一九一四年初頭、極東戦線は膠着状態に入っていた。しかし、この均衡は日本軍の善戦だけによって維持されていたものではない。その背後では、各国の戦略的思惑と外交上の利害が複雑に交錯し、一つの戦争でありながら、各国はそれぞれ異なる目的のために戦っていた。
特に一九一四年一月三日のスペイン参戦は、極東戦線以上に世界戦略へ大きな影響を及ぼした。
イギリス海軍は当初、香港を前進基地として日本本土への海上封鎖を維持し、本国から順次主力艦隊を極東へ送り込む計画を立てていた。しかし、スペイン参戦によって状況は一変する。
ジブラルタル海峡は、大西洋と地中海を結ぶ帝国航路最大の要衝であり、その安全は極東以上に優先される問題であった。ロンドン海軍省は地中海方面への艦隊転用を余儀なくされ、極東への増援計画は大幅に遅延した。香港艦隊は現有兵力での持久戦を命じられ、日本近海での本格攻勢を断念せざるを得なくなった。
フランスもまた事情は同様であった。対日参戦は露仏同盟を背景とした外交的意味合いが強く、本格的な極東遠征を企図していたわけではない。スペインの参戦は地中海方面の防衛を優先させる結果となり、日本戦線へ投入できる兵力はさらに限定された。
一方、アメリカ海軍は日本近海への艦隊派遣を継続していたものの、その作戦には根本的な兵站上の問題を抱えていた。
アメリカはイギリスとは共同歩調を取っていたが、ロシア帝国とは軍事同盟関係になかった。そのため、ウラジオストクを補給基地として利用する権利を持たず、日本海方面へ進出した艦隊は、作戦終了後にフィリピンまで帰投しなければならなかった。イギリスもまた、威海衛陥落後は香港以北の恒久的な港湾拠点を失っており、日本海や黄海へ艦隊を長期間展開することは困難となっていた。
福江島沖海戦をはじめ、日本近海で実施された英米艦隊の作戦がいずれも短期間の襲撃に終始した背景には、この兵站上の制約が存在していたのである。
これに対し、日本は呉、佐世保、威海衛を結ぶ内線補給網を維持するとともに、中立国である上海連合を経由した国際貿易を継続していた。
当初、英米両国は日本本土への海上封鎖によって短期間で日本経済を疲弊させられると予測していた。しかし実際には、各国の商船は一旦「上海連合向け」の貨物として入港し、現地商社や銀行団を経由して日本へ再輸出されていたのである。
上海連合は単一国家ではなかった。
上海市を中心に、周辺港湾都市、各国租界、華人財閥、外国商社、金融機関、港湾組合などが緩やかな共同体を形成した都市連合であり、その内部では利害対立も少なくなかった。しかし、「中国市場の安定」という一点においてのみ各勢力の利害は一致しており、それこそが上海連合を存続させる基盤となっていた。
列強にとっても、その秩序は極めて重要であった。
イギリスは金融・海運・綿工業、アメリカは投資・機械輸出、フランスは銀行業と租界経営など、それぞれ莫大な利益を上海連合から得ていた。上海連合は単なる中立国ではなく、列強資本が集積する東アジア最大の経済圏であり、中国市場全体を安定させる調整機構でもあったのである。
このため、協商国首脳部では上海連合への対応を巡って激しい議論が続いていた。
海軍当局は、上海連合こそ日本経済を支える生命線であると分析し、港湾封鎖あるいは武力占領によって日本への物流を遮断すべきであると主張した。
しかし、外務当局と経済界は強く反対した。
上海連合へ侵攻すれば、日本への補給路を断つことはできるかもしれない。しかし、その代償として上海連合の緩やかな秩序は崩壊し、各都市勢力、地方軍閥、革命派、秘密結社などが独自に行動を開始する危険性が高かった。列強が数十年をかけて築き上げた中国市場そのものが混乱に陥り、戦後の経済的利益まで失う可能性が指摘されたのである。
軍事的合理性と経済的合理性は、ここで真正面から衝突した。
結果として協商国は最後まで結論を出すことができず、上海連合は戦争を通じて中立を維持した。日本は世界有数の海軍国を敵に回しながらも、上海連合という仲介者を通じて世界経済との結び付きを維持し続けたのである。
一方、その頃サンクトペテルブルクでは、対日参戦を巡る議論が続いていた。
イギリスとアメリカは戦局打開のためロシア帝国の参戦を望んでいたが、ロシアは両国との軍事同盟関係になかった。このため、英米は同盟国フランスを通じ、露仏同盟に基づく参戦要請を繰り返していた。
しかし、ロシア政府は容易に応じなかった。
第二次日露戦争敗北後、ロシア海軍はなお再建途上にあり、新鋭艦艇はバルト海方面への配備が優先されていた。極東艦隊は未完成であり、海軍省は「現状では日本海軍との決戦能力を有しない」と報告していた。陸軍省もまた、シベリア鉄道による兵力輸送にはなお数か月を要すると見積もっていた。
宮廷内でも意見は分かれた。
「英国のために再び日本と戦う理由はない」と慎重論を唱える閣僚に対し、軍部強硬派は「日本はいま英米との長期戦で疲弊している。雪辱を果たすなら今しかない」と参戦を強く主張した。
最終的な決断を下したのは皇帝ニコライ二世であった。
皇帝は長く参戦をためらったとされるが、第二次日露戦争の敗北は帝国最大の屈辱として今なお宮廷に深く刻まれていた。また、ロシア政府へ届けられる情報は、「日本海軍は主力艦を損傷し、継戦能力は著しく低下している」という英仏側の分析に大きく依存していた。
しかし、その認識は現実とは異なっていた。
実際には、赤日艦隊はこの数か月で巡洋戦艦「常念」「聖」「仙丈」の修理を終え、威海衛要塞の整備も完成しつつあった。さらに上海連合を経由する補給網によって経済も維持されており、日本は列強が予想したほど疲弊していなかったのである。
それでもニコライ二世は、外交上の要請と雪辱への執念を優先した。
一九一四年五月四日、ロシア帝国は露仏同盟の履行を理由として日本へ宣戦布告する。
皮肉にも、その時点で極東艦隊の再配置はなお完了していなかった。ロシアは艦隊の集結を待たず、外交的決断を軍事的準備に先行させたのである。
後年、多くの軍事史家は、この決定を「外交が軍事を追い越した典型例」と評している。ロシアが対峙することになったのは、英仏が想定した疲弊した日本ではなく、半年に及ぶ修理と再編を終え、開戦以来もっとも充実した戦力を整えた赤日艦隊であった。