湯気が立ちこめる空間に、世界の重力が唐突に仕事を投げ出した。
「うわあああああっ!? ちょ、床どこっ、床——」
次の瞬間、私は見事な弧を描いて湯船にダイブした。派手な水音。高級そうな浴槽の縁が危うく悲鳴を上げる。
(待って、落下のスタート地点は校舎の廊下だったよね? なんでゴールが風呂場?? テレポートは通学路に含まれません!)
「……どなた?」
湯の向こうで、銀鈴みたいな声が落ちる。湯気がほどけ、私は目をぱちくりさせた。そこには、髪を上げ、肩に白い湯気を纏った女の子。見た目は私と同年代。けれど、立っているだけで周囲の空気が正座するタイプだ。
「す、すみません! 私、通学路を歩いてただけで、いや、違う、たぶん、物理が休暇に入——」
「静かにしなさいませ」
指先ひとつで湯気まで止まる勢い。彼女は湯殿の縁に置いた扇をそっととり、閉じて音を立てた。ぱちん。
「ここはグラナート公爵家の浴場。無断侵入は死罪でも文句は言えませんわよ」
「最初の選択肢が重すぎない!?」
湯からずぶ濡れで立ち上がる私。バスタオルは瞬時に誰かの腕から飛来し、ふわりと肩にかかった。
「お怪我はありませんか」
短く、力強い声。見れば、凛々しい女性が控えていた。きびきびとした所作で、私にタオルをもう一枚渡す。
「くら……? クラ……」
「クララでございます。お嬢様、侵入者は非武装。敵意なしと見受けられます」
「侵入者って言い方ァ!」
そこへ、もうひとり。メガネを押し上げる仕草が似合う、冷静そうな女の子が書板を片手に現れた。
「セリーヌです。状況を整理しますと、『学園入学前の不審者が浴場に落下』。で、あなたのお名前は?」
「お、岡田美佳……です。高校一年、十五歳。たぶん、普通」
「普通の定義は不安定ですね。ですが、発話は整然、動作も迅速。取り扱い注意の“普通”と見ました」
「評価が怖い!」
最後に、湯殿の柱の陰から、ふわふわの髪の子が顔を出した。
「ミレイユだよ。えっと……とりあえず、息はしてる。よかったね!」
「最低限の生命確認ありがとう」
そして、湯の前の高貴なる彼女が、静かにこちらを見た。
「改めて伺いますわ。あなた、ここにどうやって?」
「わかれば苦労しないよ! いや、すみません。たぶん、私、歩いてたら床が穴になって……気づいたら飛んでた……」
「穴。床。飛ぶ。なるほど、詩的ですわね」
「詩にしないで!」
彼女はゆるやかに顎を上げる。滴る水音まで支配するような仕草。
「私はエレーナ・グラナート。この家の令嬢にして、王立学園の入学を控えておりますの。あなたの身元、そして落下経路は後ほど調べます。今は——」
扇が再び閉じる。ぱちん。
「名誉挽回の機会を与えます。従僕としてわたくしに仕えなさいませ」
「展開早っ!?」
クララが一歩、前に出た。
「お嬢様、寛大にすぎます。身元不明の者を側仕えにするのは——」
「承知していますわ。でも、まず拾い上げるのが貴族の嗜み。落ちてきた縁は、盤上の駒として扱えばよろしい」
「駒とか言われたよ私!?」
セリーヌが書板にさらさらと記す。
「選択肢を列挙します。一、拘束して衛兵に引き渡す。二、監視下で帰還方法を模索する。三、契約のうえ従僕とする。……お嬢様が三を選んだ理由は?」
「好奇心と、直感。——それと、浴場で出会った仲ですもの」
「最後の理由の説得力!」
ミレイユがぱちぱちと拍手した。
「面白いから賛成! それに、なんかこの子、ツッコミが早い」
「褒められてるのか追い詰められてるのかどっち!?」
私は胸元にバスタオルを巻き直しながら、深呼吸した。逃げ道ゼロ、状況は未知。けれど、目の前の令嬢の瞳は、氷みたいに冷たいのに、どこか楽しそう。悪役令嬢って、たぶんこういう顔するんだ。
(どうする、私。ここで“普通の女子高生”ムーブをキメて泣きそうって言う? いや、泣いたら負けだ。たぶん、負けたら更衣室送り)
「……従僕って、何をすればいいの?」
エレーナは微笑む。
「まずは礼を覚えなさいませ。次に、わたくしの退屈を追放すること」
「後半のハードル高くない?」
「最重要ですわ」
クララがタオルを差し出す。
「衣服をご用意します。サイズは——」
「えっと、多分SとMの間? いや、ここの世界の規格わからないけど」
「では、動きやすい仮仕立てを」
ほどなくして、私は使用人用の黒い服に着替えた。鏡に映る自分は、意外と板についている。髪はクララに手早くまとめてもらい、セリーヌが小声で礼の順序を教えてくれる。
「右から入って、左に下がる。扇子の音が合図です」
「さっきのぱちんが?」
「はい。あれがこの家の“句読点”」
「句読点重いな」
ミレイユがくるくる回りながら、私の周りを一周した。
「うん、ちゃんと従僕っぽい! 可愛いよ!」
「『っぽい』って便利な言葉だよね……」
エレーナは湯から上がり、侍女に髪を拭かせながら言う。
「では、美佳。契約を結びますわ」
「契約書とか、あるの?」
「もちろん。公爵家ですもの」
湯殿から続く小さな控えの間。机の上に整えられた羊皮紙。金の飾りが施されたペン。クララが私の前に一歩進み、短く説明する。
「身の安全はわたくしが保証します。お嬢様の命に背くこと、家の名誉を傷つけること、外部への不当な漏洩は禁じられます。期間は——」
「学園入学が始まり、そして“破滅”の分岐を越えるまで」
エレーナが補う。
「報酬は衣食住、そしてわたくしの庇護。拒否権は、三度。どうなさいます?」
(破滅って言ったね今。分岐ってゲームじゃないんだよ人生は。でも、選ばないのも選択。ここで“はい”って言ったら、きっと大変。でも“いいえ”って言ったら、浴場からスタートした私はどこへ戻ればいいの)
私はペンを持ち、深呼吸した。
「三度の拒否権、先払いで一回使っていい?」
「内容は?」
「下僕とか奴隷とか、そういう呼び方は無し。従僕でお願いします」
エレーナは目を細め、そして小さく頷いた。
「よろしい。従僕、美佳」
「はい、エレーナ様」
ぴたりと、空気が契約に従う。羊皮紙に名前が並ぶ。岡田美佳。その隣に、エレーナ・グラナート。扇が静かな句点を打つ。ぱちん。
「では、初仕事を」
「早い!」
「浴場に穴が開いた理由を、明朝までに推定しなさいませ」
「無茶ぶりが過去最速!」
セリーヌが補足する。
「発生時刻、あなたの行動、落下角度、湯面の飛沫。情報は多いほど良い。図示できるなら図示を」
「理系の文化祭みたいな指示!」
クララは眉ひとつ動かさず言う。
「安全確保のため、今夜は屋敷の客間で休んでください。巡回を増やします」
「優しいけど物騒!」
ミレイユがほほえむ。
「ねえねえ、わたし、お茶いれる! こういうときは甘いのが一番だよ」
「天使がいた。ここに天使がいた」
控えの間に香り高い湯気が満ちる。銀のトレイ、揺れるカップ。エレーナは椅子に腰をおろし、脚を組んで私を見上げた。
「従僕」
「はい」
「あなたの世界の常識は、こちらではしばしば非常識ですわ。けれど、非常識は武器にもなる。——使い方を、わたくしが教えます」
「先生も兼任なんだ」
「退屈の回避は全員参加制ですもの」
私はカップを持ち上げ、一口すすった。甘い。未知の甘さなのに、舌が“安心していいよ”って言う。
(決まった。やるしかない。どうせ元の世界でも、テストと委員会と宿題の三連コンボで忙しかったんだ。場所が貴族の屋敷になっただけ。うん、だけって言うには重いけど)
「エレーナ様」
「なにかしら」
「明朝までに“だいたいそれっぽい理由”をご用意します」
「だいたい、ではなく“それっぽい”だけにならないように」
「語尾で強くなるタイプの注意!」
エレーナは少しだけ笑い、扇で口元を隠した。
「よろしい。では、従僕」
「はい」
「姿勢を正しなさいませ」
「はい」
「わたくしの従僕になったからには——」
扇が、三度目の句点を打つ。ぱちん。
「この家で一番、面白い人になりなさい」
「職務内容が新規職種なんだよなあ!」
笑いが、部屋の温度を一度、上げた。
その夜。客間の柔らかなベッドに沈みながら、私は目を閉じる。
(浴場に落ちて、主従契約して、明日までに原因究明。うん、サイコロ振ったら全部六が出た感じ)
けれど、不思議と嫌じゃない。胸の奥に、小さな火が灯っている。
(悪役令嬢って、もっと怖いと思ってたけど)
思い出すのは、扇の音と、楽しそうな瞳。
(たぶん——退屈しない)
そうして、私の「従僕としての一日目」は、湯気の余熱を残したまま、静かに幕を引いた。
◇
朝の陽光を浴びて、豪奢な馬車が石畳を走る。揺れる天蓋、きらめく金の飾り。まさに「貴族の入学初日」って感じだ。けれど、その中身はというと——。
「ほんとに私、隠さなくていいの? こういうのって“こっそり従僕設定”が基本じゃない?」
私は馬車の片隅で、窓の外をちらちら気にしながら言った。だって、通行人がめっちゃ見てる。指差してる。口パクで「誰あれ」って言ってる。怖い。
「むしろ隠さないことが肝要ですわ」
エレーナは隣で扇を軽く振り、いつもの凛とした顔。笑ってはいないのに、全力で「自分の台本を知っている」顔をしている。ずるい。
「正々堂々。これが最も噂を操りやすい形。クララ」
「はい。堂々とお嬢様の傍らに立たせることで、いかなる憶測も“前提”に帰します」
「つまり、“私が従僕である”という事実を先に固定化するってこと?」
「その通りです、美佳」
セレーヌが書板にさらさらと記しながら頷く。真面目な顔だが、口調は淡々としている。
「ただし今後、王子殿下や他の令嬢がどう受け止めるかは未知数です。その点は注視を」
「注視……つまりまた私がネタ要員にされる未来が見えるんだけど」
ミレイユがひょこっと顔を出し、明るい声を重ねた。
「でも、美佳ちゃんって“なんか目立っちゃうキャラ”だし、もう諦めたほうが楽だよ!」
「そんなキャラ付けされても困る!」
馬車は学園の門前に到着する。石造りの門塔、広大な庭園、集まる視線。ざわ……ざわ……と人波が揺れる。おそらく、他の新入生やその従者たちだ。
「きた……大観衆。胃が……」
「美佳、背筋」
エレーナの一言に、私は条件反射でぴしっと背筋を伸ばす。足元の震えが余計に目立つ気がするけど、仕方ない。
「降りなさい。今が演出の舞台です」
クララがドアを開け、真っ先に地面へ降り立つ。その動作は軍人みたいにキビキビしていて、観客の視線をさらっていく。次にエレーナ。裾を揺らして馬車から降り立つと、ざわめきが一段階大きくなった。
「う、美しい……」「さすがグラナート令嬢……」といった声が飛ぶ。扇がぱちんと鳴ると、全員が一瞬息を呑んだようだった。さすが、句読点。
「美佳」
呼ばれた私は、足をもつれさせながらも飛び降りる。従僕用の黒服が風に揺れ、タオル時代よりはるかにマシだけど、視線が突き刺さる。
「え、誰? 新キャラ?」「グラナート令嬢の……?」「まさか従僕?」
ざわめきが奔流となって広がる。噂の火花があちこちで散っているのがわかる。私の胃はさらにキリキリ。
「完璧ですわ」
エレーナは微笑み、誇らしげに歩み出した。その横に並ぶよう指で示され、私は慌てて追う。
「ちょ、横並び!? 普通、従僕って後ろとか横のちょっと離れたとことかじゃ——」
「目立たせるために並べているのですわ。見なさい、美佳。群衆のざわめきが、すでに“事実”を飲み込んでいる」
「事実っていうか、噂が固定化されてるっていうか……」
セレーヌが冷静に分析を補う。
「人々の思考は、空白を嫌います。先に“こうだ”と枠を与えれば、それを前提に噂が広がる。詮索は牽制されます」
「そんな心理戦を入学初日から……」
「戦は先手必勝ですわ」
クララが後方から護衛のように歩きつつ、低く告げた。
「我らの行動は記憶されました。正々堂々と歩んだ記録は、後日の武器となります」
「やっぱ戦なのこれ!?」
私は周囲のざわめきに耐えながら、必死に足を動かす。けれど、ふと横を見ると、エレーナは微笑みを浮かべていた。誇りと静けさが混ざった、不思議な顔。まるで、自分の舞台を完全に支配しているみたいに。
(……強いな、この人。いや、強すぎるな)
——と、そのときだった。人混みの奥から、もう一台の馬車が到着する音が響いた。群衆が自然と道を割り、視線が一方向へ集まる。
扉が開き、そこから降り立ったのは、一人の少女。陽光を受けて金の髪がきらめき、澄んだ瞳が真っ直ぐに前を見据えている。歩くだけで空気が張りつめ、周囲のざわめきが期待に変わる。
(あの人……絶対ただ者じゃない)
彼女は一礼し、静かな声で門衛に言葉を交わした。その凛とした立ち居振る舞いに、群衆はさらにざわめきを広げる。
「……グラナート令嬢」
少女の瞳がエレーナを射抜いた。挑発ではなく、真っ直ぐに。互いの立場を知っているかのように、空気が一瞬張り詰める。
エレーナは扇を軽く振り、涼やかに応じた。
「ごきげんよう」
名前はまだ誰も呼ばない。けれど、この瞬間に“ライバル”の存在感が、誰の目にも焼き付いた。