ストリップ・リユニオン - 闇を脱がす者たち 作:添牙いろは
黒塗りの高級車に揺られながら、楓は車内の空気の重さに息を詰まらせている。革張りのシートは滑らかすぎて、触れるたびにひやりと冷たい感触が走るようだ。そうした無駄な贅沢さがあると、楓はむしろ落ち着かない。共に後部席に座るエリは一言も発さず、車内にはただタイヤの回転音と、時折聞こえるウィンカーのカチリという音だけが響いていた。
楓は、こういう状況が本当に苦手である。運転席からも黒服に監視されているような閉塞感。逃げ場のない空間に押し込められ、まるで取り調べ室のようだとさえ思う。外の景色を眺めようにも、その余裕もない。そもそも、車は同じ区画を何周もしているようで、どこかに到着することもなさそうだ。
どうやらエリは――ふたりきりで話がしたいらしい。黒服はいるが、聞かなかったことにするのが彼らの流儀なのだろう。
ほんの少し前、新歌舞伎町の特措法縮小の場面では『これはみんなの問題です』と毅然と語っていたエリが、今度はあえて密談の場を設けている。その落差に、楓は不穏なものを感じずにはいられなかった。まさかとは思いたいが、とんでもない事態が待っているのかもしれない――そんな不安の中で、エリは控えめながらも、しっかりと通る声で楓に告げる。
「陽子さん……ミキさんは、私が招致しました」
「そうだったんですね……」
楓はその一言に、驚きよりも戸惑いを感じる。
新歌舞伎町の特措法の必要性を訴えるための即席バンド『ネオ・カブキ・ポップス』――カリンが集めてきたと聞いていたが、裏ではライブハウスも動いていたらしい。となれば、それは音楽的な期待からではないだろう、と楓にも察しがつく。エリの眼差しには、別の重さがあった。
「彼女……ミキさんは『ヴィクス・ラウンジ』からの逃亡者です」
「……はぁ」
唐突に出てきた名前に、楓はつい気の抜けた相槌を返してしまう。聞き覚えのない単語――けれど、エリの真剣な顔がそれを軽んじてはならないことを物語っていた。
「知らないのは、無理もないと思いますが……“表向き”はとある宗教団体の一派です」
“表向き”――エリの口元が微かに引き締まった。その表情に、楓の胸には明確な悪寒が走る。
「……ですが、その正体は、『管理社会時代』から続いてきた――」
「えっ」
エリの言葉を遮るように、楓は思わず声を上げた。“管理社会”――それは、三十年ほど前まで政権を握っていた『安心党』による治世のこと。話で聞いた限りだが、楓にとって、その時代に悪い印象はない。三十年前の政権交代から続くいまの与党『開放党』による“自己責任社会”に比べれば、多少窮屈でも、誰もが守られていた。弱者が見捨てられずに済む社会――少なくとも、楓はそう捉えている。
けれど、エリの表情からは、そんな理想的な像が浮かび上がることはない。どうやら、あの時代には、悪しき面も存在していたようだ。
「――共産圏による児童買春組織です」
そんな話を、楓もネットの記事か何かで聞いたことがある。管理社会――子供は大人がしっかりと
特に女子に向けられたのは、当然のように――売春である。
だが、それが『共産圏による』だの、『管理社会の名残』だのといった、大きな政治的枠組みとつながっているとは想像もしていなかった。そんな複雑で、遠く思える構造が、まさか目の前の現実にまでつながっているなんて。
――楓の思考が止まる。
話のスケールがあまりにも大きすぎて、ついていけない。言葉は聞こえていても、頭に入ってこない感覚。
そこで――楓はとりあえず話を手近なところに戻した。
「……ともかく、陽子さんは、その売春組織から逃げてきたってことですね」
強引なまとめではあるが、楓は自分が理解できるレベルの確認をする。とはいえ、陽子――ミキはもう“児童”という年齢ではない。ならば、その組織は未成年に限らず、広範な女性を対象とする総合的な売春組織なのだろう。
「けど、どうしてそれをエリさんが?」
当然の疑問である。この街で“ルールに反する者”を取り締まる存在があるとすれば、それはエリのようなライブハウスの運営者ではない。本来なら、その任を負うのは――“黒服”と呼ばれる、この街を裏から仕切る面々のはずだ。
けれど、エリは静かに、そして明確に答えを示す。
「それは……“日本の危機”だからですよ」
楓の懸命な話題の転換もむなしく、再び話は大きなスケールへと戻ってしまった。
「現在、安心党は、
エリはそう言いかけて――ふと楓の表情を見やる。案の定、まぶたを固く閉ざし、深く考え込んでいた。明らかに、話についていけていない。
エリはそこで一度言葉を切り、楓が関心を持ちやすい一点に説明を絞る。
「篠田派が急速に勢力を失っておりまして」
それを聞いた楓は、不安げに顔を上げる。
「どうして……?」
楓の問いかけに、エリは静かに続ける。
「先日の特措法縮小案の撤回、ですわね」
それは、楓たちにとっては悲願であった。しかし、それがすべての人々にとって平穏をもたらしたわけではないらしい。
「篠田派は急進派でしたから。与党に対してあのような弱気な姿勢を見せてしまうと、求心力を失ってしまうのです」
たしかに――安心党は何かと理由をつけて開放党に噛みつく政党だった。それが、急に手綱を緩めたら――支持者たちから“腰抜け”と見なされても仕方がないのかもしれない。普段、楓は政治のことなど興味はないが――由伸の父ともあれば、そのような誹謗中傷に心が痛む。
「近代史の授業のような話になってしまいますが……」
エリは、楓の関心が薄いことを察している。けれど、それでも話さなくてはならないという覚悟を宿していた。だから楓も、応じて聞こうとする。理解できるかどうかは別として。
「五十年前の政権交代……安心党が政権を奪取できた理由は……」
そのあたりは、楓も一応覚えている。それまで長く政権を維持していた与党に国民は完全に失望しており、変化を求めて安心党に票が集まった――そんな流れだったはず。まさに学校の授業でも習った程度の、ありきたりな知識として。
だが、エリの次の言葉は、楓の予想を超えていた。
「……共産圏による工作員の暗躍、というのも大きな要因だったのです」
「ああ……」
楓は、エリの言葉にとりあえず短く返す。ネットでは、たしかにそんな話題がちらほら騒がれていた。共産圏の陰謀、工作員、選挙制度のゆがみ――けれど、楓には正直ピンとこない。そもそも、陰謀論の類に興味がない。仮に、そんな大きな悪意があったとしても、自分にできることは限られている。『膝を抱えて泣いていたって、何も変わらない』――そう信じているからこそ、楓はいまも踊っている。舞台で汗を流し、ステップを刻み、存在を示すだけ――それが楓のすべてだ。
けれど――
エリが語っているのは、まさにその“大いなる悪意”のこと。
「ただし、純粋に与党政治に不満を持ち、日本を良くしたいという思いの議員も多く……」
「はぁ……」
楓の相槌には、まったく熱がこもっていない。エリもそれを察したのか、話を端的にまとめに入る。
「日本は混乱し、国力は著しく低下したものの……共産圏に組み込まれることだけは、避けられたのです」
それが、せめてもの救いだったのだろう。工作員の息のかかった議員たちは、戸籍や選挙制度を意図的に緩め、日本の主権を共産圏へと明け渡すための法整備を進めようとしていたようだ。それはまるで、黒船来航時、日本が強いられた不平等条約を築き上げるように。
だが、そうした露骨な法案に対しては、いわゆる党内の『良心派』と呼ばれる議員たちが強く反発した。結果として、多くの法案が通ったものの、共産圏に対する従属的な制度変更だけは阻止されたのである。
エリの口調は変わらず穏やかだが、その言葉の裏にあるものは重い。かつては免れた“共産圏への併合”という危機――それが、再び現実味を帯びてきている。その切迫感を、エリはどうにか楓に伝えたかった。
しかし。
「……はぁ」
楓は、生返事を返すだけ。国力だの共産圏だの国家だの――どれも、自分には縁遠いものばかりだ。ついさっきまでストリップの話をしていたというのに、あまりに話題が遠すぎて、集中力がもたない。
それを察したエリは、話題を少しわかりやすい方向に切り替える。
「現在の与党……開放党の議員の多くは、『ヴィクス・ラウンジ』関連の組織から多額の献金を受けています」
「……例の……違法風俗の?」
さすがにそれはマズイのでは――と、楓でもすぐに理解できた。けれど、それならすぐにでも摘発できるのでは、と単純に考えてしまう。
「それが露呈すれば、開放党は大打撃を受けるでしょうね」
「なんで安心党は、それをやらないんです?」
楓の素朴な疑問に、エリの表情がほんのわずかだけ揺らいだ。その問いは、あまりにも“素直”すぎる。もう少し伝わっていてほしかったけれど――育ちの良さゆえか、エリが失望を顔に出すことはない。静かに、そして淡々と答えた。
「五十年前に、一度失敗しているからです」
その言葉に、楓は目を瞬きした。
「党として過半数を取っただけでは、自分たち……つまり、
つまり――敵を倒しても、味方の中に敵がいる限り、計画は進まないということ。工作員にとっては、日本を共産圏の末端として取り込むには、内側の雑音も取り除かねばならない。
「ああ……」
楓は小さくつぶやいた。そういえば――かつて『管理社会』が失敗した原因について、学校の授業で少しだけ習ったことがあったような気がする。たしか、野党連合が烏合の衆で、政権を取ったはいいが、まとまりを欠いた結果だった――と。いまも昔も安心党は変わらないのだな、と呆れたものだ。そんなうろ覚えの記憶が、ぼんやりと頭の中に浮かぶ。
「ですが、いま――安心党最大勢力であった篠田派が力を失っており……」
「あっ!」
それは、由伸の父・篠田頼十郎の話。だから、楓にとっても印象に残っていた。安心党といえば、開放党に噛みつくのが“仕事”のような政党――少なくとも、楓の中では、そんなイメージだった。
でも、もしその安心党が、その役目を果たさなくなったら――? 由伸の父が力を失い、舵を取れなくなったら――!
「次に訪れるのは『管理社会時代』ではありません。『管理社会国家』……もとい、『共産国家』でしょう」
正しくは、共産国家に支配された属国――エリの静かな声が、楓の中で警鐘のように響いた。楓は、いまの『自己責任社会』をよしとは思っていない。けれど――かといって、『管理社会』に戻ってほしいとも思っていなかった。なぜなら、そんな時代に、ストリップ・アイドルなんて絶対に認められない。舞台に立つことすら、許されないのは明らかだ。ましてや、共産国家なんて――考えるだけで息が詰まってしまう。
「ま、また……陰謀論……ってやつですか……?」
かろうじて、それだけは口に出す。けれど、心のどこかで――もう、それでは済まない気がしていた。
「いえ、すべてが噛み合うところまで、現実は来ています」
エリの声に曖昧さはない。冷たく、静かで、それでいて決定的だった。由伸の父――楓にとって、遠くて近いその名前が、いまや国家の分岐点に関わっている。もう、冗談では済ませられない。
でも――『膝を抱えて泣いていても、何も変わらない』――それが、楓の生き方である。だからこそ、これまで陰謀論のようなものに目を向けることなく、自分の道だけを見てきた。踊ること。ステージに立ち続けること。それが、楓にとっての“答え”だった。
だが、エリがこのような形で会話の機会を設けている理由――
「……それを私に話した、ということは、私にもできることがある、ということですよね?」
楓の目に、決意の色が宿る。
国家を揺るがす陰謀の話。
自分に何ができるかは、まだわからない。
だとしても、ただ膝を抱えて震えているつもりはなかった。
「それは、もちろん」
エリの返事は、あまりにもあっさりしている。その笑顔も、どこか無邪気で――これから国家規模の危機に立ち向かうとは思えないほど、拍子抜けに柔らかい。真剣さの中に凛とした決意を秘めているわけでも、重々しく覚悟をにじませるものでもなく、むしろ、少しお茶を濁すような、余裕すら感じさせる笑みだった。
――本当に、私の言葉を真面目に受け止めてくれたの? 楓は、少しだけ疑念を抱く。けれど、次に語られた言葉は、そんな疑いを吹き飛ばすに足るものだった。
「すでに、パラノイアとは連絡をつけておりますので。連絡があり次第、落ち合ってください」
「……うわぁ」
思わず、楓は情けない声を漏らす。
パラノイア――秘密結社――現与党である開放党との太いパイプを持ち、安心党による規制案から表現の自由を守るためのロビイング活動を続けている謎めいた組織。たしかに、そこのリーダーと一度は顔を合わせていた。合わせてはいたけれど――楓は、あらためて天を仰ぎたくなる。“秘密結社”――その響きの、なんと胡散臭いことか。いかにも陰謀論めいた用語。主語が大きすぎる人々には、どうしても警戒心が湧いてしまう。
でも、現実に目の前のエリがそう言うのだから、もうこれは――そういう世界なのだろう。
「是が非でも開放党を立て直し、安心党を抑えていただかなくてはなりませんので」
エリの言葉は、いつになくはっきりしていた。しかし、楓の表情は依然として乗り気ではない。秘密結社だの、国家レベルの陰謀だの――あまりに現実離れした話ばかり続いた所為で、つい眉間に皺が寄ってしまう。
それを察したのか、エリが唐突に話題を変えた。
「……そういえば、現在は日曜に定期開催しておりますストリップ・ライブについて、土曜日も加えた2デイズにしようかと検討しておりまして」
「えっ!?」
その一言に、楓は思わず身を乗り出した。国家とか政党とかより、ずっと現実的で、そして自分に関わりのある話である。そういう話であれば、聞き逃すわけにはいかない。
「もちろん、あくまで試験的に、ではありますけれど。その際に、
言葉の端々が、あまりにも露骨すぎる。楓は、そういう“社交辞令”には敏感だ。対人関係は苦手で、距離の取り方にはいつも慎重だが、それでもエリの意図くらいはわからないはずがない。
正直、ずるいとは思う。
けれど、それでも――
「……パラノイアとの件、尽力させていただきます」
楓は観念したように、そして少しだけ気合いを込めて答えた。
「ありがとうございます♡」
エリの笑顔には、どこか小悪魔的な愛嬌が漂っていた。
「ですけど」
楓は一拍置いて、そっと言葉を継ぐ。
「追加ステージに釣られたわけではありません」
それは、精一杯の負け惜しみだったのかもしれない。
「なんだか……エリさんには、
そしてその理由は、おそらく――とても個人的なものだ。普段のエリからは想像もつかないほど、今回の件に対しての立ち回りはスマートさを欠いている。あらかじめ連絡を取りつけながら、自らは会おうとしない。そのくせ、ステージ追加というあからさまな“飴”をぶら下げてきた。そこには、何かしらの事情があるのだろう。何かを避けたい理由が――
とはいえ。
「では、追加ステージは他の方にお願いしても?」
「それとこれとは話が別です」
エリが涼しい顔で切り返すので、こればかりは楓も即答した。いずれにせよ、ステージには上がりたい。
エリは、ふふっと微笑み、軽く手をかざす。それは運転席の黒服に向けられたものだった。結局、車は近辺をウロウロしていただけのようで――すぐにノクターンの前へと戻された。毎週本番を観に来る楓を慮ってのことだろう。エリに席を立つ気配はないので、楓はひとりで降ろさせてもらうことにした。ドアノブに手をかけたところで――呼び止めるでもなく、エリが小さくつぶやく。
「それと、これは独り言のようなものですが……」
すでにいつもの隙のない顔に戻っている。張りつくような微笑も、もう見当たらない。
「舞さんから、目を離さないように。お願いします」
それだけ聞いて、楓はエリから解放された。そして思う。それは、無理な相談だな、と。なぜなら――あの女のことは、できるだけ“積極的に”目を離したい。少なくとも、ステージの外では。
ひとりノクターンに戻った楓が控室のドアを開くも、張り詰めた空気に思わず一歩後ずさる。これは、本番を前にした高揚感などではない。この緊張感の正体はメンバーを見ればわかる。中で準備をしていたのは――陽子と湊、そして――ミカだった。エリはあのまま黒塗りの高級車に乗ってどこかへ行ってしまったので、何かあったとしても相談できる相手はいない。それでも、彼女たちは迷いなく、そのまま身支度を始めている。
「……ミカさんが、出るんですか……?」
楓が遠慮がちに問いかけると、ミカは少しだけ顔をしかめる。怒っている、というよりも、そこはかとなく機嫌が悪い。何か含むものがあるような――そんな気配があった。
「私もこれからは、このライブハウスに
“ミキ”――そう呼ばれても、陽子は特に反応を見せなかった。いつもと同じように、黙々とメイクを続けている。その表情に大きな揺れはない。
むしろ、緊張しているのは、湊のほうだった。肩がわずかに震え、唇も少し噛みしめている。それでも、鏡越しにキッと目を見開き、気持ちを奮い立たせようとしているのがわかった。よく頑張っているな、と楓は胸の中で感心する。
そういえば、エリが言っていた。陽子に『過去の因縁を精算してくるように』と。その言葉の意味を、いまようやく楓は実感していた。
「……フラれたのも私。バンドから抜けたのも私。『ヴィクス・ラウンジ』に入信したのも私。そこで……“修行”に明け暮れていたのも……」
陽子の声は、静かで、淡々としていた。だが、その一つひとつの言葉が、重く胸に響く。楓は、『ヴィクス・ラウンジ』が単なる宗教団体でないことをエリから聞いていた。違法売春組織――彼女たちが“信仰”の名の下に何を強いられてきたか、エリの声色からそれは明らかだろう。そこで行われてきた“修行”と呼ばれる日々――それが、陽子の人生にどれだけ暗い影を背負わせたか、想像に難くない。
けれどもいま、彼女はステージに立とうとしている。過去を引きずったまま、それでも――この場所に立つことを選んだのだ。
「もし、“あの女”と出会ってしまったら、正気を保てるかは、わからない。けれど……その関係者は赤の他人。私には……関係ないこと」
陽子の静かな言葉に、隣にいたミカがあからさまに眉をひそめる。その視線に込められた不快感は隠しようもなく、楓も思わず空気の変化を感じ取った。“あの女”というのが誰のことか、楓は知らない。けれど、決して許すことはできないのだろう。湊のことも、“あの女”も。ミカの怒りの矛先は、単なる男女関係のもつれではない。バンドという“絆”が崩壊させられたことに対する憤りだ。その傷は、楓が想像していた以上に深いものなのかもしれない。
それでも、傷の中心にいた陽子自身が、こうして舞台に立ち、再出発の意志を示している。ならば――と、ミカは出番を引き受けた。ちなみに、瞳のほうはというと、そもそも『観ているほうが好き』と公言しているくらいなので、快くステージを譲ったらしい。
しかし、こんな状況でステージが成立するのだろうか――その不安は、陽子の顔にも現れている。その表情はわずかにこわばり苦しげだ。視線は鏡越しに自分自身を映しながら、ほんのわずかに揺れている。自分のために湊とミカに無理をさせて、それが原因で再びチームを壊してしまうかもしれない。やはり、どこまでいってもメンバーに迷惑をかけ続けるのでは――
陽子の不安を肌で感じながらも、湊にノクターンを去る意志はない。彼女には“先輩”との約束がある。戻ってきてくれるまで、この街で歌い続けると決めたのだから。
それに、ミキのことに対しても無関心なわけではない。短い時間ではあったが、『ネオ・カブキ・ポップス』としてともに練習を重ねた日々がある。その記憶は、簡単に色褪せることはない。だからこそ――
「ネオ・カブキ・ポップスは……簡単に壊されたりはしません……っ」
それは、沈黙して暗い影を落としている陽子を鼓舞するような激励。湊の声は震えている。だが、たしかな決意が込められていて、まっすぐだった。
そして、力強く――二本の束髪を下ろし、それをひとつに結い直す――!
それで――陽子は理解した。
かつて壊してしまったバンド。
その罪を抱え、逃げるようにしてこの街に流れ着いた。
後悔を乗り越えることができるのだとしたら、いま――この瞬間なのだと。
陽子の手はいまも震えているし、目尻からは涙が零れそうだ。
それでも――長く伸びきった後ろ髪を一本にまとめて――
同時に、ミカもまた湊の意志を悟る。
不倶戴天の存在――PAST
そのメンバーと同じステージに立つことで、ミキの中に残るトラウマを払拭しようとしているのだと。
陽子に、PASTを恨む気持ちはない。
ならば、ミカこそが――“ミキを守りたい”と願う彼女自身こそが、PASTと共存すべきなのだ。
しかし、湊自身もまた、ミカを無条件に受け入れているわけではない。
PASTのプロデューサーに向けたミカの暴言――その敵意を、何事もなかったように流すことはできない。
湊にとって“その人”は――自分を拾い上げてくれた恩人だった。
それでも、いま、この場に三人が並び立とうとしている。
三本のポニーテール――この姿こそが、何よりの証だ。
それぞれが、それぞれの苦しみと向き合いながら、歯を食いしばって――“バンド活動を継続する”という強い意思を共有している。その背中に、楓は――ステージの成否はともかく、いまはただ、舞台に立つことが何よりも重要なのだと感じていた。
袖から見守る楓の胸はざわつき、軽く握りしめた手は汗ばんでいる。それでも、今日のライブの幕が開けた。しかし、いざ本番が始まると――
「メロディ……奏でられず……♪」
その歌声が空間を満たした瞬間、楓の不安は霧が晴れるように消えていった。たしかに、楓は一度、少しだけミキの歌声を聴いたことがある。ほんの、少しだけ。けれど、ちゃんとした舞台で歌うとこれほどのものとは。ブランクを感じさせない堂々とした歌唱。表現の強さと繊細さを併せ持った声が、フロアを一瞬で掌握していく。
ミカはその横でベースを担当していた。どうやら、ギターとベースの両方を弾きこなせるらしい。演奏のキレと安定感が、再結成を望む彼女の本気度を物語っている。
一方、湊には楽器の経験がない。だから、ステージではツインボーカル――というより、コーラスという立ち位置だった。だが、それも悪くない。元々彼女は自分が前に出るよりも、誰かを支えることに長けている。まるで、舞台袖で照明を調整するスタッフのように、目立たぬ位置から音を照らしていた。さすがはメイド――と楓は妙なところで感心する。
ミカは、再びバンドを結成し直したかった。失踪しているミクと、再会できた陽子――“ミキ”――もう一度、三人で音を鳴らしたい。その想いを胸に、このノクターンのステージに立った。
ミカは人前で脱ぐことに、いまさら怯えたりはしない。過去にはもっと大きな舞台で、それ以上のことも経験してきた。TRK26と共に。
なにより、ミキがストリップに挑んでいるいま、自分が退くわけにはいかない。だからこそ――この複雑で、繊細で、熱のこもった演奏が、いま再びこのステージで絡み合っている。
そして迎えた三曲目。観客の熱気が一層高まる中、ミカも曲の合間に静かに衣装を脱ぎ、三人は揃って裸になった。
ラストナンバーは――古竹未兎の『何度でも』
照明が落ち、静かに始まったイントロ。
裸であることに、一切の羞恥もなく。
ただ、舞台に立つ者としての誇りと、これまでのすべてを抱えて――三人は、そのラストを歌いきった。
誰にも止めさせない。
そんな不退転の決意が、ステージ全体に満ちあふれていた。
楓はその様子を、息を呑んで見つめている。
まるで、戦場で祖国の旗を掲げる戦士――そう感じた。
決して儚くも、無垢でもない。
強く、しなやかで、そして――美しい。
ミカは、バンドメンバー・ミクを探してここにやってきた。
もし、彼女が見つかったら――?
そして、いまのこの姿を目にしたら――湊とミカ、そしてミキが並び立つこの現在を、彼女はどう思うだろうか?
その未来に不安がないとは言えない。
ここでふと、楓はエリの言葉を思い出す。
ヴィクス・ラウンジからの逃亡者――ミキを保護したこと。
そして、ミカを迎え入れた際の一言。
“いずれにせよ、
――ヴィクス・ラウンジに対して。
エリは、いったい何をしようとしているのだろうか。
もしかして――
彼女がパラノイアと“直接会えない”理由も、そこにあるのかもしれない――楓にはそんな予感がある。だが、胸の奥に渦巻く不安は消えない。何かが、水面下でたしかに動いている。ただの舞台では終わらない、もっと大きなうねりが。
波乱に満ちた一夜を無事乗り越えたところで――楓はさらりと日常へ戻る。正直なところ、楓は“主語の大きい話”に対して関心が薄かった。国家規模の陰謀、共産圏、秘密結社――そういった話題に心を動かされることは、あまりない。だから、あのときエリから任された“パラノイアとの接触”の件も、何日か経ったことで、すでに忘れかけている。思い出すのは、せいぜい『土曜日もライブがあるかも』というスケジュールを考えているときくらいのものだ。ああ、そういえば面倒なことを頼まれてたっけ――その程度に。
むしろいまは、目の前の生活が大事だ。土日連続でステージが入るようになるとしたら、さすがに全部に出続けるのは申し訳がない――などと皮算用しながら、平日のファミレス勤務に精を出す毎日を送っている。
この職場では、従業員が男性ばかりだからか、楓に対して妙に優しい。休みたいと言っても嫌な顔ひとつされないし、仕事が立て込んでいるときは進んで助けてくれる。
これは――私がストリップ・アイドルだから――? そう思うたび、楓の心には複雑な感情が広がる。本名の『霧島紅葉』ではなく、芸名の『楓』で呼ばれる職場。そんなことは初めてのこと。
とはいえ――
露骨なセクハラをしてくるわけでも、変な期待をされるわけでもない。職場の空気は穏やかで、あたたかい。それだけに、楓は時折忘れそうになる。自分が、かつては“解雇の常連”だったことを。
モチベーションの低さ、無愛想さ、人付き合いの悪さ――人員整理の時期になると、いつも真っ先に切られるのは、決まって自分だった。
両手の指では足りないほどの解雇歴。
あまりにも多くの『また、機会があればよろしくお願いしますね』の笑顔に晒されてきた結果、楓は社交辞令に妙に敏感になった。
――それがいまでは、こんなにも大切に扱われている。
だからこそ、少しでも店に貢献したい――そう思える自分がいる。それが“ストリップ・アイドル”として得た立場の延長線だというのは、やはり複雑だけれど。
本当に、複雑な心境だ。
そんな物思いにふけっていると――客席で呼び出し音が鳴らされる。楓はすぐさまホールへと向かった。ロボット給仕が標準化されたこの時代において、店員を直接呼び出すのは、たいていクレーム対応である。楓はうんざりしながらも、こういうときこそ正社員である自分が対応すべきだと心得ていた。細かな要望や問題には、どうせ社員が出ることになる。ならば、最初から自分が出た方がいい。
――正社員である、私が。
何度も解雇され、見送りを重ねてきた自分が、いまや正社員。その事実は、楓にとって、ある種の誇りだった。
時刻は朝の四時すぎ。始発も動き始める頃合いで、店内の客たちもそれぞれ出立の準備をしている。逆に、始発に乗ってまっすぐこの店にやってくるような訳あり客はまずいない。この時間帯が、一番穏やかで、一番静か――そして、一番気が緩みがちだ。
呼び出しの席にいたのは、不機嫌そうな女性客。楓は胸元のネームプレートにそっと手を添え、気持ちを整えるように一呼吸置く。罵倒なら、もう散々浴びてきた。ここへ来る前に、いやというほど。いまさら何を言われたところで、もう驚くことなんてない。そう自分に言い聞かせながら、楓はゆっくりと客席に歩み寄る。
「お待たせしました」
その女性は、楓よりやや年上に見える。眼鏡をかけ、背中まで届く長さの髪を軽く巻き、毛先が上品に揺れていた。艶のある落ち着いた黒色が、知的な雰囲気と相まって、大人の女性らしい柔らかさを感じさせる。白いブラウスに落ち着いた色のパンツで、地味ではないが、主張しすぎない。いわゆる『バリバリのキャリアウーマン』という印象ではないが、社会人としてのまとまりを感じさせる雰囲気をまとっていた。
そんな彼女は肩肘をテーブルに軽く乗せ、まるで上司かのように厳しい視線を楓に向ける。そして。
「普通に接客しているよう装いなさい」
「……はい?」
刺すような鋭さを含むいきなりの意味不明な一言に、楓は一瞬だけ眉をひそめた。が、すぐに営業スマイルを作り直す。どうやら、それが“ご希望”のようだ。
「
「……はい」
誰、それ? ――と頭の中で疑問符が浮かぶ。が、口には出さずに、楓はそのまま静かに耳を傾け続けることにした。
「こっちは忙しい。てか、自分でいじっといてこっちに振んな。うちが一番迷惑してんのよアホ」
女性の目つきは細く鋭く、苛立ちは隠さず、声色は冷たく――すべてにおいて容赦がない。しかし、楓はようやく状況を把握し始めていた。この女は、おそらく“パラノイア”の使者なのだろう。そして、以前ラブホテルで会った大人しそうな青年――その名前が、たしか『コースケ』だったような記憶がある。『こーちゃん』――その人からの伝言、という体をとっているが――実際には、目の前の女性の感情がかなり濃く込められているのは間違いない。
「と、あの女に伝えなさい」
「……かしこまりました」
たしか、“普通に接客しているように装え”って話だったわよね――? そう思いながら、楓は軽く一礼して、その場を離れた。まだ話の続きがあるなら呼び止められるだろう――少しだけ後ろを気にしていたが、幸い、呼び止められることはなかった。
厨房に戻った楓は、さっそく伝言を反芻する。
――パラノイアはいま忙しく、迷惑している。
――自分でいじっておいて、こっちに振るな。
――あの女に伝えろ。
つまり、パラノイア側はエリに対して不満を抱いているということだ。決裂、とまではいかなくても、少なくとも関係はうまくいっていない。そう理解して、楓は――自分はただのメッセンジャー――深く気にすることもない――と気軽に構える。
でも、気になるのは――
エリはいったいナニをいじったのか。
いや、そもそも――あのエリが、そんな“いじる”ような真似をするとは――? 楓には、どうしてもピンと来ない。たしかにエリは、時折、茶目っ気を見せることもあった。だが、基本的には良識的で、真面目な人間なはず。
その彼女が、いったい何をやらかしたのか。
理由はまったくわからないが、少なくとも『自分でアクセスしたくない』という彼女の態度には、いま思えばたしかな“心当たり”があったのだろう。
今度エリに会ったときは、言われたまま――そのまま、伝えてやるつもりだった。あくまで他人の言葉として。