一九一一年四月十五日、海軍艦政本部は新戦艦「石見」級の設計案を正式に承認した。石見級は大日本帝国海軍初の「ド級」戦艦として構想され、三万一千トン級の巨艦に十三インチ連装砲塔五基を備える、いわば帝国造艦技術の到達点であった。速力二十三ノット、舷側装甲十一・五インチ、砲塔装甲十二インチ。艦隊戦を主眼とした高火力・中装甲のバランス型戦艦である。だがこの艦は、単なる兵器ではなく、帝国そのものの技術と海軍力を象徴する存在でもあった。
八月二日、呉海軍工廠で一番艦「石見」、長崎で二番艦「香取」が起工。翌一九一二年四月六日には三番艦「鹿島」が横須賀で建造を開始した。
しかしそのさなか、同年末には露仏協商が軍事同盟へと格上げされ、欧州における協商圏の軍事的一体化が現実のものとなった。日本政府はこれを「潜在的包囲網の形成」と受け止め、軍事・外交両面での独自戦略の再検討に入る。外交ルートは未だ平静を保っていたが、日本は確かに欧米列強からの圧迫を感じ始めていた。
そして、遂にこの危うい均衡は崩れ去ることになる。一九一三年二月三日、台湾南東沖で哨戒中の海防艦「干珠」が、不明潜水艦による魚雷攻撃を受けた。命中には至らず、被害は厨房で驚いて火傷をした水兵のみだったが、事件は国内外に大きな波紋を呼んだ。日本側は、現場付近に残された航跡や干珠の見張り員の報告への分析から、英領香港か独領膠州湾を拠点とする潜水艦による偵察行動の可能性を指摘。イギリス・ドイツ政府は関与を全面否定したが、東京では「帝国南方海域への威嚇行動」と受け止められ、新聞各紙は連日「干珠事件」として報道した。
日本政府は十五日、事件をハーグの国際法廷に提訴したが、英独両政府は証拠不十分として調査への協力を拒否。ヴィルヘルム二世はドイツ周囲の欧州情勢の緊迫から、表向き声明を発さなかったが、日本政府の振る舞いに憤慨した。英独両政府の行動の結果、事件は宙に浮いたまま終息を見ず、世論は「列強の不誠実」を糾弾する方向へ傾いた。二月下旬には赤日艦隊に出動準備命令が下り、呉・佐世保の両鎮守府では補給・再編が進められた。大本営はこの時点で、英領威海衛および黄海・東シナ海の制圧作戦を前提とした海上戦略案を立案していた。
一方、大西洋の向こう側でも、事態は静かに進行していた。アメリカ合衆国は英米同盟の精神に基づき、極東情勢への監視を強化していた。サンディエゴ事件以降、米国では日本に対する警戒が高まり、「太平洋の自由航行」を掲げる海軍派が議会で発言力を増していた。干珠事件後、ワシントンはロンドンと情報を共有し、極東での「協調的措置」を検討。三月上旬、ウィリアム・タフト大統領は議会演説で「太平洋の均衡を脅かす国家には断固たる対応を取る」と述べ、事実上、日本を牽制した。
その頃、ロンドンでは政治が揺れていた。イギリス議会では、保守党および海軍拡張派が「日本への懲罰的措置」を求め、新聞各紙は「新黄禍論」を煽り立てた。『タイムズ』紙は「日本は自らの沈黙をもって挑発している」と報じ、海軍省高官は「日本の造艦能力はもはやロシアではなく我々を脅かす」と証言した。こうした世論の高まりは政府を圧迫し、自由党内閣は外交交渉による収束を模索したが、議会の強硬派と世論の流れに抗しきれなかった。三月下旬、英米両国は非公式協議を行い、「アジアの秩序維持を目的とする限定的行動」という名目の下、極東における軍事的協力を合意した。
そして四月三日、イギリスがモロッコ内乱に軍事介入を発表すると、日本外務省はただちに抗議声明を発した。「主権を持たぬ民族に対する軍事干渉は、文明の名を借りた侵略である」との文言は、欧州では異例の強硬なものであった。もはやこの時点で、日本政府は戦争回避を諦めていた。国内の世論工作に長けた「谷」の助言もあり、日本政府はイギリス国内の世論に油を注ぐことで早期開戦を実行することを決定していた。この一連の強硬な日本の行動に対し、ロンドンでは日本の抗議を「小帝国の傲慢」として受け止め、報道は一斉に対日敵視を強めた。保守党の演説は「ロシア、ドイツの次は日本である」と高揚し、議会では「帝国の名誉を守るための懲罰行動」が圧倒的多数で可決された。
同月七日、アメリカ議会も「アジア・太平洋の安定のため、同盟国イギリスを支持する」との決議を通過。これにより、日英対立は英米協調による国際的枠組みへと拡大した。ワシントンは直接の宣戦布告を避けたが、フィリピン駐留艦隊への出動命令を発し、事実上の共同戦線を形成した。
四月十日、東京で御前会議が開かれ、天皇の裁可により赤日艦隊の出動が正式に命ぜられた。旗艦は戦艦「富士」、主力は既に就役していた巡洋戦艦「常念」と大型巡洋艦「聖」「仙丈」を中心に構成された。石見級三隻は依然として建造中であり、実戦配備には至っていなかった。だが、国民の間では「新鋭艦が完成すれば帝国は無敵となる」との期待が高まり、新聞は「帝国の運命、再び海に問わる」と報じた。
四月十五日、イギリス議会は「対日懲罰決議案」を可決し、翌十六日、アメリカがそれを支持する共同声明を発表。十七日夜、日本外務省は両国通牒を「実質的な宣戦布告」と判断。十八日午前二時、帝国政府は英米両国に対し開戦を布告した。
こうして、台湾沖の小事件に端を発した外交的衝突は、最終的に日英米の三大国を巻き込む全面戦争へと発展した。第二次日露戦争からわずか十年。今度は、かつて文明の典範とされた大英帝国と、その盟友アメリカが、新列強日本と衝突する時代が到来したのである。