Shadows Run Side-by-Side 作:白藤さん
プロローグ ― 砂の校舎を遠くから 距離という祈り ―
風は、今日も校舎の角を丸く削っていた。
砂が運ぶ音は、耳に近いところと遠いところで二重に聞こえる。近くは衣擦れに似て、遠くは海鳴りに似ている。ここは砂しかないのに、どうして海の音がするのかと、初めてこの世界の砂丘に立ったとき、わたしは笑ってしまった。そしてその笑いがひどく震えていたことを、いまでも少しだけ恥ずかしく思う。
丘の稜線に座ると、視界の下半分が砂で満ち、上半分は空で満ちる。校舎はその境目に押し葉のように張りついている。荒っぽい直線と、風で擦れた色。窓枠の黒がところどころ薄く、換気扇の吐く息だけが規則正しさを持ち込んでいる。砂の音は、ここでは生活の音だ。砂はただそこにあるが、そこにあることが誰かを疲れさせ、誰かを眠らせ、誰かを起こす。
砂の匂いは、乾いた紙をめくる瞬間の手触りに似ている。指先にまとわりつき、目に見えない粒が肺の奥まで入り込んで、そこに薄い膜を作る。吸って、止めて、吐く。四つ数えて吸い、二つだけ留め、六つで吐く。胸の中で砂が音もなく沈んでいくのを待つ。――整える。いまはただ、見るだけ。
砂の積もる校舎の屋根に、薄い雲が影を落としている。風が来るたび、窓枠の欠けたところからカーテン代わりの布がふわりと膨らみ、砂の細片が白い煙のように舞い上がる。鉄製の手すりは日差しで柔らかく見え、砂に埋もれた石段の勾配がここは学校だと主張している。
部室の窓から見える五つの人影。私は無意識に息を止める――だめ、止めすぎない。四つ数えて吸う。二つ留める。六つで吐く。双眼鏡を構えるが視界の焦点をほんの少し奥へずらす。輪郭を甘くして距離の精度をほんの少し鈍らせる。見ることは、自傷行為に似ているから。
一人、背中を椅子に預けて伸びをしたのはホシノ先輩。たゆたう空気はあの人だけゆっくり流れる。頬に残った寝跡さえ、ここでは風景の一部。声は届かない。でも、笑う時の目じりが三日月になる癖は、どこの世界でも同じなんだと分かる。
隣でお茶とお菓子を用意しているのはノノミ。柔らかい動作の端々に、生活の重さを受けとめる筋道が見える。表情を崩さないまま、湯気を確認して湯呑に注ぎ、カップの位置を指で微調整して、自分が使う皿の欠けが対面に向かないように直す。細部の優しさは、日常を続けるための才能だと思う。
胸の奥の膜が少しきしむ。
机をはさんだ向こうで、アヤネが書類を束ねている。額の真ん中に皺、でもそれは自分を責めるための皺じゃない。10桁近い負債を始めに
セリカは今日も忙しそうだ。スマホに視線を落とし、手短にメモを取りながら、ノノミの差し出した湯呑に礼だけ小さくしてすぐ手を引っ込める。誰よりも落ち着きがなくて、誰よりも部屋の温度を測っている。怒りっぽくて、でも、誰かが転びかけた瞬間、身体が勝手に動く人。遠くからでも、その反射が見える。
そして――この世界の私。窓際の影は、私の知っている体の使い方をしている。立つ時、無意識に重心をつま先に寄せる癖。誰かの話を聞く時、相手の手の動きにほんの少し反応が遅れる癖。疲れた時、耳の前の髪をあえてほどかず、その重みで頬の火照りを冷ます癖。全部、よく知っている。知らないことが何ひとつない顔だ。なのに、胸の中の膜は、その知っていることを拒む。同じであってはいけないと、どこかで繰り返し続ける。
――シロコ。こっちの世界の私と元は同じ名前、同じ顔、同じ声だった。だけど、どこかにもう一つの薄い皮膜が張り付いているせいで、風景の解像度だけが少し違う。色も、匂いも、音も。似ている分だけ、違いが痛い。
砂の匂い、遠くで鳴る金属音、日差しにきらめく砂塵。四つ吸って、二つ留めて、六つ吐く。私は、見る。見守る。近寄らない。ここで私がすることは、それだけだ。救ったと名乗らない。支えたと名乗らない。見えないところに、見えない楔を一本打って、風で倒れないようにして、砂に隠す。――そのやり方を、私はもう背中のどこかに覚えこんでしまった。
ホシノ先輩が話を切り上げ、皆を見渡す。大きなあくび。ノノミが微笑み、アヤネの口元に微細な諦めと安心の混ざった線。セリカが肩をすくめ、窓の外の砂を一瞥してから腕時計を見る。この流れ。何でもない日常。私の世界では途切れてしまったものがそこにある。
胸の奥で、二つの声が同時に響く。羨ましいと触れるな。砂の表面に落ちる影が、風にちぎれてはまた繋がる。私は足元の砂を指の腹でつまむ。熱い。最初の熱は驚きの熱。それがすぐに日常の温度になって、指の皮膚と溶け合う。羨望と寂寥の歯車が噛み合うと心は簡単に壊れてしまう。
窓から笑顔が見える。ホシノ先輩が、何か大小の理屈をひっくり返すような冗談を言ったのだろう。ノノミの笑いは柔らかく膨らみ、アヤネは一拍遅れて肩を震わせ、セリカは呆れたように顔を背けながらも口元を緩める。窓際のもう一人の私——あの子は、笑う時、ほんの僅かに顎を引く。人に笑いかけることに、まだ少しだけ照れる癖が残っているから。私はその癖を知っている。知っていて、見ないふりをする。四つ吸って、二つ留めて、六つ吐く。
――胸の薄皮がふいに波立つ。思い出は唐突に立ち上がり、光を奪う。
反転したホシノ先輩を前に私達は一生を左右する決断を選択を迫られた。決断という言葉はかたくて冷たい。あの時の温度は、もっと生々しい。生を守るために何かを手放す、その手の中の震えを今も覚えている。
シャーレ・オフィスの爆発に先生と共に巻き込まれたアヤネ。下肢・左腕の付随。聴力喪失、左目失明、循環器系・消化器系・呼吸器系に重大な損傷。
アヤネは生命を維持するために人工呼吸器が必須となり食事は全て流動食になった。アヤネは十桁に届きそうな負債を背負う対策委員会の4人に自分の一生という重みを背負わせる事を良しとせず生命維持装置を弄り疑似信号を介して警報を停止させて自らの手で人生に決着をつけた。徹底した優しさを私は止められなかった。止められなかったことが私の中で別の形をとった。
白い部屋の静けさ、薄い毛布、昼と夜の境界が曖昧になる光。
セリカは唐突に行方をくらました。置き手紙もない不在。返ってこない呼びかけが積み重なり、部屋の温度だけが少し下がる。
積み重なる死と壊れた日常。ノノミはハイランダー鉄道学園に強引に編入させられた末にアビドス大砂漠に消え「そうなった」とただ事実の説明だけが残った。
私の日常は薄い紙片になって風に舞った。負債を一人で背負い足掻く日々の中で私は何度も思った。
――私は苦しむために生まれてきたのか。
生への義務と執着を手放した後の安堵感を今も覚えている。
心のどこかに、名前が浮かぶ。藤堂 楓。この世界の先生。私の世界の楓先生――彼女はこの世界の自分に私を託した。バトンを受け取った先生は方舟の中で自らの命よりも見知らぬ私の生命を優先した。今も先生が生きているのは積み重なる奇跡の結果だ。
1ヶ月前。砂丘の向こう側で私は皆の遺品である装備をひとつずつ砂に返した。皆との掛け替えのない思い出を背負い戦ってきた事を辞めるという決断。
名前を持つものたちの名を呼ばず、ただ、重さの記憶だけを指先に残した。手放すという行為は、捨てることとは違う。どこかへ返すこと。返す相手のいないものは、砂に預ける。砂は、沈黙の中で、ちゃんと見ていてくれる。そう信じるしかなかった。
視界の端に、紙の束がちらつく。アヤネの手元にある借用書や返済計画。数字の列は、ここでも容赦ない。九桁の重さは、紙の軽さと釣り合わない。けれど、彼女たちはその軽さで毎日を少しずつ運んでいく。誰かのために「数字を整える」行為は、戦うことと同じだけ尊いのだと、私はもう知っている。違うのは、ここにはまだ「一緒に笑う時間」があるということだけ。
私は立ち上がらない。立ち上がれば、踏み出してしまう。踏み出せば、癖が出る。癖が出れば、距離が壊れる。だから、座ったまま、風の向きを数える。東から西へ。西から東へ。微妙に違う砂の匂い。遠くの方で、誰かが板を打ち直している音。日常の音。
砂混じりの風が、頬に触れる。私のいる高台は、風の通り道のわずかな膨らみで、ここに座ると、時間が紙の上のインクみたいに薄く広がっていく。焼けた空気の向こうで、五つの影がまた動く。――何を話しているのだろう。想像して、やめる。想像は侵入に似ている。侵入は壊すことに似ている。
四つ吸う。二つ留める。六つ吐く。
羨望と寂寥が噛み合わないようにカップの底に残る様な感情の欠片を確認して集める。集め終わったら、風に返す。
やがて、ホシノ先輩が立ち上がる。皆もつられて立ち、散らばっていく。退室するこちらのシロコ。掃除を行うノノミとセリカ、書類を纏めるアヤネ。欠伸と共に背伸びするホシノ先輩。
全てを終え、最後に部屋を見回してから、扉を閉めるホシノ先輩。閉まる音はここまで届かない。でも、届かない音を、私はもう知っている。部屋が空になる時の空気の沈み方を、体で覚えているから。
私は膝の上で指を組み、掌の温度を確かめる。冷たくも熱くもない。いまの温度。ここで深く息を吸い、砂と光の味を肺の底に塗り込む。呼気が出ていくとき、胸の膜がわずかにゆるむ。うまくいった。今日は、うまく保てた。距離を、壊さないでいられた。
帰ろう。誰にも見えない道で、誰にも気づかれない速度で。私は砂に掌を当て、小さく礼をする。預けたものを、まだ預かって、と。風が返事のように頬を撫でた。立ち上がる。砂が膝から落ちる。靴の中に入り込んだ微細な粒が、歩くたびに音のない合図を送ってくる。ここと私が、まだ別々でいられる合図。
高台から遠ざかるとき、私はもう振り返らない。見守ることと、見張ることは違う。私は前者だけを選ぶ。選び直し続ける。羨望と寂寥の温度を呼吸で希釈し、胸の膜を切らないように、今日の終わりまで運ぶ。明日もたぶん同じ。明後日も同じ。終わりが来るなら、私が自分の速度でたどり着ける終わりがいい。
砂の校舎は、私の背中のほうでいつまでも静かだった
その事実だけを、今日のノートの一行目に書き、私はページをそっと閉じる。