赤日艦隊抜錨セヨ   作:佐竹福太郎

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海上封鎖

 澎湖諸島沖海戦は、日本海軍にとって巡洋戦艦部隊の戦力喪失という大きな代償を残した。一方、イギリス海軍もアメリカ戦艦「ミネソタ」を失い、日本海軍の夜戦能力を改めて認識することとなった。双方とも決定的勝利には至らなかったものの、極東における海軍力の均衡は一時的に協商国側へ傾き、日本近海の戦局は新たな段階へ移行した。

 

 八月中旬、香港へ集結したイギリス極東艦隊は、日本本土への圧力を強めるため、九州南方から東シナ海にかけて封鎖線の構築を開始した。目的は日本艦隊との決戦ではなく、日本の海上交通を妨害し、経済的圧力を加えることで講和へ持ち込むことにあった。アメリカ海軍もこれに協力し、フィリピンを拠点とする巡洋艦隊を台湾東方海域へ展開させ、日本商船への臨検や監視活動を開始した。

 

 もっとも、この封鎖は十九世紀以来の伝統的な近接封鎖とは異なり、香港・マニラという遠距離基地を依拠とする外洋封鎖であった。日本本土近海には依然として赤日艦隊の装甲巡洋艦部隊や水雷部隊が活動しており、英米艦隊は補給上の制約から長期間同一海域へ留まることができなかった。そのため封鎖線は断続的なものとなり、日本沿岸を完全に孤立させるまでには至らなかった。

 

 九月二日には、フランス共和国が英仏同盟の履行を理由として日本へ宣戦布告した。もっとも、当時のフランス政府にとって最大の脅威は依然としてドイツ帝国であり、極東への本格的な艦隊派遣には極めて消極的であった。実際に派遣された兵力はインドシナ方面の警備艦艇を中心とする限定的なものであり、対日戦への参加は主として外交的意味合いが強かった。

 

 それでも、日本が英米仏三か国を同時に敵へ回した事実は世界に大きな衝撃を与えた。欧州各紙は「東洋の新興帝国、遂に全列強と対峙す」と報じ、ロンドンでは日本の経済的孤立は時間の問題であるとの見方が支配的となった。英国海軍省も、日本は海外からの資源輸入に依存しており、海上封鎖を継続すれば自壊すると分析していた。

 

 しかし、戦局は協商国の予想どおりには推移しなかった。日本政府は開戦直後から沿岸航路の利用を徹底し、船団護衛を強化するとともに、中立国である上海連合を経由した貿易体制を急速に整備した。海外から上海へ運ばれた物資は、中立国向け貨物として取り扱われた後、小型輸送船へ積み替えられ、日本海軍の制海権下にある華北沿岸や対馬海峡を経由して本土へ運び込まれた。

 

 このため、協商国側は日本向け物資であることを認識していても、それが上海連合向けとして輸送される以上、国際法上これを拿捕することは困難であった。日本近海へ進出して摘発を試みても、赤日艦隊の哨戒網と補給距離の問題から十分な成果は得られず、海軍省が期待した経済封鎖は徐々に形骸化していった。

 

 ワシントンでは、こうした状況を受けて日本近海への艦隊派遣を増強すべきとの意見が海軍内部で高まったが、太平洋を横断する兵站線の維持には限界があり、議会でも慎重論が根強かった。一方、英国でも香港を前進基地とした作戦の限界が認識され始め、極東艦隊は決定的な海戦によって日本海軍を撃滅しない限り、戦局を動かすことは難しいとの結論に達している。

 

 日本海軍もまた、巡洋戦艦部隊を失った影響から積極攻勢は控えざるを得なかった。軍令部は主力艦決戦を避け、装甲巡洋艦隊や水雷戦隊による局地戦を積み重ねながら、石見級戦艦の完成まで戦力を温存する方針へ転換した。この時期の赤日艦隊は、開戦当初の積極攻勢から持久戦への移行を余儀なくされたのである。

 

 こうして一九一三年秋の極東戦線は、双方とも決定打を欠いたまま膠着状態へ入った。しかし、その水面下では次なる主導権を巡り、英米艦隊は日本近海への圧力を、日本海軍は夜戦と局地戦による反撃をそれぞれ準備していた。この均衡が再び破られるのは、同年十月、福江島沖で発生した日米装甲巡洋艦隊同士の夜戦であった。

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