Shadows Run Side-by-Side   作:白藤さん

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砂上の生活速度

昼下がりの光は、砂の粒子を一枚の薄膜にして窓辺へ貼りつける。

屋外の発電機はアイドリングを落として、低く、遠い。屋内では冷蔵庫の微かな唸りが基音となり、その上で金属製の流しに落ちる水の音が、規則正しく「……カン……カン」とメトロノームを刻む。落ちるのは屋根の貯水タンクからのゆっくりした滴下だ。配管はない。重力が唯一の水圧で、針のように細い一滴が、昼の長さを測っている。

 

四つ吸う。二つ留める。六つ吐く。

呼吸に、機械の唸りと滴の間隔を同期させる。胸の膜が音の中へ沈み、「いま」の厚みが戻ってくる。

 

住処は、捨てられた家を自分の速度で改装したものだ。壁は塗り直し、床に一枚だけ厚いラグを敷いた。古い棚の角には丸いクッションを貼り、窓辺には本と工具と小さなランプと色のやさしいぬいぐるみ。机には小さな置時計、紙片に描いたメモ。部屋隅で存在感を放っているのは三つの自転車スタンドだ。

 

一台目は超長距離用。厚みのあるオールウェザーの外輪、路面の傷をいなす細いシートピラーのしなり、砂まじりの舗装でも負けない駆動系、背後の気配を知らせる補助センサー。

二台目は砂漠縦断用。幅の広いタイヤが、砂を踏むより砂に浮くことを優先している。

三台目は市街地用の軍用準拠モデル。発進と旋回に鋭い、骨格の硬いフレーム。

覆面ライダーとして外に出る日は、三本目が私の足になる。だが今日は選ばない。今日は速度を上げないと朝に決めたからだ。

 

 

「休む」は怠慢じゃない。速度設計

私はテーブルに広げた紙の上で、今日の稼働を数字と矢印にばらし直す。

――屋内作業:0.6(整備、洗濯、調理の仕込み)

――屋外作業:0.2(匿名の改善、短時間)

――介入枠:0(上限2件だが、今日は使わない)

――回復:0.2(仮眠、読書、体幹リカバリ)

この配分を、他者の期待とは切り離して書くのが、ここ最近の練習だ。

「助けてくれるはず」「助けるべきだ」から、呼吸を一本ずつ外す。

助けない勇気は、壊さない距離と同じ形をしている。わたしはその形を覚え直している。

 

冷蔵庫の唸りが半音だけ下がる。コンプレッサの休符。……カン……カン。流しの滴だけが時間をつなぐ。

私は長距離用の車体の埃を払う。布の上で砂は細かく鳴り、チェーンの油膜は薄く均される。タイヤの側面に小さな砂傷。ここで止める。全部を完璧にはしない。完璧は速度計を狂わせる。明日の自分に残す作業を、意識して少し置く。残すことも、設計の一部。

 

屋根の貯水タンクから細い水を汲んで、ポットに移す。

…カン……カン。

 

 

器をすすいで、壁のフックから、青い覆面を一度下ろす。指で縁をなぞると、布はまだ新しい。

白い「2」の文字は光を吸って静かだ

これは彼女――こっちの世界の私——が、無理に笑わない笑顔で差し出してくれたもの。

「うまく使って」

そう言われた気がした。言葉はなかったのに、距離の同意が確かにあった。

私はそれを、今日も守る。

覆面を元の場所に戻し、フックの高さを指一本分下げる。次に取るとき、腕に余計な力が入らないように。

 

昼食はパンとスープ。ハーブをひとつまみ落とす。熱の匂いが鼻腔の奥に広がり、砂の匂いと混ざって生活の温度になる。食べ終わったら、椅子に座って背もたれに肩甲骨をそっと置く。

まぶたの裏へ、対策委員会の顔が浮かびそうになる瞬間がある。羨望触れるなの二重音。そこで止める。

四つ吸う。二つ留める。六つ吐く。

胸の膜は、波立たない。

 

窓の外で、子どもたちの声がかすかに増える。通学路のほうへ風が向く時刻だ。私は立ち上がる。屋外作業:0.2の出番。

道具箱からクランプと短いロープ、張力を測る小型のばね秤、布の補修用テープを取る。覆面は置いていく。今日の仕事は「匿名の改善」。顔は要らない。

 

戸口を出ると、発電機が昼の巡航に戻って、低い帯域で唸る。空は薄い白、風の層は二段。砂はまだ重くはない。通学路の日陰布は、朝のままの角度で風を掴み、余計な膨らみをつくっている。布が膨らめば影は浅く、歩幅が縮む。歩幅が縮むと列が詰まり、詰まると声が尖る。

「匿名の一手」は、尖りの種を先に抜いておくこと。

 

私は布の端へ手を入れ、縫い目の向きを指の腹で読み直す。結び目の劣化、ハトメの緩み、骨組みのわずかな歪み。ばね秤で現状の張力を拾い、風の主流に十度だけ角度を足す。布の表と裏の空気の逃げ道を作るためだ。

クランプの位置を半手分ずらし、ロープを二重八の字で結ぶ。余りは巻き癖を抑えるために人差し指幅で折り込み、端をテープで一度だけ押さえる。

布は、叩かれない程度に鳴るようになった。風の通り道が整うと、影の濃度が安定する。歩幅が戻る。

私は足元の砂を半円だけならして、段差の予備軍を消す。ここで終わる。やりすぎないのも設計。

 

子どもたちの列が布の下を通る。顔は見ない。靴音のテンポだけを数える。

タン、タン、タタン。…良い。狭いところで加速もしない。

「ありがとうございます」と言われる位置に私はいない。顔のないありがとうだけが、風をすべっていく。

 

戻る道すがら、看板の鎖がひとつ、低く鳴る。風の層が一段ゆるんだ合図。

屋内へ戻ると、冷蔵庫が再び回り始める。ウウ……そして……カン……カン。

私は流しに指先を当てる。体温と金属の温度差で、呼吸が現在地へ引き戻される。

 

ノートを開く。項目の横に、小さく印を打つ。

――屋外作業:通学路の日陰布、再張り。

――処置:結び直し、張力調整、風抜けの確保、段差の消去。

――所要:8分。

――影響:歩幅のテンポ、怒りの予備軍の解散。

――署名:なし。

私は満足を記録しない。「改善だけが残る」こと。それが目標で、成果の証明でもある。

 

椅子に腰を戻し、背骨を一本ずつ座面へ預ける。

休む。

スマホの時計を20分にセットし、アラームを無音のバイブにする。

「休む」は怠慢ではない。次の速度のための貯蔵。

四つ吸う。二つ留める。六つ吐く。

まぶたの裏を、砂の色がうすく漂う。耳にはウウ…と……カン……カン。二つの音がゆっくりと重なり、やがて遠のく。

 

――短い眠り。

夢の手前で、私は誰の期待でもない速度に、やっと自分を合わせる。

目が覚めたら、屋内作業の残りを0.3だけ進める。夕方の介入枠は、空白のまま閉じる。

今日はそれでいい。「助けない勇気」を、帳簿の上に静かに積む。

 

目を開けたとき、部屋は同じ明るさで、音は同じ拍を刻んでいた。

青い覆面が壁にぶら下がり、白い「2」が灯りの輪郭に溶けている。

私はそれを見て、ただ頷く。

距離は、壊さないための優しさ

今日の速度は、正しかった。明日も、必要が先に来ない限り、この速度でいく。

冷蔵庫の唸りが、また半音だけ下がる。

 

灯りを落とす。家は、砂の表面に沈むように静かになる。

その静けさの中で、「ここ」「私」が、別々でいられる合図をそっと確かめる。

ぽたり。

ぽたり。

呼吸と水音が重なり、夜の最初の頁が静かにめくられる。

明日の速度は、明日決める。

生活は走らない。歩幅で決める。

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