史実通りとはいえ、蔦屋重三郎の死因は現代知識からすれば、もったいないとすらいえるものでした。
そこで、あえて歴史を少しだけ改変してみました。
蔦重(つたじゅう)こと蔦屋重三郎の妻ていは、脚気(かっけ)に倒れた夫を気遣(きづか)っていた。
それこそ、ありとあらゆる療法を試してみたが、最後の頼みの綱とばかりに実行してみたことがあったのである。
「江戸煩(えどわずらひ)」などと呼ばれる様に、どういう訳か江戸などの大都市で暮らす人が罹(かか)り、田舎に戻ると回復してしまうのだ。
そこで、藁にも縋る気持ちで、田舎風の食事を整えてみたのである。
米屋などからは、どういう理由で精米前の玄米を求めるのか、と怪訝な顔をされたが。
すると…
1時は危篤か、とすら思われた夫が、何と回復したのである。
その夜、蔦重は夢を見た。
吉原の守り神「九郎助稲荷」が夢に現れ、
「迎えに来るつもりだったのに」
などと言いながらも、微笑んでいた。
死病かとまで思われた病床から復帰した蔦重は、早速その商魂を取り戻した。
自らの体験を本にして出版したのだった。
この出版は、賛否両論を引き起こした。
特に、伝統的な「脚気は風土病説」を取る医師からは、
「素人が何を言う」
と言わんばかりの非難とすらいえる反論を受けた。
だがしかし、当時「当代1の蘭方医」として名声を博しており、平賀源内の件などで蔦重とも親交のあった杉田玄白が蔦重自身の生還という結果に注目すると、風向きも変わり始めた。
玄白が1筆寄せて再販された本は、更なる論争を引き起こし、そして注目する医師も出始めた。
その結果「脚気に玄米療法を試してみる」医師が現れ、蔦重の様な生還者が出始めたのである………。
……。
…幕末。黒船来航に始まる政情の中で、少なくとも2人の要人が蔦重や玄白が残した玄米療法を試してきた蘭学者に因って、脚気から救われた。
江戸幕府第13代将軍、徳川家定と第14代徳川家茂である。
家定は実子の無い自らの後継者問題で政争が起こっている最中に脚気を発症した。
そのまま死去していれば、何者かがその死を隠したまま政変でも起こし、最後は大弾圧まで行ったかも知れない。
だがしかし、急遽江戸城に呼ばれた蘭方医の伊東玄朴らが玄白に影響された玄米療法を試した結果、生還したのである。
この生還は後継者問題に関する政争を、取り敢えずは先送りした。
そして、後の徳川家茂を推す派と水戸藩主徳川斉昭の子である一橋慶喜を推す派とは、談合の機会を得た。
結局のところ家茂が若くして、というよりは幼くして14代将軍と成り、慶喜が将軍後見職に就くことで妥協が成された。
折しも、西洋列強との通商条約締結を迫られる、という難局に直面する中で家茂と慶喜はあれほど両派が争ったことは無かった様な協力体制で、難局に向かって行くことに成る。
この時の遺恨ある反対派を大弾圧する様な独裁者は、遂に登場しなかった。
この時、弾圧が起こらなかったことで生き延びたとされる人物の中には、その後の幕末から明治にかけて活躍する人物がいる。
例えば、一橋派の有力大名である薩摩藩主、島津斉彬である。
彼は明治の文明開化に先立つ薩摩藩の近代化を進めた賢侯とされるが、藩内の反対派に因る密殺の危険にあったとも言われ、彼の子の多くが夭折したことに因る疑惑もあった。
もしも幕府側から弾圧が起きていれば、反対派の策謀を助長させられたかも知れない。
だがしかし、将軍家定が脚気から生還したことで将軍継嗣問題は妥協に進み、斉彬は自藩の近代化に邁進することに成る。
そして、彼が近代化した薩摩藩と、彼が育てた人材が維新直前の決定的な時点で、歴史に介入することに成るのである。
継嗣問題が妥協した時点に戻れば、次第に時勢は「尊王攘夷運動」に始まる激動を迎えていくことが、遂には避けられなかった。
そして過激化した長州藩に対して「長州征討」という武力衝突に発展した。
その武力衝突と幕府側の意外ともいえる苦戦の最中に、将軍家茂が脚気に倒れた。
この時も、先代の時に抜擢されていた蘭方医たちが玄米療法を試し、1時の危険から生還出来た。
だがしかし、生還した若き将軍は、長州1藩の征討にすら手古摺るという惨状を示した幕府の存続に関わる事態に直面した。
病み上がりの身を押して此の難局に立ち向かった家茂は、後見職慶喜とも同意の末、朝廷に政権を返上した。
あるいは押し付けた。
その後の交渉の末、かつての徳川将軍家は100万石の1大名として再出発し、その徳川藩を含めた各藩出身者が朝廷を中心に集まって新政府を作っていくことに成る。
こうして、徳川幕府は14代にして終焉した………。
……。
…明治という新時代。
幕末に「脚気に対する食事療法」に因って直接的のみならず、もしかしたら間接的に救われていたかも知れない人々が、新たに活躍する時代が来た。
例えば、吉田松陰は長州藩に於ける先進的な思想家として大きな影響を与えた。
その思想と行動は、当時としては過激であるが故に、将軍継嗣問題に発する弾圧でも起こっていたら身が危なかったかも知れない。
だがしかし、弾圧が起こらなかったこともあって、明治を迎えることが出来た。
そして、明治の教育界で活躍することに成るのである………。
……。
…明治の陸海軍でも、脚気は大きな問題と成った。
その折、後に文豪、森鷗外として名を残す陸軍のエリート軍医が蔦重と玄白が残した古書を発掘し、半信半疑ながら食事療法を試してみた。
その結果は劇的とすらいえる状況改善だった。陸軍に於ける脚気に因る死者は激減した。
後年の鴎外は、率直に感嘆したとの回想を残している………。
……。
…だがしかし、それらは後日談である。
病(やまい)から生還した蔦重には、壮年から晩年にかけての活躍が待っていた。
折しも、結果として町人文化への弾圧と成ってしまった「寛政の改革」の時代の後の「化政文化」と呼ばれる江戸町人文化の最盛期が来ようとしていた。
かつての蔦重が見出した若き才能たち、例えば曲亭馬琴や十返舎一九らが活躍する時代である。
彼らは、蔦重が経営する「耕書堂」から多くのヒット作を世に出し、また蔦重は更に多くの才能を見出して「化政文化」の1翼を担った。
そして、後年いう処の「名プロヂューサー」としての名声の中に、天寿を全うしたのである。
蔦重が基礎を築いた「耕書堂」は、彼の後継者たちの代まで繫栄した。
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