旗艦沈没
一九一三年五月、日本は英米との開戦と同時に、戦争初期の主導権確保を目的として威海衛奇襲上陸を開始した。当時、英国の極東戦力は本国での対独艦隊整備に重点を置いていたため、最新鋭艦の多くを欧州海域に割かざるを得ず、極東には旧式装甲巡洋艦と小規模の海兵隊のみが配置されていた。英国政府は対日関係の急激な悪化を想定しておらず、東アジア方面の戦力配備は根本的に遅れていた。そのため、五月四日に始まった日本陸軍の上陸作戦に対し、現地の英軍は有効な抵抗を組織できず、威海衛は短期間で日本軍の占領下に置かれた。
同期間、英米側は主力艦隊の極東到達までの時間稼ぎとして、通商破壊を軸とする暫定戦略を採用していた。日本本土と樺太、北洋漁場、北海道沿岸を結ぶ北方海運路は、食糧・石炭・木材などの輸送に不可欠であり、ここへの打撃は日本経済に対して一定の圧力を与えると判断された。そこで、極東に残る英米装甲巡洋艦を用い、日本船団への攻撃を実施させた。彼らに期待された任務は、日本側の注意力を北へ引きつけ、主力艦隊が極東に到達するまでの期間、日本海軍の自由行動を制限することであった。
五月五日の「オホーツク海海戦」は、この英米側の通商破壊作戦に対する日本側の迎撃行動として発生した。日本海軍は、巡洋戦艦常念を中心とする高速打撃群を派遣した。この戦隊は大型巡洋艦聖・仙丈、烏帽子級軽巡三隻、駆逐艦八隻で構成され、速度と集中火力を特徴とする新しい編成であった。対する英米側はリヴァイアサン級装甲巡リヴァイアサンとタコマ級タコマで、いずれも日本船団を攻撃するため単独行動をとっていた。両艦は速力の優位を持つ常念戦隊から逃れることができず、短時間で撃破された。リヴァイアサンは主砲弾が弾薬庫に達して爆沈し、タコマも集中砲撃の結果、沈没した。これにより北方海運路への攻撃は一時的に封じられ、日本側は戦略的優位を確保した。
しかし、この時期の日本海軍は勝利の陰で深刻な戦力運用上の問題を抱えていた。北方での戦闘後、常念戦隊は長距離行動からの帰還および補給、整備のため即時の出撃が不可能であった。また、装甲巡洋艦のうち二隻は台湾・上海方面の哨戒任務に投入されており、日本本土周辺の即応戦力は著しく不足していた。戦争初期において、日本海軍は広範な海域を同時に警戒する必要があったが、そのため高速打撃戦力が分散し、結果として決定的瞬間に集中できないという構造的欠陥が露呈したのである。
その結果、六月十二日の「威海衛沖海戦」では、本来なら常念戦隊が担うべき船団攻撃阻止任務を、前弩級戦艦富士・三笠が代行するという異例の運用が行われた。これは北方帰還中の高速戦力が間に合わず、さらに装甲巡洋艦が広域哨戒に投入されていたためであった。富士は一八九七年に英国で建造された旧式艦であり、すでに現代的戦力としては限定的な価値しか持っていなかったが、即応可能な艦艇が他に存在しない以上、投入せざるを得なかった。
海戦は日本側の英装甲巡モンマス撃沈という戦果こそあったものの、船団壊滅には至らず、英軍の威海衛守備隊への増援を許してしまった。さらに富士が魚雷攻撃を受け沈没する結果となった。戦力全体として見れば、富士の喪失が日本海軍の実戦能力に与える影響は限定的であったが、富士は赤日艦隊創設期からの象徴的旗艦であり、富士体制の象徴でもあったため、その沈没は国内外に強い印象を与えた。
国外では、英米海軍省の分析はいずれも冷静で、富士沈没よりも「なぜ富士を投入せざるを得なかったのか」という点に注目した。英国海軍省の戦時報告では、「日本艦隊は複数戦域で同時に高機動戦力を保持する能力を欠く」と評価し、アメリカ海軍も同様に「日本艦隊の高速打撃力は局地的には優越するが、継戦持続力と展開余裕に欠ける」と結論づけた。富士喪失という事象より、戦力配置の不整合が日本海軍の弱点として認識されたのである。
一方、日本国内では、天皇中心の統制的社会主義体制の下で、富士沈没は政治的に再解釈された。政府は富士の喪失を「旧世代艦隊から新世代艦隊への移行」と位置付け、建造中の石見級戦艦を新時代の象徴として宣伝した。これにより国内の士気は維持されたが、軍令部内部では運用上の失敗として厳しい検討が行われた。特に、装甲巡洋艦を広域哨戒に用いたこと、高速戦力を分散させたことが重大な誤りとされた。
富士沈没後、日本海軍は装甲巡洋艦の哨戒任務を解除し、再び船団護衛・敵装甲巡迎撃という直接的な打撃任務に集中させる方針を採用した。さらに、常念戦隊の拡充と集中運用が重視され、艦隊総司令部は暫定的に常念へ移転された。将来的な旗艦候補としては建造中の石見が想定され、高機動打撃艦隊を中核とする第二期赤日艦隊構想が、この時期から具体化し始めることとなった。
オホーツク海海戦、威海衛沖海戦、そして富士沈没。これら三つの出来事は、日本海軍が局地的優勢を維持しながらも、広域戦争への対応能力に重大な制約を抱えていたことを明らかにした。特に、戦力の分散運用、即応艦隊の不足、高速戦力の複数戦域同時投入能力の欠如は、その後の日本側の艦隊運用の大きな転換点となった。この初夏の経験は、赤日艦隊が次の段階へ移行するための現実的基盤を形作る契機となったのである。