「昨日の話、聞いたか」
低い声が、焚き火の向こうから聞こえてきた。
「フォグマンの影だろ」
「ああ。城壁の外に出たって」
断定ではない。噂話だ。
だが、それを否定する声はなかった。
「嘘でもいい」
「備えて損はないからな」
そう言って、男は槍を持ち替えた。
握りが、必要以上に強い。
別の場所では、こんな声も聞こえた。
「見張り、増やすべきだと思うんだ」
「誰に言われた?」
「……誰にも」
短い沈黙。
そして、誰かが頷いた。
決まりが生まれる瞬間だった。
誰も「やろう」とは言っていない。
誰も「命令だ」とも言っていない。
それでも、動かない者の方が目立つようになっていた。
理性的で、しかし理性故の行動ではないそれ。
私はその様子を、少し離れた場所から見ていた。
(……どうやって後始末すればいいんだろう?)
不安が募る中、事件が起きる。
夜明け前のハブは、妙に明るかった。
灯りが増えたわけではない。人が増えたのだ。
中央通りから門にかけて、松明を持った影がいくつも動いている。誰かが命じたわけでも、号令があったわけでもない。ただ「見回りをしよう」という声が、いつの間にか当然のように広がっていた。
剣を持つ手は、昨日よりも高い位置にある。
鞘に納めたままの者は少なく、半分抜いた刃が、松明の光を反射していた。
「……悪化してるなあ」
どこまでも緊迫し、まるで戦場にでも立っているような人々。
いや、事実彼らは立っているのだろう。日常を、ハブという都市を守る戦場に。
「おい、あんた」
通りの端で、一人の男が呼び止められていた。
荷袋を背負った、どこにでもいそうな流れ者だ。歩き方が少し遅い。足を引きずっているのかもしれない。
「どこから来た?」
問いかけの声は荒くない。だが、距離が近すぎる。
男は一瞬ためらい、それから答えた。
「……北西からだ。ヤギを売りに――」
「北?」
誰かが被せる。
「フォグマンの巣があった方角だな」
空気が、わずかに変わった。
松明の輪が狭まる。男の背中に、逃げ場がなくなる。
「いや、俺は――」
言い終える前に、群衆の一人が男のカバンを掴む。それはきっと、荷物を改めるつもりだったのだろう。中身を改めるだけ。危険なものがなければ、それで終わる。しかし、ヤギ飼いの男にはそう映らなかった。
「何をする!」
「ちょ――――」
私は腰を上げたが、あまりにも遅かった。荒れた男の声が響く。荷物を奪われまいと群衆の男をヤギ飼いが押し、男が倒れる。背中を打つ鈍い音。それからはもうあっという間の出来事だった。
誰かが刀に手をかける。
誰かが叫ぶ。
誰かが「やめろ」と言った気もする。
刀を抜く人々。
予想外に強いヤギ達。
骨が砕ける音と、血が飛び出るスプラッタ。それとヤギの悲鳴。
数分後。
ようやく、刃が下ろされる。
地面には、倒れ伏す人間とヤギ。
呻き声と、荒い息。
結果として十二名の怪我人。それと、八匹の怪我ヤギ。
怪我人と、怪我を負った家畜を残して、その事件は終わった。
終わった、ということにされ、闇に葬られようとしていた。
終わりなどではなく、それが始まりだと誰の目にも明らかだったのに。
*
「アーク、アークどうするのさアーク」
「お嬢様、落ち着いてください。そう詰め寄ってもいい答えは期待できません」
事情を話したリフと共にアークに詰め寄る。
ちなみに事情を話したのはリフだけだ。バーサーカー兄弟に話しても良くない結果を招くとの判断である。
「さて…………」
アークは――
「……想定外だ」
ぽつりと、そう返ってきた。
「想定外って言った?」
「少し、いえかなり責任感が不足しているのでは?」
「ね、酷いね」
「全くです」
「まあ待て。策はある……ある筈だ」
「ある
「無様ですね」
「ねー」
「話を聞いてくれ……」
その後しばらく揶揄って、ようやく本題に入った頃には、焚火が燃えカスとなっていた。燻った煙が部屋に漂う。
「……死ななかった。だから、まだ大丈夫。皆、そう思ってる」
アークは焚火を踏む。残り火を完全に消した。
「それが一番厄介だ」
アークは低く言った。
「越えた線に、気づいておらん。いや……気づかぬふりをしておる」
私は息を吸う。これは真剣な空気だ。気を引き締めなくては。
「止められる?」
「……今すぐなら、まだ」
間があった。
「だが、強く止めれば反発する。策を引っ込めたと見られれば、余計に疑心を呼ぶ」
つまり、どちらに転んでも火種は残る。
「じゃあ、どうするの」
私の問いに、アークは少しだけ目を細めた。
「……まずは、落ち着かせる」
「それで済む?」
「済まぬだろうな」
即答だった。
「だが、今は後始末だ。壊れかけたものを、これ以上壊さぬようにする」
私は彼の横顔を見る。
そこにあったのは、策士の余裕ではなかった。
「……次は、もっと大きいことが起きる?」
そう聞くと、アークは否定しなかった。
「起きる可能性は高い」
「防げる?」
「分からん」
正直すぎる答えだった。
「人の恐れは、一度動き出すと――理屈よりも先に、行動を選ぶ」
私は嫌な予感を振り払えなかったが、一応頷いた。
「……それでも、止めなきゃ」
「止めるさ」
アークは、そう言ってから付け足す。
「壊れきる前にな。
ただし――」
彼は、こちらを見た。
「間に合うとは、限らん」
不安、焦燥。結局その日は結論が出ぬまま、日が落ちていった。
*
最初に聞いたのは噂だった。
「内通者がいるらしい」
誰が言い出したのかは分からない。
ただ、その言葉は不思議な説得力を持って広がった。
フォグマンが近くにいる。
影を見た者がいる。
なのに、まだ襲われていない。
「おかしいと思わないか?」
そう言われればそう思えてしまう程度には、皆疲れていた。
夜警団が動き出したのは、日が完全に沈んだ後だった。
正式な組織ではない。
昨日まで難民だった者、元傭兵、武器を持てるというだけの市民。誰かが腕章を巻き、誰かが命令を出す。
止める者はいなかった。
「怪しいのは、最近入った連中だ」
「北から来たやつら」
「一人で動くやつもな」
基準は曖昧だった。だからこそ、誰にでも当てはまった。
最初に連れて行かれたのは、老女だった。
耳が遠く、呼びかけにすぐ応じなかった。
「呼んでも出てこなかった」
「怪しいな」
次は、物資倉庫の手伝いをしていた若い男。
夜中に外に出ていた、という理由だった。
そして三人目。
鍛冶場の裏。
人気のない場所に、灯りが集まっていた。
「待ってくれ、話を――」
「黙れ」
男は地面に押さえつけられていた。
抵抗はしていない。
ただ、必死に周囲を見回していた。
「何でだよ……俺が何をしたっていうんだ」
答える者はいなかった。
「吐け」
「何を?」
「誰と繋がってる」
拳が振り下ろされる。乾いた音。呻き声。
それを見て、誰かが言った。
「やっぱり黒だ」
「抵抗してる」
違うだろう、とその話を聞いた私は思った。
だが、その場には既に空気が出来上がっていたのだろう。
恐怖は、疑念を正義に変える。
「やめろ!」
男は、最後まで否定した。
「俺は……ただ、ここで生きたかっただけだ……」
次の瞬間、何かが折れる音がした。
悲鳴は短かった。静寂。
誰かが、震える声で言った。
「……死んだ?」
答えはなかった。
遅れて、私とアークが駆けつけた時には、もう終わっていた。
地面に横たわる身体。
血。
沈黙。
「誰の判断だ」
アークの声は低かった。
「皆で……」
「皆で決めた」
誰も名を名乗らなかった。
誰も逃げなかった。
ただ、正しかったはずだと信じる顔をしていた。
翌朝。
調べは簡単に終わった。内通の証拠は、何一つ出なかった。男はただの難民だった。
フォグマンと接触した形跡も、協力した形跡もない。
当たり前だ。間違いだった。
だが、それを誰が公表するのか。誰が責任を取るのか。
夜警団は解散した。
だが、参加者は誰も裁かれなかった。
必要だったからだ。
武器を持てる人間を、これ以上失えなかった。
死体だけが残った。
それがことの顛末だ。
私たちは、何もできなかった。
「いや、そもそもフォグマンに内通とかないでしょ」
私は悔し紛れに呟く。
フォグマンとは謎の多い生物ではあるが、意思の疎通が出来る存在ではない。内通者などあり得ないのだ。
だがこの件を境に、確かに街は変わった。
事件の翌日、ハブは静かだった。
人はいる。
作業も行われている。
鍛冶場は火を落としていないし、門の修繕も進んでいる。
それでも、どこかがおかしかった。
誰も目を合わせない。
挨拶は交わされる。
だが、返事が遅れる。
一拍、考えてから声を出す。
まるで、言葉を選ぶ前に「これは正しいか?」と確認しているようだった。
夜警団は解散した。
だが、武器を返す者はいなかった。
剣は腰に残り、槍は壁に立てかけられ、
クロスボウは張られたままだ。
誰かが命じたわけではない。
ただ、外す理由が無くなっただけだ。
広場で、小さな揉め事が起きた。
「それ、俺の持ち場だろ」
「昨日はお前がいなかった」
以前なら、誰かが割って入っただろう。今は皆が距離を取る。
正しい方に立ちたい。
間違った側に見られたくない。
結果、誰も動かない。
死んだ男の名前は、口に出されなくなった。
墓は作られたが、誰も手を合わせなかった。
弔えば、殺したことを認めることになる。
忘れれば、繰り返せる。
街は、どちらも選ばなかった。
ただ、沈黙を選んだ。
その夜、風が止んだ。
嫌な静けさだった。
音が無いのではない。
音を立てることを、皆が避けていた。
門の上には見張りがいる。人数は多い。だが、誰も声を出さない。
合図は決められていたはずだ。
笛。
松明。
手信号。
だが、それを使うかどうかを
誰が決めるのかが、決まっていなかった。
「……なあ」
見張りの一人が、隣に小声で話しかける。
「もし、本当に来たらどうする」
「……どうするって」
答えは出ない。
知らせて、誤報だったら?
また疑われる。また誰かが死ぬ。
だから、待つ。
確信が持てるまで。
手遅れにならないと、証明できるまで。
荒野の向こうで、何かが動いた。
影かもしれない。風で揺れた岩かもしれない。
誰も、名前を口にしなかった。
松明は上がらない。
笛も鳴らない。
見張りはただ、歯を食いしばって闇を見つめている。
この街は、もう知ってしまったのだ。
間違えるくらいなら、何もしない方がいいという考え方を。
それが、最も危険な選択だということを、まだ誰も理解していなかった。
夜は静かに更けていった。