ストリップ・リユニオン - 闇を脱がす者たち 作:添牙いろは
深夜の生放送――『あのNya-oXがストリップに挑戦!』――その日、一部の界隈は大騒ぎだったらしい。たしかに、コンニャン体操は老若男女が楽しめるコンテンツだった。しかし――そもそもNya-oX――というより、こんなぎは馬鹿騒ぎ・悪ふざけが大好きな暴走キャラクターであり、むしろ、これが本来あるべき姿――そんなファンたちと共に、楓はスマホ越しに同じ時間を共有している。ただ、名義としては丘薙糸織ではなく“こんなぎ”のまま――TRK26の名前はまだ出せないらしい。
キツネ耳のアイドルは一曲歌い終わった後、全裸のままカメラに詰め寄る勢いで力説している。
『前にヴィクスいじって番組降板させられたけどな、ウチとてウラも取らずにゆーとったんとちゃうで!』
その言葉に、楓は少しだけ口元を綻ばせる。おそらく、当時はひょうたんから駒――たまたま踏んだ地雷だったのだろう。けれど後付けながら、高林を中心として調査を続け、反撃の準備はできている。だからこそいま、こうして正面から立ち向かうことができるのだ。
糸織が相方からツッコミ半分に窘められているところで――楓の視界を遮るようにスマホの画面にポンとニュース速報が割り込んでくる。
『宗教法人・ヴィクス・ラウンジ、未成年売春の容疑で摘発――関係者数十人を一斉逮捕』
これでもう、ストリップ・アイドルの活動を脅かすような政治的圧力をかけることもできないはずだ。競技ストリップ計画も着実に進んでいくことだろう。ファメリアのバックヤードの隅で少し早めの休憩を取りながら、楓は思う。この件がなくとも、新歌舞伎町という街は問題が起こる度に何かと矢面に上がりがちだ。それでも――これで少しは平穏な日常を送れるかもしれない。
見届けるものを見届けたところで、楓はスマホをしまって厨房へと戻る。もうすぐ終電を逃した客たちの避難所となる頃合いだ。それに備えて、楓は気を引き締め直す。少なくとも、これからは政治だの何だのと気を揉むこともないだろう。
夜が明け、朝陽が高層ビルの合間からゆっくりと顔を覗かせる。ネオンの名残がまだわずかに残る街並みに、清々しい光が差していた。アスファルトの路面は、夜の喧騒を洗い流すようにしっとりと湿っており、ゴミ収集車の音が遠くから響いてくる。新歌舞伎町の空気は、騒々しさを一旦脱ぎ捨てたかのように静まり返り、いまだけは平穏な表情を覗かせていた。さあ、今日からはまたダンスを頑張ろう――そう思うだけで、楓の心は昂ってくる。そんな朝の澄んだ空気を吸い込み、ようやくひと区切りがついたのだと実感していた。
だが。
ノクターンの入口で――楓は違和感に気づいて足を止める。普段、店のシャッターを開けるのは楓の役割だ。しかし、すでに鉄扉が上がっている。それだけなら、他のメンバーが来ただけかもしれない。だから、他の何かが――
不安の正体に気づいて――楓の顔から血の気が引いていく。
――店の看板が――ない――?
チープでありきたり――それでも見慣れた、
慌ててホールへの扉を開けると、激しいビートとスポットライトの切れ端が楓に向けて突き刺さり、そのまま外へと抜けていく。そして、ステージの上では――
「き、きの子さん……!?」
流女村で別れたパラノイアのエージェントがリズムに合わせて衣装を脱いでいる。共に全裸のまま村中を歩き回った間柄なので、何となく見慣れた姿のようにも思えた。
しかし、きの子はひとりで踊っているわけではない。隣にはもうひとりの女性が――眼鏡をかけ、長い髪を美しくなびかせながら――彼女は自分のシルエットの魅せ方をしっかりと熟知している。それも――ヌードベースで。つい、その姿を如月舞と重ねてしまったことで――楓は思う。何も考えずに脱いでいるわけではなく、彼女はれっきとしたストリップ・アイドル志願者なのだと。
この様子なら、突然ストリップ自体がつぶされたという最悪の事態が起きたわけではなさそうだ。しかし、何が起きているのか説明してもらう必要はある。楓は胸の前で腕を組み、睨みつけるように凝視していたが――暗がりの中のその手前で、ふたりの男女が同じように立ち見していることに気がついた。
楓からの視線を察して、ふたりは振り向く。男のほうには見覚えがあった。エリ――糸織によって引き合わされたパラノイアの代表・
女は、艶やかなボブヘアを軽く内にカールさせ、シャープな顎のラインを際立たせている。冷静に楓を見据えるその眼差しには知性と厳しさが宿っていた。身にまとうのはシンプルかつ仕立ての良いブラックのパンツスーツ。ノーカラージャケットの下には白いシャツを合わせており、ボタンは第一だけ外されていた。華奢ながらも引き締まった身体つきに無駄な装飾はなく、所作もまた隙がない。まるで企業スパイか公安のような雰囲気を漂わせながら、舞台上のストリップに一切動じる様子もなく立っていた。
ここでちょうど曲が終わったので――楓は輝山に向けて詰め寄る。面識が深いのはきの子だが、機密関係となると怒られそうだし、眼鏡の彼女とはファミレスのときから険悪だったし、初対面の相手に糾弾できるようなコミュ力はないし、という消去法で。
だが。
「輝山さん! これはいったいどういう――」
言いかけたところで――
「ナニ? こーちゃんに文句でもあんの?」
いまにも食って掛かりそうな楓に警戒していたのか、眼鏡女子は全裸のまま割り込み、そのまま楓の胸ぐらを掴み上げる。素っ裸のクセにヤるつもりなの――? 楓もまた、小さく拳を握り込んだが。
「
輝山の静止を受けて、眼鏡の鷹池は手を引いた。しかし、野犬のようなその眼光はまったく警戒を解いていない。
そして、それは楓も同じこと。部外者に大切なライブハウスを勝手に掻き回されるわけにはいかない。楓と輝山の視線を遮るように、その女性が自己紹介を始めた。
「ワタシが新しい店長です」
「はぁ!?」
こういうのって、メンバーに何の相談もなしに決まるものなの!? ――いや、これまで相談があったことなんてないけれど。
役職から名乗ってしまった新店長に、輝山のほうから改めて紹介を添える。
「彼女は、
これは、
この女もまた、元TRK26のメンバーかもしれない――と楓は疑うも、そうであれば、ネット上の情報はすべてきれいに消されている。検索をかければ出てくる、ということは、また別の筋のアイドルなのだろう。
いまだ納得できていない楓に向かって、割り込んできた鷹池が傍若無人に言い放つ。
「本日よりこちらのライブハウスを、パラノイアの新たな事務所として運用させていただくことになりましたので」
「はぁ!?」
「ぶ、部長さん……もう少し言い方を……」
再び掴み合いの喧嘩に発展しそうなところを、きの子が慌てて仲介に入る。やはり、これまでも色々と苦労してきたらしい。
その一方で楓も――たしかに、さっきのステージは素晴らしかった。ダンスのスキルはそれほどでもないとはいえ、裸体の魅せ方という意味ではハロクドにも匹敵する。そのうえで、あざとさがない。ゆえに、楓は確信する。この、鷹池という女もまた――元TRK26のメンバーなのだと。
常に敵意を剥き出しにしている鷹池と異なり、希は常識的な範囲で穏やかに進めようとする。
「糸織に許可ももらってるから。
善帆――? 今度は誰? 社長やらオーナーやら――正直、これ以上闇の住人と顔見知りになりたくはない。なので――
「だから、ライブ活動はちゃんとやるし、そこだけは安心しなさい」
突然やってきて看板から差し替えるような新店長の言葉を鵜呑みにするのもどうかと思うが――ここでそれ以上のことは気にしないことにした。
きの子たちは、昨夜のライブが終わった後からレッスンを始め、ちょうどその締めとして合わせていたところに楓が入って来たらしい。なので、パラノイアの一団は挨拶も済んだところで、早々に撤収していった。
その後、静かになった『ノクターン』――改め『ライブハウス・パラノイア』にて、楓はひとりでレッスンを開始しようとする。が、その前に――早速『憐夜希』を検索し――ショックを受けることとなった。
ライブ・アイドル・憐夜希――卓越したスキルを持ちながら、『地に足をつけた生活をしたい』とメジャーデビューをことごとく蹴ってきた実力者――もちろん、ダンススキルも相当のものである。ゆえに、楓はひとまず希の運用を信じることにした。やはり楓は――実力のある同業者に弱いらしい。
とはいえ。
糸織から任されたという希の経営方針は楓の望んだ通りだった。ストリップ・ライブは衰えるどころか空きさえあれば絶え間なく開催され続けている。そもそも、TRKの頃のように脅かす組織はすでにない。大手を振ってストリップ・ライブを行うことができる。
そんな中――美春もまた戻ってきた。危険な目にも遭ったし、もう二度とこのような世界と関わろうとしないのでは、と楓は危惧していたが――
「いよいよ、他に働ける場所もなくなっちゃってね」
少なくとも、以後男関係には本当に気をつけてほしい、と楓は強く願っている。
さて。
今回の一件で楓は心の底から政治関連にうんざりさせられ、できる限り距離を置いていたので詳しく知ることはなかったが――政界は大きく動いていた。
ヴィクス・ラウンジに摘発が入ったからといって、違法献金の事実がなくなるわけではない。藤高議員に対する疑惑から端を発した大規模な裏金問題は開放党を一気に焼き尽くそうとしていた。
とはいえ、開放党の議員すべてがヴィクスに染まっていたわけではない。パラノイアの調査により“白”と確定された議員のリスト――それと引き換えになったのが、安心党の<計画>への協力だった。しかし、まさかの朱鷺ノ内豊議員の実娘がストリッパー・デビュー――こうなってしまっては、豊議員も『緩やかなる管理社会への復古』を唱えることは難しい。
その結果、ホワイトリストの開放党議員と安心党・朱鷺ノ内派による連立――『調和党』――『管理社会』と『自己責任社会』の『調和』を目指すという――名目上は。
ヴィクスへの強制捜査は、これまで関わりを持っていた議員にとっては逃げ道を塞がれたようなものである。もはや開放党沈没は免れない。ゆえに――調和党は開放党の欠員を朱鷺ノ内派の議員によって埋め合わせたに等しい。ただ、現実として、これによって旧開放党の瓦解はかろうじて食い止められた。
しかし一方で、安心党としては大きく二分させられ、しかも一方は旧開放党に吸収され、完全に形骸化している。その責任を取る、という建前で――『安心党・篠田頼十郎党首、辞任を表明』――これは、未来を担うのは安心党ではない――そのように
おそらく、次の選挙では大量に空いた開放党議員の席に、多くの新人たちが座ることになるだろう。その者たちが所属するのは安心党か、それとも調和党か――いずれにせよ、片桐議員率いる共産圏の工作員たちのシナリオはすでに破綻している。
こうして、ひとまず日本の危機は救われたようだ。楓のよく知らないところで。
***
そんな慌ただしい秋が過ぎ、再び年末が近づいてくる。思えば、楓にとって、あの頃には何もなかった。どんなに踊っても見向きもされず、金になるのは女としての
圧倒的なトップを走る如月舞、
そもそもストリップ・ライブを目指して洗練させてきたクロエ、
元TRKの疑いのあるリリザ――もうTRKに関する箝口令もないので、今度尋ねてみようと思っている。
それに、一度だけ新歌舞伎町のステージに立った初代・メイド☆スターに、前店長のエリ――丘薙糸織――もしTRKのメンバーたちがこの劇場に戻ってくれば、自分なんて一瞬で埋もれてしまう――そんな覚悟をもって、毎日レッスンに臨んでいた。不安はある。だが、同時にやり甲斐もあった。そんな自分を応援して、支えてくれるファミレスのスタッフたち――信じられないほど、すべてが満たされ、充実している。
その中でも、最大の幸福は――
わが家にサンタは来ない――母からそうキッパリと告げられてから、楓はクリスマスを楽しみにしていたことはなかった。もちろん、たった一年前も。なので、今年は初めて――
何やら、ライブハウス主催で、ファメリアを借り切りクリスマスパーティーを開くことになった。二十四時間営業ならではの会場といえるだろう。
その日のライブはクリスマスの特別仕様だ。普段は多くても三人か四人しか出演しないところ、その日に限ってはメドレー形式で代わる代わる総勢十二名――それも、誰もが全力で“サービス”に傾けた姿で。
さらには、これまでは舞を除いて常に三人一組でステージに上がってきたのに、その日は全員ソロである。これに楓は、これまでにないプレッシャーを感じていた。舞だけソロということは、逆に“舞だけ別日に隔離されていた”ということ。それが、その日はだけ舞と同じイベントで比べられることになる。ステージ自体は楽しみではあるものの、舞を意識すると緊張は重く大きい。
そして――終わった人から、ファメリアへと突入、という流れになっていた。全員で待機できるほど控室も広くない、という事情もある。ちなみに、ライブには出ずにパーティーにだけ参加するメンバーもいるようだ。
特別ライブに加えてクリスマスパーティー――そのような華やかな催しは、楓の人生において初めてのことである。自分などが参加して良いのか――いや、ダンスチーフとして、参加しないわけにもいかないのだろう――どんな作法で加わればいいのか――
人付き合いで困ったとき、楓はついカリンを頼ってしまう。
だが。
「……え? 楓さん、パーティーに参加するつもりなんですか……?」
その一言で、楓の表情は凍りつく。やっぱり私、場違いだった――? 心当たりはないけれど、みんなから嫌われていたのかもしれない。そんな明るいイベントに参加する資格なんて、自分には――
「いえっ、いえっ、そうじゃなくて……!」
楓が涙目になってしまったので、カリンは慌てて言い直す。
「だ、だって、楓さんは、そのー……お兄ちゃんと……」
「ひぇっ!?」
言われるまで、楓は本当に気づかなかった。初めてのクリスマスパーティー――それが、あまりに眩すぎて。むしろ、由伸とはあれから何も進展がない。何度かステージに上がることはあったので『踊る度に俺を惚れ直させてくれるなんて、キミは本当に罪深い』のようなメッセージをもらって、舞い上がっていたくらいで。
由伸は少し影のある風景と裸体、というモチーフを好む。なので、撮影は暖かくなるまでお預けかなー、などと呑気に構えていた。
撮影=進展――そんな単純な図式で考えていた。
なので――
「……ここのメンバーとの予定で良かったね。時期が時期だけに、他のところでドタキャンとなると、軽く揉めてたかもしれないよ?」
カリンの呆れ声も、楓の耳には届かない。撮影をすっ飛ばして
ということで、その夜すぐに楓のスマホにメッセージが届く。
『クリスマス・イブの予定が空いているなら、俺の助手席で過ごさないか? まだ、目的地は秘密だけどね』
おそらく、
気が気ではない日々を乗り越え、やってきた二十四日の、夕方には少し早い昼下がり――楓は夜型だが、このくらいの時間であれば起きることも苦ではない。その日は、さすがにいつもより早めに目を覚まし、まずは服の前に“下着”を選ぶ。黒いサテン地に、胸元を花柄のレースで縁取ったブラ。それに合わせたショーツは、ウエストにメッシュをあしらったややタイトなラインがほのかに大人びた印象を添える。少しだけ“強気”に見えるそのセットは、まさに――この日のためのものだった。
その上から何度も服を当てては着替え直し、ようやく決まったコーディネートは、アイボリーのタートルネックニットに、淡いグレージュの膝丈スカート。そして、少し勇気を出して選んだ真紅のウールコートを羽織っている。あまり派手な色は着慣れていなかったが、今日は特別な日だし、と鏡の前で何度もうなずいた。足元は、ヒールのないベージュのショートブーツ。重すぎず、けれど季節感を忘れないスタイルだった。
耳元には小さなパールのイヤリングをつけ、髪はゆるく巻いてそのまま下ろしている。顔まわりだけ軽く整え、自然な動きを残したまま全体にまとまりを持たせた。普段はあまり使わないポーチ型のハンドバッグも、今日はお気に入りのブランドで揃えている。気取りすぎるのは恥ずかしいし、でも日常すぎるのも物足りない。これなら及第点だな、と楓は鏡の前でひとり納得して笑顔でうなずく。
そして、予定時刻丁度に由伸は楓の住む社宅まで車で迎えに来てくれた。この季節ともなれば陽が沈むのは早いが、夜景を楽しむには早すぎる。なので、おそらくその前に何かがあるのだろう。
とは思っていたが。
「
「え……」
リニアのグリーン席で、楓は絶句している。そもそも、どこへドライブに行くのかと思えば駅に着くなりすぐ降りて、列車に乗せられたところで、何かおかしいとは思っていた。
楓は、由伸のことについてのみよく覚えている。星見野といえば、篠田一家がずっと住んでいた地方の町だとカリンから聞いていた。つまりは――実家である。まさか、
「肩の力を抜いてくれ。今日はただの……クリスマスデート、なんだからさ」
由伸は軽く笑って楓の緊張を解きつつも。
「……キミが笑顔を見せてくれるのなら、あの頑固親父だって、きっと大歓迎だろうけどね」
そこまでの覚悟が固まっていないことは、楓の顔からもすぐにわかった。ゆえに、由伸も強要することはない。つまり、本来の目的は他にある、ということなのだろう。
ターミナル駅に到着すると、冷たい風が構内に吹き込んでいた。楓と由伸が改札を抜けると、そこから車に乗り継ぐ。どうやら、レンタカーを予約していたらしい。タクシーよりも落ち着いた内装のセダンで街を抜けていくと、やがて大きな橋を渡る。鉄骨が鋼色に光り、水面には早くも夜の帳が下りかけていた。
その向こうに広がる町並みは静かで穏やかな地方都市といった風情である。とはいえ、先日見た流女村ほど閑散ともしていない。スーパーマーケットのネオンや古びたクリニックの看板がところどころに灯り、コンビニもどこか建て替えたばかりのような雰囲気が残っている。そこにはたしかに人の営みが根を張っているようだ。
しばらく車を走らせると、やがて住宅地を抜けた先、開けた場所に由伸の実家が見えてくる。外観は、公共施設を思わせるような無機質な造りだった。門構えは大きく、平屋建ての建物が横に長く伸びている。真新しいわけではないが、手入れが行き届いており、無駄のない幾何学的なラインが印象的だった。玄関は閉ざされていたが、由伸は裏手へと車を回す。そこは駐車場だが、個人宅にしては異様に広い。多数の来客を想定しているのだろう。
勝手口は建物の影にひっそりとあり、一般家庭で見られるようなインターホンが取り付けられていた。それを押すと「はい」と男の声が聞こえてくる。「由伸です」と返すと、すぐに扉が開かれた。
「長旅、お疲れ様です」
その対応は執事のようではあるが、燕尾服ではなく普通のリクルートスーツだった。もしかすると、社員のような立ち位置なのかもしれない。
「
由伸が問うと、外山はうなずいて答える。
「スケッチに出ております」
「スケッチ……?」
楓が不思議そうな顔をすると、由伸は微笑みながら手招きする。
「ちょっと、奥まで来てくれないか?」
室内の様子は――白い壁に、剥き出しの天井。そこはまるで事務所のようだ。カーペットも業務用のものらしく、床は硬くて冷たい。等間隔にドアが並び、部屋の一つひとつがかつての応接室か会議室だったのだろうと察せられる。
由伸は無言で廊下を進み、突き当たりの非常口のようなドアを開けた。外に出ると、そこは建物の背後で、高台になっている。町を見下ろせるその場所は、小さな庭のようになっていた。遠くには点々と家々の灯りが浮かび、街路灯の明かりも、都会とは比べ物にならないほど大人しい。人工の光が少ないぶん、夜空は澄み、まだ宵のうちだというのにいくつか星も見え始めている。
庭の一角には、細い石畳の小道が伸び、いくつかのガーデンライトがその足元を照らしていた。低いフェンスの先に、小ぶりな木々が並び、その向こうには――古びた土蔵がひとつ、ひっそりと建っている。蔵は漆喰の外壁に黒い格子窓、瓦屋根も重厚で、時代を感じさせる造りだった。外壁には風雪の跡が色濃く残り、雨樋には落ち葉が溜まっている。けれど、懐かしさと温かさを宿した佇まいだった。そこだけが、無機質な建物とはまったく異なる空気をまとっている。楓は、少しだけ安心したように、そっと息を吐いた。由伸はその庭の中央で立ち止まると、夜の景色に目を細める。
「ここは、俺の心のフィルムに焼き付けた場所でね。何度シャッターを切っても、その度に新しい顔を見せてくれる」
そう語る声は、どこか遠くを見るような響きを帯びていた。町の灯りが遠く瞬き、吐く息が白く揺れる。冬の空気は澄んでいて、夜景は一層美しく感じられた。
そのとき、ふと由伸は上着の内ポケットから、手のひらに収まるほどの小箱をそっと取り出す。
「ここでなきゃ、渡せないと思っていたんだ。キミだけの、特別な逸品だからね」
その一言で、楓の心臓がトクンと跳ねる。こんな場面で、こんな箱――指輪以外に何があるというのか。それも、この空気であれば、婚約指輪の可能性さえある。
どんな顔をして受け取り、どんな言葉を返せばいいのか――緊張で楓の指が震えていた。しかし、その蓋を開けたとき――楓の胸には自然に熱い想いがこみ上げてくる。
そこに収められていたのは、まさに指輪
「世界にただひとつ……どんなスポットライトよりもキミを輝かせる舞台装置ってやつさ」
由伸がそう言ったとき、楓はこの贈り物がどれほどの時間と手間をかけて用意されたものなのかを理解する。あのときの砕いた髪飾り――写真から、あるいは記憶から再現されたものだ。素材はサファイアクリスタルだという。高級腕時計の風防にも使われるその素材は、硬度と透明度に優れ、何より一点物の特別感があった。
楓は胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのを感じながら、そっと口を開く。
「……付けてもらって、いいですか?」
由伸はうなずくと、そっと楓の横髪を耳の後ろに払って手を添え、紅葉型の髪飾りをやさしく留める。その仕草があまりに近くて、楓の頬はほんのりと紅に染まっていった。自然と、ふたりの顔が近づき――そっと唇が重なる。
空気が震えるほどの、静かで確かなキスだった。
抱きしめ合い、楓は由伸の胸元に額をあずけながら、ぽつりと尋ねる。
「頼十郎さんのことを……教えてもらって、いいですか?」
このまま、幸せな気持ちに流されて夜を過ごすこともできただろう。だが――彼が自分をここに連れてきた理由――その意味を考えたとき、楓はふと立ち止まった。もしかすると、人生の転機を迎えた頼十郎はいま、ふさぎ込んでいるのかもしれない。そして、その背中を押すために、自分を――婚約者を――ここに連れてきたのではないかと。前に一度だけ会ったときは、どちらかといえば敵対者として――安心党党首に対して、新歌舞伎町の代表・楓として相対していた。だから、今度は、霧島紅葉として――
親なんて、関係ない。そう思っていた。自分の母親に由伸を会わせたいとは、いまでもまったく思わない。けれど――目の前の大好きな人の気持ちには、応えたかった。
「お望みとあらばご案内しよう。我が家の秘密のギャラリーへね」
由伸は微笑み、くるりと背を向ける。その視線の先は――庭の奥にぽつんと佇む土蔵へ。かすかに庭の小さな灯りに照らされた、歴史を感じる黒塀の土蔵。屋根の瓦は雪のような白い漆喰に縁取られ、分厚い扉には鉄の金具が打たれていた。苔むした石垣が足元に続き、どこか物語のような静けさをまとっている。ただ立っているだけで、時間がゆっくりと流れていくような感覚に、楓はしばし息を止めて見入っていた。
その蔵の戸を静かに開けると、由伸は照明のスイッチを入れる。中は美術品のような品々に囲まれており、生活感は一切ない。
蔵の中央奥には、大きなキャンバスが置かれていた。由伸が埃よけの布を静かに取ると、そこから一枚の油絵が現れる。
それは――女性のヌードだった。けれど、どこか神聖さを湛えたその筆致に、楓は静かに息を呑む。
「これは……?」
小さく尋ねると、由伸は少しだけ寂しげに微笑む。
「一昨年、天に帰るまで父が一生を懸けて愛した女……つまり、俺の母親ってわけさ」
楓は、しばらくその絵に見入っていた。親に特別な感情を抱かない自分には、この情景にどんな言葉を添えればいいのか、わからない。ただ――美しいと思った。残された姿から感じられる、深い愛情と芸術への敬意。それを残した頼十郎という人物はたしかに写真家の父であり、そして――きっと、競技ストリップという同じ未来を臨めるのだと信じられた。
見渡せば、似たような油絵がところ狭しと並べられている。
「これは……」
楓の視線は、一枚の肖像画に吸い寄せられる。そこに描かれていたのは、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた幼い由伸――そして、ふたりを包むようにして寄り添う母親の姿だった。穏やかで、幸せそうな光をまとった構図。筆の運びには、ただの親バカというにはあまりに丁寧な、深い愛情がにじんでいる。
「この世に出てきたばかりの妹と、まだまだ青かった俺さ」
由伸が少し照れたように笑う。どれもが、ひとつの家族を中心に描かれていた。ときに笑顔で、ときに涙を浮かべ――まるで、家族の日常を写し取った連作絵巻といえる。
「これ、すべて……」
「親父の作品だよ。あのオッサン、政治の舞台を降りたかと思えば、いまさら芸術のステージに立ちたいらしい」
そう言う由伸の顔は、とても嬉しそうに見える。政治家としての父ではなく、画家としての父を尊敬しているのだと、楓は感じた。由伸が自分を撮るときの眼差しと、この絵の筆使いには、どこか似た雰囲気がある。それが、血というものなのかもしれない。
だが――楓は、ふと、ふとした違和感に気づいた。
「……あれ? けど、どうして――」
「ん?」
由伸が不思議そうに楓の顔をのぞき込む。
「ここまで……お母さんと由伸さん、それとカリンの三人が描かれてたのに――」
おそらくこれは、由伸が小学校を卒業した際に描かれたものだろう。そこに立っているのは、母親と由伸のみ。
改めて目を凝らして周囲を見渡してみれば、七五三も、入学式も――
「――何でここからカリンが描かれてないのかな、って」
「え……?」
由伸が明らかに動揺した様子で、一つひとつ絵を見返していく。その驚きは、彼自身もそれに気づいていなかったことを証明していた。
楓が言葉を飲み込もうとしたとき――
「それは、ですね――」
蔵の外から涼やかな声と共に、眩い光が差し込んでくる。ふたりが振り向くと、そこに立っていたのは――カリン。だが、どこか幻想的な姿だった。強烈なハイビームに照らされたかのように世界が真っ白に塗りつぶされ、その中心に、柔らかなシルエットだけが浮かび上がっている。
ふわりと長い髪を翻し、どこかへ歩き去っていこうとするカリンに、楓は思わず駆け寄っていた。それをすぐさま由伸も追う。
そして、蔵の開け放たれた扉の向こう――真昼のような明るさに満ちた空には、非常識な大きさの円盤が浮かんでいた。まるでSF映画のワンシーンのように、空想的なその光景が、田舎町の空に静かに漂っている。
星々から照らされるスポットライトの中に、カリンはいた。ライブが終わったばかりのような――一糸まとわぬ姿で。
「――カリンが三歳の頃に、拐われたからだよ」
彼女の声はまっすぐで、ゆったりとした微笑みを湛えていた。