「せいじょのおはなし」「エルミナの日記」『救世の聖女と奉仕の少女』 作:白夜(つくも よる)
鶏が鳴くより早く、サーミアは目を覚ました。窓の外はまだ墨のように暗く、屋根に落ちる霜の気配が、家の木組みをきしませている。胸のあたりに小さく灯っている火種は、夜の間じゅう消えなかった。むしろ、眠っているうちに形を整えたみたいに、じんわりと輪郭がはっきりしている。
土間に降りると、母がもう起きていた。竈には小さな火が入っていて、鍋の口から白い息が立っている。
「起きたの。湯、沸いたよ。まず手を温めな」
「うん」
両手を湯気へ差し出すと、指先の痺れがゆっくり溶けていく。母は昨夜のうちに用意しておいた包みをもう一度ほどき、ひとつずつ確かめる。干し肉、固いパン、塩、布の敷き、薄い膝掛け、糸切り小刀、革の水筒。いつものものばかりなのに、今日は見え方が違った。全部に「役割」がある。
「ほら、これも」
母が茶色のケープをサーミアの肩にかける。
「紐、きつすぎない?」
「大丈夫。ありがとう」
そこへ、外から雪解け水みたいな冷気と一緒に父が入ってきた。手には小さな鉈と、細い枝がからまった縄。
「道の枝、少し払ってきた。霜で滑るから、石の段であんまり急ぐな」
「うん。お父さん、ありがとう」
「送るのは、祠の手前までだ。そこで戻る。……いいな」
「うん。ひとりで行ける」
言葉に力を込めると、胸の火種がぽっと明るくなった気がした。父は短く頷き、母は湯飲みを持たせる。温かいものが喉を通るたび、体の内側がひとつずつ目覚めていく。
戸口に手を掛ける前、母がふと思い出したように針箱を開け、小さな赤い糸をサーミアの手首に結んだ。糸は細く、頼りなげだ。
「迷子除けだよ。昔、おばあちゃんがやってくれたやつ」
「ほどけたらどうするの?」
「ほどけないようにしなさい」
言い方があまりに当たり前で、サーミアはつい笑ってしまった。笑うと、母も少しだけ笑った。
外は薄墨色の朝。東の端が白み始め、霜を踏む音がしゃりしゃりと乾いている。村はまだ眠っているが、井戸のほうで誰かが桶を動かす響きがした。通りかかった隣家の若い男が、肩に薪を担いだまま立ち止まる。
「こんな早くにどこへ」
「祠。ちょっと、祈ってくる」
「祠か。……昨日、婆さまが言ってたぞ。『風が同じ向きに吹く朝は、祠の鈴が鳴る』って。昔の書にあるんだと。どこの書かって聞いたら、婆さまも『忘れた』って笑ってたけどな」
男は首をかき、半ば冗談みたいに言う。
「王都の教会の地下に、古い棚があってさ。誰も読めない字で、虫が食った紙。親父の親父がそう聞いたって。ほんとかどうかは知らん」
「ほんとかどうか、わからないって言ったほうが、いい話に聞こえるね」
「だな。気をつけて行けよ」
男は肩で薪を上げ直し、息を白く吐いて歩き出した。言葉は軽いのに、目は少しだけ真面目だった。
三人で村はずれまで歩くと、父が先に立って小枝を払いながら、狭い道へ入っていく。東からの弱い風が、一定の向きで頬を撫でた。ほんのすこし、祠のあるほうへ。サーミアは昨夜、婆さまが言ったらしい「風の道」の話を思い出す。伝承は、いつも半分だけ本当で、半分は誰かが足した飾り。でも、今朝の風は飾りではなかった。
「ここまでだ」
父が立ち止まり、振り向いた。森の入口の手前。そこから先は、祠へ向かう細い道が獣道みたいにのびている。
「いいか、足元を見る。迷ったら、来た道を戻れ。……声を出せ。聞こえるところにいる」
「うん」
父はサーミアの肩に手を置き、短く押した。その押し方は、前へ進めという合図でもあり、ここで戻ってきてもいいという合図にも感じられた。二つの意味が、同じ強さでそこにあった。
「母さんも、ここで待ってる」
母は荷物の紐を確かめ、サーミアの襟を直し、結んだ赤い糸を指で叩く。
「ほどけない」
おまじないを唱えるように、それを信じるように、サーミアも続けて言う。
「ほどけない」
深呼吸をひとつ。森の匂いが肺に入る。湿った土と、冷えた樹皮と、古い葉の匂い。胸の火種が、吸い込んだ空気に合わせて小さく脈を打つ。
サーミアは一歩、森へ踏み入れた。
……踏み入れた瞬間、風の向きがわずかに変わった。木の葉は揺れていないのに、頬を撫でる細い流れだけが、祠のある方角へすべっていく。偶然かもしれない。けれど、その偶然は、彼女には「導き」に思えた。
足音は自分にしか聞こえないくらいに小さく、しかし確かだ。落ち葉が靴底の下でしっとりとかすれる。サーミアは背後を振り返らない。振り返れば、父と母の顔が見えてしまう。見てしまえば、戻りたくなる。だから、前だけを見る。
森の中は、夜の名残がまだ濃い。木漏れ日にもならない薄い光が、地面の苔の上に冷たい模様を描いている。小道は何度も細くなり、ところどころで姿を消す。そのたび、サーミアは足元の土の盛り上がり、折れた枝の向き、苔の乾き具合を見て進む。小さな判断をいくつも重ねる。迷いと決断の繰り返しは、これからの彼女を表しているようだ。
胸の火種は、静かだ。騒がず、けれど消えない。ときおり、耳の後ろあたりで何かが囁くような気がする。言葉ではない。音でもない。けれど、「それでいい」という合図に聞こえる。
ふっと、祠の鈴が鳴った気がした。風はない。音は一度きりで、すぐに森に吸い込まれた。幻かもしれない。けれど、足は自然に速くなる。祠はもう目の前まで来ていた。
祠に至る石段の手前で、サーミアは立ち止まり、空を見上げた。東が明るい。夜がほどける糸を、目で追えるほどゆっくりと。深く息を吸って、吐く。吐くたびに迷いが薄くなり、かわりに、名前も形もない「決意」というものが胸の真ん中で姿をとる。
(行く。待つ。会う)
短い言葉を心の中に置く。飾りは要らない。長い言葉は、心を重たくするだけだ。
石段を上がる。苔が凍っていて、滑りやすい。足の置き場を一段ずつ確かめ、体重を静かに移す。社の前に立つと、祠の屋根の端に、朝の光が細い線を描き始めていた。
敷き布を広げる前に、サーミアは手を合わせた。「おはようございます」と小さく言う。声に息が白くまとわり、すぐに消えた。
荷をほどき、布を敷き、膝掛けを座面代わりに折りたたむ。水筒の栓を軽くひねり、湯を一口。口の中に温度が広がる。待つための支度は、待つための心を整える支度でもある。母の手順を思い出しながら、ひとつずつ、同じ順でやる。
座って、静かに耳を澄ます。鳥の声。遠い木の軋み。自分の呼吸。胸の火種が、小さく脈打つ。
村に残した父と母の顔を、まだ思い出さないようにする。思い出すのは、帰るときでいい。いまは、ここにいる。ここで、待つ。
ふと、村の伝承がサーミアの頭をよぎった。婆さまが言った古い言葉──「奉仕の徒」。字が読めない誰かが、別の誰かに渡すために、口の形で運んだ言葉。途中で形が変わって、意味が削れて、それでも芯だけは残った言葉。自分は、今、その言葉の輪の中に足を踏み入れたのだろうか。
答えは出ない。けれど、答えは要らなかった。火種は相変わらず静かに燃え、風は相変わらず一定の向きで頬を撫でる。導きは、問いよりも先にある。
鈴の音は、風にまぎれていたのか、それとも祠の奥底からわき上がるものだったのか。サーミアの耳には一瞬だけ、透明な音が届いた。心臓が小さく跳ね、手のひらがほんの少し汗ばんだ。
葉の間から差し込む光が、祠の銅板のへりに細い線を描く。朝の空気はまだ冷たく、白い息が一瞬だけ空に溶ける。サーミアは布をきちんと折り、おのおのの代わりの膝掛けを重ねた。待つためにする所作は、思ったより落ち着かせるものだった。
これから面白くなっていく予定なので、どうぞ期待も込めて評価のほどよろしくお願いします。