ストリップ・リデンプション - 憎しみを脱ぎ捨てて 作:添牙いろは
TRK26――そのグループ名はずっと聞かされてきた。ストリップ・ライブという特殊なステージで、絶大なる“輝き”を放つ者たち――彼女が、そのリーダー――対面した瞬間、楓は圧倒的な存在感に気圧され、思わず膝を折りそうになった。舞など到底及ばない。目の前に立つ彼女こそ、センターの中のセンターだと確信した。
アイドルには――スキルでは覆せない天賦の才というものがある。そこに立っているだけで華がある――蒼泉歩という存在は、まさにそれを体現していた。
TRKはハイスペック揃いである。何しろ、ヒットチャートでトップを走る古竹未兎さえも擁立しているのだ。その集団の頂点と相対して――楓は完全に飲み込まれている。
だが、そんな空気を壊すのも、やはりTRKだった。
「で、歩。アイツ、どうする? 骨の一本か二本、折っとくか?」
後ろから肩を叩きそうな雰囲気だったが、その接近だけで歩は振り向いた。どうやら、メンバーたちの動きは把握しているらしい。まるで、背中にも目がついているかのように。やってきたのはショートカットに太い眉。男子のような顔立ちながら、その身体つきはしっかりと女子だ。そんな勇ましいメンバーが、何やら物騒ことを提案している。これに、歩は肩をすくめて答える。
「折ってもいいけど……無駄だと思うよ。だって――」
その続きを、楓が答えた。
「“私が死んでも、代わりはいる”……」
その不穏な言葉に、高林が眉をひそめる。
「どういうこと?」
「それは……わかりません。ただ、教授自身がそう言ったんです」
楓は、あのときの教授の様子を思い出していた。やはり、あの言葉に偽りはないはず。
ここで、しばらく黙っていたカリンが思い出したように声を上げる。
「……外部電脳を用いた複数個体の連動……!」
カリンの発したその単語は、女子たちに責め立てられるように囲まれ座り込んでいるハシム教授の耳にも届いたらしい。その目に、不気味な光が帯びたように見える。
「どういうことなの……?」
何やら小難しそうな言葉の意味を、楓は誰に聞けばいいのかわからず、とりあえず由伸に視線を向けた。専門外かもしれないが、頼れるのは彼しかいない。
「頭脳だけを外に出して、ネットワークで泳がせる……魂を下請けに出すような悪趣味なコピーってところだろ?」
由伸の説明に、楓はカリンを振り返った。彼女は小さくうなずいているので、どうやら正解らしいが、楓の理解はまだ追いつかない。なので――ミハルがざっくりと言い切る。
「つまり……あの教授もホムンクルスだ、ってことだよぉ」
「えっ!?」
これまで襲ってきたようなゾンビ連中ばかりでなく、あんな自然な動きもできるの!? となると、ここに出てきたメンバーの中にもひとりやふたりホムンクルスが混じっててもおかしくないのでは、と不安になるも――とりあえず、いまのところは大丈夫なようだ。
「なら、遠慮なく壊しちまおうぜ」
「
勇ましくも乱暴なことを言う操を、歩がやんわりとたしなめる。
「やめてあげて。他のコたちの目に毒だから」
どうやら操には、ここに捕まったことへの恨みが深く残っているらしい。
ともあれ、操は説得できたので、歩は改めて楓に説明を続ける。
「つまりね、ハシム教授は全世界に存在していて、互いに情報を共有してるの」
よくわからないけれど、何だか気持ち悪いな、と楓は思った。
「だから……この場の教授ひとりを拘束したところで、他の教授が研究を続けるし、新しい教授もまた生まれ続けるってこと」
「……アメーバか何か?」
楓の皮肉混じりの言葉に、歩は屈託のない笑みを浮かべる。
「その例えは斬新だね。わかりやすく言えば、カビとかゴキブリとか、そんな感じかな」
言葉を飾る様子はない。だが実際、ハシム教授は人類を内側から侵す病原菌のような存在だ。
どうやら、カリンも教授がそのような仕組みを構築していることに気づかなかったらしい。
「それで……何か案が?」
「カリンにはないの?」
宇宙人は万能だと何となく思っている楓は、つい聞き返してしまう。
「この面積の地表で、教授をひとりずつ見つけていくなんて無理だよ。宇宙テクノロジーを駆使すれば、それこそ海の底にだってラボを作れるんだから」
しかも、ひとりでも生き残れば、そのひとりが新たな教授ホムンクルスを生み出してしまう。根絶しきらなければ、終わりは訪れない。
「地上をまとめて焼き尽くせば済むんだけど」
「それじゃあ本末転倒だね」
肩をすくめるカリンの冗談を、歩は事実上の手詰まりとして受け取った。
「私にも、決定的な手段は思いつかないんだけど――」
歩はそこで言葉を切り、仲間たちを見回す。
「みんなで力を合わせれば、どうにかなるかなーって」
「はぁ!?」
楓は思わず声を荒げる。そんな楽観で何とかなるなら、そもそも一堂に集める必要などない。散開して世界中の教授を同時に叩く方が、まだ現実味がある。
「ともかく、ほら……みんなで説得してみよう!」
たしかに――電脳を共有しているのなら、この教授が悔い改めれば、世界各国の教授も同調するはずだ。しかし、歩の能天気な調子に、楓は呆れ果てるしかない。これが――TRKのセンター? ステージでは光を放つのかもしれないが、舞台を下りればただのポンコツに見える。もっとも、この天然さがアイドルとしての魅力なのかもしれない。だが、問題の解決には明らかに不向きだった。
「ソイツ、失恋が原因で自暴自棄になってるだけですよ」
楓は教授の抱える闇をわざと矮小化する。内心の苛立ちを、冷笑まじりの言葉に変えて。
「それじゃあ……誰か、ハシム教授の恋人になってあげる人ー!」
歩の呼びかけに、場のあちこちから失笑が漏れる。
「そういうのは“言い出しっぺの法則”ってやつじゃない?」
希が茶化す。
「なんですか、それ」
楓が眉をひそめると。
「言い出した人間が率先してやれってことね」
希は鼻を鳴らして歩を見やる。
「あははー」
笑ってごまかした。どうやら、言い出した本人にも、教授と付き合うつもりなど毛頭ないらしい。
「フフフ……ククク……無理はしなくていいぞ、小娘ども」
非モテのわりに、態度だけは大きいな、と楓は思った。
「私は、どこぞのドラマの主人公じゃあない。百一回も口説くつもりはないさ。二十回くらいで察したよ。自分の身の程というものをな」
百一回って――どんなドラマかは知らないが、十人二十人あたりで、もう誰でも良くなってそうなものだが。そんなもの、ただの女遊び、ナンパだろう。あの教授の様子から、二十回くらいで察したのは――望んでいた関係はそういうものではなかった、ということ。そう考えると、早々に見切りをつけた教授は、まだ健全なほうかもしれない――楓にはそう思えた。
「言っただろう。私はもう、飽きたのだよ」
ハシムは乾いた笑い声をあげる。
「だが、これは私だけではない」
何故かここで主語が大きくなりそうな予感がする。楓は興味を失いかけるも、ここでミハルがふわりと言葉をつないだ。
「二十一世紀から続く未婚化……少子化……ふぅむ、私の研究課題だねぇ」
ミハルのフィールドワークは生の男女の声を聞くためなのかもしれない。
だが、ハシム教授の声色は私怨に満ちている。
「そうやって、増長して男を拒み、選り好みし……滅んでいく様を見届けてやるのだ。それがいまの私のすべて」
「増長してんのはどっちだ、オラ」
操の足の裏がハシムの顔面を捉える。ゴンッ、と後頭部を床に打ちつけても、なおハシムはゲラゲラ笑い続けている。ホムンクルスだから痛みを感じないのかもしれない。
「そうやって、女はどんなに暴言を吐いても、暴力を振るっても許される。裁判になっても情状酌量の余地、だ」
それを聞いて、楓の脳裏にあの話が鮮明に蘇る。包丁を用意して刺したにも関わらず、執行猶予のついたケースを。もし、逆だったら、仮に勝訴を勝ち取っても――
「だが、逆に男が女に手を出せばどうなる? 裁判以前に自称・権利団体とやらに睨まれて火あぶりにされ、社会的に抹殺される」
ならば男も同じように団体を作ればいい――楓は一瞬そう考えかけたが、どうしても社会的に影響力を持つ活動は思い描けない。つまりは――こういう面でいえば、女で良かったということだ。女であるがゆえの不自由は多々あるが、実際のところ路上生活をする女性をほとんど見たことがない。女のほうが社会的なセーフティネットの恩恵を受けやすいという証左なのだろう。
「もはや男は、女に虐げられ、怯えながら生きていくしかないのだ……ッ!」
そうは言うけれど、男のほうが有利に働く面もある。実際先ほど、操作盤の前で存分に振るわれたばかりだ。結局のところ、教授は、女のメリットばかり羨んで、男であるメリットを活かせていないだけ――同時に、美守たちのような権利団体は逆のことがいえるのだろう。つまり――
「男女の不均衡の極致に至ったこの世界を、私が正してやる。愚かな女どもの手による人類滅亡という形でな……ッ!」
――ハシム教授という存在は、男性の権利団体の最終形態のような存在なのかもしれない。ただし、その救済方法には賛同しかねるが。
二十人以上の女に囲まれたうえでのこの暴言――教授はまぎれもなくホムンクルスであり、この場で撲殺されることを恐れていない。むしろ、この場で潰してしまうことは簡単だ。しかしそれは教授の女性憎悪の炎に油を注ぐ所業であり、人類滅亡を加速させることになるだろう。何より――カリンが、とても不安そうにうなだれている。ここまで無様ではないにせよ――それは、カリン星でもまことしやかに流れていた空気なのかもしれない。
「えーと……由伸さん、何かあります?」
同じ男として、何か言いたいこともあるかもしれない。
だが――恋人持ちの男が何を言っても嫌味にしか聞こえないだろう。なので、単純な一般論だけ。
「まぁ……仕事面では有利に働くこともあるな」
もちろん、まったく響くことはない。
「ふん、そんなものは、都合のいい社畜というだけの話だろう」
これは、長年密かに議論されてきた。実際のところ、女性がブラック企業に殺されればすぐに問題提起されるのに、その陰で何人の男性社員が自殺したところで、なかなか話題に挙がることはない。結局、男性のほうが会社での地位を得やすい、というのは、“頑丈で粗末に扱えるから”というだけではないかと――むしろ、組織での出世に興味のない楓にとって、現在の外食産業の正社員という立場で十分すぎるほど満足している。それ以上求めるつもりはないし、これまで、女であることが原因で解雇されたとも思っていない。
ハシム教授自身、その立場は男ゆえに手にしたものなのだろうか――? 見たところ、ミハルとハロクドというふたりの女性が従事しているため、そこに男女差はなさそうだ。ゆえに、ハシムが労働的優位性を説くことはない。
「女なんてもんはな、どんなに金がなくても、仕事がなくても、股さえ開けば仕事のある男を捕まえられる。フン、実に容易い。人生イージーモードとはこのことだ」
この女だらけの場で、よくそこまで女性軽視の言葉を並べ立てられるものだ――楓は呆れる。むしろ、自分を殴り殺すよう誘導しているようだ。もはや、他の教授たちがこの小競り合いを遠くから覗き見していて『もっと言ってやれ!』と歓声を送っているのでは、とさえ感じられる。
こんな男を説得するなんて、無理ゲーじゃないの――? 楓はちらりと歩に目をやる。周囲のメンバーが苛立ちを募らせていく中、歩だけはゆったりと事の成り行きを見守っているようだ。まるで何かを待っているかのように。操は絶えず『コイツ、ヤッちまっていいか?』と目線を送るが、それを歩は苦笑いで濁す。もはや、怒りは爆発寸前だ。誰かが口火を切れば、哀れな男は血だるまになることだろう。
歩は一体何を待っているのか――無駄な時間のように、楓には感じられる。そもそも、由伸はこうして救出できた。目当てのプロデューサーも。これで、希店長も満足のはず。こんなダメ男に付き合う必要はない。仮に、五十年後には人類が滅ぶとしても、ならば、一日一日を大切に生きるだけだ。楓は主語の大きい話に興味がない。あとは、TRKの面々の好きなようにしてもらって、楓はそろそろ早退したくなってきている。
険悪な空気が漂う中――ついに、ひとりのメンバーが黙っていられず口を出した。
「そりゃあ、捕まえられはするでしょおねぇ。
一歩前に出たのは――水裏理々だった。トレードマークのツインテールに童顔――肩から上はまるでいまだに新人のような見た目だが、身体のラインだけは容赦なく疲れを物語っている。由伸の写真集では、こんな陰りは一切なかったのに――やはり、プロのカメラマンの手にかかれば奇跡だって写せるのだろう。
「けどねぇ、男ってのは、すぐ飽きるんですよ。女にとっては、捕まえることより、“捕まえ続ける”ことのほうが重要なの」
その言葉に、楓は思わず姿勢を正す。楓から見ても由伸は、自分にはもったいないくらいの相手である。いまは、浮気なんてしないだろうけれど――彼は、老若男女問わず、誰にでも優しく紳士的だ。もし、他に由伸に想いを寄せる女が現れたら――いや、現れないはずがない。そんなとき、自分は彼をつなぎとめておくことができるだろうか――
楓は恋愛について深く考えたことはなかったが、年長の同性による強い言葉に、耳を傾ける。
「教授は、恋愛についてお詳しいようなので?」
理々は口元だけで笑顔を作るが、その目はまったく笑っていない。皮肉を込めて、わざとらしく一拍置いてから続けた。
「男はセックスのために結婚し、女は結婚のためにセックスする……おわかり? 女にとってゴールは結婚なんです。セックスじゃないの。一発ヤれば目標達成、みたいな男と一緒にしないでもらえます!?」
思わぬ勢いに押され、あのハシム教授ですら返答に詰まっていた。必死に反論の糸口を探しているが、これまで一度たりとも女の身になって考えたことがなかったのだろう。すぐには言葉が出てこない。
「フン、その様子だとわかってるみたいですね。恋愛にお・く・わ・し・い……ようですし?」
理々はさらに畳みかける。だが、楓は内心で首を傾げていた。理々とて、女芸人から女優に転身し、華やかな芸能界を歩んできたはず。そんな彼女が、どうしてこんなに苛烈な言葉を投げつけられるのか。もしかすると、彼女自身も男に裏切られ続けてきたのだろうかもしれない――そんな考えが頭をよぎる。
「女がお股開けば男を捕まえられるとしても、婚姻届はふたりの合意がないと提出できないんですー! どんなに女が結婚したくても! 男が首を縦に振らないとできないんですー! わかります? こちとら結婚が目的でセックスしてんのに、セックスで満足して結婚してくれない男、わかります!?」
理々の声が響き渡り、空気が震えた。
「男を見る目のない女のたわ言など知ったことじゃない!」
教授からの激しい反論に――理々はそれを受け流すように、しみじみと思いを馳せる。
「見る目は養うものですからねぇ……。いざ目が肥えて、いい男の見極めができるようになっても、その頃には、同年代のいい男はとっくに売り切れ……。不倫でもしろってんですか!?」
それはやめて!! と楓は心の内で叫ぶ。その末路を、少し前に事務所で聞かされたばかりだから。
教授もさすがに、既婚者から奪い取れ、とは言わないらしい。だが、一筋の希望を提示する。
「ならば、待てばよかろう」
何を言っているのか、この男は――楓は鼻白むが、教授は構わず理々と向き合い続ける。
「男はな……最愛の女の最初の男になりたがる。だが――」
「女は、最愛の男の最後の女になりたがる……でしたっけ」
理々が冷ややかに言葉を継ぐ。どこぞの恋愛格言のようだ。
「自分の想い焦がれる女たちが、他のロクでもない男たちに汚されていく苦しみ……最後のひとりにさえなれば満足な貴様ら女たちにはわかるまい!」
教授の吐き捨てるような言葉に、楓はようやく核心を見る。おそらく、教授はいまだに初恋の失恋を引きずっているのだ。二十人に声をかけたという話も、その傷を振り切るための足掻きに過ぎなかったのだろう。その結果が、この暴走だ。
オーディションで、面接で、数えきれないほど落とされてきた楓は、教授の苦しみに少しだけ共感する。だが。
「まあ、早く次の恋に切り替えられて良かったですね」
理々は簡単にあしらった。
「たしかに、そういうところはありますねー。一度他の女に取られたところで、最後には自分のところに戻ってきてくれればいいー、みたいな」
一旦は教授の言に同調したうえで――ここで理々の声が一段と荒ぶる。
「いつか戻ってきてくれると信じて、最後の女になるために、枕営業で身体ボロボロにして、それでも支えに支えてきた挙げ句に、当の本人はロリに手ぇ出しやがって!」
ロリって!! 理々さん、どんな男と付き合ってたの――!? あと、これまでまことしやかに囁かれていた枕疑惑もあっさり肯定してるし。どさくさに紛れて明らかにされた波乱万丈な人生に、楓は思わず後ずさる。
「結局若さか? 金さえあればジジイでもどうとでもなる男と違って、女の若さは取り戻せねェんだよ!」
声の調子が乱れ、口調も崩れていく。理々の胸に積もり積もった怒りが、ひとり舞台という見せ場で爆ぜていた。
「結局パクられて……いまではクサイ飯食ってるわ。もう二度と生きてムショから出てくることはないでしょーね」
理々は肩をすくめて笑い飛ばした。成人年齢が引き下げられたこの時代、未成年への淫行はかつて以上に厳しく裁かれる。彼女の言葉から察するに、その男は無期懲役にでもなったのだろう。
「あーあーもー、よりにもよってロリとか最悪だわー。こちとら結局最後の女にもなれず、気づけば四十も秒読み。男を見る目を養ったところで手遅れなんだよ、こっちは」
理々はすっかりやさぐれている。けれどその奥に、未練がにじんでいた。
「返してよ……」
そして、涙を浮かべながら必死の表情で訴える。
「私の二十代を、返してよーーーーーーーーッ!」
絶叫とともに膝をつき、声を震わせる。迫真の慟哭のように見えながらも――笑ってはいけない――誰もが腹筋に力を入れて堪えている。だが、彼女は元女芸人だ。その濃すぎる演技に、痛ましさだけでなく滑稽さが同居してしまう。
「……フッ、フフ……ッ」
ついに、ハシムの口から笑いが漏れた。自分でも気づかぬうちに笑ってしまったこと――それに、彼はハッとする。瞬時に顔から血の気が引いてゆき、全身が強張った。頭をよぎったのは――
ずっと、自分は女と比較して絶対的に不幸でなければならなかった。男という性ゆえに蔑まれる、その劣等感こそが彼の支えだった。しかし――
「あ、あ、ああああああああ……ッ!」
希望が芽生えてしまった。金さえあれば、恋をやり直せるかもしれない。女よりも、まだ自分には可能性があるのかもしれない――そんな不遜な考えが浮かんだ瞬間、心の均衡は崩れた。
「ぐああああああああ……ッ!」
自分は不幸でなければならなかった。不幸でなくては生きられない。男という弱小性を背負い、蔑まれながら世界を呪い、そのすべてを滅ぼし――
だが、もうその執念の火種は燃え尽きた。歩はうなだれる教授の背中を見て、確信する。これ以上、人類を滅ぼすなどという妄執にすがることはできないだろう、と。
「……じゃ、行こっか」
教授に背を向ける歩を見て、メンバーたちも決着を悟る。ぞろぞろと彼女に続く中――未兎だけがそっと寄り添った。教授と同じように突っ伏している先輩アーティストに。
「行きましょう、水裏さん。生きていれば、いいこともありますよ」
「フフフ……あればいいんですけどねー……」
理々の声色は冗談のようでもあり、本気で絶望しているようでもある。だが、立ち上がらなくてはならない。
「古竹さん……二十代ってのは本当にあっという間だから、大切にしなきゃダメですよー……」
「はい、わかってますから、はい」
まるで未兎に介護される年寄りのような重さで理々は腰を上げ、後ろ向きな笑みを浮かべながら教授のほうに振り返る。
「ホムンクルスに身体を移すなんてまっぴらですけれど……」
一拍置いてから、言葉を継ぐ。
「アンチエイジング」
聞こえているのか、いないのか――ハシム教授は俯いたまま動かない。
「もし理々を若返らせられるようなら、嫁に行ってやってもいいです」
その挑発めいた言葉に、見えないところで教授の口元がかすかに歪んだ。
「……後悔するなよ?」
その執念じみた約束には、ただの口から出まかせではない強さを孕んでいた。
「こちらも、何もせずただ待ってるつもりもないので、実現するつもりなら急いでくださいね」
そう言い残し、理々もまた歩き出す。そんなやりとりをそばで聞きながら、楓は――もしそんなものを作れたのならノーベル賞モノだろうな――とぼんやりと期待するのと同時に――それでもなお理々さんがフッてしまったら――今度こそ確実に、人類は滅亡するんだろうなぁ、とも。これについては、主語の大きい話どころか、他人の痴話喧嘩である。地球は、いつ滅んでもおかしくない――その思いを胸に、これからの毎日を過ごそう、と楓は何となくそんなことを思っていた。
新たな研究は他の個体に任せて――この島のハシム教授は、ひとりラボの奥で崩れ落ちている。ホムンクルスがどのような生態かは知らない。ただ、この裸の楽園はやがてその機能を失い、海へと溶けていくのだろう。人類最悪の薬剤と共に。
鬱屈とした地下研究所から外に出ると、空がひときわ明るく感じられる。そこで、歩は言った。三日後に船が迎えに来るはずだから、それまで各々適当に待っていてほしいと。何しろ、ここは全裸でも生活に困らないように生活環境が整えられている。メンバーたちはそれぞれの思いを抱え、島のどこかへ散っていった。
楓は――もっと、知りたい。TRKというユニットのことを――それで、彼女たちを追うように足を進めかけたが――重要なことを思い出し、足を止めて振り向く。
「三日なんて言わずに、宇宙テクノロジーを使えば一発なんじゃ?」
他の人たちはともかく、楓たちは一瞬でこの地に来ている。それを使えば、船なんて待つ必要はない。
だが――当のカリンは、ラボの入口で立ち尽くしている。申し訳なさそうな笑顔を浮かべながら。
同じように、由伸も楓の隣で妹の違和感に気づいたようだ。皆々が去り、三人だけ残された空の下で、カリンは告げる。
「カリンの地球での役割は、もう終わったから」
「え……?」
突然、別れを告げられ、楓の胸に痛みが走る。
「カリンは本来、地球にいてはいけない存在なんだよ」
楓も薄々気づいていた。けれど――
「そんなことない!」
思わず、楓は叫んでいた。
「カリンは、私にとって、初めての――」
言葉が喉で止まった。親友だと思っていた。付き合いはそんなに長くないけれど、誰よりも長い時間一緒にいた気がする。隣にいてくれた気がする。真っ暗で、何も見えなかった毎日をカリンが変えてくれた。初めて心を開けた相手だと信じていた。
けれど――カリンは少しはにかんで視線をそらす。
「カリンよりも大切な人を、見つけたでしょ?」
そう言って、由伸のほうに視線を向ける。由伸は小さく息を吐き、ほんの少し肩をすくめる。
「キミはキミだ。他人と比べるなんて、野暮ってもんだろ」
「それでも、カリンの分まで支えてあげてほしいな。カリンの大切な、友だちだから」
カリンの声はどこか澄んでいて、風のように優しく、そして儚い。ずっとそばにいてくれると思っていたのに――一緒にステージに立ってくれると信じていたのに――!
だからこそ――いまさらになって、数多の後悔が楓を襲う。初めての友だち――もちろん、共にレッスンを積み、ステージで歌い踊ってきたのは楽しかった。けれど、人生はそれだけではない。もっと話をしたり、一緒にご飯を食べたり――映画を観たり、旅行もしたり――カリンとなら、カラオケも歌の練習以上の楽しみが見いだせたかもしれないのに――!
これまで、楓には金がなかった。踊るだけなら金もかからない。それもあり、楓の人生は踊ることしかできなかった。しかし、いまでは正社員の身分である。貧乏癖は抜けないものの――こんなことなら、もっと一緒に遊んでおけばよかった。
貧しさは人間関係の足枷になる。学生時代の楓に、友人はなかった。そして、成人してからも。面接は拒まれ、配信動画は無視され、あらゆる憤りをダンスに込めて――そんな人生に様々な色を見せてくれたのが、カリンだった。なのに――
カリンの髪が風にふわりと揺れる。その柔らかさは、本当に、いつもの彼女と何も変わらない。
「ふたりとも、仲良くしてね。男と女は違うけれど……わかり合うことに意味があると思うから」
「うん、当たり前でしょう?」
楓は涙をこらえて笑みを返す。泣き顔で友を送り出したくはない。
「競技ストリップ……頑張ってね。楓さんならきっと、その素晴らしさを広められるって信じてるよ」
「ええ、当然。私は、この地球に、ストリップという文化を根付かせてみせるんだから――」
声を震わせながらも、楓は涙を拭って力強く言い切る。
「――カリンも、レッスンを怠るんじゃないわよ……!」
その一言に、カリンはわずかに息を呑み、そして大きくうなずく。その答えが――折れそうな楓の心を支えてくれた。ふたりがどこにいようとも――それが、地球の外まで離れていようとも、共にストリップ・アイドルを続けていくのなら、いつか道の交わる日が来るはずだ。
「――うん!」
顔を上げたカリンの返事と同時に、彼女の身体は光の柱に包まれた。眩しさに思わず目を細めると、その姿はすでにない。空を見上げれば、星見野で見た円盤が、流れ星のように音もなく夜空へと吸い込まれていく。その軌跡は、かすかな光の線となって残っていた。
カリンが――もう、いない――? あっという間のことで、楓には現実味がない。いつだって爆速で返信をくれるカリン――いまだって、スマホさえあれば、数分後にレスが来そうな気がする。朝のレッスンに向かえば、隣で踊ってくれていて、日曜日になれば、出番がなくてもライブハウスまで観に来てくれて――
もしいま、本当にひとりだったら――涙を堪えることができなかったかもしれない。けれど――決して親友の代わりにはなれないけれど、彼もまた、かけがえのない人なのだから。
「……さて、キミの笑顔のため、俺にできることがあれば何でも言ってくれ」
由伸がぽつりとつぶやく。楓は答えを探すように、胸の奥を見つめてみた。何故こんな騒動に巻き込まれてしまったのか――その問いはいまも解けない。それでも。
「ご挨拶……しなくちゃ」
長い間父親と決別していた由伸が、わざわざ元気づけるために自分を故郷である星見野に呼んだのである。そのままにはしておけない。
だが。
「そのための船を待つ三日間……そのすべてを、キミだけのために使わせてもらっていいかな?」
「ひぇっ……!?」
由伸の言葉に、楓は思わずたじろぐ。こんな裸の楽園に、由伸とふたりきり――ではないにしても、実際のところ、そばに誰もいない。胸の鼓動はどんどん速くなり、緊張が全身を締めつけていく。この緊張が三日も続くなんて、とても耐えられない。思わず逃げ出してうずくまりそうになる。が――そんなことをしても、どうにもならない。
『内には、すべての不安を押し留め、外には、ただ踊るだけ』
――まさか、ここでこの言葉を思い出すとは思わなかった。こんな――
けれど。
だからこそ。
「それじゃ、踊りましょうか」
楓は由伸に向けて手を差し出す。やはり、自分にはこれしかないのだと。
「喜んで。俺の姫君のためなら、三日三晩だって付き合おう」
ふたりは姿勢を正し、裸の足先で大地を踏みしめる。呼吸をリズムに変え、しなやかに流れへと身体を委ねて。踊り始めると、不思議と胸を塞いでいた緊張も消えていく。踊っているときだけは、すべてを忘れられる。
その先は、まだ見えない。けれど――この先もずっと踊り続けよう。親友に恥ずかしいところは見せられないから。
そう願いながら――ふたりは突き抜けるような青い空の下で、互いのリズムを抱きしめ合っていた。