上海危機の収束後、日本は一時的な安定期を迎えた。外交的には列強の一国としての地位を確保しつつ、国内では富国強兵政策の再調整が進められた。その中心にあったのは、海軍力の整備と軍需産業の自立化である。
一九〇八年十一月二日、巡洋戦艦常念級の設計が正式に承認された。常念は聖、仙丈に続く新型艦であり、これら三隻をもって旧来の装甲巡洋艦群を段階的に代替する計画が立案された。しかし、設計段階で新しい技術基準が導入され、常念は聖級の改良型ではなく、事実上の新型艦として設計が進められた。排水量二万一千五百トン、主砲に十二インチ連装砲塔三基を備え、速力は二十五ノットを予定。火力・速度・装甲の均衡を重視したこの設計は、以後の日本海軍における巡洋戦艦の標準的指針となっていく。
一九〇九年三月二十五日、大型巡洋艦聖が竣工し、第一巡洋戦艦戦隊が編成された。聖は常念の完成まで艦隊旗艦として任務に就き、同年六月五日には姉妹艦仙丈がこれに加わった。これにより、海軍は戦艦群と巡洋戦艦群の二本柱を備える体制へ移行した。
同年四月三日に常念の起工が行われ、同時に烏帽子級軽巡洋艦の設計が決定された。烏帽子級は、排水量六千三百トン、速力二十七ノットを有し、巡洋戦艦群の随伴・索敵を主任務とした。この時期の日本海軍は、艦数の不足を艦質の向上で補う方針を採用しており、少数精鋭を旨とした整備政策が明確になった。
一九〇九年十月十四日、英国とフランスの間で正式な同盟が締結され、ヨーロッパの外交構造は「協商」体制へと収斂した。同年、日本では十三インチ砲の開発に成功し、これは後に建造される石見級戦艦の主砲となる。この成果は海軍技術の自立を象徴するものとされたが、当時の当局は慎重に発表を控えた。国内的には新技術への過信を戒め、国際的には列強の警戒を避けるためである。
しかし一九一〇年十一月七日、日本が最も恐れていた事態が現実となる。英国とアメリカ合衆国の間で英米同盟が成立した。この同盟は既存の英仏協約および露仏協商と結びつき、事実上、英米仏露の「四国協商」を形成した。名目上は対ドイツ防衛の枠組みであったが、極東においては明確に日本を牽制対象に含んでいた。この頃から、日本政府内では「協商包囲網」という言葉が使われ始め、外務省・海軍省ともに対英米関係の緊張を予期するようになる。
この数年間、日本は外見上の平穏を保ちながらも、外交的孤立の萌芽を内包していた。上海危機で得た地域的主導権は確固たるものとなったが、それは同時に、列強からの注視を集める要因ともなった。海軍の新型艦建造は、単なる軍備拡張ではなく、国際的抑止力の再定義でもあった。その背後には、次の衝突が避けられぬという、暗黙の認識がすでに存在していた。
この時期における日本の歩みは、単なる軍備拡張や経済成長の過程ではなかった。それは、列強の一員としての地位を得た後、いかにして自国の立場を維持し、独自の秩序観を形成するかという試行の時代であった。第二次日露戦争と上海危機によって、日本は東アジアにおける最強の地域大国として認知されたが、同時に、その台頭は欧米列強にとって制御すべき新要素として映った。
日本の戦略は、軍事的抑止と外交的協調を両立させようとするものであった。しかし、列強は日本の台頭を現状維持体制への潜在的な脅威と見なし、漸進的に距離を取り始めた。上海危機後の一連の海軍整備――聖・仙丈・常念に代表される巡洋戦艦群の登場――は、アジアにおける勢力均衡を再定義するものであり、その存在自体が「新列強の成熟」を象徴した。だが、それはまた、欧米諸国に日本を警戒対象として認識させる契機ともなった。
一九一〇年の四国協商の成立は、こうした認識の結実であった。日本は形式上、列強の一角に列せられながらも、実質的には国際秩序の外縁に立たされる存在となった。富士条約以降の十年は、日本が「認められた国」から「警戒される国」へと変わる過程であり、その帰結として「協商包囲網」が形を取った。
それでも、日本にとってこの時期は後退ではなく、むしろ成熟の段階であった。軍事的優位を背景とした地域的安定の維持、そして工業基盤の拡充は、後の大陸政策と海洋政策の双方に基礎を与えることになる。列強は日本を未だ「脅威」として語ったが、同時にその存在を無視できない現実として受け入れざるを得なかった。
かくして、一九一〇年代初頭の日本は、名実ともに東アジアの主導的国家として確立したが、その国際的立場は安定とは程遠く、むしろ不安定な均衡の上に築かれたものであった。列強の視線の中で、日本は自らの位置を問い続けることを余儀なくされていた。