ストリップ・リデンプション - 憎しみを脱ぎ捨てて 作:添牙いろは
楓は視界を閉ざし、由伸の手だけを頼りに進んでいた。身体はたしかに落ちているが、崖から飛び降りたにしては落下が長すぎる。風を切るような速度感だけはあるのに、水面に叩きつけられる気配がない。
ふと、頭の奥でその理由が形を結ぶ。この感覚は、現実ではない――宇宙の力によって作られた幻覚だ。しかし、そう気づいたところで落下し続けるような浮遊感は容赦なく全身を包み込み、胃の奥を揺らす。足は宙を泳ぐばかりで、地面のたしかさはどこにもない。信じられるのは――自分の手を引いてくれる力強い温かさだけだった。
やがて――ふいに、何かに乗り上げるような感覚――足裏に柔らかな抵抗が戻った。同時に、耳の奥にもかすかなざわめきや木々の揺れる音が戻ってくる。その音は次第に鮮明になり、葉擦れや遠くの潮騒の音まで混ざり合って耳を満たした。地面がすっと差し出されるような感触とともに、楓はゆっくりとまぶたを上げる。
「あ、あれ? 元に戻った……?」
目の前には、つい先ほどまで歩いていた森によく似た風景が広がっている。木々の匂い、湿った土の香りまでが懐かしい。少し先で、ミハルが何事もなかったかのように待っていた。その隣に立つカリンが、本当に世間話のように、いまの現象に少しだけ解説を加える。
「戻ったというか、これが本来の地形、というか……」
楓は小さく瞬きをし、わずかに眉を上げる。
「ふぅん」
口元に安堵の笑みを浮かべて、小さく相槌を打った。彼女は一度だけ視線を巡らせようとするも、わずかに眉を動かしてから余計な推測を手放す。もう危険は去った――そう思えるなら、それでいい。胸の奥にわずかに残る不安を押し込み、歩き出した。
カリンとミハルが並んで森の奥へと先導していく。楓は初めて見るはずの場所なのに、どこか既視感が拭えない。さっきまで歩いていた森と変わらない気がする――それはまさに、この島のすべてが作り物であることを示していた。
鈍感なのか、それとも、この状況を熟知しているのか――カリンとミハルは平然と足を進めている。
「この先は、プライベート・フィールドが張られてるんですよねぇ」
「まあ、この辺の資料は紫希さんが業者から入手してくれたみたいだからぁ」
ふたりはまた小難しい話をしているのだろう、と楓は眺めている。手をつないだままのふたりに気を使ってくれているのだとは思いもよらない。そんな楓を、由伸は静かに見守っていた。
やがて、木立の間から小さな建物が現れる。楓の胸にわずかな緊張が走るが、遠目には巨大なかまくらのようだ。物置のように小ぢんまりとしているが、近づくにつれ、その形状がよく見えてくる。表面はなめらかなドーム状で、窓はなく、正面に扉がひとつだけ。ひと抱えはありそうな大きさで、倉庫のような印象を受ける。扉は一枚板のように継ぎ目がなく、取っ手も呼び鈴も見当たらない。
「この扉、厄介なんですよねぇ」
カリンが眉を寄せると、
「宇宙人なのに?」
楓は首を傾げた。やはり宇宙人を万能な存在だと思っているらしい。
「実際、カリン星人たちはハシム教授の行方を見失ってるしねぇ」
ミハルにフォローされたことで、楓も妙に納得できた。これに、カリンも説明を付け足す。
「強引に開けることはできるんだけど……それじゃ、せっかくの監視妨害が台無しになっちゃうから」
どうやら、ここに至るまでも宇宙人と地球人の間でテクノロジーの応酬が繰り広げられていたようだ。
「まあ、そのために私がいるんだけどねぇ」
とミハルが前へ出る。どうやら、開け方を知っているらしい。
「私が気づいたのも、ほんの偶然だったんだけどぉ……」
だが、その手段は――コン、コン、コン、コン――まさかの、ノック――? しかも――コンコンコンコンコンココンココン――ココンコンコンコンココンココン――無駄にリズミカルで、異様にしつこい。うるさくして、中から開けてもらう算段か――? 楓は呆れそうになったが、耳がそのパターンを捉える。不思議と身体を動かしたくなるそれは――
「……コンニャン体操……?」
その言葉を口にした瞬間、扉が音もなくスッと横に開いた。
「ふーん、そうなん?」
ミハルが振り返る。どうやら彼女は、知らずにこれを打ち鳴らしていたらしい。
「言われてみると……そうだったかも?」
カリンはうろ覚えなようだが――楓はニヤリと笑って、自信満々な視線を送る。
「アレはカリンの
振り付けも優しく、誰もが知っている――カリンや
だが――何故よりによってそれなのか――楓の頭には疑問だけが残った。
「ハシム教授って、
楓が軽く尋ねる。あのコミックバンド――かつては鼻で笑っていたが、最近は何も言えなくなっている。理由は明白だ。あのふたり組のうち、キツネの“こんなぎ”は元TRK26のメンバーのひとり。流行っているのはわかりやすいサビだけで、AメロBメロは高いスキルを要する。それを歌って踊りきるそのスキルは楓の比ではなく、皮肉を込めて言えるのは“能力の無駄遣い”という一言だけだった。
しかし、ミハルは不思議そうに首を傾げる。
「けどー、研究所で、Nya-oXの話なんて聞いたことないんだけどねぇ」
ミハルたち研究員は地下にこもり、研究を続けることこそが生き甲斐という人種だ。ミハルやハロクドのような例外もいるが、それでも興味の範囲は限られているのだろう。これも、個人の趣味のひとつ、として楓は話を終えようとする。しかし。
「……なんてこと……」
カリンが愕然として呟く。まあ、カリンはNya-oXのファンみたいだし、国民的アイドルだと思っていたところを知らない人がいたのなら、それはショックだろうけど、そこまで落ち込まなくても――などと茶化すほど、楓もお気楽ではない。それどころではなく、何かとんでもないことに気づいたところまでは理解していた。だが、その内容までは読めず、黙って続きを待っている。
が、言葉をつないだのはカリンではなかった。同様に、ミハルもうなだれている。
「……あっちゃー……まさか、よりにもよって、ねぇ……」
さらには、由伸まで、
「……そもそも、少子化なんて地下には無縁の悩みだろう? そこに首突っ込んでる時点で、あの教授も立派な地上フリークってわけさ」
みんな、もっとわかりやすく言って! ――会話から取り残される焦燥が楓の胸に広がる。それで、咄嗟に由伸へ視線を送ってみた。すると、彼は薄く笑みを浮かべて応じてくれる。
「ようするに……どうやら地上に惹かれているのは、あの眼鏡のお嬢さんひとりじゃなかった、ってことさ」
結局、ハシム教授も地上に関心がある、というだけのことだとは思うのだが――それがそんなに重要なことなのかよくわからず、楓の胸のもやは晴れない。
カリンは小さく息を整え、楓たちに先を促す。
「……ともあれ、中に入りましょう。開きっぱなしだと、それはそれでアラートが鳴っちゃうかもしれないし」
その表情には、わずかながらも未練の影が差している。視線が一瞬だけラボの奥に泳ぎ、唇が小さく動いたが、言葉にはならなかった。
楓たちはついにハシム教授のラボ内に侵入する。中は思ったよりも狭く、壁際には埃をかぶった機材や資材が雑多に積まれていた。薄暗さのせいで輪郭がぼやけ、奥のほうにはマネキンのような人型が立っているのが見える。光の加減でいまにも動き出しそうに見え、どこか不気味だった。
奥には下り階段が続いており、足音がコツコツと響く中、ひんやりとした空気が肌を撫でる。薄暗いその先は見通せない。どうやら、地上に出ていた建物部分より、地下はもっと広いようだ。
わずかに湿った金属の匂いが鼻をかすめ、呼吸の音がやけに耳に残る。カリンの先導で四人は慎重に一歩ずつ、ゆっくりと進んでいた。
「今回の件は、完全に我々の落ち度だったよ……」
カリンは落胆の色を浮かべ、視線を床に落とした。
「けど……私も信じらんないねぇ」
ミハルも顔を曇らせ、肩をすくめてぼやく。
「私、研究所内でも相当異端扱いされてたんだけどぉ」
「フィールドワーク……でしたっけ」
楓が問うと、ミハルは苦笑しながら説明を続ける。
「んー。そんなんやるのは歴史関連の部屋くらいで、むしろ、周りからは大変そうって同情されてたくらいだよぉ」
「ハシム教授が地上と接触があるってわかっていれば、もっと配慮することもあったんだけど」
カリンは息をつき、わずかに眉を寄せながら言葉を重ねる。宇宙人側は、地底人たちを研究以外には興味を持たない人種とみなし、その前提で共同研究を進めてきた。だが、もし彼らが地上に関心を持つのなら、自分の研究が地上に及ぼす影響を考えないはずがない。
落ち込んだカリンの声を聞きながら、楓は視線を伏せて口元に皮肉げな笑みを浮かべる。
「そうやって、人を枠に嵌めて考えるから、足元を救われるんじゃないの?」
彼女の言葉は、カリンだけでなく楓自身にも向けられている。かつての楓も、職場の人間は自分のダンスに理解がなく、活動を邪魔する存在だと決めつけていた。だが、いま勤めているファメリアの人たちは、仕事でも支え、劇場にも応援に来てくれる。もちろん、中には下心だけの者もいるだろうが――それでも驚くほど協力的だ。一方で、女性にしても――こんなに脱ぐことに抵抗のないメンバーが多いなんて、楓にはいまだに信じがたい。だが、事実である。新歌舞伎町という場所に来てから、常識と思っていたものが何度も覆されてきた。
だから。
「そう……だね」
カリンは楓の率直な物言いに感心すると同時に――胸を締め付けられる思いを抱く。人を型に嵌めてしまう――それはまさにクラスタ化であり、理解し合えないと決めつけた集団を排除してきた結果が、彼女の母星の滅亡の危機につながった。だからこそカリンは、すべての人とわかり合えるよう努め、人を色眼鏡で見ないよう心がけている。だが逆に、こういう形の色眼鏡も存在するのだと、改めて思い知らされていた。
通路は薄暗く、両脇には実験器具のようなものがずらりと並んでいる。靴底が床を打つ音が硬く反響し、肌を撫でるひやりとした空気がどこか気味が悪い。楓は漠然と“研究所らしい風景”と眺めていたが、その中には物騒なものも混じっている。例えば――巨大な試験管のような透明の筒状のもの。内部には淡い緑色の培養液が満たされ、泡が静かに立ちのぼる。かすかな機械音が響く中、楓はよく目を凝らし――息を呑んだ。中に漂っているのは、人間――!?
「ひ、ひぃ!?」
思わず由伸の腕にしがみつく。胸の鼓動が早まり、息が乱れる。
「それは、ホムンクルスだよぉ」
ミハルがのんびりした調子で教えてくれた。楓は、その単語をどこかで聞いたことがある気がしたが、思い出せない。だが、おそらく――いわゆる人造人間、というやつなのだろう。
「我々の星でも一定の研究は進んでたんだけど……生産力という意味では、人体の形状にこだわる必要がなかったんだよねぇ」
カリンは遠い目をし、自分の育った環境を思い返す。生命維持に必要なものは機械が自動で生産し、労働は存在しない。その代わり、社会は小さな集団へ分断された。
過渡期には支配を企む者も現れたそうだが、無欲な人間を従わせるのは難しい。欲は機械によって満たされ、性欲すら装置が代替してくれる。そして――子孫を残すことは、生物の本能ではなかったのだと証明された。正確には、本能だったはずが――子どもの権利や養育の責任という重荷が
そんな思考の余韻を振り払うように、カリンは視線を前へ戻した。そして、少しだけ振り向く。彼女の背には、隣り合って歩く楓と由伸。地球人には我々と同じ道を歩んでは欲しくない――何を進化させ、何を
そのとき――静かに周囲の空気が震え、壁際の計器がわずかに唸りを上げ始める。電圧が上昇している――? カリンの宇宙センサーがその変化を感知していた。
「……何か来るねぇ」
測定機器を持たないミハルも、肌で異変を感じ取ったらしい。まるで大規模な実験が始まる前触れのような気配を。
その不吉な気配はすぐ姿を現した。巨大な試験管がゆっくり天井へ持ち上がり、油圧の唸りと金属の軋む音が通路に響く。下から培養液が流れ出し、床に滴が落ちるたびに冷たい音を立てた。液の中から現れたのは、全裸の女性型ホムンクルス。だが――
「やれやれ、笑顔のひとつもない歓迎なんて、味気ないね」
由伸が低く、やや間を置きながら呟く。その声は乾いた冗談のようで、どこか挑発的な響きを含んでいた。それを合図に――ホムンクルスが地を蹴り、床にベタベタベタベタッ! と気味の悪い足音を響かせながら鋭く飛びかかってくる。四方八方から――ざっと十体以上。培養液の滴が肌を伝い、床に落ちるたびにぬめった音を立てる。
そんな不気味さもあり、楓は思わず身をすくませた。だが――その前に由伸が割り込んでくる。
「ここは任せて先に行け……なんて常套句でも、俺が言うと様になるだろう?」
由伸が笑みを含んだ声で構える。軽やかな調子だが、低く落としたトーンが緊張感を帯び、楓の耳に安心感と危うさを同時に響かせた。楓は息を詰め、わずかに眉を寄せる。相手は人形のような存在とはいえ、女性の形をしたものに暴力を振るう姿を楓は見たくない。
すると、ミハルが由伸と並び立つ。
「私も残るよぉ。研究成果物にはそれなりに精通してるからねぇ」
その一体に、ミハルは素早くスタンガンのようなものを突き立てる。ただそれだけのことで、ホムンクルスはビクンと大きく痙攣し、音を立てて床へと倒れ込んだ。
「取り扱い注意の研究機器だからねぇ。ま、ここは専門家に任せたまいよぉ」
楓たちは裸一貫だったが、ミハルだけはカリンからそのような機器を受け取っていたのかもしれない。ともかく、その威力は絶大だ。続いて、その隣には、由伸が投げ飛ばした別の個体が鈍い音を立てて倒れ込む。本気の殴り合いに、楓は完全に怖くなっていた。そんな彼女の手を、カリンが力強く引っ張る。
「行こう、楓さん!」
「でも……」
楓は渋るが、カリンが手の力を緩めることはない。ここに残っても自分にできることはない――そう悟った楓は、抵抗をやめ、カリンに導かれるまま走り出した。
カリンの背を追い、楓は息を弾ませながら走り続ける。が、しばらくして歩調が落ちてきた。
「……ごめんなさい、楓さん」
「いえ、仕方ないわ、あの状況じゃ……」
楓は肩で呼吸しながらも、視線をカリンに向ける。
「そうじゃなくて……」
カリンは、残念そうに視線を落とす。
「全部、罠だったみたい」
足音が止まり、楓の喉が一瞬詰まる。思い返せば、ここまであまりに順調すぎた。違和感は、ずっと心の奥に引っかかっていたように思える。
「だからね、考えてたの」
そのカリンの前向きな瞳に、楓も応じる。
「どうやって、その罠に立ち向かうか……?」
「てより、もっと根本的なことで……ハシム教授は、何でカリンたちを罠にかけたのかなって」
楓は眉をひそめ、わずかに首を傾げる。
「研究の邪魔をされたくなかったんじゃない?」
「もしそうなら、もっと早い段階で、簡単に終わらせられるはずだよ。例えば、さっきの部屋で、肉体の維持が難しくなるレベルの熱や電圧を通すとか」
その一言で、楓の心臓が強く跳ねる。慌てて周囲を見回すも――とりあえず、いまは大丈夫そうだ。
「でも、それをしないってことは……何か別の目的があるのかも」
カリンの声は淡々としているが、奥に探るような鋭さを帯びている。
「少なくとも、カリンたちの目的がTRKのプロデューサーさんの奪還だってことは、向こうもわかってるはずで。それをみすみす解放するとは思えない」
楓は唇をかみ、息を整えようとしている。そもそも、何故プロデューサーが捕らえられたのかすらわからない。
「一応、いそうな場所の目星はつけてたんだけど……まあ、移動させるなり、手は打ってるだろうね」
「じゃあ、どうするの?」
闇雲に歩き回っても、さっきのような危険な目に遭いかねない。
なので、カリンは単刀直入に切り出す。
「実際に会って、聞いてみるしかないんじゃないかな」
楓は一瞬、言葉を失い、視線を泳がせる。
「何が目的でこんなことをしてるのか。その前提で考えると……教授がいそうなのは……んー……あの実験場、かなぁ」
やはり、カリンはこのラボ内の全容を把握しているらしい。
「実験の成果を披露するにしても、カリンたちを実験材料にするにしても、あの部屋が都合が良さそうだし」
「いま、なんか怖いこと言わなかった!?」
私たちを実験材料に!?
「ともかく、解決するまでカリンから離れないで。少なくとも……ふたりだけなら脱出することはできるから」
「由伸さんたちを置いて!?」
楓は反射的に声を荒げ、息を詰まらせる。そんなことは、考えるだけで胸が痛い。
だが。
「楓さんがダンスチーフなら、カリンは地球調査の責任者だから」
それは、以前楓がステージ前に見せたような断固たる姿勢で。
「無駄な犠牲を増やすことはできない。でも……」
カリンはふと足を止めて、少しだけ言葉を探す。
「それが
カリンは真剣な眼差しを向ける。
「そのときは、改めて相談させてね」
楓は胸の奥に重たいものを抱え、荒い息を抑えながら小さくうなずく。
そのやり取りを終えると、ふたりは再び足を速めた。緊張感を帯びた空気の漂う、薄暗い廊下の中を。
その後も、カリンは迷いなく奥へと進み、大きな扉の前で立ち止まった。
「きっと、このフロアだと思うよ」
その声は、覚悟はできているかという問いでもあった。楓は深くうなずき、隣に立つ。
静寂の中、機械が微かに唸る音が耳に届いた。空気がわずかに動き、カリンの表情が少しだけ引き締まる。自動ドアなのか、それとも招かれているのか、楓には判断がつかない。開き始めた隙間の奥で影が揺れたような気がした。誰かがいる――だが、行くしかないのだろう。
その部屋は広く、天井も高い。床には大きな四角い鉄板がタイル状に敷き詰められ、左右の壁には巨大な試験管がずらりと並んでいる。中には淡い緑色の液体が満たされ、泡が静かに立ち上っていた。その中で、ぼやけた輪郭の人型がゆらゆらと揺れている。先ほど襲ってきた存在と同じ類であることは、嫌でも察せられた。天井にはケーブルやクレーンのような機材が張り巡らされ、空の巨大試験管が吊られている。保管場所はもう少し考えてほしい。もし落ちてきたら――楓は肝が冷える思いだ。
カリンは一歩もひるまずに足を踏み入れる。楓も続くと、背後の扉が静かに閉まった。奥の壁だけは試験管がなく、その前に人影が見える。床に座り込んでいる白衣姿――地下研究所の研究員だとすぐにわかった。ふたりは注意深く近づいたが、相手の様子がおかしい。明らかに肩が落ち、ぐったりとしている。
「……ハシム教授!?」
カリンが駆け寄ろうとした瞬間、楓が手を伸ばしてそれを制す。
「待って。罠かもしれない」
「……そうだね」
カリンは、どうしても地下研究員たちを疑いきれていない。だからこそ、教授が何者かに囚われ、第三者の介入を受けていると考えてしまうのだろう。楓も、その可能性については否定しない。だが――教授を助けに行こうとしたところを狙われて――というのは考えられる。
ゆえに、慎重に周囲をうかがいながら――結局何もなく、ふたりは教授の目の前までたどり着いた。
「キミは……」
弱々しい声が漏れる。
「教授、どうしてこんなことに……」
痩せた中背の身体。わずかに猫背気味で、年寄りのような雰囲気を漂わせながらも白髪はない。意外に若いのかも、と楓は思う。両手は後ろに回されており、もたれかかっている柱に縛りつけられているようだ。黒いジャージに白衣を羽織り、その瞳は真っ直ぐにカリンを見据えている。間違いない――この人物がハシム教授だ。苦しそうに身を捩ると、その背のほうで金属製の鎖がチャリンと鳴る音が響く。
「やられたよ。ストリップ・アイドルという文化を作りたいと、話では聞いていたのだが……」
「TRKが!?」
楓が思わず声を上げる。高林たちが、こんなことをするなど信じられない。
「どういうことなんです?」
カリンが詰め寄る。その声色は揺れ、瞳の奥に戸惑いがにじんでいた。
「ヤツらの狙いは、この島を乗っ取ることだったんだ」
その言葉に、楓の眉がわずかに動く。
「何故、こんなことに……」
「おそらく、私の持つ莫大な資金が目的ではなかろうかと」
再び楓の眉間に皺が寄る。
「けど、教授の協力を得られないと、島の管理が困るんじゃ……」
「ふっ、私が死んでも、代わりはいくらでもいるからな」
カリンとハシムが言葉を交わすたび、楓の胸中にもやもやが積もっていく。これが他人事なら聞き流しているところだが――事がTRKの話であれば捨て置けない。
「ハシム教授!」
突然の怒声に、カリンも教授も驚いて顔を向ける。楓は鋭い視線を差し、教授を問い詰めようとしている。
「ハシム教授、貴方はTRKのプロデューサーに捕まった……そうですね?」
「ああ……そのとおりだ」
実際、その両手は背後の柱に固く拘束されている。
「楓さん、きっとあの人たちにも事情が……」
「カリンは黙ってて」
滅多に見せない剣幕に、カリンは目を瞬かせて口を閉じる。
「では、現在TRKのプロデューサーは捕らえられていない……自由の身になっている……間違いありませんね?」
「ああ。そして、逃げ出したあの男は――」
「もうひとつだけ聞かせてください」
楓がハシムの言葉を遮り、詰問を続ける。
「貴方はまさにいま捕らえられ、私たちに助けを求める立場にある。そんな貴方が、何故――」
――私たちを、