ストリップ・リデンプション - 憎しみを脱ぎ捨てて 作:添牙いろは
「えっ?」
楓は耳を疑い、思わず“美春”のほうに振り向く。“ミハル”と“美春”――ただの偶然の可能性もあるけれど――
「ああああああああああああああああッ!?」
凄まじい絶叫とともに、美春は突然立ち上がった。動揺というより、明らかにパニックに陥っている。そして――
「ちょっ、ちょっ! 落ち着いて!?」
美春はガンガンと鏡に頭を打ち付ける。その勢いは全力であり――ガラスが割れたら大怪我につながりかねない。すかさず由伸が止めようとするも、そこはすぐ隣にいた舞のほうが早い。流れるような動きで美春の腕を取り、力強くひねり上げた。そして、そのまま全体重をかけて床へと叩き伏せる。
「あがぁっ!?」
呻く美春の背の上に膝を突き立てると、背後のパイプ椅子が音を立てて弾け飛ぶ。それでもなお、奇声とも悲鳴ともつかない叫びを上げながら美春は抵抗を続けていた。
楓は思わず息を呑む。発狂して暴れている美春も心配だが――それに容赦なく対応できる舞の一挙一動も、少なからず恐ろしい。
そのとき、低く、落ち着いた声が割って入る。
「……ストップ。それ以上はレディのやることじゃない」
由伸だった。噛みつきそうな勢いの美春をなだめるように、その顔色をうかがっている。そんな中、きの子は静かにスマートフォンを操作していた。焦っている様子もなく、何やらどこかへ連絡を取っているらしい。おそらく、何らかの救援が来るまで、舞はこのまま美春を制圧し続けるのだろう。そんな女子ふたりに――由伸は少し眉をひそめ、床で悶え唸っている美春を見下ろしてつぶやく。
「ペアダンスにしては、ちょいとビートが激しすぎたかもね。……肋骨を少々、やっちまってるかもしれない」
「ちょっ、あんた……!」
楓は思わず声を荒げる。美春がこんな状態になったのは、たしかに予期せぬ事態だったが、いくら緊急とはいえ、骨まで折るなんて――
「ついカッとなってやった。反省はしていない」
舞は平然とした顔でそう答えた。その態度に、楓は言葉を失いそうになる。緊迫した状況下での応急措置とはいえ、その落ち着きぶりは、もはや過剰防衛に見えなくもない。
「肩も……キマってるかもな。やれやれ女のコにしては、なかなかのパワーだ」
「彼女の鍛え方が足りないだけよ」
由伸が舞の手際に呆れた声を漏らすも、舞は無表情のまま一言で退けた。いまなお、人ひとり制圧し続けている女子の言い分とは思えない。これに、楓の背筋に冷たいものが走る。舞の踊りが基礎からきちんと教わったものであることは楓も察していた。そして、歌もおそらくそうだろう。だが、それに加えて格闘技まで嗜んでいたとは――さすがに、ここまでくると、もはや底が見えない。
そのとき、控室のドアが開き、黒服の男たちが数人、無言で入ってきた。ドカドカと地を鳴らす低く重い足音に、楓は思わずゾクリとする。
「こちらの方は、当劇場の踊り娘さんですので、丁重に扱ってくださいね」
そんな威圧的な黒服たちに、きの子は平然と指示を出していた。その物腰の落ち着きように、楓は改めて思い出す。きの子もまた“秘密結社”の一員だったのだと。それで、また違った意味でぞっとした。
黒服が去り――控室はようやく落ち着きを取り戻したが、重苦しい空気が残っている。そこに、何も知らずにハロクドが急ぎ足でステージ裏へと戻ってきた。
「ナニナニ? ナンか爆発した?」
いつもどおりの調子で、半ば面白がるように姿を現したものの、すぐに場の空気を察したらしい。眼鏡の来客の存在に気づき――ふざけた表情を引き締める。
「うわぁ、ミハルが“地上”に出張ってきたってことは……“ホーニィ・クレイブ”絡み?」
「“休暇中”のところ、すいませんねぇ」
どうやら、ふたりの間には旧知の関係があるようだ。これに楓は、思わず驚きの声を上げかける。だが、ハロクドの普段着やミハルの白衣からして、関係者であることは明白だ。ここで改めて驚くのは格好が悪い――かろうじて動揺を飲み込み、当然のことのように平静を装う。
だが、ホーニィ――ナンだって――? その聞き慣れない単語は、また自分を厄介な事件に巻き込みそうだ。
なので、そちらについてはあえて気にしないことにして、楓は自分のやるべきことだけに意識を向ける。程よく冷静さも取り戻せたようだ。
「ともかく……ライブの続きだけど――」
「楓さん!?」
淡々とした楓に、カリンが鋭く反応する。そんな場合じゃないでしょ――と言いたげな表情だ。
けれど。
「私は、ダンスチーフだから」
楓の声は揺るがない。ステージに対して責任を持つ立場――楓には、その自負がある。可能な限り、観客の期待には応えなければならない。今夜のライブは、総勢十二名によるスペシャルステージと銘打たれている。それが、突然十一人になっては興覚めだ。ダンスチーフたる楓には――休暇中で不在ならともかく、この場に居合わせた以上、今日のイベントを成功させる責務がある。
本来、舞もまたダンスチーフのはずだ。しかし、楓が睨みつけても、舞はただ首を傾げるばかり。不思議そうなその仕草に、楓は内心で毒づく。――こいつ絶対、『自分がステージに立つのだから、私ひとりで十二人分以上の価値があるでしょう?』とか考えてやがる――!
「……あたし、人数合わせのためにわざわざ出たんですけど」
きの子からのジトっとした視線が、楓には痛い。既婚者である彼女は、夫以外の男の前で裸になることにはそれなりの抵抗もあるのだろう。それでも、人数不足を補うために出演してくれたのだ。そして、楓がここにいる――もはや答えを悟らざるを得ない。
そもそも今夜のステージは、出演可能なメンバーをかき集めて臨んでいる。いまから代役を見つけるのは難しそうだ。そして、衣装についても心配はない。最初から着るものがないのだから。メイクにしても、今日は由伸と会う予定であったため、楓はそれなりに気合を入れてきている。
問題は、曲だ。
今日はノンストップメドレー形式で進行しているため、途中で楽曲を変更するのは難しい。ただ踊るだけであれば、どんな曲にも即興で合わせる自信が楓にはある。だが、振り付けと歌唱を同時にこなすには、さすがに準備が必要だ。
「……美春さんが歌う予定だった曲、何でしたっけ?」
楓は誰にともなく尋ねる。もし知っている曲であれば、何とかなるかもしれない。知らなければ、踊りだけで乗り切るしかない――そう考えながら、ステージの音に耳を澄ませる。
『やめて! 私に酷いことするつもりでしょう! 薄い本みたいに!』
ネタ曲だからか、イントロ代わりの小芝居台詞が入っている。おかげで、多少の時間は稼げた。しかし、歌はすぐに始まってしまう。曲を選定している時間はほとんどない。
「ここは貴女が合わせるシーンよ。今日の奏者たちの旋律に」
舞が不敵な笑みを浮かべながら、ぼんやりとしたいつもの口調でつぶやいた。言いたいことは楓にもわかる。このイベントの伴奏を担当している『ミトックス』は熱心な
そんな楓の不安を見抜いたカリンが提案する。
「だったら、『揺れる、ただひとつ』でいったほうがいいんじゃない?」
それは楓自身の持ち歌だ。ゆえに、もちろん歌える。とはいえ。
「いや……いきなりミトックスさんに頼むってのも、さすがに……」
カバーであれば、これまでも色々とお願いしてきたが、ライブハウスオリジナル曲となるとさすがに難しい。せめて事前に話を通しておければ良かったのだけど――そう思いながら、楓は言葉を濁す。だが、カリンに不安はない。
「不測の事態に備えて、音楽担当者には待機してもらっているはずだから」
ミトックスにはドラム担当がいないため、パーカッションについては打ち込みを流している。だから、音響担当の協力も不可欠だが――楓は、スタッフに関しては知らなかった。やはりカリンのほうが、今日のイベント運営にも深く関わっていたらしい。
その声に反応するように――
――ギィ――
控室の隅にあるクローゼットが軋む音を立ててひとりでに開き始める。その時点で楓は少しの気味悪さを感じていたが、その中から姿を現したのは――
「店長!?」
思わず楓は声を上げる。しかし、言ってすぐに気づいた。本物の店長はこんな登場をするキャラではない。つまりは――現れたのは、店長の双子の姉――朱里だ。
店長と瓜ふたつの顔立ちだが、いつも不敵な笑みを浮かべており、どこか人を食ったような雰囲気が漂っている。それに、上下ジャージのラフな格好も決定的だ。役職として『店長』である希が、部屋着姿で人前を出歩くことなど絶対にない。なお、パラノイアのメンバー曰く、『姉妹の違いは脱げば一発でわかる』とのことだが、楓にそんな確認の機会が訪れたことはない。
今日もどこか陰湿な雰囲気を漂わせる朱里に、きの子が問う。
「で、話は聞いてましたね?」
「いける。『マジこん』の後に『揺れる』を挟んで、最後に『マイギャン』までつなげばいいんでしょ?」
いつからあの狭い場所に潜んでいたかはわからないが、朱里の返答は異様に心強い。だが、その間きの子は、何故かスーパーのビニール袋を手に取り、穴を開けていた。
「じゃあ、すぐに行く」
朱里がそう言って控室から出ていこうとしたが、その瞬間――
「……と言うと思ってましたけど、そのままではダメです」
きの子は用意していたビニール袋を朱里の頭にボスンと被せた。穴の位置は少しずれているが、それが“のぞき穴”であることは見て取れる。
「いま、ステージにミトックスさんが出てますんで。姉であっても、気づかれたらマズイです」
事情を知っている楓とカリンは、顔を見合わせてため息をついた。かつて、ミトックスは妹である希店長との間にトラブルがあり、解散どころでは済まないほど深刻な事態に陥ったことがある。中でもベース担当のミキは、もし店長と顔を合わせれば、どちらもただでは済まない事態になるらしい。店長の姉というだけの朱里には一切非がないにも関わらず、“同じ顔”をしているというだけで極めて危険なようだ。
それを知っていてなお、朱里がホールのPAブースに出ようとしたのは――
「残念。せっかく、会場に地獄絵図を顕現できたかもしれないのに……♡」
ぞっとするような一言とともに、妖艶な笑みを浮かべる。どうやら彼女は、スタッフエリアに飛び込んでくるミキの姿を想像し、そのままライブそっちのけで殴られる展開を妄想していたようだ。その混乱と修羅場に、理解不能な興奮を感じているらしい。
楓は改めて確信した。朱里という人間は、これまで新歌舞伎町で接してきた“変わり者”たちとは明らかに一線を画している。自分だけでなく、周囲をも巻き込んで不幸にしようとする――その“破滅願望”は『一級危険物指定』に分類されるべきものだ。
普段の朱里は自室にこもって音楽制作に打ち込んでいるらしく、歌うことはできないようだが、その分裏方としての腕前はたしかである。そんな朱里は、ビニール袋を頭にかぶったまま控室を出ていった。どうやら、必要な音源データはすべてスマートフォンに入っているらしい。
そのあとを追うように、由伸が立ち上がる。
「それじゃあ、俺も行こう。聖夜の特等席は、最高に際どいプレゼントになりそうだ」
速やかに事情を察し、そのビニール袋を外さないように監視するつもりなのだろう。少なくとも、楓の出番が終わるまで話し合いは始まらないようだし、
さて。
ひとまず、曲の問題が片付いたところで、楓は服を脱ぎ始める。ブーツはともかく、腕はもう少しオシャレにできたかもしれない。何しろ、今日のライブは由伸も観てくれているのだから――
不本意なところで、楓の中に緊張感が込み上げてくる。由伸の前でストリップ・ライブを披露することは初めてではない。だが、さっき彼の実家の裏庭で、あんなやり取りがあったばかりであり――自分の裸を見て、由伸はどう思うだろうか。いつもと変わらないのか、それとも、その先にあったはずのシーンを思い浮かべながら――
とんでもないところで割り込んでくれたものだ、と楓は八つ当たりのようにカリンを睨みつける。だが、カリンはきょとんと首を傾げて、楓に尋ねた。
「もしかして、“みはるさん”のこと?」
その名を出されて、楓の気持ちは急速に落ち着いていく。本当に、さっきはとんでもない状況だった。
「……カリン、知ってたの?」
楓の視線の先には、部屋の隅でタブレットをいじっている白衣姿の女性――メガネをかけたミハルがいる。カリンは、今回呼び出した関係者と、所属している踊り娘の名前が同じだということには気づいていたはずだ。
しかし、知っていたのは、ただそれだけ。
「……偶然かな、って思ってたよ。そこまで珍しい名前でもないし」
「聞いてみても、いいのかな?」
楓がそう問いかけると、カリンはためらう様子もなくうなずく。
「うん。言っていいことと悪いことの判断はできる人だと思うから」
たしかにミハルは自分からアレコレと説明し始めるようなことはしていない。本番を控えた出演者に気を遣うくらいの配慮は持ち合わせているはずだ。
カリンの言葉を信じて――楓はそっと声をかける。
「えーと、その……さっきの踊り娘も、美春って名前なんですけど……」
その言葉にミハルが顔を上げ、そして何かを察したように、簡潔に答える。
「うんー。彼女とは、昔同じ職場だったんですよぉ」
「ということは、美春さんも研究者?」
楓の問いに、ミハルは少し口元を緩める。
「いまはお忙しいところですよね?」
どうやら、話すと長くなるし、複雑らしい。
「あの人は、一般的な事務職ですよー。いまは、それだけ」
美春は以前、『この界隈でしか働き口がない』とこぼしていたことがある。その発言と、ミハルの答えには食い違いがあった。楓はふと、過去に何かトラブルを起こしたのではと疑念を抱く。
しかし、その疑問にミハルが答えることはない。ただ、ため息混じりに小さくつぶやく。
「“あの件”に、私が絡んでたつもりはないんですけどねぇ」
それは、美春の正気を根こそぎ焼き尽くすほどの大事件――だが、いまの楓は、それを知るべきタイミングではないのだろう。
そこへ、ハロクドがやってきた。えんじ色のジャージに白衣といういつもの姿だが、今日はどこか着ぶくれしている。どうやら、中に何かを着込んでいるようだ。
「一応、ボクも同行しとく?」
その言葉はミハルに向けられたもののようだ。
「そうだねぇ。“ホニクレ”絡みなら、何か聞く必要も出てくるかもしれないし」
「済んだら、一応“地上”で待機しとくよ。クリスマスパーティーついでにね」
今度は楓に向けて言ったようだったが、返事に割り込むようにミハルが立ち上がる。
「クリスマスパーティーとは楽しそうですねぇ」
「お、クリスマス知ってるんだ。さすがー」
そんな軽口を交わしながら、ふたりは扉の向こうへと姿を消した。
残された楓は、改めて考えを巡らせる。ふたりの“みはる”は元事務職の同僚で、美春はその職場で何らかの問題――ミハルが口にした“あの件”を起こした。そして、今日の一件は、かつての同僚との再会がきっかけでフラッシュバックしたのだろう。だが、おそらくミハルは本当に絡んでいない。もし関係者なら、美春は自傷より先に彼女へ襲いかかったはずだ。そうならなかったということは、少なくとも直接的な加害者ではないと考えられる。
これ以上深入りすれば、話はいよいよドロドロしてきそうだ。いまのところ、それを掘り起こすつもりはない。
出番が近づいてきていることを思い出し、楓は舞台袖へと通じる扉へと向き合う。どうやらいまは二番のサビ。ここからラップを終えれば大サビだ。春萌との舞台はいい。だが、自分の出番が問題だ。いま、楓が春萌の大サビで合流しようとしているのと同じように、楓の楽曲の大サビでは――
「この次は、楓さんと舞さん……夢の競演だねっ!」
カリンは声を弾ませる。その無邪気な言い方に、楓はむず痒さを感じていた。そもそも、舞が他の誰かと並んでステージに立つこと自体、楓も見たことがない。
「ライバル同士が共闘……なんて、熱い展開ですねぇ」
きの子もやけに楽しげだ。そして、舞は――わざわざ椅子に腰かけると仰々しく腕を組み、足を組み、そして芝居がかった口調で告げる。
「見せてもらいましょうか。ダンスチーフとやらの実力を」
「アンタもダンスチーフでしょ……」
そんなツッコミに、舞は、
「私はセンター」
こういうところが本当に嫌いだ、と楓は思う。
「そして……プロ・ストリップ・アイドル」
――舞がもっと投げやりに、そして無責任に振る舞ってくれれば、遠慮なく嫌いになれるのに――だが、ストリップ・ライブに対してだけは、誰よりも真摯に向き合っている。その姿勢だけは、嫌いになれず――だからこそ、楓にとって余計に厄介だった。
カリンの明るい声援だけを受け取って、楓は舞台袖へ足を踏み入れる。すぐ目の前のステージでは、春萌のパフォーマンスが続いていた。舞台袖には、照明やスピーカーから漏れた音と光が入り込み、うっすらと白い煙のような熱気が立ちこめている。音の振動が床越しに伝わってくるようだ。カラフルな照明が壁にちらちらと反射し、まるで心拍のように点滅を繰り返す。
本番中の舞台裏は、もうひとつの戦場だった。スタッフのひとりがインカム越しに慌ただしく何かを確認しており、誰かの履きつぶしたスニーカーが棚の下に投げ込まれている。飲みかけのペットボトルや汗拭きタオルが雑然と置かれており、慌ただしく出入りする気配と焦げたような照明熱の匂いが混ざり合っていた。まさにライブ真っ最中――息を飲むような一瞬の静寂は、すぐに音と光と気配の渦にのみ込まれていく。関係者たちは目の前の仕事に集中しており、楓の裸体に関心を持っている余裕もない。そんな空気の中で、楓はヘッドセットを装着する。この格好は、やはり滑稽だ。こんなのを喜ぶなんて――やはり、観客たちは女が裸なら何でもいいんだろうな、と辟易としてしまう。
けれど――だが、いま髪を留めているのは、どこにでもある安物のピンではない。由伸が自分のために用意してくれた、世界にたったひとつだけの髪飾り。それを身につけているという事実だけで、どんなドレスよりも美しく着飾れたような気がしてくる。
気持ちを整えながら袖から駆け出した。タイミングを合わせるように、大サビ前のラップが終わりに差しかかろうとしている。
「めぐる・ぐるぐる・季節が巡り♪」
春萌の歌声がフロアに響き渡る。ここは無理にハモらず、身体の動きだけで春萌に合わせるのが最善だ。振り付けも何度も見てきたものだから自然に身体が動く。この観客のなかに、由伸が――けれど、不思議と緊張はしない。たとえ少し失敗したとしても、それもまた自分のひとつなのだと思えてくる。
春萌のコミカルなパフォーマンスが終わり、彼女が手を振りながらステージを後にした。その直後、照明が暗くなり――空気が切り替わる。ここからは生演奏ではなく、朱里が用意した音源が頼りだ。
意外なことに、すぐに曲が始まることはない。そのままつなぐのではなく、短くムードをつくるような導入が挟み込まれた。スローテンポな旋律が、会場にしっとりと染み込んでいく。そして、馴染み深いイントロが流れ出すと同時に、楓の身体は自然と動き出していた。
「何も言えず 俯く夜に♪」
この詞は、楓がストリップ・ライブという舞台に正面から向き合うために作られた、自身の持ち歌だ。かつて、踊ることしかできなかった自分のために用意された一曲。あの頃から、楓はここまで歩いてきた。夢にまで見たステージを手に入れ、職場を得て、そして――大切な人を得た。心から、感謝している。
そんな思いを歌に、そして、ダンスに込めて、ついに迎えた大サビで――
「揺れて 揺れて 世界が霞んで♪」
芯のある歌声が、楓の歌に重なる。舞が、リズムに合わせて堂々と登場してきたのだ。彼女は全裸の上に、黒いチョーカーと袖袋、そして膝上までのレザーブーツだけを身にまとっている。それは、彼女にとって“脱ぎ終わった”後の完成形――すでに舞台にさらけ出された裸体は、どこか神聖で、非現実的な光を帯びているように見えた。しなやかに歩くたび、ブーツの先が床を刻み、両腕の布がひらりと翻る。その佇まいには、羞恥もてらいもない。ただ、自らの肉体と芸を誇るような、静かな自信が満ちていた。その姿に、会場の熱が一気に上がっていく。まるでこの曲の主役を奪いに来たかのような、ふてぶてしいまでの佇まい。しかし、その圧倒的な歌唱力に――嬉しい――楓の心は打ち震えていた。楓には、舞のように張りのある声を出すことはできない。その代わりに、この感動をすべてダンスに込めたい――そんな衝動が湧き上がってくる。
「それでも この鼓動だけは確か♪」
サビの一節が響いたとき、楓はすべてを振り切るように踊り出す。いままでで一番激しく、そして情熱を込めたダンスだった。歌声を発することさえ忘れ、身体の動きだけで想いを伝えようとする。だが、そんなアレンジにさえ、舞は歌いながら追随してきた。まるで、まだまだ上を見せられるとでも言いたげに。
「踊ることでしか 私は生きられない♪」
曲の終わりが近づく。アウトロが静かに流れ、ふたりのパフォーマンスは幕を下ろす。楓は一瞬だけ、夢から覚めたような感覚に陥った。だが、余韻に浸っている時間はない。すぐに舞のソロステージが始まってしまう。
拍手と歓声の渦の中、楓は舞台を後にした。だが、控室には戻らず、袖からそのまま舞の演目を見守っている。歌っているのは、舞のデビュー曲であり十八番でもある『
「誰にも見せられない手札を♪」
再び始まった生演奏――ステージに立つ舞の姿に、ただただ圧倒されていた。やっぱり舞はすごい――楓は素直に思う。自分の持ち歌で、これほどの表現力の差を見せつけられたのだ。ストリップ・アイドルとして、あの女には決してかなわない――そう確信する。だが、不思議と悔しさはなかった。人としては気に入らないけれど――だとしても――あいつなら、センターを任せられる。楓はそれを認めて、すっと肩の力が抜けた気がした。