飛騨級戦艦
[建造計画の始動]
1924年10月18日、帝国海軍は新型戦艦の建造計画を正式に発令した。同年、南洋方面からの赤日艦隊の帰還、戦時体制の解除、ドイツ帝国からの正式な植民地移管手続きが完了し、日独戦争の戦後処理は一段落を迎えていた。
新型戦艦の必要性自体は日独戦争以前から海軍内で指摘されていたが、白馬級の建造および水雷戦力の近代化に資源が優先的に配分されたため、計画は具体化に至らなかった。1924年の時点で水雷戦力の近代化はほぼ完了し、建造中の大型艦も白馬級3番艦「鳩間」一隻のみとなっていた。呉・横須賀両工廠および国営造船所にも造船能力の余裕が生じ始めており、新型戦艦の建造に着手する条件が整った。
[要求性能]
計画において新型戦艦に課された要求は、15インチ砲の搭載、白馬級を下回る建造費、25ノット以上の最高速力、白馬級を上回る防御性能の四点であった。これらは表面上、相互に矛盾する要求と見なされた。大口径砲と重装甲を維持しつつ建造費を抑え、なおかつ25ノット以上の高速力を確保するには、艦体および機関部の大型化を避けることが技術的に困難だったためである。
しかし海軍当局の認識では、これらの要求は矛盾するものではなく、白馬級の運用実績と日独戦争の戦訓を踏まえた統合的な解決策として位置づけられていた。その背景には、日本海軍が明治期以来保持してきた主力艦運用思想が存在する。
[日本海軍の主力艦思想]
日本は列強と比較して主力艦の保有数で劣勢にあり、艦艇数の単純な増加による対抗は困難であった。このため、一隻あたりの戦闘力を最大化する方針が海軍の基本方針として定着していた。加えて第一次・第二次日露戦争および極東大戦において、高速な装甲巡洋艦を主力とした機動的な作戦運用が戦局を有利に導いた実績があり、これが海軍内における速力重視の思想を強化する要因となった。
この思想において、速力は敵艦隊への追撃・離脱能力にとどまらず、複数正面に戦力を分散させる敵に対し、少数の主力艦を機動的に集中運用するための戦略的要素として位置づけられていた。この思想を主導した将校群は後年「機動艦隊派」と呼称されるが、彼らの主張は防御力を犠牲にした速力偏重ではなく、火力・防御・速力の全てを高水準で確保した上で機動力を発揮するというものであった。
[白馬級の建造とその限界]
白馬級はこの思想を体現した艦であった。石見級戦艦以降、日本の大口径砲開発は列強に対して遅れを取っていた。石見級の13インチ砲に対し、列強各国は14インチ砲を搭載した戦艦・巡洋戦艦を相次いで就役させ、石見級の火力的優位は失われつつあった。日本国内でも14インチ砲の開発が試みられたが技術的難航により停滞し、最終的にフランスより15インチ砲関連の技術資料を非公式に入手することで対応した。13インチ砲の増設案も検討されたが、重量増加が防御性能との両立を困難にすることから採用されず、15インチ砲の導入が決定された。
結果として竣工した白馬級は、戦艦級の装甲、15インチ砲6門、30ノットの高速力を兼ね備えた大型艦となった。後年の海軍史においてこの設計は「妥協の産物」と評されることもあるが、数的劣勢下にある日本海軍にとって、正面交戦能力と機動力を両立させる合理的選択であったとする評価も存在する。
一方でその代償も大きかった。30ノットの速力を実現するため、白馬級は1920年当時としては異例の4万トン級にまで大型化し、艦体の相当部分を機関区画が占めた。大型艦用ボイラーおよび機関の供給不足は建造の遅延と費用の増大を招いた。白馬級3隻の建造には5年以上を要し、同時並行での建造も実現しなかった。この建造ペースの遅さは、少数精鋭主義を採る日本海軍にとって構造的な弱点となった。艦艇の喪失に対して代艦を迅速に補充できない場合、戦争の長期化に伴って戦力差が拡大する可能性があったためである。
日独戦争においてこの問題は現実のものとなった。白馬級は高い戦闘能力を発揮した一方、南洋方面を含む広大な作戦海域を少数の主力艦で担うには艦艇数が不足しており、巡洋戦艦戦力の不足が作戦上の制約として顕在化した。
さらに北マリアナ沖海戦では、白馬級の防御面における弱点が露呈した。同海戦において巡洋戦艦「白馬」はドイツ巡洋戦艦「リュッツォウ」の魚雷攻撃を受け、浸水により浮力の約半分を喪失する損害を被った。機関区画に重量配分を集中させた設計上の帰結として、水雷防御に十分な余裕が確保されていなかったことが要因とされる。
[新型戦艦への設計方針]
1924年の新型戦艦計画は、白馬級の長所を継承しつつ、その弱点を是正することを目的として策定された。15インチ砲および高速力は維持されたが、最高速力については30ノットではなく25ノットが採用された。
海軍省と工業省による共同検討では、造船能力、機関製造能力、鋼材生産能力、機関部品供給能力を総合的に分析し、30ノット維持の場合に想定される機関部の肥大化と建造費増大について検証が行われた。その結果、最高速力を25ノットに設定することで必要機関出力を大幅に削減でき、それによって生じる余剰重量および予算を装甲・水雷防御の強化に振り向けられることが確認された。
25ノットは白馬級より5ノット低いものの、同時代の列強戦艦と比較すれば依然として高速域に位置し、日本海軍が重視してきた戦略的機動力を維持するのに十分な水準と判断された。この速力設定は、機動力を戦略的優位として維持しつつ、必要な工業資源を現実的な範囲に抑えるための調整点であったと位置づけられる。
機関部の縮小によって確保された余裕は、火力および防御力の強化に配分された。主砲は15インチ連装砲塔4基8門とされ、白馬級の6門から増強された。装甲についても白馬級を上回る防御性能が目標とされ、日独戦争の戦訓を踏まえて水雷防御が特に重視された。建造中であった白馬級3番艦「鳩間」に採用された改良型水雷防御方式が新型艦にも導入され、装甲厚の増加も決定された。
[戦艦・巡洋戦艦区分の変化]
この計画には、1924年当時の海軍内部に生じつつあった艦種区分に関する認識の変化も反映されている。従来、日本海軍は戦艦を本土防衛用の海上要塞、巡洋戦艦を南洋方面における高速遊撃戦力として運用上区別する傾向があった。しかし日独戦争を経て、両者の役割を厳密に分離する意義は薄れつつあった。
主砲口径や装甲厚には艦体重量・容積・建造技術上の制約が存在する一方、機関技術には発展の余地が残されていた。攻防性能の向上が技術的限界に近づく一方で機関技術が発展を続けた場合、戦艦と巡洋戦艦の区分は次第に不明瞭になるとの見解が、主に機動艦隊派を中心に支持された。この立場においては、艦種の分類そのものよりも、敵に先んじて必要な海域へ展開し、分散した敵戦力に対して局地的優勢を形成する能力が重視された。
[総括]
1924年に策定された新型戦艦はこうした思想的背景のもとに計画された艦であり、白馬級が体現した高速主力艦思想からの転換ではなく、その延長線上に位置づけられる。白馬級の設計思想自体は否定されなかったが、白馬級そのものを量産することは工業的に困難であるとの認識から、代替案として飛騨級の設計方針が導かれた。
最高速力を30ノットから25ノットへ引き下げることで機関部を縮小し、それによって生じた余剰重量を火力・装甲・水雷防御に再配分する。同時に艦体の小型化により建造費と建造期間を圧縮し、白馬級よりも多数の主力艦整備を可能とする。これは性能の単純な低下ではなく、限られた工業力を戦略的価値の高い領域へ再配分する設計上の判断であった。
1924年10月18日に建造が決定された本型は、後に「飛騨」級戦艦と称されることになる。最終的な設計諸元は、基準排水量35,000トン、最高速力25ノット、舷側装甲13インチ、甲板装甲4インチ、15インチ連装砲塔4基8門であった。白馬級との比較では最高速力が5ノット低下し排水量も縮小されたが、主砲門数は6門から8門へ増加し、防御性能も強化された。加えて、白馬級最大の課題であった建造費および建造期間の問題も一定程度解消された。
後世の海軍史においては、飛騨級はしばしば「高速戦艦」という新艦種の起点として言及される。しかし、その設計思想自体は新規のものではなく、日本海軍が明治期以来追求してきた「少数精鋭の高速主力艦」という基本方針を、白馬級という先行事例を経て、工業生産上持続可能な規模に落とし込んだ結果であったと評価されている。