1916年5月11日のジュネーブ講和は、スペイン王国にとって当初、輝かしい勝利として喧伝された。イギリス・フランス両国を相手取り、地中海の玄関口たるジブラルタルを封鎖し、大英帝国海軍の本国艦隊主力を欧州水域に釘付けにせしめたという事実は、19世紀末の米西戦争以来、後退の一途をたどってきたスペインの国威にとって、久方ぶりの光明であった。マドリードの新聞各紙は開戦当初「新たなるレコンキスタ」と謳い、国民は熱狂した。しかし、この戦争がもたらした現実は、当初の期待からは程遠いものであった。要塞ジブラルタルは、スペイン海軍による通商破壊と機雷敷設によって一時的にその機能を著しく損なわれはしたものの、地上からの本格的な攻略には至らず、講和条約においてなお英領として残されたのである。白紙和平と呼ばれたこの講和は、敗戦国と戦勝国の線引きを曖昧にしたまま、スペイン参謀本部が思い描いた「岩山の奪還」を、未完のまま凍結させることとなった。
この「勝利なき勝利」の代償は、静かに、しかし着実にスペイン社会を蝕んでいった。開戦から講和まで、およそ2年半にわたるピレネー方面での対仏戦線の維持と、地中海における対英作戦の遂行は、短期間ながらも王国の財政に急激な負荷を課した。戦時公債の発行、物価の高騰、そして動員された都市労働者の不満は、バルセロナを中心とするカタルーニャの工業地帯、およびアストゥリアスの鉱山地帯において、労働運動の急進化を促す土壌となった。戦争そのものは短期に終わったものの、性急な動員とその後の急速な解除は、かえって経済に歪みを残し、戦勝の栄光を謳う中央政府の言説と、地方における生活の困窮との乖離は、1910年代末までに看過し得ない亀裂となっていた。
軍部内における不満もまた、これに劣らず深刻であった。ジブラルタル方面で戦った将校団は、限られた戦力で大英帝国の海上交通に一撃を与えたとの自負を抱いていたが、講和がもたらしたのは要塞の確保ではなく、双方に決定的損害のないままの早期停戦にすぎなかった。「我々はようやく機を掴みかけたところで、外交によって梯子を外された」という言説は、1910年代を通じて軍内部に広く浸透し、文民政府と王宮に対する根深い不信の温床となった。この不信は、1906年に締結され、対英戦争を通じて日本との連携を担保してきた日西同盟が、1920年代に入るとともに事実上の形骸と化していったことによって、さらに深まりを見せた。極東において独自の覇権を確立しつつあった大日本帝国は、もはやヨーロッパの同盟国の後見役たる余裕も必要性も持ち合わせていなかった。スペインは、かつて共に戦った盟友からも、静かに見放されつつあったのである。
国王アルフォンソ13世の権威は、こうした情勢の中で徐々に空洞化していった。国王は開戦の裁可者として戦争当初の栄光を体現する立場にあったが、同時に、講和の不徹底に対する責任もまた、最終的には王冠に帰せられた。憤懣を発散する戦場を失ったスペイン軍の威信が、ジブラルタルの霧の中で燻り続けていた。短期間で幕を引かれた戦争でありながら、勝ちきれなかったという屈折した国民感情は、王政という伝統的権威の求心力を、静かに、しかし確実に蝕んでいった。
1923年秋、極東の情勢が、この燻る炎に新たな風を送り込んだ。オーストリア・ハンガリー帝国が日独戦争の混乱に乗じてドイツ帝国へ宣戦を布告し、欧州の勢力均衡が再び流動化する中、翌1924年8月にはアメリカとフランスが同盟を締結し、かつての協商連合が事実上復活した。ヨーロッパ全土が新たな陣営再編と再軍拡の緊張に包まれる中、スペイン国内の急進的な国家主義勢力は、隣国イタリアの政局にも注意を払っていた。もっとも、この時点のイタリアはなお議会政治の混乱と諸勢力の角逐が続く状態にあり、後にファシズム体制の範型となるような明確な政治的モデルは、まだ地中海のどこにも確立されていなかった。それゆえにこそ、スペインの国家主義勢力は既存の外国モデルの模倣者としてではなく、自らを地中海世界における先駆者として位置づける自負を強めていったのである。
彼らの目に、議会政治と王政の緩慢な妥協は、もはや国家の危機に対応し得ない旧弊としか映らなかった。ジブラルタル問題の再燃を求める軍部強硬派、労働運動の急進化を恐れる資本家層、そして「未完の勝利」を国民統合の物語へと転化させようとする国家主義知識人たちが、1920年代前半を通じて一つの潮流として合流していった。
1925年4月4日、事態は急速に動いた。国王アルフォンソ13世は、もはや軍と大衆運動の双方から突き上げられる形で、実権を新たな指導体制へと委譲せざるを得なかった。王政そのものは形式上存続したが、実質的な統治権力は、軍部と国家主義運動の結合体たる新体制へと移行した。
こうして成立したスペインの新体制は、対外的には「未完のレコンキスタの完遂」を、対内的には「労働運動という内なる敵の鎮圧」を、その存在理由として掲げることとなった。かつて日本と結び、短期間ながら大英帝国に一矢報いた王国は、10年に満たぬ歳月を経て、その戦勝の記憶を新たな権威主義体制の正統性の礎へと転用したのである。
ロンドンの外交官たちは、この報を複雑な思いで受け止めた。かつてジブラルタルを脅かした宿敵が、今度は明確な党派的独裁として自国の南に存在することになったからである。しかも、地中海においてこの種の体制転換が生じた先例はまだなく、ロンドンとパリの官僚たちは、これをイタリアに見られるような大陸的潮流の一環としてではなく、スペイン固有の戦後処理の失敗が生んだ、独自の政治的帰結として注視することとなった。多くの分析は、この体制転換が短期的には新たな軍事的冒険を招くものではないとも見ていた。スペインは、なお戦後の経済的混乱から完全には立ち直っていなかったからである。
だが、マドリードの新指導部が胸に秘めていたのは、まさにその混乱からの回復を待ち、いずれ再び「岩山」への視線を向けるという執念であった。地中海の均衡は、表面上の平穏を保ちながらも、新たな火種を内包し始めていたのである。