最初に気づいたのは、門の見張りだった。
夜明け前。
風は止み、荒野は静まり返っていた。
静かすぎる、と彼は思った。
松明の火は揺れない。遠くの砂嵐も、獣の鳴き声もない。闇だけがそこにあった。
「……なあ」
小声で隣の男に声をかける。
「何だ」
「さっきから、音がしない」
「夜なんてそんなもんだろ」
それ以上は言わなかった。
言えなかった。
もし勘違いだったら。また疑われる。
また、誰かが――
見張りは目を逸らし、闇を睨みつけた。
その時だった。
影が動いた。
最初は一つ。
次に二つ。
獣ではない動きに見えた。
地を這うように、滑るように、門に向かって近づいてくる。
「……影だよな?」
返事はなかった。
影が増える。
距離が縮まる。
輪郭が、形を持つ。
骨。青白い腕。歪な姿勢。
「……フォグ、マン……?」
名前を口にした瞬間、全身が粟立った。
「合図を――」
言葉が詰まる。
笛を吹けば、街が動く。
だが、もし違ったら?
また誤報だったら?
迷った一瞬。
その一瞬で、フォグマンは走り出した。
「来るぞ!!」
叫びと同時に、笛が鳴った。
遅すぎた合図だった。
門の外で、何かが砕ける音がした。
見張りの悲鳴。
矢が放たれ、闇に吸い込まれる。
松明が上がる。
だが、整列はしない。
誰が指揮を執るのか、誰も分からない。
「数は!?」
「見えねえ!」
「門を閉じろ!」
叫びが交錯する。
門は半分閉じかけたところで止まった。
外で何かが挟まり、動かなくなったのだ。
青白い腕。骨ばった指。
それが無理やり、こじ開けようとしている。
「押せ! 押せええ!!」
人が集まる。
門に体重をかける。
だが、外からの力が強すぎた。
次の瞬間、門の脇で悲鳴が上がる。
城壁をよじ登ったフォグマンが、一人。いや、二人。三人。
剣が振られる。
当たる。
だが、止まらない。
「斬ってるのに……!」
「首だ! 首を――!」
言葉が終わる前に、組み付かれる。
血が飛ぶ。
叫びが途切れる。
街の中で鐘が鳴り始めた。誰かが鳴らした。
誰かが、やっと決断したのだ。
人々が武器を持って飛び出す。
だが、向かう先はばらばらだ。
門へ走る者。
家族の元へ戻る者。
逃げ場を探す者。
統制はない。
「フォグマンだ! 本当に来た!」
「北だ、北から――!」
恐怖が、ようやく現実になる。
広場で、私は剣を握りしめていた。
アークは門の方向を見つめている。
「……まさか」
声は低く、あからさまに動揺していた。まさか本当に来るとは。
「合図が遅れた」
「分かっている」
悲鳴が、街の奥から聞こえた。
一つではない。
「どこが破られてる!?」
「分からん! あちこちだ!」
フォグマンは分散し、裂け目を探す。
この街は、裂け目だらけだった。
昨日まで疑い合っていた人々が、
今は互いの背中を守れずにいる。
「……まずいな」
アークが呟く。
「思ったより、脆い」
皮肉でも自嘲でもない。
事実確認だった。
広場の端で、誰かが倒れる。
助けに行こうとした男が、立ち止まる。
――また間違えたら?
その一瞬の迷いが、命を奪った。
「行け!!」
私は叫び、走った。
剣を振る。当たる。倒れる。
だが、数が減らない。
門の方で、ついに大きな音がした。
――門が、落ちた。
白い影が雪崩れ込む。
悲鳴が重なり、夜が裂ける。
誰かが泣きながら叫ぶ。
「もう無理だ!」
「逃げろ!!」
逃げ場はない。
門が落ちた。それだけで街の形が変わった。
壁に囲まれた都市は、防壁を失った瞬間、檻になる。
「回れ! 挟め!」
誰かが叫んだ。
声は震えていたが、内容は正しかった。
数人が動く。
私も走った。
斬る。叩く。殴る。
青白い身体が崩れる。
「いける……!」
誰かが言った。
私も、ほんの一瞬そう思った。
通りを封鎖すればいい。
数を分断すれば、勝てる。
「ここを抑えろ!」
「松明を――!」
松明が集まる。
影が消え、動きが見える。
人が並ぶ。
背中を預け合う。
昨日まで疑っていた相手だ。
だが今は、剣を向ける先が同じだった。
――守れる。
その考えが、頭をよぎった瞬間。
「待て!」
後方から、叫びが飛んだ。
「それ、本当にフォグマンか!?」
「誘い込まれてるんじゃないのか!?」
一瞬、手が止まる。
松明を掲げた男が、半歩下がる。
「……数が、少なすぎないか?」
沈黙。
確かに。
確かに、群れにしては――
フォグマンが跳ねた。
松明を持った男に、一直線に。
組み付く。叫び声が上がる。火が落ちる。
闇が戻った。
「戻れ!」
「いや、突っ込め!」
命令が割れる。
誰が決めるのか、決まらない。
人が下がる。
一人、また一人。
空いた隙間に、白い影が滑り込む。
「くそ……!」
私は斬る。倒す。
だが、背後で悲鳴が上がる。
守れない。
誰も、誰の背中も。
「退け! 一旦――」
その声は、最後まで届かなかった。
路地の奥から、新たな影が現れる。
屋根の上。
塀の向こう。
気がつけば包囲されていた。
「……駄目だ」
誰かが、絞り出すように言った。
「ハブはもう、持たない」
崩れる。
誰かが走り出す。
誰かがそれを見て、さらに走る。
逃げが、逃げを呼ぶ。
広場に戻った時、そこも既に混乱していた。
「門は!?」
「北にもいる!」
叫び声は多い。
答えはない。
アークが、私の横に立っていた。
「……立て直せるか?」
問いではなかった。
確認だった。
「……無理っぽい」
私は答えた。
嘘はつけなかった。
人はいる。
武器もある。
だが――
決める者がいない。
誰も、次の一手を選ばない。
鐘が鳴る。
だが、それは合図にならない。
誰が従うのか。
どこへ向かうのか。
分からない。
「……終わりだ」
誰かが言った。
否定する声は、上がらなかった。
その時だった。
遠くで――
金属が砕ける音がした。
悲鳴ではない。
衝突音でもない。
重く、乱暴で、楽しげな音。
フォグマンの一体が、突然吹き飛んだ。
誰がやったのかは見えない。
だが、その一撃で、場の空気が変わった。
「……?」
別のフォグマンが振り向く。
次の瞬間、首がねじ切れる。
闇の向こうで、何かが動いている。
人ではない。
フォグマンでもない。
もっと、荒々しい何か。
だが、姿はまだ見えない。
ただ、低い笑い声だけが、夜を震わせていた。
――まだだ。
これは、救いではない。
まだ、地獄の途中だ。
夜は、終わらない。