餌になってたってのによ……!)
腹の底から煮えたぎるような苛立ちが湧き上がってくる。
借金取りや同類の底辺の博徒たちからゴミを見るような目で見下されることにはとうの昔に慣れている。
だが──。
自分のことを一度は食べようとしたとはいえ結果として助け、無邪気に案内してくれているこの小さな少女までもがこんな風に露骨に罵られ、忌み嫌われているのを目の当たりにするのはどうにも胸糞が悪かった。
一方のルーミアは周囲の冷たい視線など全く意に介する様子もなく、相変わらず鼻歌を口ずさみながら軽やかに歩き続けている。
「ふんふーん、ふふふーん♪」
その無邪気なメロディーがかえって周囲の敵意を際立たせているようにも思える。
(……聞こえてねぇのか……? それとも、もう慣れっこになっちまって気にしてねぇのか……?)
カイジは胸の奥に複雑な感情を抱えながら少女の小さな背中を見つめ続けていた。その背中はあまりにも無防備で、それゆえに痛々しく見えた。
やがてルーミアが急に足を止め、弾むような声を上げながら前方を指差した。
「ここだよ、カイジ!」
カイジが視線を向けると、そこには木造の質素な建物がひっそりと佇んでいた。
周囲の喧騒から隔絶されたかのような静謐な空気を纏い、どこか懐かしい郷愁を誘う雰囲気を漂わせている。風雨に晒され続けた木材の深い色合いが時の流れと共に刻まれた歴史の重みを物語っていた。
ルーミアは迷いなくその戸口へと駆け寄ると、大きく息を吸い込んで声を張り上げた。
「けーねー! いるのだー?」
静寂に包まれた里に響くその屈託のない叫び声にカイジは思わず肩をすくめる。
しばらくの静寂の後、古い木の扉が年季の入った蝶番で軋む音を立てながらゆっくりと内側へと開かれた。
そこに現れたのは一人の女性だった。
青みがかった絹のような長髪が微風に揺らめき、雪のように白い肌は陶磁器のごとく透き通るような美しさを湛えている。深青の服に身を包んだその姿はどこか古典的な雅やかさを感じさせた。
知性の光を宿した落ち着いた眼差しには人の心を見透かすような鋭さと、同時に子どもたちを慈しむような温かい優しさが不思議に同居している。
頭に載せた独特の四角い帽子が一層の神秘性を醸し出していた。
彼女こそが、
「……ルーミア。また一人で里に来たのか?」
その声には心配の色が滲み、まるで年上の姉が妹を案じるような優しい響きが込められていた。
慧音の問いかけにルーミアは小さな胸を誇らしげに張って無邪気に笑う。
「違うのだー! 今日はカイジと一緒なのだー!」
カイジと慧音の視線が空中で静かに交差する。
その瞬間、カイジの胸がどくりと高鳴った。
数々の修羅場を潜り抜けてきた男だが、これほどまでに清廉で美しく知性を感じさせる女性に真っ直ぐ見つめられることなど彼の泥に塗れた人生には無かったことだ。
「……え、えっと…オレは伊藤開司です。気付いたら何故かこの世界に迷い込んでしまって……」
カイジは慌てたように頭を下げながら精一杯の自己紹介を試みる。
慧音はしばし黙ったままカイジの姿を静かに見つめ、やがて穏やかに頷いた。
「初めまして、伊藤さん。私は上白沢慧音。この寺子屋で子どもたちに勉学を教えている者です」
その声は深い湖のように落ち着いていて、それでいてどこか母性的な包容力を感じさせる柔らかさを持っていた。
まるで疲れ切った旅人を温かく迎え入れるような安らぎに満ちた響き。
カイジはようやく"まともに対話できる良識ある大人"に出会えたのだという圧倒的安堵感が胸の奥深くから湧き上がってくるのを感じていた。
「立ち話も何ですし、中へどうぞ」
「わーい!」
ルーミアが弾むような声を上げて中へと駆け込んでいく。カイジも「失礼します」と丁寧に口にしながら寺子屋の敷居を跨いだ。
内部は木造建築特有の温かみに満ちた造りで年季の入った机と椅子が整然と並んでいる。
まるで時代劇のセットのような懐かしい風情と、ここで日々学ぶ子どもたちの生きた息遣いが空間全体に温かな生命力を与えていた。
「生徒用の小さな椅子しかありませんが……どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
カイジはぎしりと古い木材が軋む音を立てる小さな椅子にやや窮屈そうに腰を下ろした。
慧音はルーミアにも適当な席を勧めた後、表情を少し改めて真剣さを湛えた眼差しでカイジの目をまっすぐに見つめる。
「伊藤さん。あなたはどうやってこの幻想郷に来ることになったのか……その経緯を覚えていらっしゃいますか?」
その静かで落ち着いた問いに、カイジは苦渋に満ちた表情を浮かべながらも自分の記憶に残る限りの出来事を包み隠すことなく話し始めた。
あの安アパートの前の道で金髪の不気味な女に声をかけられたこと。空間が裂け、無数の瞳に睨まれながら吸い込まれたこと。気づけば森にいて毛玉の化け物に襲われ、ルーミアに助けられたこと──。
慧音は終始無言のまま深い集中力を持って耳を傾けていた。
しかし、カイジの話が終わりに近づくにつれ、その美しい顔に次第に険しい憂いの影が差していく。
「……恐らく、ここに来た原因は『八雲紫』の仕業でしょう」
慧音の口から発せられた名前にはどこか畏怖にも似た重みが込められていた。
「……八雲紫。そいつは一体何者なんですか?」
カイジが眉をひそめて問い返す。
慧音はしばし沈黙を保った後、まるで恐ろしいおとぎ話を語り聞かせるかのようにゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「彼女は"賢者"の異名を持つ、この幻想郷における最古参の大妖怪の一人です。想像を絶するほど強大な力を有し……そして、極めて気まぐれで予測不可能な性格をしています。何を思い、何を目的として行動しているのか……我々のような存在には到底計り知ることのできない謎に満ちた存在です」
──ざわ……!
その説明を聞いたカイジは思わず息を呑んだ。胸の奥に得体の知れない不安がじわりと広がっていく。
自分はそんな、帝愛グループの総帥・
「……じゃあ、つまり……オレはそいつに理由も分からないまま勝手にここに連れてこられたってことですか?」
「その可能性が極めて高いと思われます」
慧音は憂いを湛えた眼差しで静かに頷いた。
「紫は"境界"を操る妖怪です。空間と空間の狭間を自在に繋ぎ合わせ、次元を超えて行き来することができる。外の世界から人間を呼び寄せることなど彼女にとっては朝飯前の行為に過ぎないのです」
カイジは内に秘めた苛立ちを抑えきれず、机の表面をドンッ! と拳で打ち据えた。
「ふざけやがって……! 一体なんでオレなんかを……!」
慧音はその激情を理解するようにわずかに眉根を寄せる。
「それは残念ながら私にも判断がつきません。紫の行動には常に何らかの深遠な理由があるとも言われていますが……それが人間の理性で理解できるものかどうかは甚だ疑わしい。単なる気まぐれや興味本位である可能性も決して否定はできないのです」
その冷徹な現実を告げる言葉にカイジは胸の奥底から湧き上がる深い絶望感に襲われた。
ギャンブルの世界で幾度となく理不尽な仕打ちを味わってきた彼ではあったが、今度は人知を遥かに超越した存在によって文字通り虫ケラのように弄ばれているのだ。
そんな途方もない無力感が、彼の心を重く圧迫していく。
慧音はカイジの苦悩を察したのか、少し声色を柔らかなものに変えて続けた。
「ですがどうか安心してください。少なくともここ、人間の里にいる限りは安全です。妖怪たちも里の古くからの掟により、里中では人間を襲うことは固く禁じられています」
「……本当っすか?」
「はい。私も、そして里の住民たちもあなたを全力で保護いたします。今は何よりも心を落ち着けてこの状況を受け入れることから始めるのが大切です」
カイジは深く長い息を吐き、疲れ切った様子で椅子の背もたれに身を預けた。
「……受け入れる、ねぇ……。クソっ、一体どうしろってんだよ……」
その憔悴しきった姿を見つめて慧音は思案深げな表情を浮かべた。
「もしも外の世界に帰還する方法を真剣に探したいとお思いであれば……紫に直接会うしかありません。ただし、彼女があなたを帰してくれる可能性は低い。むしろ彼女と接触すること自体が極めて危険な行為でもある」
「危険……?」
「はい。彼女は時として人間を玩具のように弄ぶことがあります。本人の意志を完全に無視して過酷な試練を課したり、何の理由もなく気まぐれに命を奪うようなことも珍しくありません。外の世界から来た者であればなおさらその対象になりやすいでしょう」
カイジは額に手を当て乾いた笑い声を漏らすしかなかった。
「はは……まるで悪魔みてぇじゃねぇか……」
慧音は静かに首を左右に振った。
「ですが……彼女がこの幻想郷の存続そのものを根底から支えているのもまた、紛れもない事実なのです。だからこそ彼女に対して完全に逆らうことはできない」
その重い現実を突きつけられ、カイジは反論する言葉を見つけることができずただ黙り込むしかなかった。
少しの沈黙の後、慧音は改めて真剣な表情を作りカイジに向かって告げた。
「伊藤さん。あなたは現在、この幻想郷において"外来人"という特殊な立場に置かれています。妖怪たちにとってはまたとない珍しい玩具、人間たちにとっては得体の知れない異物……だからこそ、日々の行動には十分すぎるほどの注意を払ってください」
「……つまり、ここじゃ俺は完全によそ者で四面楚歌ってわけか」
「ええ。ただ……」
慧音の表情がまるで雲間から差し込む陽光のように優しく微笑んだ。
「仲間を作ることは十分に可能です。私やルーミアのように心からあなたを受け入れてくれる者も必ずいます。衣食住についても、なんとか工面できるはずです」
カイジはふと、隣に座るルーミアに視線を向けた。
彼女は相変わらず椅子の上で無邪気に身体を揺らしながら小さな声で鼻歌を奏でている。里の人間たちからあれほど厳しい視線を浴びせられてもまるで意に介する様子がない。
カイジは深々と頭を垂れた。その動作には普段の彼からは想像もつかない、素直な感謝の念が込められていた。
「……本当にありがとうございます、上白沢さん。あんたがいなかったらオレ……」
慧音は柔らかな微笑みを浮かべたが、その表情はすぐに教師としての厳しさを帯びた真剣な色へと変わった。
「気にすることはありません。ですが──これからどうするかが大事です」
その言葉には単なる慰めではない、現実的な重みがあった。
カイジは一度ゆっくりと拳を握りしめる。関節がきしむ音が静寂の教室に小さく響いた。
そして、顔を上げ──長年の博打で培ったあの研ぎ澄まされた刃のような眼差しを慧音へと向けた。
「……それでもオレは八雲紫に会います」
その一言が発せられた瞬間、教室の空気が凍りついた。
慧音の顔色が血の気を失ったように青ざめる。普段の落ち着いた佇まいが崩れ去り、椅子から立ち上がると同時に鋭い声が響く。
「な、何を言ってるんだ!? 正気か!?」
声には動揺と、そして深い恐怖が混じっていた。
「やつはただの妖怪じゃないんだぞ! 気まぐれで人を弄び、時に平然と命を奪う……! あなたのような外来人にとっては最も危険な存在だと何度言えば──!」
慧音の声は次第に上ずっていく。普段の冷静な教師の面影は微塵もない。
それだけ八雲紫という存在がこの幻想郷においてどれほど恐れられているかを物語っていた。
「……分かってます」
カイジは慧音の激情を静かに受け止めるように低く呟いた。その声には諦めでも絶望でもない、奇妙な静けさがあった。
「保証はない。返してくれる可能性は低い……上白沢さんはそう言った。でも、
慧音は言葉を失った。口を半開きにしたままカイジの言葉の意味を理解しようとしている。
カイジは口角をわずかに上げた。それは鉄骨の上で、あるいは沼の前で幾度となく見せてきた絶望的な状況でも希望の糸を見出す『勝負師』の笑みだった。
「なら……オレはその可能性に賭ける。今までもずっとそうしてきた。勝つ見込みなんてほとんどなかった勝負ばかりだ……でも、それでもオレは生き延びてきたんだっ……!」
その言葉には数え切れない死線を潜り抜けてきた男の揺るぎない執念が込められていた。
慧音は心配と苛立ち、そして理解しがたい感情が入り混じった複雑な表情を浮かべ、しばらくカイジを見詰めていた。やがて、深いため息をつくとまるで重い荷物を下ろすように肩を落とす。
「……はぁ。恐れ知らずにも程があるな、お前は」
そう言いながらも慧音の口元には諦めにも似た苦笑が浮かんでいた。まるで手に負えないがどこか憎めない生徒を前にした教師のような表情だった。
「そこまで言うのなら止めても無駄だな。……ならば『博麗神社』へ行きなさい」
「博麗神社…確かルーミアちゃんが言ってた境界を司ってるっていう……?」
カイジの声に希望の光が宿る。
「ああ。そこには
「……助言をくれるとは思わなかった」
慧音は少し諭すような、それでいて温かみのある視線をカイジに向けた。夕日が教室の窓から差し込み二人の影を長く伸ばしている。
「……決意を固めた人間というものは意地でも考えを曲げない。私は教師だ、そういう奴は何人も見てきたさ」
その言葉には長年教壇に立ち続けてきた者だけが知る人間への深い洞察と密かな期待が入り混じっていた。
カイジは深く、そして力強くうなずいた。
「……分かりました。博麗神社、ですね」
慧音は静かに、しかし心からの微笑みを返した。
「…だが無茶はするなよ。……お前がどんな勝負師であれ、ここは外の世界とは違うのだからな」
カイジの胸にヒリつくような緊張と不思議な高揚感が同時に広がっていた。
それは新たな、そして史上最大の博打を前にした時のあの独特な感覚だった。
──八雲紫に会う。そのためにまずは霊夢に会う。
次の一歩が彼を『幻想郷』という名の巨大で未知なる狂気の博打場の深淵へと導こうとしていた。
お読みいただきありがとうございました!
今作品においての人里での妖怪の扱いをどの程度にしようかと考えたのですが、とりあえずは一部を除いて完全に恐れられている設定で行こうと思います。
外来人も同様、人里に馴染まなければ弾かれるという人間のリアルさを出していきたいです。
カイジがモテてる姿…見たい?
-
美心がいるだろ…ッ!裏切るのかッ?!
-
見てぇに決まってるだろッ!