一九〇七年春、上海は再び国際政治の中心に立った。富士条約から三年、東アジアの勢力地図は一応の安定を見せていたが、その均衡は表層的なものでしかなかった。
上海連合――商人、知識人、旧新軍の残存部隊、地下結社や犯罪組織までもが入り混じった都市共同体――は、名目上「自治」と「共和」を掲げていたが、実態は脆弱な同盟体にすぎなかった。それぞれの派閥は、外国租界との取引、治安維持、武器取引、密輸において異なる利害を持ち、連合政府の統制は不安定だった。
上海は、東アジアにおける国際金融と商業の中心地であったが、資本と暴力の結節点ともなっていた。
五月二十日、港湾税の改定をめぐる会議が決裂した。港湾商人派と連合評議会内の旧新軍派が衝突し、連合治安隊が分裂。六月初旬には、連合の行政機構は麻痺し、市内各地で派閥間の銃撃戦が発生した。貿易路が遮断され、欧米商館は自警団を組織し、租界外の通商が完全に停止。
上海は「火と煙の都」と化した。
六月十二日、膠州湾を租借するドイツ帝国がこの混乱に介入した。ドイツ東洋艦隊司令部はヴィルヘルム二世の勅命により、「在留外国人の保護」を理由に陸戦隊の派遣を決定。六月十六日、約二千名の海兵隊が上海に上陸し、市政庁舎を占拠、「臨時統治」を宣言した。
上海連合の評議会は抗議声明を発したが、既に統制を失っており、実力で応じるしかなかった。旧新軍派と地下組織は一時的に共闘し、ドイツ軍政部への抵抗を開始。しかし、市街戦は短期間で収束し、ドイツは黄浦江沿岸を掌握した。
日本政府は即日抗議を発表し、六月十八日付で「上海の自治を蹂躙する不法行為」と非難した。英国外務省も警戒を示し、アメリカ国務省は「国際都市の単独統治は認められない」と声明を出した。それでも、ドイツ軍は布告を撤回せず、黄浦江を封鎖して上海港を実質的に閉鎖した。
六月下旬、上海連合の残存勢力が再び蜂起する。商人派、旧新軍派、さらには犯罪組織までが「抗独」の名目で連合を再結集させ、地下新聞が「上海は再び立つ」と報じた。しかし、内部統制は依然として不完全で、派閥ごとに異なる指揮系統が存在した。港湾労働者の暴動、密輸船の襲撃、警備隊の腐敗。市街の混乱はむしろ拡大していった。
七月三日、東京では御前会議が開かれた。議題は「上海における邦人保護および帝国の権威維持」。外務省は外交交渉による調停を主張したが、海軍軍令部は「躊躇は国際的影響力の喪失を意味する」と反論。最終的に天皇の裁可が下され、赤日艦隊の派遣が正式に承認された。
佐世保に集結した赤日艦隊は、戦艦三隻(旗艦「富士」ほか)、装甲巡三隻、防護巡六隻、補給艦数隻による大編制であった。七月八日に出港し、十日に上海沖へ到達。目的は「邦人救出および秩序回復支援」とされたが、実際にはドイツ艦隊への牽制が主眼であった。
一方、ドイツも黙していなかった。ヴィルヘルム二世は、「極東におけるドイツの権威を示すための迅速な行動」を求め、大洋艦隊の一部――戦艦三隻と装甲巡三隻――を極東へ派遣していた。この艦隊が東シナ海に到着したのは七月二十日、まさに赤日艦隊が上海沖に展開した直後である。
その状況下で、七月二十四日、「七・二四事態」が発生する。黄浦江口付近で、ドイツ装甲巡が日本商船を臨検しようとしたところ、護衛にあたっていた防護巡「千代田」が進路を遮り、両艦が至近距離で対峙した。間もなく、両国旗艦――日本の戦艦「富士」とドイツの「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」――が主力戦隊を率いて展開。戦艦群、装甲巡群、防護巡群がそれぞれの射程圏内に入り、砲塔が旋回した。赤信号弾が夜空を照らし、照準器が互いを捕らえた。三時間にわたる沈黙の対峙の後、日没をもって両艦隊は同時に後退。
発砲は一発も行われなかった。
この事件の報告は、ドイツ本国で「日本艦隊の挑発」として報じられた。七月二十八日、ヴィルヘルム二世はポツダム宮殿で演説を行い、「東洋の新興国が、西洋文明の秩序に刃を向けようとしている。ヨーロッパは再び、黄禍に備えねばならぬ。」と述べた。
この「第二次黄禍演説」は、実質的に日本を指弾するものであり、ヨーロッパ諸国に広く波紋を広げた。英仏政府は沈静化を促し、アメリカは中立を保ったが、列強の内部では「日本を要警戒対象とする」認識が固まり始めた。
一方、日本国内では全く異なる受け止めがなされた。新聞は「黄禍論の再来は、帝国の存在が世界に認められた証」と報じ、世論は熱狂的な愛国論調に傾いた。七月三十一日、海軍報道局長が「帝国の艦隊は、侵略帝国ドイツのいかなる挑発にも屈せぬ」と述べたことがさらに緊張を高めた。
八月に入ると、上海の情勢はようやく沈静化へ向かう。ドイツ軍政部は内外の批判に耐えきれず撤退を決定し、翌一九〇八年一月十二日、最後の陸戦隊が上海を離れた。そもそも、膠州湾と上海の港湾機能を動員しても、本土を近くに持つ赤日艦隊の展開能力に遠く及ばなかったのだ。ドイツ東洋艦隊は増援艦隊を合わせても赤日艦隊に劣勢を強いられことは必至だった。彼らはロシアの二の舞となることを恐れていた。赤日艦隊はそのまま同月二十八日に帰港し、動員を解除した。
上海連合は混乱の中から再び立ち上がった。旧新軍派、商人派、犯罪組織がそれぞれの縄張りを再確立し、緩やかな共存体制を回復する。秩序は安定したとは言えないが、少なくとも外部からの直接支配は免れた。上海は依然として「誰のものでもない都市」であり続けた。
その年の八月、上海湾で再び国際レガッタ大会が開催された。日本とドイツの代表団は握手を交わし、平和回復を宣言した。しかし、観覧席に並んだ列強の外交官たちは、誰もその言葉を額面通りには受け取らなかった。それは和解ではなく、互いの限界を確認するための儀礼にすぎなかった。
こうして上海危機は、戦火を交えずに終結した。しかし、その帰結は明白であった。日本は、欧米列強の一国としてではなく、東アジアの秩序を実質的に左右する地域覇権国として認識されるに至ったのである。
富士条約が「列強入り」を決定づけたとすれば、上海危機は「地域支配の自覚」を生んだ出来事であった。
列強の外交報告書はいずれも、日本を「自制を装う主導国」と評している。それは恐れと尊敬の混じった評価であり、同時に警戒でもあった。
以後、東アジアのいかなる動揺も、日本の意向なしには収束しない――その認識が国際社会に定着した。
だがその地位は、栄光と孤立の表裏でもあった。上海の静かな水面に映った富士の艦影は、帝国の力を象徴すると同時に、その重圧の始まりをも告げていた。