従いまして、藤堂家のルーツが新撰組の藤堂平助であっても、いっそ好いのではないかと『原作』を読みながら思ったものでした。
藤堂家の名が歴史上に現れるのは、幕末に於ける新撰組の剣士、藤堂平助を初めとする。
平助の出自は、定説があるとも言い切れない。
1説には戦国武将、藤堂高虎を初代とする大名、藤堂氏の落胤との説もある。
何れにせよ、農民や浪人などの出身者の多い新撰組に於いては、上級武士の子であったとの説が有力である。
平助は千葉周作の北辰1刀流で剣を学んだ後、伊東甲子太郎にも学び、更に近藤勇の天然理心流の高弟と成った。
そして、近藤たちが京都で新撰組を結成すると生え抜きの同志として迎えられ、最年少幹部の1人として池田屋事件などで活躍した。
だがしかし、後に伊東らが新選組に合流すると、平助の運命は変わり始める。
近藤らと志を違(たが)えた伊東や平助らは、新撰組を離脱し、自らの途を進み始める。
だが、これを「裏切り」として許さぬ新撰組によって、遂に伊東らは粛清される。
その時、平助だけは京都どころか日本に居なかった。
千葉道場の同門だった坂本龍馬の仲介で、龍馬の恩師である勝海舟の懐に逃げ込んだ平助は、軍艦奉行の職権で幕府海軍に潜り込み、アメリカに派遣されていた。
新型の装甲軍艦<ストーンウォール>の買い付けと回航の1員としてである。
だがしかし<ストーンウォール>改め<甲鉄>が日本に回航されたとき、幕府は崩壊していた。
そして新政府は<甲鉄>の接収を目論んだ。
紆余曲折の末に新政府が<甲鉄>の購入に成功すると、平助も<甲鉄>乗組の1人として其のまま新政府海軍に組み込まれた。
こうして、藤堂家と帝国海軍との縁が始まることに成るのである。
新政府と旧幕府側との最後の戦いと成る「箱館戦争」に於いて<甲鉄>は新政府の主力艦として参戦した。
無論、平助も其の1員として従軍した。
その回航の途上<甲鉄>を脅威と見做した旧幕府軍は<甲鉄>に乗り込んで奪取しようと目論み実行したが、撃退された。
この時<甲鉄>の甲板上でガトリング砲と呼ばれた機関銃の砲手として、乗り込んでくる旧幕府兵たちを薙ぎ倒したのは、平助だった。
まるで、かつて己が剣士であったことを否定するかの様に。
そして敵の指揮官が、平助とは因縁がある元新選組副長の土方歳三だったことは、運命の不思議としか言いようが無い。
箱館への回航に成功した<甲鉄>は、アームストロング砲による艦砲射撃などに活躍し、旧幕府側の最後の抵抗も敗れた。
土方も戦死した。
この戦いでの活躍が認められた平助は、そのまま明治海軍に仕え続けることと成った。
明治の世に於いて、平助は順調に海軍軍人としてのキャリアを重ね、遂には海軍大佐、艦長職にまで昇進する。
だがここで、大きな転機が訪れた。
日清戦争を前に、後世に於いて明治海軍の建設者と呼ばれる軍政家、山本権兵衛によって大胆な海軍のリストラが断行されたのである。
この結果、旧幕府海軍出身者を含む多くの士官が海軍を離れた。
そして、海軍兵学校で最新の海軍を学んだ少壮士官たちに取って代わられたのである。
平助もこの時、海軍を離れた。
だがしかし、藤堂家と海軍の縁は、これで終わりに成らなかった。
平助らに代わり日清、日露戦争、そして其の後の海軍で活躍していくことに成る海軍兵学校卒業の少壮士官の中に、平助が明治の世に成ってから結婚し儲けた1人息子、藤堂勝が居たのである。
平助は、息子たちに海軍の未来を託し、商船の船長として余生を送った。
勝は日清、日露戦争で活躍し、昭和初期の軍縮まで海軍に仕え、彼もまた海軍大佐まで昇進した。
そして勝の息子、藤堂明は戦艦<大和>と<武蔵>の実戦指揮をとったとして、戦史に名を残す。
更には明の末息子、藤堂進が海上自衛隊幹部として護衛艦<やまと>に関わり、艦長そして司令ととして<やまと>を指揮することに成るのである。
ちなみに進の息子、藤堂輝男も海上自衛隊のパイロットであり、ジェット時代最初のダブルエースとして名を残した。
その輝男の子供たちが21世紀の現在、海上自衛隊や<やまと>に関わっているかは、また別の物語と成る。
ご意見ご感想をお待ちしております。