幻想博打録カイジ 作:名もない石
今回内容を細かく描きすぎて、話が長い割に物語の進みはほとんどないです……
寺子屋の外へ足を向けると、すでに夕日は地平線の向こうへとその身を沈めかけていた。
人里の屋根という屋根をドギツイほどの紅に染め上げるその光は、美しくもどこか強烈な寂寥感を帯びており、カイジの胸中に得体の知れない不安の影を落とした。
まるで、これから彼が歩むことになる狂気の博打場への道程を暗示しているかのように。
慧音は空を見上げると物思いにふけるような表情で小さく頷いた。西の空に浮かぶ雲が夕映えに染まりながらゆっくりと流れていく。
「今日はもう夜になる。……とりあえず私の家に泊まっていけばいい。明日になってから博麗神社へ向かっても十分だ」
その何気ない申し出にカイジは思わず目を見開いた。
まさか出会ったばかりの得体の知れない男を泊めてもらえるとは露ほども思っていなかったのである。
「……え? ほ、本当にいいんすか?」
驚きのあまり声が情けなく上ずってしまう。
長年の底辺の博打人生で他人の無償の善意をそのまま受け取ることに全く慣れていない彼にとって、この申し出は予想外すぎた。
裏があるんじゃないか……? と勘繰るのが染み付いた悲しい性だが、慧音の瞳には微塵の曇りもない。
「ああ、いいとも。行く当てもないだろうしな」
「あ、ありがとうございますっ……上白沢さん……!」
心からの感謝がその震える声音に込められていた。
すると、その横でルーミアが両手を挙げるように元気よく声を上げた。
「わたしもお泊りしたいのだー!」
その無邪気な様子は夕暮れの重い空気を一瞬で軽やかなものに変えた。
慧音は一瞬困ったように眉を寄せたが、すぐに表情を和らげ苦笑いを浮かべながら首を縦に振った。
「……仕方ないな。ルーミアも一緒に泊まっていくがいい」
「やったー!」
ルーミアは満面の笑みを浮かべると、まるで子供のようにぴょんと宙に跳ね上がった。その純粋な喜びようは見ている者の心も軽やかにする。
その後、慧音の案内で三人は人里の一角へと歩みを進めた。石畳の道を歩きながらカイジは周囲の家々を興味深げに眺めている。
どれも古風でありながらしっかりとした造りで生活の温もりが感じられた。
やがて辿り着いた慧音の家を見た瞬間、カイジは思わず息を呑んだ。
「……でけぇ」
木造でありながら堂々とした構えを持つその建物は梁や柱が分厚く、屋根瓦に至るまできちんと整えられている。
古めかしい造りでありながらどこか重厚で人の手による温かみが随所に感じられる──そんな印象を受けた。
その驚愕の表情を見て取った慧音はどこか照れくさそうに苦笑しながら説明を始めた。
「……私はありがたいことに里の皆によくしてもらっててな。数年前、里一番の大工が『先生の家はこれくらい立派でなければならない!』って、勝手に改築してしまってな」
「ほぉ……」
カイジは感嘆の声を漏らしながら改めて家の造りを見回した。確かにこれは相当な腕前の職人でなければ作れない代物だった。
「もちろん私は必要ないって断ったんだ。しかし……結局は里中の総意でな、こうして無理やり立派になってしまった」
その言葉には里の人々への深い愛情と少しの困惑が混じっていた。
「広いのだー! ここなら鬼ごっこができそう!」
ルーミアの無邪気な発言に慧音は思わず笑みを浮かべる。
カイジはそんな二人の様子を見つめながら胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
この狂った幻想郷という場所でこんなにも心温まる光景に出会えるとは思ってもみなかった。外の世界では味わったことのない、穏やかな時間がそこには流れていた。
慧音に案内されて足を踏み入れた家の内部は威風堂々とした外観とは打って変わって質素そのものだった。
中央に置かれた低い卓と座布団、そして壁際に整然と並んだ棚の書物ぐらいで生活感というものが実に控えめに抑えられている。
「好きにくつろいでいてくれ。夕餉の支度をするから今から食材を買ってくる」
慧音がそう告げかけた、その時。
ルーミアが突然「あっ」と声を上げ、振り返るようにカイジの方を向いた。その表情には何か重要なことを思い出したような純粋無垢な輝きがある。
「そうだ、カイジー! 言ってたよね? カイジの世界の『極上料理』を食べさせてくれるって!」
「……ッ!?」
まるで高圧電流に撃たれたかのような衝撃がカイジの全身を駆け抜けた。唐突に投げつけられた言葉に思わず呼吸が止まる。
(ヤベぇ……すっかり忘れてた! あの時は食われるのを回避するために……『極上料理を作って食わせてやる』なんて調子に乗って大見得を切っちまったが……!)
脳裏に浮かんでくるのは六畳一間のアパートの狭い台所で作ったあまりにも貧相な食事の数々。
安いもやしを適当に炒めただけの『もやし炒め』。見切り品の豚コマ肉で作った、味の薄い『生姜焼き』。そして何よりも、インスタントラーメンに卵を一つ落としただけの圧倒的に雑で情けない男の餌……。
(ダメだ……! オレは料理なんて素人……圧倒的素人っ……! 上等なもんなんて作れねぇ……! かといって今さら「やっぱ無理」なんて言える状況じゃねぇ……! ルーミアちゃんは目をキラキラさせてやがるし…!)
内心の動揺を必死に隠そうと顔面をひきつらせるカイジの前で慧音が興味深そうに腕を組んだ。
「そうなのか? 客人に料理をさせるつもりはなかったが……私もそちらの世界の料理には興味があるな」
「……ッ!」
退路は完全に断たれた。進むも地獄、退くも地獄——まさに究極のデスゲームである。
カイジは顔を引きつらせながらも最後は腹を決めて開き直った。これまでの博打で培ったハッタリの度胸を振り絞る。
「ま、任せろっ……!」
声が裏返りそうになるのを歯を食いしばって押さえ込み、なんとか豪快に言い切った。しかし内心ではナイアガラの滝のような冷や汗が止まらない。
ルーミアは無邪気に「やったー!」と両手を挙げて飛び跳ねる。その純粋な期待の眼差しが千トンの重りとなってカイジの胸にのしかかった。
「ならば一緒に市場まで来るか。食材選びから手伝ってもらおう」
「えっ……お、俺もか……?」
「……? 当然だろ。お前が作るのなら食材を選んでもらわないと困るからな」
慧音の論理は至極もっともで、反論の余地など1ミリもない。
(……くぅぅ!)
カイジは心の中で悲鳴を上げた。まるで自分で自分の首に縄をかけ、台を蹴り飛ばしたような状況である。
こうしてカイジは渋々ながらも慧音に伴われ、人里の食材市場へと向かうことになった。
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慧音の後を追って再び外の世界へ足を向けると、夕暮れに包まれた里にはまだ人々のざわめきが広がっていた。
行き交う村人たちの視線はやはりカイジに対して鋭さを失わない。ルーミアと歩いていた時ほど露骨ではないにしろ、その冷たい警戒の視線は針のように彼の背中に突き刺さってくる。
ただ、慧音が隣を歩いているせいかあからさまな敵意は向けられない。里の人々の慧音に対する信頼の厚さが間接的にカイジを守ってくれている。
石畳を踏む足音が夕闇に響く中、慧音がぽつりと口を開いた。
「……すまないな。嫌な思いをさせてしまって」
「……いや、仕方ないっすよ。俺はよそ者ですし……むしろ当然ですよ」
その淡々とした返答に慧音はしばし足音だけを響かせながら沈黙し、やがて複雑な表情を浮かべた。
「……そうだな。この世界では何事にも警戒することは命を守る手段なんだ。人も妖怪も……簡単に相手を信じれば死が待っている」
慧音の言葉は言い訳でも正当化でもなく、ただこの幻想郷という世界の残酷な現実をそのまま述べた冷静な事実認識だった。
カイジは歩みを進めながらずっと心の片隅に引っかかっていた疑問を口にした。
「……でも、上白沢さんは違うじゃないですか。最初から……俺やルーミアに分け隔てなく接してくれてる。なんで、そんなことが出来るんですか?」
その問いかけに、慧音は歩みを止めた。
振り返ったその表情には何かを決意したような色が宿っている。しばらく口を開かず、夜風が二人の間を静かに抜けていく。
やがて小さく息を吐くと、慧音は重い口を開いた。
「……実を言うと、私は完全な人間ではない。半分は人間だが……もう半分は
「……ッ!」
カイジは思わず目を見開いた。まさかの告白に心臓が跳ね上がる。
(半分だけ……人間……だと……!?)
慧音は静かに言葉を続けた。その声には長年背負ってきた複雑な立場への諦めと受容が滲んでいる。
「最初は確かにお前を警戒した。外来人はこの里にとって未知の存在だからな。だが、話してみて分かった。……少なくともお前は悪い人間ではない」
そう言って慧音は口元にわずかな、しかし温かな笑みを浮かべた。
「その証拠にルーミアもお前に懐いているだろう? あの子は純粋だからな。悪い人間には決して心を開かない」
家で待っているルーミアの無邪気な笑顔がカイジの脳裏に浮かんだ。
しかし、その言葉はカイジの心に鉛のように重くのしかかった。
(悪い人間じゃない……? そんなわけ……あるか……!)
脳裏に次々と過去の記憶が蘇る。命を懸けた無謀な博打の数々。怠惰に流された日常。借金、裏切り、そして転落の連続……。
まともに生きることから逃げ続け、己の欲望のままに愚かさばかりを積み重ねてきた人生。
(本当にそうならあの時……あの死のゲームには参加しなかった…ッ! そうしたら……もしかしたら佐原や石田のおっさんも……!)
そこまで考えてカイジは思考を強制的に断ち切った。
これ以上は考えてはいけない。考えれば考えるほど胸の奥が締め付けられるような血を吐くような痛みに襲われる。
慧音の言葉は彼の心の奥底に深く封印していた後悔と罪悪感を容赦なく揺さぶり始めていた。
「……………」
「……………」
重い沈黙が石畳の上に降りた。夕闇が深まる中、足音だけが静かに響いていた。
そんな気まずい空気を破ったのは慧音だった。前方を指差しながら安堵の色を滲ませた声で告げる。
「──着いたぞ」
カイジが視線を向けた先には予想をはるかに超えた活気溢れる光景が広がっていた。
通りの両脇には風情ある木造の店舗が軒を連ね、色とりどりの提灯が夜風に優雅に揺れている。
魚を並べた木桶、山菜や季節の果物を盛った竹籠。香ばしい焼き団子の匂い、土と木材が混じり合った懐かしいにおい──五感を刺激する様々な要素がこの市場に独特の生命力を与えていた。
「お、おぉ……。これが……人里の市場か……! まるでテレビの時代劇……いや、もっと生々しい……!」
その素朴な驚きに慧音は小さく口元を緩め、「こっちだ」と人混みの中を進んでいく。
やがて一軒の魚屋の前で足を止めた。そこでは筋骨隆々とした若い男が朗々とした声で客を呼び込んでいる。日焼けした褐色の肌に金髪、精悍な顔立ちをしたまさに活力の権化といった雰囲気の青年だった。
「よう、景気はどうだ?」
「せ、先生!? おおっ、慧音先生じゃないか!」
男は慧音の元教え子らしく満面の笑顔で再会を喜んだ。
ふと、男の視線がカイジへと移る。カイジは反射的に身を強張らせ、またあの冷たい視線を浴びせられるのかと覚悟を決めた。
だが──。
「おい、あんた……外来人か!」
突然、分厚く逞しい手で握手を求められカイジは戸惑いのあまり目を白黒させる。
「あ、ああ……そうだが……」
「すげぇな! よく無事にここまで辿り着いたじゃねぇか! いやぁ根性あるぜ!」
男は豪快に笑い声を上げると長年の友人にでも再会したかのようにカイジの肩をバシバシと力強く叩いてくる。
その屈託のない親しみやすさにカイジは完全に面食らってしまった。
「彼は私が十二年前に受け持った生徒でな」
「”
「……い、伊藤開司です。よ、よろしく……お願いします」
思わずかしこまった口調になってしまうカイジに永田は腹の底から大笑いした。
「ははは! 敬語なんていらねぇよ! 俺はただの魚屋の兄ちゃんだからな!」
その屈託のない豪快な態度に圧倒されつつも、カイジは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
だが、次の瞬間──。
「で、今日は何を買いに来たんだ?」
永田が屈託なく問いかけるとカイジの顔色はみるみるうちに青ざめていった。
「……っ!」
(やばい……! なにを作るか全然考えてなかったっ……!)
心臓がバクバクと早鐘を打ち、額にじわりと冷や汗が滲み出る。
隣では慧音が腕を組み店先に並ぶ魚をじっと見詰めながら思案に耽っている。
(俺がこの店の食材で作れるのは……せいぜい焼き魚、味噌汁、簡単な煮物くらい……! だが、そんな家庭料理で『極上』なんて名乗れるわけがねぇ……!)
「お、おいカイジ。顔が真っ青だぞ?」
「……っ、大丈夫だッ!」
カイジは思わず啖呵を切るように声を張り上げた。
魚で勝負するしかないのかと覚悟を決めようとしたまさにその矢先──視線の端に異様なものが映り込んだ。
「……ッ!?」
そこにあったのは氷の上に清潔な布を敷き、その上に無造作に置かれた──豚肉の塊だった。
「な、なんで魚屋に……肉……?」
永田は照れくさそうに頭を掻きながら説明を始めた。
「実はよ……最近、妙な経緯で肉を大量に手に入れちまったんだ。けど俺は魚しか扱ったことがねぇし、周りの連中も肉料理なんざ作れねぇって言うんだ。捨てるのももったいねぇからこうして売り物にしてるってわけさ」
その説明を聞いた瞬間、カイジの頭に雷のような『圧倒的閃き』が走った。
(そうか……! やっぱりだ……! この世界じゃ肉料理はまだ一般的じゃねぇ……! だったら……!)
カイジは勢いよく前に出ると、永田に切羽詰まったような声で尋ねた。
「なあ永田さん……油や卵、それとパン粉を売ってる店はこの辺にあるか!?」
「油と卵に……パン粉?」
「そうだ!」
カイジの目がまるで獲物を見つけた狩人のようにギラリと光った。永田は少し考え込んでから指で方向を示した。
「油なら向かいの店に菜種油がある。卵はここからちょっと歩いた先の農家が出してるな。パン粉ってのは知らねぇが……反対側にパンを売り始めた店があるぞ」
「……っ!」
カイジの胸の奥でパズルのピースがぴたりと揃った瞬間だった。
(揃った……! 全部揃ったぞ……! これで勝負できる……! オレの世界から持ち込める……強力な"武器"が……!)
決意に満ちた表情で顔を引き締めると、カイジはポケットから財布を取り出した。
「……あっ」
彼の動きが完全にフリーズした。財布の中には哀愁漂う数百円の小銭しか入っていなかった。
(ま、まずいッ……! こんなんじゃ肉も油も卵も……揚げ物なんて到底無理ッ……! 圧倒的資金不足っ……!)
カイジの時が止まった。視界がぐにゃりと歪み、絶望が心を支配しかけたその時──隣で慧音がすっと口を開いた。
「……客人に払わせるわけないだろう。ここは私が出す」
そう言いながら慧音は懐から銭入れを取り出した。
(……ッ! か、神……! いや……女神か……!)
カイジは心の底から震えるような感動を覚えた。
そのやり取りを見ていた永田はにやりと豪快な笑みを浮かべると、立派な豚肉をひと切れ手に取って差し出した。
「おう、そんじゃこれも持ってけ! 祝いだ! 外来人が無事に里にたどり着けた記念にな!」
「い、いや、それは悪い……」
「遠慮しないでくださいよ! こいつはただの景気づけだ! 先生の客人なら俺の客人でもありますから!」
慧音は深い感謝を込めて頭を下げた。カイジも慌てて深々と礼を言う。
(……よし……これで……! これで勝負の舞台は整った……!)
胸の奥でカイジの心臓が激しく高鳴っていた。死線の博打場に向かう時のようなあの独特の興奮と緊張が蘇ってくる。
そうだ……この幻想郷にまだ馴染みのない圧倒的ジャンクな味を──オレが叩き込んでやる……!
こうしてカイジは己が思い描いた料理を再現するべく、運命の勝負へと歩みを進めることになった。
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場面は慧音の家の台所へと移る。
夕陽が赤々と差し込む窓辺で、カイジはどこか引きつった絶望的な表情を浮かべながら己の作った皿をそっと持ち上げた。
湯気こそ立ち上っているもののその手には明らかな震えが滲み出ている。まるで爆発寸前の時限爆弾でも扱うかのような異常な慎重さだった。
廊下から覗けば居間では慧音とルーミアがすでに席について待っている。低い食卓の上には慧音が手際よく用意した料理が美しく並べられていた。
香ばしい匂いを漂わせる煮しめ、味噌の風味を効かせたけんちん汁、そして山菜と豆腐の上品な和え物に彩り豊かな小さな漬物皿。
どれも素朴でありながら手間のかかった品ばかりで、田舎の食卓らしい温かみと完成度に満ち溢れている。
カイジはその完璧な和やかな布陣の対面にあまりにもアンバランスで暴力的な皿を「ドンッ」と、やや乱暴に置いた。
厚めに切られた豚肉に小麦粉と卵と削ったパンをまとわせ油で揚げた料理。
この幻想郷では恐らく誰も見たことがないであろう茶色い塊に慧音は目を丸くし、ルーミアは今にもよだれを垂らしそうな恍惚の表情を浮かべている。
「お、おぉ……これは何という料理だ?」
慧音の素直な問いかけにカイジは胸を張るでもなくしどろもどろに答えた。
「と、豚カツ……です」
実際のところ作り方を"なんとなく"知っていただけで現世でもろくに料理などしたことはなかった。ましてや豚カツなどパチンコで勝った時に安い定食屋で食べたことがある程度である。
自信なんてミクロンほどもあろうはずがない。
ソースの作り方も皆目見当がつかず、苦し紛れにただの醤油を上からぶっかけただけの有様だった。カイジは心の中で激しく舌打ちする。
(くっ……馬鹿か…オレはっ! ……なんで慣れもしない揚げ物なんて作ってしまったんだっ……!)
しかし、ルーミアは皿に身を乗り出すようにして期待に目をギラギラと輝かせていた。
「ねぇねぇ! 早く食べていい?」
「……あ、ああ。まぁ、オレも一緒に食うか」
緊張でガクガクと震える手で箸を取り、恐る恐るカツを一切れ掴んで口に運ぶ。
慧音も同じように興味深そうにひとかけらを口へと運んだ。
──途端に、カイジは顔を苦々しく歪めた。
(硬ぇ……ッ!)
肉はゴムのように硬くなかなか噛み切れない。
衣も油の温度が低かったせいでベチャベチャに油を吸い過ぎており、サクサク感のかけらもない。これが現代の店で出てきたら間違いなくテーブルをひっくり返す暴動モノである。
(やっちまったっ……! 圧倒的失敗っ……! 不味いっ……!!)
恐る恐る二人の表情を窺う。きっと顔を歪め、「なんだこの油の塊は」と軽蔑の眼差しを向けているに違いない。
ざわ… ざわ…
ざわ…
ざわ…
ざわ…
ざわ… ざわ…
ざわ… ざわ…
だが──。
「……おお、これは……肉を揚げているのか? 面白いな。噛みごたえもあって肉の旨味が閉じ込められている。悪くない」
「おいしいっ! お肉いっぱいでお口の中がジュワーってするのだぁ!」
慧音は興味深そうに箸を進め、ルーミアは子供のように頬をほころばせて夢中になって食べている。二人とも心底美味しそうに味わっているのだ。
その光景にカイジはぽかんと口を開けた後、全身の力が抜けるような安堵の息を長く吐いた。
(……なるほどな……。現代の日本人みたいにジャンクフードで舌が肥えてるわけじゃねぇ。油と肉と衣の組み合わせ……その『未知の味』という圧倒的暴力だけで美味しく感じる……そういうことか……?)
豚カツは決して成功作ではなかった。技術的には完全な失敗作、いや汚物と言っても過言ではない。だが、ここ幻想郷では確かに「極上のご馳走」として受け入れられていたのだった。
カイジにとってこの異世界での小さな、しかし命を繋ぐ確実な勝利だった。
* * *
夕餉が終わった。
慧音の作る素朴な料理は家庭の温かみに満ち、ルーミアの旺盛な食欲も十分に満たされ三人の間には和やかなひとときが流れていた。
食後、慧音は時計を見やりながら「もう遅い。寝室を用意しよう」と、二人を奥の部屋へと案内した。
広めの部屋には清潔な布団が敷かれ、窓の外からは秋の虫たちの音色が静かに響いてくる。幻想郷の夜は都市部の排気ガスやネオンの光とは無縁の深い静寂に包まれていた。
ルーミアは布団に潜り込むが早いか、まるで電池が切れたかのようにすーすーと寝息を立て始めた。その無邪気な寝顔はまるで幼い子供のようでカイジは何となく気恥ずかしくなって視線をそらした。その隣で彼自身はまだ眠れずに天井を見つめていた。
隣室では慧音が小さな灯りを点けて明日の授業に使う資料をまとめているらしい。紙をめくる音が時折聞こえてきて教師としての責任感の強さが感じられた。
薄暗い寝室で天井を見つめたまま、カイジの思考はぐるぐると止まることなく回り続ける。
(……もしだ。もし、八雲紫が……本当に「オレを帰す気がない」って言ったらどうする? 最悪……気まぐれで殺される可能性だってある……!)
胸の奥に氷のような冷たいものが走った。
ギャンブラーのくせに失敗した後のことばかり考えてしまう。勝負の世界では致命的な弱みだ。だが、どうしても考えずにはいられなかった。
相手はイカサマを使う人間ではない。人間の理屈など一切通じない圧倒的な『怪物』なのだ。
(チクショウっ……! まだ始まってもいねぇってのに負け筋ばっか追ってどうする……!)
自分で自分を叱咤しながら、「やめやめ!」と心の中で頭を振り負の思考を強引に振り払った。
──とにかく、明日だ。博麗神社に行かないことには何も始まらない。
カイジは深く息を吐くと重いまぶたを閉じた。
せめて少しでも眠って体力を温存しておくべきだろう。隣で眠るルーミアの規則正しい寝息がまるで子守唄のように耳に響く。
その穏やかな音に包まれるうち、やがてカイジのまぶたも重く沈んでいった。
明日という未知への不安とかすかな希望を胸に抱きながら。
* * *
窓から差し込む柔らかな陽光が布団に横たわるカイジの顔を優しく照らしていた。
遠くから聞こえてくる鳥のさえずりが耳に届き、幻想郷の朝は意外なほど穏やかで心地よいものに感じられた。カイジがゆっくりと体を起こすと、隣ではルーミアがまだ布団の中でもぞもぞと動いている。頭まですっぽりと隠れ、寝ぼけたような小さな声が時折聞こえてくる。
「……朝か」
ぼそりと呟いたカイジの声に反応したのか襖がそっと開いて慧音が顔を出した。
「おはよう、眠れたか?」
「……はい、それなりに」
慧音はふっと安堵したような微笑みを浮かべ、「ならよかった」と答えた。その自然な笑顔にカイジの心は少しだけ軽やかになった。
食卓には焼き魚、香り立つ味噌汁、炊き立ての白い米、そして色とりどりの漬物といった質素ながらも心のこもった朝食が丁寧に並べられていた。
布団からようやく這い出してきたルーミアはまだ半分夢の中にいるような様子で座布団に座ると、あくびをしながら米を頬張り始める。
慧音はそんな彼女を見て苦笑しながら、器に湯気の立つ味噌汁をよそってやった。
温かな味噌汁を啜るカイジの胸の奥にじんわりと安堵が広がっていく。
──人のぬくもりをこんなに無防備に感じたのは一体いつ以来だろうか。
食事を終えると、慧音が今までとは違う真剣な表情で口を開いた。
「……カイジ、悪いが私は今日は授業がある。加えて里を守る役目もあるから一緒に博麗神社までは行けない」
「……そう、ですか」
思わず驚きの声がこぼれる。内心では一抹の不安を感じたがこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。カイジは小さく頷いた。
慧音は机の上に前夜から用意していたらしい物を丁寧に並べた。
手描きの詳細な地図、水の入った竹筒、そして小さな布袋に包まれた手作りの握り飯。
「ここまで来られたんだ、きっと大丈夫だろう。ただし、道中は油断しないことだ」
その心遣いにカイジは胸に熱いものが込み上げてくるのを感じ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、本当に……」
次に慧音はルーミアに視線を向けた。
「お前はどうする、ルーミア? 彼と一緒に行くのか?」
ルーミアは考え込むような素振りを見せ、指を唇に当てて少し首を傾げた。
よくよく考えてみればあの森からここまで連れてきてしまったのだから、カイジにこれ以上付き合わせるのは筋違いというものだろう。
だが──。
小さな沈黙の後、ルーミアはぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
「……じゃあ、博麗神社の手前まで一緒に行くのだー!」
その言葉を聞いた瞬間、カイジの目から不意に涙がぽろぽろと零れ落ちた。
裏切り、騙し合い、蹴落とし合い……。
エスポワール号でも地下のチンチロリンでも、彼は常に他人の悪意と欲望に晒されて生きてきた。
日本にいた頃、一度として受けたことのなかった純粋な善意。それは、この狂った異世界に来て初めて真正面から与えられる『無償の優しさ』だった。
「……っ、うぅ……!」
慌てて涙を拭おうとするが一向に止まる気配がない。
ルーミアは「えっ!? なんで泣いてるのだ!?」とオロオロと狼狽え、慧音はただ温かな眼差しで静かに見守っていた。
やがて涙が落ち着いたころ。カイジは鼻をすすりながら少し照れくさそうに、しかし確固たる決意を込めて口を開いた。
「……博麗神社に行きます。博麗霊夢に会って……必ず八雲紫に会う」
自分に言い聞かせるように。そして恩人である二人に誓うように。
慧音は深く頷き、静かに二人を見送る準備を始めた。
カイジとルーミアは背筋を伸ばし、慧音に心からの別れを告げて歩き出した。朝日を浴びながら温かい人間の里を後にして──。
いよいよ、運命の博麗神社へ向かう時が来たのだった
お読みいただきありがとうございました!
何と博麗神社にまだ行けてません……
本当はこの話で行かせたかったのですが、他の描写を丁寧に書いてたら全然進まなかった…
そして永田というネームキャラが現れました!
彼はこれからもこの物語に関わって来るのでしょうか…?
あと、もしよければ感想や評価も是非お願いします!
皆様の評価や感想により、モチベの向上にも繋がります!