赤日艦隊抜錨セヨ   作:佐竹福太郎

12 / 12
あけましておめでとうございます()


威海衛陥落

 「日英米開戦」および「旗艦沈没」において語られる一連の海戦は、極東大戦の表層をなすものであった。しかしその背後で、戦局の前提そのものを決定づける作戦が進行していた。山東半島北岸、天然の良港・威海湾とその中核である英領威海衛に対する日本軍の奇襲上陸である。本作戦は単なる拠点奪取ではなく、黄海北部の制海権と兵站基盤を一挙に確保することを目的とした、戦略的初動作戦であった。

 

 威海湾は東西に開けた湾口を持ち、その中央に劉公島が横たわることで内湾を形成する天然の要害である。湾北岸には威海衛市街と港湾施設が広がり、南岸には丘陵が連なり栄成方面へと続く。湾内外には小規模な砲台や信号所が点在していたが、これらは近代要塞として体系化されたものではなく、平時の監視と局地防御を前提とした配置に過ぎなかった。

 

 守備を担っていたのは海兵隊大佐エドワード・ハミルトンである。彼は司令部を劉公島に置き、湾内通信と監視を統括していたが、開戦直前の最大の問題は情報の欠落にあった。日本側は開戦と同時に電波封止および海底通信線の妨害を実施しており、香港および上海方面との通信は断続的となっていた。その結果、五月四日未明の時点においても、ハミルトンは全面戦争の開始を確証できず、「緊張の急激な上昇」という曖昧な状況認識にとどまっていた。

 

 この認識の遅れが致命的となる。彼は警戒強化を命じていたものの、兵力は依然として分散配置のままであり、砲台も完全即応態勢にはなかった。湾口の監視は薄く、夜間警戒も形式的なものに留まっていたのである。

 

 五月四日午前四時過ぎ、濃霧の中で異変が発生する。威海湾東方外海より接近した日本上陸船団が、湾口東側より侵入したのである。日本側は正面の劉公島砲台を避け、成山頭に近い防備の薄い海岸を上陸点として選定していた。この判断は極めて合理的であり、湾内への側面浸透を可能とした。

 

 第一波として上陸したのは海軍陸戦隊約千五百名、指揮官は小沢義成少佐であった。彼は上陸と同時に部隊を三群に分け、沿岸砲台制圧、通信遮断、湾岸制圧を同時並行で実施させた。これにより英側の情報網は初動で寸断され、ハミルトン司令部は戦況把握能力を喪失した。

 

 湾口東側砲台では英砲兵が応射を試みたが、射界調整の不備と奇襲の混乱により効果的射撃を行えず、短時間で制圧された。陸戦隊はそのまま湾岸を西進し、市街東端へ突入する。市街では海兵隊が応戦したが、日本軍は建物と地形を利用した浸透戦術により、拠点ごとに分断・制圧していった。

 

 午前五時半頃、ようやくハミルトン大佐は大規模上陸の事実を把握し、全軍集結を命じた。しかし通信網の崩壊により命令は徹底されず、各部隊は孤立したまま戦闘を強いられた。北岬砲台ではウェルズリー中尉が抗戦したが戦死、港湾部隊も側面を衝かれて後退した。

 

 午前六時以降、陸軍第十七師団先遣隊が上陸し、戦局は決定的に傾く。歩兵第六十七連隊は環翠楼周辺の高地を占領し、湾内と市街を俯瞰する射撃位置を確保した。これにより英側は港湾機能を完全に喪失する。一方、第六十八連隊は南岸へ進出し、湾を挟んで包囲を完成させた。

 

 午前中のうちに威海衛市街は完全に制圧され、港湾・行政・兵站施設は日本軍の手に落ちた。ハミルトン大佐は残存兵力を率いて南方丘陵へ撤退し、栄成方面で持久戦に移行する。この時点で威海衛は戦術的には陥落したが、戦役としてはまだ継続段階にあった。

 

 この報は遅れて香港に伝わる。東洋艦隊司令部は当初これを誤報と疑ったが、複数情報の一致により事実と確認、即座に増援派遣を決定した。装甲巡洋艦「モンマス」を中心とする部隊に兵員と補給物資を搭載し、威海衛への急行が命じられた。

 

 ロンドンでは事態はさらに重大に受け止められた。海軍省は緊急会議を開き、極東戦力軽視の責任問題が議論された。議会では「帝国の東洋拠点が奇襲で失われた」という事実が強い衝撃を与え、対日強硬論は一層激化した。

 

 一方、日本側は威海衛の確保と並行して英増援阻止を図ったが、ここで戦力運用上の問題が露呈する。巡洋戦艦を中心とする高速打撃群はオホーツク海に分散しており、即応可能な主力は前弩級戦艦に限られていた。この不備のまま迎撃戦となったのが六月十二日の威海衛沖海戦である。

 

 戦闘の結果、「モンマス」は撃沈されたものの、輸送船団の一部は湾外に到達し、夜間小艇輸送によって兵員が南岸へ上陸した。すなわち、日本側は戦術的勝利を収めつつも、戦略目標である「増援完全阻止」には失敗したのである。

 

 この増援により、ハミルトン大佐麾下の残存部隊は戦闘継続能力を回復した。彼らは栄成丘陵地帯を拠点に遊撃戦を展開し、日本軍の補給線や哨戒線を襲撃した。地形は複雑であり、小規模戦闘が断続的に発生した。

 

 これに対し日本軍は、湾岸および内陸丘陵を区画分割し、段階的掃討を実施した。包囲・圧縮・殲滅を基本とする戦術により、英側拠点は徐々に制圧されていく。海軍も湾口封鎖を徹底し、外部からの補給路を完全に断った。

 

 六月下旬、主要抵抗はほぼ終息し、ハミルトン大佐は七月初旬の戦闘で負傷後に消息を絶った。戦死説と脱出説が併存するが、確証はない。

 

 一九一三年七月十一日、日本政府は威海衛の完全占領を宣言する。劉公島を含む湾内全域は日本の管理下に入り、港湾は速やかに兵站基地として再編された。威海湾は以後、赤日艦隊の重要泊地として機能し、黄海作戦の基盤となる。

 

 威海衛攻略戦は、奇襲・機動・地形利用の結合によって短期的優位を確立し、その後の持続的圧迫により勝利を完成させた戦役であった。同時に、英側の増援を完全には阻止できなかった点は、日本海軍の戦力集中能力に課題を残した。

 

 それでもなお、この作戦の戦略的意義は揺るがない。威海湾の掌握は、日本に内線作戦の自由を与え、以後の海戦すべてに影響を及ぼす基盤となった。本戦は表面的には短期間の占領戦であるが、その実態は極東大戦初期の帰趨を決定づけた「基盤戦」であったと言える。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。