ハブの中央広場は、朝の冷えた空気を震わせながらざわめいていた。
誰かが叫び、誰かが否定し、誰かがさらに尾ひれをつける。
策を弄してから数日。アークの策は苛烈で、異様なほど効果を上げていた。
「見たんだって! 本当にいたって言ってんだよ!
城壁の向こう、あれはフォグマンだった!」
「は? 馬鹿言えよ、あいつらがここまで来られるわけねえだろ!」
「でもよ、ついこの間だって巣があったろ! 来ない理由のほうがねえ!」
「そんなの偶然だ!」
「でかい影を見たって奴が三人はいる!」
議論が飛び交う。
冷静な声は熱した空気に必ず押し流される。
私はその輪の外から様子を伺いながら、ぽつりと呟いた。
「……なんか、思ったより盛り上がってるね」
隣に立つリフが苦々しい顔で頷く。
「盛り上がっているというより、混乱が暴走しているだけです。
ほら、お嬢様。あの辺で殴り合いが始まりそうです」
確かに、数人が胸ぐらを掴み合っていた。
「フォグマンの斥候なんて、見間違いに決まってるって!
昼間ならともかく、夜なんだろ!? 影だ、影! 砂嵐だ!」
「なら聞くが、ここ数日であいつらが近づいてるって噂、何度聞いた?」
沈黙。
その隙を突くように、別の声が割り込む。
「俺は信じるね。あいつら来るよ。
むしろ、まだ来てないと思ってる連中のほうが能天気じゃねえか?」
「じゃあお前はどうすんだよ、戦うのか!?」
「戦うも何も――街に逃げ場はねぇだろ!」
ざわっ、と広場全体が揺れた。
その瞬間こそ、人々が
(……アークの策、これは効き過ぎじゃないのかなあ)
私たちがやったのは、フォグマンの死体を動かし、噂話を流しただけだ。
曰く『フォグマンの影を見た』と。
それだけなのに、噂はあっという間に広がり、既に原形をとどめていない。なにせ今の噂は『フォグマンの軍勢を見た』だ。
私が額を押さえていると、背後から低い声が響いた。
「悪くないな」
振り返れば、アーク。
酒の匂いはもうどこにもなく、目は冷静そのものだった。
「これなら、少し手を加えるだけで狂気が狂信に変わる」
「……正気? もう必要とは思えないんだけど」
「民心とは、こういうとき扱いやすい」
アークは前へ出ていく。
混乱する群衆の中心へ――火種に手を差し入れるかのように。
「さて、どう料理するか……」
ざわめく群衆の中心で、アークはゆっくりと片手を上げた。
その動きだけで、不思議と声が一段小さくなる。
「……静まれ」
低い声が、よく通った。
「諸君。フォグマンを見たという話――嘘ではあるまい」
「見間違いだって言ってんだろ!」
「いや影が……!」
反論が飛ぶが、アークは首を横に振った。
「見間違いかどうかは些事だ。
肝要なのは――諸君が
空気が揺れる。
「恐れたということは、心がまだ死んでいない証だ。
諦めきった者は恐れすら忘れる。
諸君はまだ、生きたいのだろう?」
その言葉は、民衆に怒号ではなく沈黙を生ませた。そうだ、まだ諦めていないから、議論し対策をしようとするのだ。
アークはその沈黙を見逃さず、こう続けた。
「フォグマンが本当に至近まで来ているか?
――それは分からん」
群衆のざわめきが再び強まる。
しかしアークはそれを手のひらで押さえつけるように一息置いた。
「だが一つだけ断言できる。
フォグマンは
そして今のままなら、諸君は
恐怖の気配が広がる。しかしアークは止めなかった。
「逃げ場はない。この街も、荒野も、フォグマンに追われた者にとっては地獄と同じだ」
追い詰め、追い詰め、逃がさない。それがアークのやり口なのだ。
「だが――」
アークの声が一段低く、重くなる。
「今ならまだ、勝機がある」
空気が変わる。群衆の顔が一斉に上がる。
「我らには戦える者がいる。街のために剣を振るった者がいる。
フォグマンを――倒した者すらいる!」
ざわ、と視線が私に集まる。
(うわあ……気まず)
「諸君よ。恐れることは恥ではない。恐怖は、戦うための火種となる!」
アークは拳を握りしめ、力強く掲げた。
「今ここで決めよ! 死を待つか、戦うか! ただ嘆き、ただ罵り合い、ただ終わりを待つのか!?
それとも――生きたいのか!!」
群衆のざわめきが、恐怖から高揚へと変化していく。
誰かが叫び、誰かが拳を上げ、誰かが涙を流している。
「ならば剣を取れ。守りたいものを思い出せ。
この街は、まだ死んではいない!」
群衆の声が爆ぜる。
「戦う!」「やるしかねえんだ!」
「フォグマンなんぞに屈するかよ!」
アークはその熱を受け止め、静かに締めくくった。
「今日からだ。
諸君はただの難民ではない。
ハブの戦士だ。」
混乱は収まらず、しかし矛先は一つに揃った。
恐怖は狂気に、そして狂気は狂信に変わった。
今、ハブは大きなうねりの中、一つになろうとしていた。
(……これが正しい方法、とは思えないけどね)
一抹の不安を残して。
*
壊れていた門は修繕され、棘の付いた城壁が並んでいた。
門前にはぎらつき、剣を抜いた男が立っている。殺気だった空気を漂わせているのは、門の男達に留まらない。
武器を持つ者が増えた。
それも、戦うためというよりも、手放せなくなったという表現の方が近い。
剣は鞘から半分抜かれたまま、槍は地面に突き立てられたまま、クロスボウの弦は常に張られ続けていた。
異様な光景だった。そして、それを演出した男は静かに塔からハブ全域を見渡す。
「……目的を果たした感想は?」
「壮観、であるな」
アークはちっとも満足していなさそうな顔をしながら言った。
私は溜息をつく。この男、私に黙ってまだ何か企んでいそうだ。
「まだ何か企んでるなら言って欲しいね」
「別段何も。策は成った。後は見守るだけだ」
「見守るだけねえ。じゃあ本当にフォグマンが来るまで待ちってことだ」
「…………」
アークは蔑むような笑みを浮かべた。体が震える。冷たい汗が背中を伝う。私は何か、途轍もない勘違いをしていないだろうか。
「……アーク、答えて。フォグマンが来た時の策は用意してあるんだろうね?」
「フォグマンが来た時か」
アークはまたも嘲笑を浮かべる。今度は頬がかっと赤くなるのを感じる。
「では聞こう」
アークは言った。
「フォグマンは、本当にくると思うか?」
「――――――――――は?」
そんなのいつか来るに、決まっ――。
「そんなの、分かる訳ないじゃん……!」
勘違いしていた。
今まで私は、どう攻めるか、どう奪い返すかばかりを考えていたはずだ。
それなのに、いつの間にか思考は
防衛を考えるということは、敵が来ることを前提にするということだ。来るかどうかではない。
もう来るものとして、頭の中で扱っていた。
しかし、それは本来不要な考えだ。
今までフォグマンは、ハブまで攻めてきたことなど一度もない。
来る、来ないで言えば、来ない可能性の方がずっと高い。
それでも私は疑わなかった。
なぜなら、アークが防衛策を打ち出したからだ。
攻めるための策ではなく、守るための備え。
その時点で私は、無意識のうちに、敵は来るという前提を受け入れてしまっていた。
気づいた瞬間、背中に冷たいものが走った。
私は敵ではなく、味方に考え方を誘導されていたのだ。
「アーク!」
どういうつもりだと、私は叫ぶ。アークは変わらず笑っていた。
もう一度、今度は強く求めるように「アーク」と呼びかけると、彼は一転して能面のような顔を貼り付けて言った。
「心底、うんざりしてしまったのだよ」
この瞬間、アークは見た目通りの老人のように思われた。
「何も選ばず、文句だけは一丁前の人々に。
誰かが選んだ結果を嘲笑うだけの人々に」
それは懺悔のようにも思われた。風車は止まっている。滲んだ汗が流れない。停滞。
「だから、強制的に選ばせてみようと思ってな。
その結果が如何なるものであれ、苦汁を舐める顔を見られるのなら――胸が空く」
それは膿を出すようにアークから絞り出された本音だったに違いない。ハッキリ言って、迷惑だ。でも、彼を追い込んだのは私だから、向き合わなければならないのだろう。
私はアークを真っすぐ見つめる。
「それが正しい事だと?」
「……正しいとは思っておらん。
だが、正しさで人が動かぬことは、もう知っている」
後ろめたさを感じる物言いだった。だったらまだ引き返せる。説得できる。
「でもさ、これが本当に選んだと言えるの? また何か起きたらアークのせいにされるだけじゃないの?」
「かもしれぬ。だが『何も起こらないまま、腐っていくこと』これは起きない。
人のせいにした後、必ず選ばなければならない時が来る」
誰かのせいにできるうちは、思考を止められる。だが現実が続く限り、責任転嫁は一度で尽きるのだとアークはそう言いたいのだろう。
しかし――
「それって、追い詰めてるだけじゃないの?
選ばせてるんじゃなくて、逃げ道を潰してるだけじゃないの?」
「……逃げ道を残したままでは、人は一生選ばん」
アークはそう言い切った。
その声は強かったが、どこか硬かった。自分に言い聞かせるような響きがあった。
「でもさ」
私は一歩踏み込む。
「それ、選ばせたいんじゃなくて――アークがもう、信じるのをやめただけじゃない?」
沈黙。
アークの眉が、わずかに動いた。
「信じていたなら、こんな回りくどいことしないでしょ。
説得するとか、説くとか、時間かけるとかさ」
「……」
「どうせ分からない、どうせ腐るって思ってるから、追い詰めるしかないって結論になるんじゃない?」
言ってから、少し後悔した。
言い過ぎたかもしれないと思ったからだ。
だが、アークは怒らなかった。
ゆっくりと腰を下ろし、大きなため息をついた。
「……若い頃な」
ぽつりと言った。
「わしも、お前と同じことを言った」
「……え?」
アークはなおも続ける。
「人は考える。人は選べる。時間をかければ、きっと理解すると。
そう信じて、待った。説いた。譲った」
アークは笑った。
それは誇らしさではなく、苦い自嘲だった。
「結果はどうなったと思う?」
「……」
「審問官の死体が転がった。それだけだった」
アークは過去に思いを馳せている。私は口を挟まない。
「皆、選ばなかったのだ。
わしの言葉を信じることも、否定することもせず、
ただ様子を見ると言って、何もしなかった」
もはや私の想像を超えて、アークの奥深くまで入り込んでいる。
「その間に、死んだ者がいた。
守れたはずの者も、守れなかった」
沈黙が落ちる。
「だからな……」
アークは、両手を見つめた。
「もう一度、同じことをする勇気が、わしには無いのだ」
その言葉は、策士のものではなかった。
ただの、疲れ切った老人の声だった。
「……アーク」
私は、少し声を落とす。
「それ、選ばせたいんじゃないよ。
もう二度と、間違えたくないだけでしょ」
風が吹いた気がした。
「また待って、また信じて、
それで誰かが死ぬのが怖いんでしょ」
「……」
「だったらさ」
私は、はっきり言った。
「人を信じない策じゃなくて、自分が耐えられる賭けを選んだ方がいいんじゃない?」
長い沈黙。
やがて、アークは深く息を吐いた。
「……お前は、残酷だな」
「知ってる」
小さく、笑いが落ちた。
「だが……そうかもしれぬ」
アークは顔を上げた。
その目に、先ほどまでの策士の光はなかった。
「わしは、人を追い詰めているつもりで……本当は、自分が追い詰められぬようにしておったのか」
しばらくして、彼は言った。
「……策は変える。無駄に不安をあおる真似はよそう」
「そう、良かった。……後で何してたか報告してね」
この様子だと、フォグマンの死体を動かすこと以上に、情報操作やら何やらをしていたに違いない。
今度こそ、強い風が吹いた。風車がゴオンと音を鳴らして回る。
私たちは正道を歩む。
その果てに、何があろうとも。