ストリップ・リユニオン - 闇を脱がす者たち 作:添牙いろは
新歌舞伎町の外れ――派手なネオンの明滅も、深夜営業の店の喧騒も、ここまでくると徐々に薄れていく。そんな一角に、ファミリーレストラン『ファメリア』はあった。朝も昼も夜も、ひっそりと続く営み。
制服は、チェーン店共通のくすんだ紺色のハーフジップ長袖シャツ。胸元に小さくロゴがあり、襟と袖口には白と灰のストライプが走っている。腰から下は私服でよく、彼女はいつも黒のシンプルなパンツを愛用していた。全体的に地味だが、清潔感はある。一方で、まるで事務服のような印象は否めない。そんな中でも、ひと際光って見えるのは、後ろで止めている紅葉型の髪飾り――彼女にとって、それは
明け方、紅葉は洗い物などを一通り終え、バックヤードの片隅でひと息つく。やがて、店長が裏口から入ってきた。眠たそうな目でタイムカードで出社登録しながら、軽く尋ねる。
「そういえば、明日は日曜日だからお休みだっけ」
「はい」
それだけのやりとりで済ませてしまうあたりが、紅葉らしい。もし、ここで、彼女ではなく“カリン”なら、にこやかに『ステージ、観に来ますか~?』と明るく誘えたことだろう。だが、紅葉にそんな芸当はできない。仕事外のことに言及するのは公私混同では――? というか、セクハラでは――そんな考えが先に立ち、口をつぐんでしまう自分に、紅葉は内心で小さく溜息をつく。こういうところが、自分は営業向きではないのだろうと、改めて思うのだった。
勤務時間を終えてファメリアを出ると、まだ夜の名残を引きずる空が広がっている。制服のシャツと黒パンを脱ぎ、上には手持ちの黒ジャージに、下は慣れたベージュの膝上丈スカートに穿き替えていた。しかし、そこに派手さはない。冬の早朝にはやや肌寒く、紅葉の歩速は自然と速まっていく。
煌々とした街の光も、チカチカと点滅を繰り返す看板の装飾も、通りを一本外れた今ではすっかり和らぎ、まるで薄い布越しに見ているような静けさに包まれていた。人影もまばらで、深夜営業のラーメン屋が看板の灯りを落としている。ゴミ収集車のエンジン音がどこか遠くで鳴り、濡れたアスファルトの匂いが風に運ばれてくるようだ。
新歌舞伎町の朝は、夜を押しのけるようにして始まる。とはいえ、完全な始業というにはまだ早い。空の端に淡く白みが差し始め、街灯がその役目を終えようとしている。
紅葉は一度だけ肩で息をつき、深呼吸ひとつ。ひと仕事を終えた彼女は休息を取るために自宅に向かっている――わけではない。夜の終わりと朝の始まりが交差するその時間帯。紅葉は、そのわずかな隙間を縫うように歩き出す。
向かう先は、ライブハウス『ノクターン』――彼女にとって、ファミレスで働いている以外のすべての時間はそのためにあるといっていい。日中はしんと静まり返るその
ダンスについては、楓にとって息をするのに等しい。身体にリズムを流し込めば、手足は自然とついてくる。けれど、歌はそうもいかない。音を掴むにも、声を保つにも、気を抜けばすぐに崩れてしまう。だからこそ、日課としての歌のレッスンは欠かせない。最低限のボイストレーニングを済ませたあとは、いつもの持ち曲の練習に入る。
陽光が射し込む少し前のこの時間――誰にも邪魔されず、大きな音を響かせることのできる数少ない稽古場だ。実際のところ、踊り娘のリーダー・リリザがこの会場のどこかに泊まり込んでいるはずなのだが、いままで一度も苦情を受けたことはない。おそらく、音が届かない一室で眠っているのだろう。
ホールには誰もいない。静かなフロアに向けて、楓は立っていた。そして――スマホからイントロが流れるのと同時にステップを踏み始める。踊り始めれば、身体の隅々まで神経が行き渡り、意識はひとつの芯に収束していくようだ。楓の動きは軽やかで、指先から足先までが旋律に同調していく。あたかも本番の舞台で、照明を浴びながら踊るアイドルのように。けれど、彼女がここに立っているのは、誰に見せるためでもない。ただ、自らのスキルを高めるためだった。
「私はここにいると、踊り続ける♪」
ワンコーラスが終わる頃、楓は動きを止めないまま、軽くジャージのファスナーを下ろし始めた。上着を脱ぐと、薄手のブラが現れる。それは、黒地に控えめなブランドロゴが入った、ごく実用的なもの。続いて、スカートの腰を緩めると、するりと重力のままに床へと落とした。露わになったのはスポーツ用のショーツ。踊るための機能性を重視した下着は、装飾もないぶん、彼女の引き締まったラインを静かに際立たせている。
「止まれば崩れそうで、走ってきた♪」
楽曲は大詰めに向けて――その盛り上がりの中で楓は背中のホックを外すと、両腕を天井へと伸ばしながらさり気なく肩紐に指をかけ、下ろす動きに合わせて迷いなくブラをすとんと外す。続いて、ウエストに手を添えてショーツも。それは、踊りながら、あくまで自然に。あたかも、振り付けの一部かのように。汗ばんだ肌に空気が触れた瞬間、筋肉が隅々まで研ぎ澄まされていく。
「揺れて、揺れて、世界が霞んで――」
裸のまま、楓は踊り続ける。一つひとつの所作が、音に合わせてしなやかに形を変えていく。彼女の身に残されたのは紅葉型の髪飾りただひとつ――
彼女は、もうファメリアの制服を着ていた紅葉ではない。歌い、踊り、そして脱ぐ――だが、それらは個々のものでなく、すべてをひとつに“融合させる”――これが、二十二世紀における新たな表現形態、“ストリップ・アイドル”としての魅せ方だった。
ステップとボーカルが最後のフレーズに収束すると、楓は片膝を折り、胸の前で静かに手を合わせる。その決めポーズで、楽曲は幕を閉じた。
ほんの刹那、空間が冷えていくような静けさの中に――パン、パン、パン、パン――間を置いて、乾いた拍手が舞台に届く。音の方向に目を向けると、そこには意外な人物が立っていた。ステージ入口の壁にもたれるようにして、少女がひとり。黒髪のロングヘアに、どこぞの高校のジャージの上下、肩からスクールバッグを下げている様は、まるで部活中の女子高生のようだ。ぱっと見の印象は、どこか眠たげで、その存在感からして希薄に見える。
――
「音程も発声も、きちんと道が見えてる。おかげで、聴いてたこちらの心も迷子にならずに済んだわ」
評するその調子は相変わらず気怠げで、どこか棘を含んでいる。けれど、楓は舞の歌唱力を重々承知していた。ゆえに、反発しようという気も起きない。ダンスなら譲らない自信はある。だが、歌に関しては、彼女のほうがずっと先を行っていた。その事実を、楓は素直に認めるしかない。
「褒めてくれるの、ありがとう」
楓は正面から言葉を受け止め、慇懃無礼に返した。これに、舞はふっと口元を緩める。
「けど、世界じゃあ二番目ね」
その台詞に、楓は表情を変えなかった。自分の歌が世界で二番目などとはまったく思っていない。だから、回りくどい皮肉であると受け取った。それに――“二番”とあえて指し示す以上、一番が誰かという話題に誘導しようという意図が見え透いている。だからこそ、楓はその問いを拾うことなく、ただ、沈黙をもって応じた。
少しの静寂の間をもって――舞も会話が終わったものと察したらしい。彼女はいつものように鞄を置くために部屋の隅へと向かっていった。一学期の頃から、舞が登校前にこのライブハウスでダンスや歌のトレーニングをしていたことは楓も知っている。それを再開させるということか。
しかし――楓にとっては少々想定外の時間帯である。以前ならば、舞が来る時間はもう少し遅かった。これに、楓は小さく舌打ちする。これまで通りであれば、舞に自分の歌を聴かれることもなかったのに。
レッスンの始まりは、マットの上でのストレッチから。舞がそこに腰を下ろしたのに合わせて、楓は視線を反らしながら荷物をまとめ始める。これ以上ここにいても、気持ちが沈むだけだ。
「あら、今日は早いのね」
舞が横目で見ながら軽口を叩く。その笑みには、どこか楓の動揺を見透かすような余裕があった。それが気に入らず、楓は少しだけ見栄を張る。
「ええ、今日は夕方に明日のステージのリハが入ってるから」
少しは悔しがれ――などと儚い希望を抱いてみるも――舞は既にCDデビューを果たし、写真集の出版も決定している。舞台ひとつ程度では、その表情を揺るがすことはできない。
「本番が楽しみね。ポップコーン片手に楽しませてもらうわ」
そんなもの、このライブハウスで売ってないでしょ――と楓は呆れ気味に聞き流す。いずれにせよ、明日も舞はステージを見に来るのだろう。ただし、それはポップコーン片手、などと軽いものではなく――すべては己のストリップ・ライブの糧とするために。すでにトップクラスを走る実力を持ちながら、他を蹴落とすかのごとく鍛錬も欠かさない。その熱心さが、楓にとって憎たらしくもあり――そして同時に、心の内に強く湧き上がってくるものを感じさせてくれていた。
それに何より、
楓の自宅は、勤務先のファミレス『ファメリア』が用意してくれた社宅だった。築年数はそれなりに経っており、外壁の白いタイルにはところどころ黒ずみが見える。低層の鉄筋コンクリート造で、入口のポストには錆が浮き、敷地の端のほうの茂みに埋もれるように、何台かの自転車が無造作に置かれている。いわゆる『社宅然とした』建物で、華やかさはないが、住み慣れると妙に落ち着く雰囲気を持っていた。
職場までは徒歩二〇分。そこからさらに一〇分ほど先――新歌舞伎町の隅にあるライブハウス『ノクターン』までは、なかなかの距離がある。とはいえ、楓にとっては通い慣れた道だ。バスで通う者も少なくないが、彼女はもっぱら自転車を利用していた。職場には専用の駐輪場があるため特に問題はないが、ライブハウスとなると話は異なる。繁華街の只中にあるため、長時間の駐輪は近隣からの苦情を受けかねない。移動手段の喪失は生活において死活問題につながる。ゆえに、ファミレスと会場の間は徒歩で通っていた。
楓は一時期、ノクターンに住み込んでいたこともある。ゆえに、このあと夕方にはリハーサルもあるし、控室で寝てしまえば時間の節約にも――そんな考えが頭を過ったことは否めない。だが、今日もきちんと社宅に帰ってきている。ここは、彼女にとってただの部屋ではなく、初めて得られた“実家”のような場所となっていた。
部屋は、六畳一間のワンルーム。間取りは単純で、ドアを開ければすぐにキッチンがあり、その奥には簡易な机、ハンガーラック代わりの室内干し用の竿が一本。部屋の照明は天井の蛍光灯ひとつのみで、白く平坦な光が部屋全体を均一に照らしている。冷蔵庫も小さな備え付けのもの。派手さはないが、掃除の行き届いた清潔な空間だった。玄関脇にはダンスシューズとスニーカーが並べられている。
帰宅後、楓はシャワーを浴びた。そして、ベッドの脇にある小さなテーブルに目を向ける。そこには、四冊の写真集が積まれていた。その中の一冊を手に取り、表紙を撫でるように開く。表紙には、最近芸人から女優に転向した
ページをめくるたび、緩やかに変化していく構成が見えてくる。最初は柔らかなニットに包まれた理々の自然体の笑顔。やがて衣服は薄手のシャツに変わり、ページが進むごとに水着、そしてランジェリーへと移行する。だが、それは決して露骨な流れではない。理々の表情も、ポーズも、常にどこか凛としていて、無防備さと演技性のはざまを漂っている。
そしてついには、肌のすべてが光に晒されたカットへと至る――けれど、それすらも静謐で、品位すら漂わせていた。身体のひねり、手足の伸び、光の当たり方――そのすべてが緻密で隙がない。楓はその一枚一枚を、食い入るように見つめ、モデルの肉体を脳裏に焼きつけていく。振り付けのヒントを得るために。たった一枚の写真が、何時間ものレッスンを上回ることもある。彼女にとって、これは重要な“研究”だった。
この作品を撮影したのは、
ここにはすべての写真集が揃っているが、ライブハウス『ノクターン』には一冊も置いていない。もし、控室にも同じものを用意しておけば、帰宅せずとも振り付けの資料を確認できる――そう考えたこともあった。しかし、それでも本はすべてここだけにある。この時間だけは、自分だけのものにしておきたい。他人に覗かれることなく、由伸の写真とふたりきりになれる時間。それを守りたいという思いが、楓の中にあった。
楓は写真集を閉じて枕元に戻す。そして、ベッドに横たわると、天井を見上げた。次のライブでは、どんなパフォーマンスを――そんな考えが浮かんでは消え、やがて、楓のまぶたはゆっくりと閉じられる。
日曜日の夕方――これから
そこに今朝、カリンから連絡が入った。『お兄ちゃんの車で送ってもらうから、一緒に乗っていく?』――車が走っているアニメのスタンプ付きで――かつて、共に南千住で暮らし、楓が自転車で新宿まで通っていた頃は、このように車に乗せてもらうことなんて一度もなかった。むしろ、当時こそ頼らせてほしかったのだけど――それでも、喜んで甘えさせてもらうことにする。何より、彼女の胸を弾ませたのは――彼女の兄である由伸に会えることだった。
なので――普段はトレーニングウェア一丁で過ごしている楓だったが、今日ばかりはきちんと決めている。白を基調にしたブラウスは、透け感こそ抑えめながら、胸元にほんのりレースがあしらわれており、フェミニンな空気があった。袖は七分丈で、手首にかけてすっと細くなるシルエット。ボトムには落ち着いたトーンのロングスカートを合わせているが、裾がひらりと揺れるたび、軽やかで可憐な雰囲気を見せる。アクセサリーは控えめに、首元に小さなペンダントを。髪は寝癖を誤魔化すようにいつもの紅葉型髪留めでまとめることも多かったが、今日は丁寧に梳かして後ろで緩くまとめており、耳元にちらりとのぞくイヤリングが光を受けて揺れていた。これらは明らかに“誰かに見せるため”の装いである。実際、これからステージのリハーサルに向かうとは思えないほど、細部まで意識が行き届いていた。
そんないつもと違う様相で、社宅のフロント前で待つ楓。すると、遠くから一台の車が近づいてきた。高級車ではあるが、この街で見かけるような物騒な黒塗りの緊張感をはらんだ外観ではなく、柔らかな曲線と明るい色味が、どこか親しみを感じさせる。シルバーのボディが高い陽射しを受けて、キラリと輝いていた。見慣れた車種に、楓もつい心が踊ってしまう。
車はゆっくりと止まり、後部座席の扉が開いた。カリンが顔を覗かせると、ふわふわの金髪が光を受けて柔らかく揺れている。今日も元気そうだ。
「楓さん、お疲れ様です!」
誘われるがままに乗り込んだ楓は、その隣に座った。カリンは楓と異なり、いつも可愛らしく身なりを整えている。夏服姿で、襟元には可愛らしいリボンがついていた。胸元は楓よりも一回り大きく、それでいて上品なラインを作っている。
ふたりは会えば、いつでも真っ先にダンスやステージの話で盛り上がるところだが――今日のカリンは気を使った様子で静かにしていた。扉のこちら側まで響いてくる街のかすかなざわめきの中、楓はぽつりと声をかける。
「……帰ってきてたんですね、由伸さん」
車内に流れる音楽は落ち着いていて心地よい。由伸は運転席に座り、アクセルを踏みながらハンドルを軽く操作している。窓から差し込む陽射しが、彼の髪を優しく照らしていた。少し長めの黒髪は、さらりと整えられている。癖もなく、風になびくほどに柔らかい。彼の横顔はどこか中性的で、男らしさと美しさが同居していた。
由伸は白のシャツを着ていたが、薄手のジャケットは軽やかに肩にかけているだけで腕を通していない。ネクタイもせず、第一ボタンだけを開けているその姿は、どこか余裕を感じさせた。長い指がハンドルを握りしめるたびに、腕の筋がうっすらと浮かび上がる。
楓の視界に、晩夏の光とともに溶け込む由伸の横顔が映った。ただそれだけのことで、鼓動が少し速くなる。久しぶりなので、うまく言葉をつなぐことができない。
由伸の視線がルームミラー越しに楓を捉える。彼の口元は、ほんのりと笑みを浮かべていた。
「再会のシナリオは、どうしてもキミから始めたくてね」
その言葉に、楓の心がドクンと跳ねた。隣でカリンがクスクスと笑う。
「お兄ちゃん、真っ先に楓さんに会いたいって言ってたもんね」
屈託のないカリンの笑顔に、楓は何となく気恥ずかしくなり、視線をそらす。
ライブハウスで舞と出会ってから――被写体であるあの女が帰ってきているのだから、撮影者たる由伸も当然――昨日から、楓は由伸からの連絡を待ちわびていた。しかし――カリンを通してくれて、本当に良かったと思う。もし、由伸から直接メッセージを送られていたら――恥ずかしさのあまり開くことができず、今日の夜、手遅れになってから確認していたかもしれない。
徒歩なら三〇分だが、車であれば一〇分足らずで到着する。楓が物足りなさを感じるほどにあっさりと見慣れた通りへと入ってゆき、ノクターンの前でゆっくりと停車した。昼間のノクターンはまだ静かで、外観もどこかひっそりとした雰囲気を漂わせている。
由伸はエンジンを切り、ルームミラー越しに楓を見つめていた。その目には、いつもの優しさと、ほんの少しの期待がにじんでいる。
「この後……ふたりだけのディナーで、夜を少しだけ延ばさないか?」
女心を探るように、由伸が軽い調子で誘ってくる。これに、楓の胸は期待でいっぱいになってしまった。けれど、つい素っ気ない態度で取り繕ってしまう。
「……ステージが終わった後なら」
自分の声が、思っていたよりも冷たく響いた気がして、楓は内心で慌てていた。けれど、由伸はそんな反応を見透かしていたように、微笑んだままうなずく。
「待ってるよ、俺との本番の時間をね」
楓はその言葉を受け取りながら、車のドアを開けた。カリンも続いて降りる。由伸は軽く手を振りながら、車を再び発進させた。
車が遠ざかっていくのを見送りながら、楓は深呼吸をする。そして、チラリと――助けを乞うようにカリンに目線を送った。が、普段は何かと協力的な友人も、こういうときは何も言わない。ただ、ニコリと微笑みだけを返す。頑張ってね――もしくは、ふたりの仲に口を挟むほど無粋じゃないよ――とも。そういうところ、ちょっと、イジワルだな――楓は、少しだけカリンに恨めしげな視線を向けていた。
ノクターンでは、いままさに本番直前のゲネプロが始まろうとしている。フロアには、開演を前にしてかすかな緊張感が漂っていた。点検のためわずかに明滅する照明、スピーカーから漏れる低いノイズ、スタッフたちの靴音と指示が空気を揺らしている。その中に混じって、出番のないメンバーたちも来ているようだ。そのまま本番を鑑賞し、終演後は共に打ち上げに参加するつもりなのだろう。何より、実際の
だが――メンバーの中でも熱心だったはずのあやのの姿は今週もなかった。本業であるジムのインストラクター業が週末は書き入れ時らしい。ただし、それはファミレスの店員である楓も同じこと。しかし楓が嫌な顔をされずに仕事を空けられているのは、店長自身が『ノクターン』の常連客だからということが大きい。もちろん楓もそれに甘えることなく、逆に平日は積極的にシフトを入れている。ただしそれは、生活費のため、という都合が大きいが。
結成当時は平日の遅い時間帯にライブが開催されていた。なので、それを見越したメンバーが集まっていたが、いまでは週末に移動している。たしかに一般客を集めるには都合も良いが、あやののように、所属メンバーたちにとってはそれぞれの事情が重なるようになってきている。
ストリップ・アイドルという異色のユニットが発足して、まだ一年も経っていない。話題性と珍しさを武器にしていた初期の盛り上がりは徐々に熱を失いつつあった。最初こそ、所属メンバーたちも積極的にライブに参加していたが、その顔ぶれも次第に減っている。
そんな中――逆に、今日もホールの奥にしれっと現れているのが
彼女が館長を務める『シネマ・トーチライト』は、新歌舞伎町に半世紀以上居を構える老舗映画館である。きらびやかな娯楽作には目もくれず、ドキュメンタリー作品を中心にラインナップを組むという硬派な姿勢を崩さない。年齢制限付きの作品も珍しくなく、観客の層も自然と大人びていた。
そんな瞳がこのノクターンに足繁く通っている理由は、ストリップという文化そのものに対する関心によるところが大きい。彼女は時折、自らステージに上がることもあるが、それよりも、誰かが“脱ぐ”という行為を観察することに興味を抱いている節がある。いつか、ストリップ・アイドルを映画として撮った際には、是非うちで上映させてほしい、と気の早いことを言っていたが――まずは、この興行を根付かせなくてはならない。広く親しまれる娯楽として。
そのためには、一つひとつのステージを大切に積み重ねていかなくてはならないのだが――今夜のステージに不可欠な人物がいまだ姿を見せていない。ノクターンの舞台裏――薄暗い照明の下、楓とカリンは立ち尽くしている。控室の片隅には、まだ
「うーん……やっぱり返事は来てないなぁ」
カリンは何度も美春に連絡を送っていたらしい。楓は無言で視線を床に落とし、小さく息を吐いた。その表情には、どこか諦めの色がにじんでいる。美春は元々、完全に金のためと割り切ってステージに上っていた。ゆえに、ノクターンの中でもモチベーションはとりわけ低い。他のメンバーが必死に練習を重ねている中、彼女はどこか浮ついていた。本人とて、他に働ける場所があるならそこで働く、と言って憚ることもない。そして、ついにはこうして来なくなった。その理由について、楓には心当たりがある。男だ。美春は、男ができると髪の色を明るく染めたがる。夏頃、いつものショートボブがライトブラウンになったのにあわせて、みるみるライブハウスに足を運ぶ頻度が減っていった。もしかすると、その男のツテで、新たな仕事に就くことができたのかもしれない。
ノクターンのステージ構成は三人ひと組が基本。スキルの低いメンバーもいるため、センターにダンスチーフを置き、その両脇を固める形でパフォーマンスを行っていくスタイルとなっている。ダンスだけなら楓ひとりで魅せることはできるが、歌は三人のユニゾンでどうにか厚みを出していきたいところ。そのためにも、もうひとりステージに上がってもらいたいものだが――
そのとき扉が開き――店長のエリが控室のほうから現れる。長い髪に小柄な体躯で顔には上品なメイクを施し、いつものように鮮やかな色のスカーフを首に巻いていた。
「あっ、エリさん、実は……」
どこから説明しようか、とカリンが少し言葉に迷うも、エリは一瞥で状況を察したらしい。
「まあ、この業界、よくあることですから」
エリの声には、まるで何でもないかのような余裕が感じられる。その微笑みからは場慣れした大人の風格すら漂っていた。しかし、出演者のほうはそうもいかない。
「どうしよう……リリザさん、呼んでみようか?」
カリンの提案は順当なものかもしれない。だが――楓は視線をそらし、無言で下唇を噛む。リリザ・シャトレ――ノクターンの踊り娘のリーダーであり、当然のようにスキルも高い。彼女の歌唱力、ダンス、そして観客を魅了する存在感は、どれも群を抜いている。今日のステージ構成を急遽変更しても、リリザなら即興で合わせてくれるだろう。
だが――楓の胸にはわだかまりがあった。リリザを呼べば、自分の存在感が薄まる。ステージのセンターに立つのは、楓ではなくリリザになるだろう。
楓もかつてはダンスチーフとしてステージに立っていたが――それはダンスがメインの時期の話。現在、ストリップ・ライブのステージはボーカルが中心となっていた。楓はダンスには自信がある。けれど、歌はまだまだ未熟だ。総合力でいえば、リリザや舞には到底かなわない。
さらに、もうひとりのダンスチーフ――如月舞はセンターを自ら名乗って憚らない圧倒的なオーラを持っている。そんなふたりと比べられては、どう足掻いても楓は引き立て役になってしまうだろう。
「ハロクドさん、呼べないかな……」
楓はすがるようにつぶやく。ハロクドは、楓と同じくダンスチーフの肩書きを与えられているひとりだ。しかし、相応のスキルを持ちながらも決して前に出ようとしない。むしろ、他のメンバーを引き立てるように動けるのがハロクドの持ち味だ。そんな彼女にサポートしてもらえるのなら、楓としてもありがたい。
けれど――
「ハロクドさんって、気まぐれだからねぇ」
カリンが肩を落としてため息をつく。
「
ハロクドはいつでも好きなときにステージに上がって良い、という条件でストリップ・アイドルを務めている。上がってさえくれれば、そのパフォーマンスで確実に場を盛り上げてくれるが、いつ出てくるかがわからない。今回は期待が薄いことは、楓もまた察している。
カリンと楓の間で、焦り混じりの相談が続く中、エリは部屋の隅で腕を組んで微笑んでいた。まるで、何かを知っているかのような表情で。その様子を見て、楓はふと我に返る。――エリさん、すでに手を打ってる――?
その予感が胸をよぎったに合わせて、ホールの扉が勢いよく開かれた。
「なんか、人が足りないんだって?」
快活な声と共に現れたのは、ギターの
「全裸ドラムとか、面白いじゃん♪」
続いて、ドラムの
ふたりは今年の春に高校を卒業したばかりの若手だ。天夏は背が低く、切り揃えられた金髪のストレートヘアが印象的である。のんびりとした笑顔とふわりとした空気感をまとっており、柔らかな雰囲気の中にも豊かな胸元が目を引いた。一方、恵は長い暗髪をなびかせ、勝ち気な眼差しが特徴的である。背筋をピンと伸ばし、芯の強さを感じさせる態度をとるが、ボディラインはスレンダーで、胸元は控えめだ。
ふたりとも派手なメイクに露出度の高い衣装をまとい、まさに『ギャル』という言葉がぴったりの雰囲気である。しかし、その見た目とは裏腹に、ふたりの演奏技術は、如月舞のバックバンドさえ任されるほど。彼女たちの
一曲目は着衣のまま歌い、
二曲目は歌いながら脱いでゆき、
三曲目は裸のまま歌う――
現実的に、脱ぎながら演奏するのは不可能だろう。ならば――二曲目と三曲目の間に脱いでもらって、ラストで全裸ライブを披露すれば、客たちも納得するか――
「ありがとうございます。助かります」
楓の中で段取りが決まり、ようやく胸の奥の不安がようやく取り除かれた。ここは、エリからの心強い厚意を素直に受け取っておく。構成としては変則的だが、少なくとも、生演奏が加われば、聴き応えのあるステージにはなるはずだ。
「楽器を合わせる分には、歌よりやりやすそうだね」
カリンがホッとした表情で言う。楓も小さくうなずいた。
想定外のことは色々ありながらも――とにかく、まずは合わせてみる。ボーカルは、素人レベルの楓とカリン。だが、それでも生演奏をバックにすると、思いのほか様になってくれる。むしろ、演奏のクオリティが高すぎて、ボーカルが押されているかもしれない――楓は、感謝しつつも、自分の練習不足を省みていた。
二曲目が終わったところで、演奏組も服を脱ぎ始める。ゲネプロとはいえ、わざわざリハーサルで脱ぐ必要があるのだろうか? と、楓はにわかに首を傾げた。ステージ中の流れの中で脱ぐわけでもないのに、そこまで本番に即する必要があるのだろうか。
だが――この場所に集まってくるメンバーの性質を考えれば、さほど不思議ではない。
スピィも似たようなものだと思っていたが――『道具による優劣がないよう、スポーツは全裸で勝負すべき』――その信条は立派なもの――かはさておき、最初は衣装を着て踊るという説明を落胆をもって受け止めていたあたり――実際、最近は意欲の低下が著しい。当日の今日になって連絡もなく姿を見せなくなった美春についてはなおさらだ。
そんな中だからこそ――天夏と恵のふたりは、ある意味で“有望株”とも言える存在といえるかもしれない。
直前にひと波乱はあったものの、迎えた本番――リハーサルそのままのノリでライブも盛況のうちに進行していく。ただし、三曲目の前に入った全裸でのMCパートでは――
「そんじゃ、私らも……イコっか!」
「ステージに上がってる以上、脱いどかないとね~」
天夏が高らかに宣言し、恵が軽い口調でそれに続く。
「皆さ~ん、手拍子お願いしま~す」
その流れにカリンも乗ってしまった。三人のハイテンションに、楓はすっかり面食らっている。というか、ゲネプロでもそんな脱ぎ方してなかったじゃん! いや、ステージの演出としては悪くないけど――! だが、全裸のまま立ち尽くしているという状況に、楓はさすがに落ち着かない。
演奏組は、妙なポーズでの“フリ”を加えながら服を脱ぎ終えると、天夏はギターを肩にかけ直し、恵はドラムのスローンに腰を下ろした。脚を広げて座るその恵の姿に、楓は思わず顔をしかめる。いや、ペダルの都合で仕方がないとはいえども。
しかし――ここで立場が弱いのは楓のほうか。
「てか、楓さん、いまさら胸とか隠してんの、カワイすぎ!」
ドンガラジャンジャン! ――恵がドラムを叩いて煽ってくる。
「というか……ただ裸で突っ立ってるのも、なんか違うし……」
むしろ、自然体の三人のほうがおかしいと、楓は思う。ついこぼしてしまった弱気な言葉に――
「じゃあ、歌って踊ればいんじゃね?」
天夏が、あっさり返してきた。こういうとき、楽器を手にしている彼女たちは強い。即興でも、場の流れを生み出せる。
しかし、天夏が選んだのは、よりにもよって『コンニャン体操』――
しかし――
「ニャンニャンニャンニャン♪」
カリンの明るい声が響く。彼女はこういう場の空気を読んで即座に乗るのが得意だ。しかも、以前ステージ仕様の『コンニャン体操』を披露した経験もあり、その完成度は異様に高い。
楓は観念するしかなかった。それでも――コンニャン体操だけは避けるべく、代わりに踊り出したのは『不思議?こんなぎ☆マジカルこんこん♡』――Nya-oXのキツネ担当のソロ曲で、歌詞は魔法少女アニメのような雰囲気だが――楓は歌のほうに興味はない。だが、そんな曲なのになぜか振り付けだけは全力で――これならば、楓としても踊りごたえもある。別曲なのにダンスがぴったり合ってしまうのは、同ユニットの楽曲だからか。踊っていれば、裸でも恥ずかしくない――それどころか、身体の内側から熱が湧き上がり、つい笑顔がこぼれてしまう。
ギャルたちやカリンのコミュ力は、楓は決して持ち得ないもの――男たちの前で平然と素っ裸で笑い、会話し、踊る彼女たちの姿に――こういうところは絶対勝てないな、と楓は心の中で両手を挙げていた。
ステージの熱気がまだ冷めきらぬ控室――身なりを整えた天夏と恵が、軽快な足取りでドアを開ける。
「お疲れー、そんじゃウチら、打ち上げ行ってきまーす」
おそらく、ファメリアでは出演していない新月や瞳が先に盛り上がっていることだろう。
「また呼んでねー。私たち、週末は“
その単語を聞いた瞬間、楓の耳がピクリと反応する。Lunaru――昨年デビューしたばかりの新人アーティスト。その独特の世界観と癒し系のビジュアルを持ち、一部で話題になっていた。
楓も実は、Lunaruのファンである。曲も好きだし、できれば、サインなんかも欲しいとも思っていた。しかし、天夏や恵とはまだそんなに親しくない。そんな彼女たちに頼んで『Lunaruさんのサインもらってきて!』と言い出すのも気が引ける。
それにしても、Lunaruさんのところにいるって――? 尋ねるため、ふたりを引き止めようか迷っている間に、その姿はドアの向こうに消えていた。控室に残ったのは、楓とカリンだけ。さっきまでの喧騒が嘘のように静まり、空調の音だけが微かに耳に届く。楓はため息をついて、脱いだ衣装を掛け直していた。あのふたりには、また出演してもらいたい――そうすれば、Lunaruさんとの接点を作れるかも――そんな打算が頭をよぎる中、着替えを終えた楓は、椅子に腰を下ろした。
ライブが終わり、由伸とのディナーまでにはまだ時間がある。カリンと今後のスケジュールなどを話していると――約束の時間の一五分前、唐突にカリンがバッグを肩にかけた。
「それじゃ、楓さん、お先に~」
「えっ、由伸さんと……」
楓は思わず呼び止める。当然、カリンも一緒に行くものと思っていたから。しかし。
「誘われたのは楓さんでしょ?」
「え……」
その意味深な笑みに、楓は何も言えなくなる。
「カリンは打ち上げのほうに合流してくるよ~」
――わざと、だったのか! 楓はカリンの言葉の真意をようやく理解する。最初から、由伸は楓だけを誘っていたのだ。それを知りながら、一緒に待っていてくれたのは――ひとりで残っていたら、緊張で腹痛を起こしていたかもしれない。
「じゃあ、楓さん、頑張ってね!」
カリンが悪戯っぽくウインクをして、控室を出て行く。その背中を見送りながら、楓の胸の鼓動は早鐘のように打ち始め、誰もいない控室の中で、その音が自分にだけはっきりと聞こえてくるように感じられた。今夜は、ふたりきりで、由伸さんと――楓の頭の中には、様々なシナリオが浮かんでは消える。どんな話をすればいいんだろう。私の服装、これで大丈夫かな? 失礼なことを言わないようにしないと――
思考がグルグルと回る中、期待と不安がせめぎ合いながら、時間は刻一刻と迫ってくる。控室の静寂に包まれながら、ドキドキと鳴る心臓の音が、自分の内側にこだましていた。