「せいじょのおはなし」「エルミナの日記」『救世の聖女と奉仕の少女』 作:白夜(つくも よる)
曇らせ要素は4章、5章以降になる予定です。
家の戸口を開けると、焼いたパンの匂いがふっとこぼれた。母が振り返って目を丸くする。
「遅かった! 川で何かあったの?」
「……ちょっとだけ、倒れた。もう大丈夫」
言い終えるより早く、母は布巾を投げて駆け寄り、サーミアの頬と額、首筋に触れた。
「冷たっ……服、脱いで。乾かすから。ほら、こっち座って」
土間から居間へ引っ張られ、竈のそばに座らされる。母は火を足し、粗い布で濡れた袖を包みながら、顔をしかめた。
「倒れたって、どういうこと……。目の前が暗くなった?」
「ううん、明るくなった。光がいっぱいで……それで、声を聞いた」
母の手が止まる。布の向こうで、火がぱちぱち鳴く。
「声って、誰の」
「ザリオス様。……たぶん」
母は目を伏せ、短く息を吐いた。
「……父さん呼ぶ」
しばらくして、縄を肩にかけた父が戻ってきた。土間に足を踏み入れた瞬間、空気の変化に気づいたらしく、眉をひそめる。
「どうした」
母が簡潔に伝えると、父はサーミアの前に膝をつき、目の高さを合わせた。
「倒れたんだってな。頭は痛くないか」
「大丈夫。痛くない。……それより、聞いて」
サーミアは一息に言った。川で倒れたこと。白い空間と、名前を名乗る声。聖女に仕えるようにと言われたこと。そして胸の奥に灯った“力”の感触。言葉にすると、どれも夢みたいだ。それでも、嘘はひとつも混じっていない。
父は黙って聞いた。腕を組み、何度か頷き、最後にふうと大きく息を吐く。
「……そうか」
母が小さく唇を噛み、「怖くなかったの?」と尋ねる。
「怖く、なかった。びっくりしたけど……悪い感じじゃない。たぶん、間違ってない」
自分の口から出た言葉に、サーミアは少し驚いた。けれど、胸の火種は揺れずに在る。それが答えの形を整えてくれる。
父は立ち上がり、梁に吊るした小さな祈り札を外して、丁寧に手の中で撫でた。「昔な……」と切り出す。
「婆さまから聞いた話だ。うちの村で、ずっとずっと前に“呼ばれた”子がいたって。書き付けが残ってたかどうかは、もう誰もはっきり言えない。教会の記録なのか、ただの覚え書きなのかも曖昧でな。けど、話は残ってる。祠に行って、人に会って、村を出たって」
母もうなずく。「教会の人がね、秋祭りのときに言ってた。『古い書に“奉仕の徒”って言葉がある』って。どの時代のものかはわからないし、名前も残ってないって。だから、みんなほとんどは“物語”とか“幻想”みたいに思ってる」
「物語でも、本当でも……。呼ばれたなら、行くしかないか」
父の言い方は淡々としていたが、声の奥に、手放すための決意の硬さがあった。
「明日、祠に行く」
サーミアは自分から言った。
「わたし、待ってる。誰が来るのかはわからないけど……来ると思う」
母はサーミアの手を取り、両手で包む。
「じゃあ、準備するよ。湯と布と、パンと干し肉。座るものも。夜になったら冷えるから、毛布も」
「そんなにいらないよ」
「いるの。待つのは、思ってるより体が冷えるの。文句言わない」
「……うん」
そうやってやり取りしていると、戸口の外から杖の音がした。昼にお茶を運んだ老婆──村の誰もが“婆さま”と呼ぶ人だ。母が戸を開ける前に、婆さまは勝手に入ってきて、竈の熱の前で手をこすった。
「冷えるねえ。サーミア、倒れたって聞いたよ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとが積もると大事になるのさ。で、どうした。……光を見た顔だねえ」
その言葉に、父と母が目を合わせる。婆さまは自分の腰をぽんと叩き、低い声で続けた。
「昔話、知りたいかい。……いや、昔話って言ってもね、紙はもう黄ばんでぼろぼろで、半分は歌みたいに口で運ばれただけ。『百年に一度、誰かが呼ばれる』『千年に一度、聖なる娘が現れる』ってな。どれが本当で、どれが後からくっついた飾りか、誰にもわからないよ」
「記録は、残ってないの?」
サーミアが尋ねる。
「残ってる“はず”って人もいる。王都の大きな教会には古い棚があって、鍵が二つも三つもかかってるとかね。だけど、ここまで回ってくる言葉は薄くなっていく。読めない字を誰かが自分の言葉に置き換える。そうやって、物語になるのさ」
婆さまはサーミアを覗き込むように見てから、頷いた。
「でもね、呼ばれた子の顔は、物語でも嘘がつけないんだよ」
婆さまは立ち上がり、杖の先で軽く床をつついた。
「祠に行くなら、今夜は温かくして早く寝な。夢は、続きが来るかもしれない。来なくても、体が覚えてる」
帰り際、婆さまはサーミアの手を握る。驚くほど力のある握りだった。それに驚いてサーミアは少したじろぐ。
「“選ばれた”ってのは、偉いってことじゃない。面倒くさい役回りを引くってことさ。だから、偉がらず、縮こまらず。わかったかい?」
「……うん」
強張ってじんわりとする手に意識を取られて、言葉がサーミアの頭の中にすんなりと入らなかったが、何度も反芻するように深く婆さまの言葉を噛み締めた。
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「明けたら、祠までの枝を払ってくる。道が狭いところは俺が先に行く。サーミアは転ばないように靴底を乾かしておけ」
「わたし、一人で行けるよ」
「一人で行く“前”の道を整えるのは、親の仕事だ」
反論の余地はなくて、サーミアは「わかった」と頷いた。母は小さな包みをいくつも作り、干し肉に塩を振って布にくるみ、革の水筒に湯を入れて栓を紐で結び、古い膝掛けのほつれを縫い直す。針の音が、頼もしい。
夜になると、星が村を覆った。サーミアは寝床に入る前、家の裏に出て空を見上げた。冷気が頬を刺す。胸の火種はまだ消えない。目を閉じると、言葉にならない気配がそこにいて、手の届かないところから見守っている。
(明日、行くから)
心の中でだけ言ってみる。返事はない。けれど、静けさが返ってきた。それで十分だと思った。
家の中に戻り布団に潜り込むと、母がそっと毛布をもう一枚かけた。
「明日は寒いよ。足、冷やさないで」
「ありがとう」
「怖くなったら、呼びなさい」
「大丈夫。……でも、呼ぶ」
二人で小さく笑った。灯りが落ちると、家はすぐに夜の呼吸になった。父の寝息が規則正しく、
(明日。祠で)
最後の意識がそこに結び目をつくり、静かにほどけた。
評価のほど、どうぞよろしくお願いします。