静寂の水底。
そこは夢と現の狭間にある、ひどく穏やかで、そしてどこか懐かしさを感じさせる場所だった。
波紋ひとつ立たぬ世界で、少年は浮かんでいた。
目を閉じ、体を横たえ、呼吸も脈動もない。
それでも確かに「存在している」と分かる、不可思議な状態。
軈て、遠い声が響いた。
其れは囁きにも似た柔らかさを持ち、然し強制力を帯びて、彼を現実へと誘う。
【夢の水底より浮上を開始してください...】
声に導かれるまま、少年は脚を動かした。
砂のように軽い感覚。
歩く事に透明な床が形成され、夢路が続く。
周囲には水でも空でもない、真っ黒で不確かな空間が広がり、しかし彼の青い目は前だけを向いていた。
温かな暗闇。
それが少しずつ削がれてゆく。
足を進める事に世界は冷たく、眩しい光で満たされていった。
【意識明晰度の上昇を確認...覚醒が間近です...】
その言葉に、少年はふと笑みを零した。
「ニュートン...だったか?」
「“静止している物体は、静止を続けようとする...”だっけな。」
彼は夢と現...生まれるか死ぬかの境目で誰に向けるでもなく、呟く。
「だったら...俺も動き出すしかねぇよな」
一歩、また一歩。
歩幅は自然と広がり、やがて歩みは駆け足に変わった。
闇が急速に遠ざかり、眼前に広がる光の階段が形を成す。
【始点の現実が、貴方を待っています。】
光を睨みながら、少年は自身の名を口にした。
「カイ。そうだ...俺はカイ。」
それは“システム”の中に生じた不具合が齎した命であることを自覚すると同時に、生まれながらに自身に刻まれた“役割”を知る瞬間であり、ただの自己紹介のようであった。
人肌は軈て機械の身体...より速く走れるような身体に変化していき、眼前の階段を駆け上がる。
視界は焼るほどに白く染まるなか、彼は心の底から笑っていた。
「イカロスは太陽に近付きすぎて墜ちた。アキレスは踵を撃ち抜かれて死んだ。だが...俺にはそんな弱点はねえ。」
――自らを“欠陥”と称しながらも、その口振りはまるで「最初からそう設計されている」かのようであった。
眩さの極みに至った時、初めて重力を実感する。
自身に刻まれた数々の“速さ”に関する記憶がそれを懐かしむかのように受け入れ、その脚は重力による縛りを設けられながらも動かされる。
胸に衝撃が走り、肺に空気が満ち、心臓が強く打ち鳴らされた。
【覚醒を確認しました。】
【どうか良き目醒めを、良き人生を。】
声はそこで途絶え、目の前のヒビからは牛の頭の化け物...
「...ここが、俺の舞台ってわけか」
呟く声には、恐怖も不安もなかった。
むしろ楽しげな期待だけが込められていた。
彼は両の拳を握りしめ、力を込める。
音もなく空気が震え、足元の大地に細かな亀裂が走った。
「F=ma。力は質量と加速度の積。」
「...だったら俺の“加速”は、誰も止められねぇ!」
そう言って、彼は笑った。
新たな世界、新たな現実に対する歓喜。
その笑みはあまりに自然で、そして無邪気だった。
彼は息を大きく吸って吐くと、その足を速める。
最早、彼を縛る物は何も無い。
「イエエエエエエイ!俺ちゃん初登場!!」
彼は初めて“大地”を踏んだ。
以上です。
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