ストリップ・リユニオン - 闇を脱がす者たち 作:添牙いろは
こうして、エリから頼まれていた件は、身構える間もなく終了した。拍子抜けするほど、あっさりと。
本音を言えば、とっとと報告して、この話は早々に手放してしまいたかった。けれど、肝心のエリがなかなかライブハウスに姿を見せない。元々、毎日デスクに入り浸るような働き方をしている人ではないが――こういうときくらいは、早く来てほしいものだ。
一応、スマホには『次にお店に来られるのはいつですか』というメッセージを送ってある。だが、既読にならない。きっと、伝言内容を直接テキストにして送ってしまったら、パラノイアやその他の“見張っている人たち”に筒抜けになってしまうのだろう。そのくらいのことは、楓にも想像がつく。だから、いまはただ――待つしかなかった。
いずれにせよ、楓は毎日のようにライブハウスに通っている。練習のため、そしてステージに立つため。きっと、どこかのタイミングでエリにも会えるだろう。それまでは、無理に進展を求める必要もない。どうせ、向こうからは拒絶されている。ならば、いまはいつも通りにレッスンを続けるだけだ。
そして、週末。今日は――如月舞のソロステージが入っている。楓は、あの女のことを好きになれない。性格も、態度も。けれど、ステージそのものは――素晴らしい。認めざるを得ない完成度、オーラ、表現力。勉強させてもらう――などとは口が裂けても言いたくないが、少なくとも、モチベーションが高まるのは事実だった。
とはいえ、楓は一般客ではない。あくまで“同業者”として、ゲネプロ――最終リハーサルから立ち会うのが、彼女のあり方だ。それは舞に限ったことではなく、他のどんなステージにも同じ姿勢で臨んでいる。
だが――今日に限って、どうも様子がおかしい。スタッフたちは、落ち着かない様子でそわそわし、ひそひそと話し合ったり、時計を何度も確認している。その理由には、楓も気づいていた。本日の主役――舞が、いつまでたっても現れないのである。
訝しんだ楓は、そっと控室の方を覗いてみた。しかし、そこには誰もいない。あの女に限って、ストリップ・ライブを蔑ろにするようなことはないだろうけれど――などと、そんな信頼を持ってしまっている自分が少し恨めしい。
だがそのとき――慌ただしい足音とともに、カリンが駆け込んできた。明るいテラコッタ色のニットに、ふんわり広がるチェックのフレアスカート。襟元には小さなリボン、耳元では揺れるイヤリングがきらりと光る。秋らしい華やかさの中にも、彼女らしい“舞台映え”を忘れない装いだった。その華やかさが、かえって今の焦りを際立たせており、室内の空気が張り詰め、緊張感が一気に高まる。
「……あっ、楓さん! 舞さん、見てない!?」
その焦りと、いまにも泣き出しそうな表情――すべてが物語っていた。間違いない――如月舞が、本番直前にして、失踪――だが、この程度のトラブルであれば、よくあること。それに、今日は自分の出番ではないから。ゆえに、楓はカリンの焦りを軽く受け止める。やれやれと軽く首を振るだけの反応に――カリンは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「……楓さんがいるなら、ステージが空くことはないと思うけど」
楓の表情から察して、カリンはスマホを握りながらつぶやく。その言葉に、楓は『当然』と言いたげに少し肩を竦めることで返した。
たしかに――今回のように、メンバーが直前で変更になることは珍しくない。前々回のバックバンドの投入、前回のミカの乱入も然りだ。“何が起こるかわからない”――自分のステージでなければ、楓にも冷静に対応できる。実際、チケットの購入時には『出演者は変更となる場合があります』と注意書きが添えられていた。保証されるのは“ストリップ・ライブが行われる”という一点だけ。
とはいえ、今日の本来の主役はダントツの人気を誇る如月舞だ。その彼女がいないとなれば、客の落胆は避けられないだろう。
けれど――楓は、あまり気にしていない。観客の反応に流されるのではなく、自分の中にある『表現したいステージ』を目指していた。舞に及ばないことは、自分でも痛いほどわかっている。別人がステージに上がれば、客たちも自ずと察するだろう。だとしても――だからこそ、堂々とステージに立つ。ただ、それだけだ。
一方で、カリンはずっとスマホをいじっている。その指先は、淀みなく止まることがない。次々と各所に連絡を取っているのだろう。本来、立場としては楓のほうが“ダンスチーフ”という管理職にあたる。だが、こういった臨機応変な対応は、明らかにカリンのほうが得意だ。現に楓の頭の中は『舞のステージを継承しつつ、どうすれば自分らしく魅せるか』にしか向いておらず、ステージ全体の運営についてはあまり考えていない。カリンがいるから大丈夫――どこかでそう甘えていたのも事実だった。
「曲は、セトリそのままで進めればいいのね?」
楓が確認する。舞の曲は一通り踊れる自信があった。しかし、歌えば当然、実力の差ははっきりと浮き彫りになる。だからといって、ダンスに逃げることもできない。今日の観客は、舞のステージを楽しみに来ている層だ。必要以上に『楓』としての個性を強く出す場面ではない。それくらいの分別は、さすがに理解している。
だからといって――
「……楓さん、心配じゃないんですか?」
カリンは、不意に手を止めて、ぽつりと言った。楓とは視線を合わせず、画面に目を落としたまま。楓は少し黙って、視線を一度だけカリンからそらし、表情を変えずに答える。
「これでも、心配してるわよ。ただし……ライブハウスのほうをね」
舞のステージは、たしかに見応えがある。それが見られなくなるのは、残念といえば、残念だ。
けれど、それよりも――
自分より圧倒的に実力のある若手。それが一時的にでも“消えた”という事実に、楓は正直、安堵していた。――ああ、やっぱり私はリーダーの器じゃない――と、改めて痛感していた。
カリンは、楓のそんな感情を察している。表情には小さな憂いと、それでも気丈に保とうとする強さが共存していた。楓と舞の折り合いが悪いことは、もちろん知っている。だからといって、いまさらそれを咎めるつもりもない。ステージは、誰かが回し続けなければいけないのだから。楓の姿勢は、ある意味正しい。
だとしても、カリンはカリンの思いで楓と向き合う。
「実は……ここしばらく、舞さんの姿を見てないの」
そう切り出したカリンの言葉に、楓は思わず目を細める。
「ここしばらくって?」
少し前に、戻ってきたばかりの舞と不覚にも鉢合わせてしまった。それ以降は、きちんと時間をずらして顔を合わせていない。
一方、カリンは様々なロケーションに出入りしたがる性格で、舞のこともよく気にかけていた。舞が出入りしているというスタジオ、メンバーであるあやのが働くジム、さらにはカラオケ店に至るまで――だが、どこを訪ねても、舞の姿はなかったという。
「……もう、半月以上。別のところで練習してるんだろうなー、って思ってたんだけど」
その言葉に、楓はうなずいた。自分がカリンの立場でも、きっと同じように受け止めていただろう。
カリンもまた、出演がなくても本番には顔を出すタイプである。応援する観客として、常に舞台を見守ってきた。だが、今回に限っては、ただの観客としての立場ではない。リハーサルの時間から足を運んできたのは、不安の表れだった。
それを承知の上で――楓は淡々と応じる。
「ま、ギリギリまで私が出られるよう準備しとくから。もし現れたら、素直に明け渡すわよ」
楓はそう言いながら、ゲネプロに向けてカリンから鏡へと視線を移した。その様子を眺めながら、カリンは思う。――この人、本気で心配してない。楓の表情には焦りも動揺もなかった。そこにあるのは、何かを信じて待つ穏やかさではなく、最初から舞が現れない前提で動いている者の冷静さだけ。
だからこそ、カリンは口を開く。
「“ミキさんの件”は、知ってるよね……?」
あえて“陽子”ではなく、その名を使った。すると、メイクの手を止めた楓が、ゆっくりとカリンを見返す。どうやら、一連の流れは知っているらしい。ミキが、『ヴィクス・ラウンジ』から逃げてきたこと――エリは現在、その謎の宗教集団と向き合っていること――そこから導き出されるのは――
「そう。カリンも疑ってたの」
互いに具体的な明言は避け、微妙な距離感を保ちながらも、言葉の端々で探り合っている。それは、同意という名の仮面をかぶった、別々の思惑だった。
「楓さんも、やっぱり……」
カリンは軽く微笑みを浮かべるが、楓は見抜いている。カリンの持ち前の人の良さ――あらゆるメンバーから嫌われていた前オーナー・
一方、楓の考えはまったく違った。むしろ、舞はあの組織のスパイだったのでは、と疑っている。そして、正体が露見しかけたため、逃げ出したのではないか――
パラノイアの使いが見せたあの異様な憤り。その原因が舞なのだとしたら――あの女をこのチームに引き入れたのはエリである。彼女自身が火種を抱え込んだのなら、自分で後始末をすべき――
控室でふたりの間に言葉は交わされていたが、心の中で交わされた会話は異なる言語。それでも楓は――人として自分が冷たく、カリンのほうが正しい姿勢なのだろうな、と理解していた。それで、楓も人として最低限の気遣いを見せる。
「そんなに心配なら、頼十郎さんに聞いてみたら?」
安心党の党首――もし、本当に『ヴィクス・ラウンジ』が絡んでいるのなら、カリンの父親が何か知っているかもしれない。舞の動向について。
だが、カリンは寂しそうな笑顔を浮かべると――意外すぎる答えを返す。
「パパは……カリンの言うことは聞いてくれないと思うよ……」
楓には、それがどうにも不自然に感じた。普通、父親というのは娘には甘いものなのではないか? そう思うのは、自分が母子家庭で育ったからかもしれない。だが、だからこそ――その不可解な距離感が、かすかに引っかかっていた。
「ひとまず、いまはステージをどうにかすることを考えましょ。その間にエリさんたちにも動きがあるかもしれないし」
「……そうだね、うん」
カリンは少しだけ笑ってうなずいた。
『適材適所』――楓はダンスチーフとして、しばしばステージ外のことにも巻き込まれがちだ。しかし、自分の本分はあくまでダンサー。目の前のステージを成功させること――それこそが、自分に課された最優先の役目であると信じている。
とはいえ、他のメンバーの不祥事について何も考えていないわけではない。ダンスチーフとしての責任感はある。この問題に対しても、自分なりの向き合い方を模索していた。ただし、その中には少なからず――個人的な、
一方、裏方はカリンのほうが優れている。楓としては、ひとりでもステージに上がるつもりでいた。しかし、舞本人ほど盛り上げることはできなかっただろう。それは、自分の力不足ゆえと受け止める覚悟はあったが――
ガチャリ、とノックもなしに、突然扉が開かれる。
「ナニナニ? まーたブッチ?」
いつでも呼んで、と
楽器隊による生演奏のおかげもあり、ステージは舞不在ながらもそれを補って余る成功を収めた。もうひとつの成功要因――如月舞のライブの弱点はMCにある。彼女はロクに喋らない。ただ、自分の美しさを誇示するだけで。楓も似たようなタイプではあるが、天夏や恵は実に賑やかだ。前回もそうだったが、今回も存分にいじられてしまい――それで盛り上がったのなら良かったのだろう、と楓は甘んじて受け入れる。だが――このままでは“いじられキャラ”が定着してしまうのでは――そんな不安は否めなかった。
ステージが終わり、全裸のまま拍手を振り切るように控室へと戻ってきた三人。そんな踊り娘たちをカリンが労う。
「皆さん、お疲れ様」
だが、その笑顔はどこか暗い。きっと、ライブの間もずっと舞の消息について調べていたのだろう。それでも――どうやら、何の成果も得られなかったようだ。
そんなカリンの様子を案じながらも――楓はすぐさまコソコソとスマホを確認する。そこには――『なら、客席で待たせてもらおうか。プロの表現者としての矜持を楽しみにしているよ』――これは公私混同ではない――そう楓は自分に言い聞かせる。カリンに頼十郎へのアクセスを勧めたように、楓自身も――由伸もまた、安心党党首の息子だ。舞が『ヴィクス・ラウンジ』に関連しているのなら、何らかの動きを掴んでいるかもしれない。だからこそ、楓は打診した。『これからライブがあるので、その後で相談したいことがあります』――返事はすぐに来ていたが、開始前にそれを見られるほどの胆力は楓には備わっていない。その内容によっては、パフォーマンスに悪影響が出てしまうかもしれない――そのため、あえていままでスマホを封印してきた。なので、無下に断られなかったことに安堵しつつ――何より、先に読まなかったのは楓にとって英断だった。由伸がライブを観に来る――そんなことを知っていたら、緊張して声も出なかったかもしれない。結果的に、一番自然な姿を見せられた。舞には劣ることは否めない。それでも――!
感想を聞くのは恥ずかしい。いや、裸が云々ではなく、純粋なる表現者として――などと浮かれている場合ではない、と楓は気を引き締める。これから会うのは、舞に関する情報交換のため――のはずなのだが、こんなことならいつものトレーニングウェアではなく、ちゃんとそれなりの服を着てくるべきだった――と後悔するくらいにはどうしても浮ついてしまう。
そんな楓の様子をうかがいながら――妹も妹で、兄に問い合わせていたのだろう。楓のこれからの動きを察しているようだ。どこか寂しさを含んだ微笑みを浮かべながら、親友の背中を押す。
「舞さんとお兄ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
楓は、戸惑いながらも小さくうなずく。気持ちがどこに向かっているのか、自分でもまだはっきりとはわかっていなかった。
控室は更衣室のような意味合いもあるので、由伸が訪ねてくることはないだろう。だからこそ、ぐずぐずしていられない。練習着の汗の匂いを気にしつつも、楓は急いで地上に出る。夜の新歌舞伎町はネオンの光に包まれていた。雑踏の音が遠く反響し、タクシーのクラクションがどこかで短く鳴る。
煌びやかな看板の下、喧騒と静寂が交錯するこの街の一角で、ぬかりなく手入れされた銀色の高級セダンが街灯の光を美しく反射し、落ち着いた上品な光沢を放っていた。その傍らに立つ由伸は、黒のジャケットに身を包み、相変わらず整った髪型と感情の読めない瞳で楓を見つめている。ドアが開かれると内装のレザーに柔らかく迎え入れられ、楓はその助手席に身を預けた。柔らかなシートの感触にも慣れたつもりだったけれど――胸の内で高鳴る鼓動が止まらない。それで楓は、これがこれまで感じたことのなかった思いだと気づいた。やはり、自分たちの関係は日に日に変化している――楓には、そう感じずにはいられない。
ひとまず新宿通りに出たところで――赤信号待ちの間に由伸が飄々と尋ねる。
「今夜だけは、このハンドルをキミだけのために回そう。行き先をどうぞ、お姫様」
「……海が見たいわね」
楓は少しだけ息を整えて、そう答える。
「了解。それじゃあ……キミの横顔が一番映えるところまでご案内いたしましょう」
楓が行き先に『海』を選んだのは、ただの気分ではない。もし、六本木や渋谷のような“街”を選べば、そのままホテルに入ってしまいそうな気がして。そして、それを――心のどこかで期待してしまっている自分もいた。でも、まだ心の準備ができていない。それが本音だった。だから、海。煌びやかさはあっても、誘惑の建物は少ない場所。今夜のところは、その景色と共に過ごしたい。
「東京湾に浮かぶ光のレース……都会の星空ってやつさ。見たことはあるかな?」
「……いえ」
車の中なら周囲を気にせず何でも話せる――そう考え、こうして先日のエリの密談に倣ってみた。が、いざ乗ってみると、由伸とふたりきりのこの空間は、思っていた以上に緊張する。明らかに、前回のディナーのときよりも。その理由を、楓は自覚していた。撮影の約束――仕事ではなく、ひとりの男として――そのように迫られたとき、拒める自信は、楓にはない。
そんな気持ちを見透かしたように、由伸は静かに音楽をかけてくれた。落ち着いたリズムが、緊張を和らげてくれる。今日、何をしに来たんだっけ――その目的を忘れてしまいそうなほど、ふたりきりの車内は、あたたかくて、やさしい時間に包まれていた。
やがて車は、海沿いの駐車エリアに到着する。そこから少し歩いて、最も視界が開けているフェンス際へやってきた。ふたり並んで立つと、そこから夜の闇の中に、まっすぐにかかる光の橋が見える。人工の光の連なりが、まるで都市の星空のように瞬いていた。
「……きれい……」
その美しさに息を呑んだ瞬間――楓は急速に現実へと立ち戻る。――これは、ヤバい。こんな雰囲気の中では、由伸にどんな言葉を囁かれても流されてしまいそうだ。そんな気がする。
それで、楓は慌てて切り出した。いま、ここにいる理由を。
「きっ、如月さんの件、何か知りませんか!?」
真っ赤になってうろたえている楓に差し出されたのは――缶コーヒー。
「……えっ?」
どこで用意していたのか――その飲み物は、まるで手品かのように現れた。そして、何より――自分がコーヒー派だということを、ちゃんと覚えてくれていたことを嬉しく思う。その缶を受け取りながら、楓は心が落ち着いていくのを感じていた。もう、余計なムードはない。けれど、それで良かったのだと思う。心のままに飲まれてしまったら――もう、話どころではなくなってしまうだろうから。
そんな楓の意志を、由伸は汲み取り話を進める。
「
夜の海を眺めながら由伸がぽつりと漏らした言葉に、楓はふと息を止めた。やはり――カリンは兄にも話していたらしい。彼はかつて、如月舞と仕事して撮影に臨んでいる。モデルと写真家という関係であった以上、連絡先を知らないはずがない。
だが――
「あのお姫様は、どうやら俺にさえ尻尾を見せないつもりらしい。これにはちょっと傷ついてるよ」
由伸は肩をすくめ、冗談めかした笑いで誤魔化した。けれど、その瞳はたしかに寂しさを湛えている。
「頼十郎さんは、何か知っているんじゃ……?」
楓はためらいがちに訊ねる。もし舞が“ヴィクス・ラウンジ”に関係しているのであれば、安心党党首――篠田頼十郎なら、その動向を掴んでいるはずだ。
しかし、由伸は首を横に振る。
「親父はもう、表の舞台に立つ気はないらしい。拍手もヤジも、聞き飽きたってさ」
その声はどこか、乾いている。それが“力を失う”ということなのだろう、と楓は理解した。
「そんな親父の息子にできる芸はたかが知れているが……ま、楽屋のドアくらい、俺にもノックできるだろう」
淡々とした語り口の中にも、静かな決意が垣間見える。そもそも、由伸は安心党と正反対の場所に立っていた。党が進めようとしているのは表現の規制――一方で、由伸はヌード写真集を何冊も世に送り出している。
――まさに、水と油。
だからこそ、頼十郎はその息子の存在を
けれど。
「……由伸さんは、政治とは距離を置いているはずじゃ……?」
以前、いつかは政治家になるのか、と尋ねたとき――まったく興味なさそうだったのに。むしろ、父親もろとも、政界そのものを嫌っているようだった。
楓の問いに、由伸は少しだけ目を細める。
「写真家として、踏み込んじゃいけない領域ってのは、たしかにあるが――」
言葉を切り、静かに続ける。
「――それでも……男として立ち止まれないときってのはある」
その言葉に、楓の胸がじわりと熱くなった。そういうことを言われると、困ってしまう。
男としての由伸を――女として支えたくなってしまうから。
由伸はそっと微笑みながら、声のトーンを和らげる。
「けれど、キミを撮り損ねたままじゃ、どうにも寝つきが悪いしね。そのときまで、俺のことを……覚えていてくれるかい?」
マズい。
そう感じた瞬間には、もう遅かった。
由伸の顔が、ぐっと近づいてくる。
楓は必死に断る理由を探していた。
でも、何も――何ひとつ見つからない。
由伸の唇から注がれた幸せな熱は、楓の胸の奥にまで流れ込み――気づけば、もう、いっぱいになっていた。
楓の心の容量を、軽々と超えて。
その日の夜のことを、楓ははっきりとは覚えていない。けれど、たしかにそれ以上のことはなかったはずで――家まで、きちんと由伸に送り届けてもらった。なのに、楓の胸に燻っている、かすかな火種のようなものは一向に収まる気配がない。
そして翌朝――楓は、初めて朝の練習を休んだ。正確にいえば――ぼんやりとしているうちに、気づけば夕方になっていただけ。つまり、“行かなかった”というより“行きそびれた”のである。
そして、出勤の時間になって、ようやく我に返った。――
だから、楓ははっきりと意識を切り替える。もっと、ちゃんとしなきゃ。惰性に流されていてはならない。自分には、やるべきことがあるのだから。
けれど――
ふと気を抜くと、つい昨日のことを思い出してしまう。
あの距離。
あの眼差し。
あの、やわらかいぬくもり。
思い出すたびに、身体が火照って膝から力が抜けてしまう。
そんな、ファミレスでの仕事中――飲食店の業務程度では、昨夜の熱を取り払うことはできない。正気を保つためにはダンスの思考を割り込ませるしかなかったが――思考は接客、ダンス、そして由伸の三つを行ったり来たりと定まらず――その所為で、配膳ロボへの入力を間違えたり、調理オーダーの順序を飛ばしたり。不覚にも、些細なミスを重ねてしまった。さすがにこれはマズい。正社員という立場に甘えていては、いつか足元をすくわれる。思えば最近、いろいろと気が緩んでいたかもしれない。正社員とはいえ、いまは“自己責任社会”だ。二十一世紀のような手厚い解雇規制もない。ファミレス業界という、内定者から逆に辞退されるような慢性的な人手不足とはいえ、油断は禁物だ。楓は気を引き締め直そうとするも――どうやら、彼女を取り巻く現実はひとりで処理しきれるものではなかったらしい。
ひとまず――週明けの深夜だけに来客が少なかったのが唯一の救いだった。
ようやく勤務を終えた楓は、その足でライブハウスへと向かう。夏休みの喧噪もすっかり過ぎ去り、学生たちはすでに学校に通っている頃合いだ――と、油断していたところで舞が登校前の早朝からレッスンに来ていたこともある。だが、いまは“失踪中”だ。ならば、自分が代わりに練習を使わせてもらわないと、もったいない。もし、万が一舞が来ていたら、それはそれでエリへの報告もできる。どちらに転んでも損はない。
結果――舞の姿はなかった。楓はほっと息をつき、安心して練習に打ち込む。昼前には切り上げ、新歌舞伎町の通りを抜けて帰路についた。午前中の新歌舞伎町は、どこか静かで、凪いでいる。シャッターが下りたままの店も、他の街と比べるとどこか多い。夜の喧騒が嘘のように、まるで別の顔を見せる街の静寂――それは、最も“健全”な時間帯ともいえる。
自宅に戻り、シャワーを浴びた楓は、ベッドに倒れ込むようにして愛読の写真集を開いた。表現の勉強――振り付けや角度の研究も兼ねての、いつもの日課である。
だが、ページをめくった瞬間――思い出してしまった。
――私は昨日、由伸さんと――!
瞬間、全身に走る恥ずかしさと、込み上げる名状しがたい感情が入り混じり、心の奥で渦を巻く衝撃。これまで張りつめていた緊張感が、一気に崩れ落ちる。
「ぎゃーーーーーっ!」
興奮のままに、楓は布団の上で転げ回る。枕に顔を押しつけ、叫び声を必死に押し殺しながら、ぐるぐると身悶えていた。
練習の疲れはたしかにあったはずなのに、眠気は一気に吹き飛んでいる。だからといって、走って気を紛らわせようにも、いまはレッスンを終えたばかりだ。頭は冴えているのに、身体が動かない。これはもう、完全に八方塞がりだ。
こうなったら――もうダンスのことを考えるしかない。布団の上でのたうちまわった末、楓はようやくそんな考えに至る。
とはいえ、つい先日舞の代わりにイレギュラーで出演したばかり。しばらくは出番もないだろう。そうなると、楓の興味は自然と個人サイト――『Red Hand Moving』のほうへと向かう。ここでは、ストリップ・アイドルとしてではなく、ひとりのダンサーとして活動を続けていた。『楓』とは別路線で、過剰な性的要素を排した表現を追求していきたいと思っている。登録者が増えなくてもかまわない。アイドルとしての総合力ではなく、向き合うのは自分の純粋たる“ダンス・スキル”――ここだけは、そういう場でありたい――そう、強く願っていた。
すでに次の動画は撮影してある。とはいえ――それを『公開』するためには、踊るだけでは済まされない。目を引くキャプション、サムネイル、それに映像編集――そもそも、楽曲選びからしてセンスが必要だ。自分の純然たる“ダンス・スキル”と向き合うために、多岐にわたる不純なスキルを要するのが現実である。ついでにいえば、楓は
あまり気乗りがしないながらも、とりあえずサイトの管理画面を見てみた。相変わらず、登録者数は五〇〇人前後で止まっている。リアクションも特にない。
ストリップ・アイドルを始めた頃は『こっちでは脱がないんですか?』というメッセージも来ていた。それには『ストリップはステージを見に来てください』などと彼女なりのセールストークで誘客したりもしていたが、その波もすっかり途絶えている。
凪と呼べるこの現状の中で――小さな波紋が楓の心を揺らす。
『近々、お会いできませんか』
かつて、裏サイトで金策していた頃によく見かけた文言に楓は眉をひそめる。要約すれば、
『貴女の愛しの殿方からお話はお伺いしました』
――由伸さん!? “楽屋のドアをノックしてみる”とは言っていたけど、どこの扉を叩いたの!?
思わずスマホを放り投げて布団の上にひっくり返ったが――深呼吸で心を落ち着けて、改めてコメントと向き合う。
指定の場所は、六本木のとある喫茶店――『開店に合わせて入店し、シナモンカプチーノを注文して、一番奥のカウンター席で待っていてください』――加えて、応じる準備ができたら、新しいダンス動画をアップしてほしい、とも。つまり、それを合図として、その翌日に会うことになるのだろう。そして、シナモンカプチーノ――楓がシナモンを好んでいることを知っている者はそう多くない。ゆえに、そこにも由伸の配慮が感じられた。
それにしても――まったく、ちょうど公開寸前の動画があったから良かったものの、こっちのスケジュールも考えてくれ――そう愚痴を垂れながらも、楓は早速編集作業に取りかかる。楽曲との合成やらトリミングやら――本当に面倒くさい。それでも、それが会合の狼煙となるならば――ついでに、ハッシュタグ『了解』――それが由伸の声に応じてくれた相手ならば、最低限の礼儀は尽くすべきだろう。
目当ての店を調べてみたところ、開店は一一時だった。ならば、夜アップして、その翌朝に向かえば良いのだろう。ということで、仕事終わりのレッスンはそこそこに、由伸の関係者を想定してオフィスカジュアルに着替えた。シンプルなジャケットにインナーは薄手のブラウス。下は黒のテーパードパンツを選んだ。六本木となれば、自転車移動になるだろうから、スカートではなく動きやすさを優先しなくてはならない。
それは、楓にとって当然の感覚――こんなときであっても
開店に合わせて――という指定がある以上、遅刻は許されない気がして、楓は早めに六本木に到着。駐輪場が満車の可能性を加味して三件ほどピックアップしていたが、幸いなことに一ヵ所目に停めることができた。少し距離はあったが、最も安い価格帯――当然カフェへの道のりも長くなったが、早めに着いたのだから問題ない。
約束までの三〇分――まだ人通りの少ないビル街を歩きながら、時間をつぶしている。平日の六本木は、休日と違い行楽客の姿はまばらだった。一方で、スーツ姿のビジネスマンたちがゆったりと行き交う。そこに新歌舞伎町のような殺伐とした雰囲気はない。整然とした街並みに、低く響く車の走行音と革靴の足音が静かに重なる。そんなオフィス街の空気を感じつつ、ふと、前に由伸に連れてこられたレストランのことを思い出していた。ふたりきりの食卓で交わされたあの約束。そこに海辺の一件も加わり、しばらくは余韻に押し流され平常心を失うこともあった。だが、いまでは冷静に噛みしめることができている――と思いたい。が、それでも少し気持ちが不安定に揺り動かされていた。
そんな中、ほぼほぼ開店ちょうどの一一時。店名は――楓には読めない。英語か、スペイン語か、それともポルトガル語か――店の外観はスマホで確認しておいたので、おそらく合っているはずだ。店内は、木目を基調とした落ち着いた内装で、観葉植物がほどよく配置されている。照明はやや控えめで、テーブル席とカウンター席が整然と並んでいた。通りを見渡せる窓際に続くカウンター席――本音を言えば、楓はテーブル席のソファに座りたい。が、背もたれのないほうに座れ、というのが指示なのだろう。
注文するのは――これまた指定通りのシナモンカプチーノ。シナモンの香りは好きだ。けれど、自分の財布から出すには少し躊躇する価格。それでも、今回は“たまの贅沢”として自分に言い聞かせることにした。これまで由伸に何度も食事をご馳走になってきたからこそ、いまここでカプチーノ一杯分の余裕がある――そう考えることにした。
カウンター席に座り、楓は窓の外を眺める。目の前を忙しなく行き交う車や人影――けれど、そのざわめきすら、どこか遠くの風景のように感じられた。新宿の喧騒と比べれば、六本木のこの通りはずいぶんと穏やかで、漂うシナモンの香りが、楓の心をゆっくりとほどいていく。
カップの香りをもう一口楽しもうとした、そのとき――
「振り向かずに、そのままお聞きください」
背後から、静かでよく通る女性の声。その一言に、楓はピクリと肩を震わせる。
――またこういう展開か。以前のファミレスと同じ、息が詰まるような空気。振り向くなというので確認はできないが、店内の様子から、話しかけているのは後ろのテーブル席の女性だろう。それにしても――自分は“ダンス”チーフのはずなのに、気づけばこのような“潜入工作員”のような役ばかりやらされている。そんな状況に、楓は少しばかり不安を感じ始めていた。
ちらりと視界の端に映るその人は、イヤホンをつけ、タブレットを開いている。遠目にはリモート会議でもしているようだ。しかし、その発言は明らかに楓に向けられている。
「縮小案の件では、大変ご迷惑をおかけしました」
その第一声で、楓は察する。――安心党の関係者か。
「ですが、すべての党員が、規制を望んでいるわけではない、ということは知っていていただきたいのです」
楓は、その声の奥に含まれた切実さに、まるで店内の空気が澄んでいくように感じた。テーブルの上のシナモンの香りが、どこか遠ざかっていくような感覚に包まれる。
「なぜならば、私たちとて……“自己責任社会”の申し子、なのですから」
どちらかといえば、その“自己責任社会”の度の過ぎた自己責任っぷりをどうにかしてもらいたい側なんだけど――楓は思わず複雑な気分になる。
「その証明として……」
証明? もしかして、規制緩和に向けて何か法案でも通してくれるのかな? と期待するも、相手の案はその予想の斜め上を行く。
「私を、次のステージに上げてもらえませんか?」
――ぶっ!!
楓はカプチーノを思わず吹き出した。声も出ない。思考も止まる。何を――この女は、無茶苦茶を言っているんだ――!
これはたしかに――
ゆえに、楓は真っ先に相手の正気を疑った。
「……私たちのステージ、知ってます?」
「もちろん♡」
とんでもないことを言っている割に、声の調子は穏やかだ。知ったうえでの接触、ということらしい。
「ただ、事前に漏れると止められる可能性が高いので……」
「でしょうね」
最初は面食らったものの、楓の対応は意外なほど淡々としている。脱ぎたがりの相手は、このライブハウスでは珍しくない。だが、相手の構想はやはり無茶苦茶だ。
「私は、観客に紛れながら、本番で乱入します」
リハもなしにぶっつけ本番――この自信、ただ者ではない。
「で、どうやって貴女を識別するんです?」
万一、乱入者が別人だったら、対応できるのか? 声だけで判断できるほど、楓は耳に自信がない。
「そこは……ストリップ、ですので♡」
――まさか、全裸で突入する気か。楓は眉をひそめ、心の中で絶句する。
「……ストリップと裸踊りは違うんですけど」
楓は冷ややかな口調で新参者を諭す。軽々しく“脱げばいい”と思ってほしくはない。少しは響いたのか、背後の声は若干トーンを落とした。
「以後、精進しますので、今回は“サプライズ”ということでお願いします」
「……はぁ」
本気らしい。腰を据えてストリップに挑む覚悟はあるようだ。
「ストリップ・ライブの流れはご存知です?」
「三曲構成、でしたよね」
そのくらいは理解しているようだ。ならば、全裸になっている三曲目で乱入してくるのが自然な流れだろう。
だが――そこには数々の障害があった。楓は前回出たばかりのため、次のステージに上がれるかどうか、勝算は低い。それに、ストリップ・ライブは基本的に三人編成。舞の特例を除けば、それがルール。このサプライズを成立させるには、自分が再びステージに上がり、さらに他のメンバーを巻き込まなければならない。
そんな高度な根回し――うまくできる自信など、いまの楓にはまったくなかった。
それでも――楓は密かに胸を高鳴らせている。いきなりステージに立つという度胸と自信、それに、安心党の人間が身内との不和を承知で押し切る舞台――何より、これは由伸がもたらしてくれた出会い――
「……四曲目として、私のソロを何とかねじ込んでみます。そこで乱入してもらっていいですか?」
楓は、考え得る中で最も現実的な“落とし所”を提示する。カリンに頼めば、その程度の調整くらいならなんとかなるかもしれない。
とはいえ。
「ですが、ねじ込めなかったら、一旦次回は諦めてください」
いくら安心党関係者の依頼とはいえ、特別扱いはできない。しかも、サプライズ参加である以上、情報が中途半端に漏れれば再挑戦の機会さえ失われてしまうだろう。
「わかりました。ありがとうございます」
背後からの声は静かで、それでもたしかな覚悟を感じさせるほど力強いものだった。
「楽曲についてはこちらに残しておきますので、回収をお願いします」
「はい、私がその曲を歌う、という体で音響に預ける形でいいですか?」
「よろしくお願いいたします」
声の主は席を立ち、楓の背後を通り過ぎていった。少し気になったので彼女の背中を覗き見ると、長い後ろ髪がなびいている。それさえも、
不確定な情報はさておき、楓がすかさずテーブルを確認すると、そこにはディスクケースがぽつんと残されている。それを素早く手に取り――それだけで踵を返すのは不自然に思え、進路を変えずそのまま奥のトイレへと向かった。
冷静を装いつつも、胸の内では動揺が渦を巻いている。
――安心党の議員が、ストリップ・ライブに乱入?
カリンと異なり、単なる“議員の娘がステージに立つ”という枠に収まらない。スキャンダルどころの話ではなく、とんでもない事態だ。
けれど、それが由伸の“動いた結果”だというのなら――応えたい。そう思った。
誰もいないトイレで手にしていたCDケースのラベルを見た瞬間、楓の胸がドクンと爆ぜる。これは――『BEGINNING - LIVE!』――あの『TRK26』のデビュー曲だ。かつて、楓がストリップ・アイドルを目指すことを決めた際に一度だけ聴いて――その後、ネット上で調べてみたが、どこを探してもその情報は見つからない。それは、徹底した隠蔽工作――TRK26が“潰された”その事件の真相はいまだ不明のままである。そんな曲を、軽々しく扱ってよいのだろうか――?
しかし、中のディスクを確認したとき――なるほど、と少し納得しかける。だが――これは、むしろ