夕暮れの鐘が三度鳴って、学園は一気に色温度を落とした。窓の外は薄紫、部屋の中はランプ色。私は机の引き出しを開けて、黒い板をそっと取り出す。
「……残量、三パーセント」
心臓がキュッとなる。スマホの右上、赤いゲージがもはや赤信号。省エネモード、オン。画面の光がしょんぼりする。
「その黒い板、また命を食べていますの?」
扉の向こうからエレーナ。面白いものを見つけた猫の目。やめて、観察対象にしないで。
「命じゃなくて電池。寿命って言うと不意にリアルだけど、要するに充電がピンチ」
「充電、ね……」
扇が小さく上下する。お嬢様は考えるとき、空気に句読点を打つ。貴族の脳内も整っているらしい。
「もう、どうしたらいいんですか……! 残量ゼロになったら文明終了ですよ……!」
私は机に突っ伏して泣きついた。お嬢様の靴先にすがる勢い。必死。いやガチで必死。
「ならば——魔力を電気と似た形に変換すれば良いのですわ」
「……はい?」
「研究所に“魔導変換器”があります。魔力を熱や光に変える実験機材ですが、理論上は“電気”とやらにも近づけられるはず」
「えっ、応用まで!? お嬢様マジ天才か!」
「クララ、至急取り寄せを」
「承知しました」
クララが気配だけで姿を現し、次の瞬間には消えた。護衛なのに使い走りも即対応。すごい万能。
「ちょ、え、今もう発注したんですか!? 決定早すぎる!」
「従僕の文明維持は、主の務めですもの」
翌日、案の定、寮の玄関に重い箱が置かれていた。伝票は読めない異世界フォント、なのに宛名だけは堂々と『グラナート公爵令嬢エレーナ様』。支払いは完全にお嬢様名義。私は胃薬を常備しました。
「これが“魔導変換器”です。魔力を他の形に変換する研究機材。調整すれば、あなたの黒い板にも通じるはず」
「そんなさらっと言います!? こっちは文明の生死かかってるんですけど!」
箱の表面には、回転するダイヤル、針のついたメーター、見慣れない記号。そして唯一見慣れた——通電スイッチ。カチッと指が喜ぶ感触。
「設置は簡単。空気の魔力を吸って、このケーブルから“電気”に近い力が出る。繋ぎなさい」
私は延長コードを机の裏に這わせ、スマホの充電器に接続する。祈る。世界が一瞬、息を呑む。
ピロン。
小さな音が部屋の空気を破った。画面右上、赤がオレンジに。オレンジが黄色に。ゲージが、戻る。戻る。戻る!
「……きた!」
「ふふ。良い音」
エレーナは口元を扇で隠し、その上で目だけ笑った。勝利の目。なぜ他人のスマホの充電で勝利感を得られるのか。貴族の趣味は奥が深い。
「これで安定運用できます。昨夜は残量が心もとないままドローン飛ばして、心拍数がグラフの上限まで行ったから」
「その“どろーん”とやら、なかなか役立ちましたわ。記録は保全済み?」
「二重バックアップ。あと、端末内に暗号化して保存。鍵は私しか知らない」
「よろしい」
お嬢様の一言で、空気が一段締まる。私はケーブルをまとめ、変換器の音を聞いた。低い唸り。針がゆっくり揺れて、やがて安定した位置に落ち着く。
「問題は——目撃者です」
セレーヌが静かに現れ、書板を持って言った。いつ来たのこの人。扉、音した?
「寮の搬入時、使用人が『見慣れぬ箱が令嬢の私室へ』と囁いていました。噂の速度は速い。すでに“怪しい機材”や“禁呪の道具”とまで囁かれています」
「禁呪って! ただの充電器ですけど!?」
「対策は簡単」
エレーナが扇をたたむ。ぱちん。句点。
「“学術研究用の実験機材”と伝えなさい。王立学園で学ぶ以上、珍しい箱の一つや二つ、あって当然」
「いや、当然って言い切る圧がすごい」
「外形を布で覆い、飾り紋章を一つ。クララに頼みましょう」
「承知しました」
気配だけで現れるクララ。忍者? 護衛のくせに存在感を自由に調節できるのずるい。
「覆い布は耐熱、耐塵。紋章は控えめに。警備の巡回ルートも変更します」
「頼もしすぎる」
「従僕が安心できるのは、護衛のおかげですから」
私は画面のゲージが少しずつ伸びていくのを眺める。黄色。あと十分で緑。たったそれだけのことが、母港に帰った艦隊みたいな安心をくれる。
「ひとまず、秘密は守られます。ですが」
セレーヌが視線を上げる。
「秘密は武器。武器は磨かれるほど狙われる。気を引き締めて」
「了解。パスコード、指紋、顔認証、全部オン。あと、通知は全部サイレント」
「通知?」
「扉の外で『ピロン!』とか鳴ったら終わり」
「確かに。舞台裏で太鼓が鳴るのは喜劇だけでいいわ」
ミレイユがひょこっと顔を出して、手を振った。
「ねえねえ、これ触ってもいい?」
「だめ。これは文明の命綱」
「命綱、わかりやすい」
彼女は残念そうに手を引っ込め、代わりに袋を差し出した。飴。昨夜ばら撒いていたやつの余りだ。
「糖分、大事」
「最高に大事」
飴の甘さと、充電のゲージ。二つの黄色が同時に私を救う。単純? そう単純。命は案外、単純なものに支えられる。
「それで、美佳」
エレーナが椅子にもたれ、視線だけこちらに投げる。
「“それ”でできることを、もう一度整理してくれる?」
「了解。写真、動画、録音。計算、地図、時間管理。アプリで学園の地図を作って、噂の出所に印をつけていける。昨夜の映像はすでにタグ付け。風紀委員の酒瓶は『葡萄』タグで、王子側の裏口は『商人』タグ」
「葡萄、商人。分かりやすくてよろしい」
「あと、翻訳アプリ。看板や古文書の読み取りに使える。ただ、電波——じゃなくて、学園の謎ネットが機嫌を損ねると使えない」
「その“ねっと”とやらが不機嫌になる理由は?」
「知らない。知らないけど、急に拗ねる。猫か」
「猫なら仲良くなれる気がします!」
ミレイユが元気よく手を挙げる。いや、ネットに飴は効かない。
「最後に、通販」
私は小さく咳払いした。
「次は、予備バッテリーと、予備ケーブルと、ノイズキャンセリングの……」
「許可します」
早い。お嬢様、判断が早すぎる。
「ただし、また勝手にわたくし名義で請求されるのでしょう?」
「その、はい……申し訳……」
「面白いから良いわ」
ニコッ。この笑顔、国税が支払える。私は深々と頭を下げた。文明は胃薬と寛大さで回っている。
「さて、運用ルールを」
セレーヌが書板に箇条書きする。規則の匂い。嫌いじゃない。
「一、充電は夜間に。二、持ち歩きはポケット一つ分。三、画面の光は布で隠す。四、扉の前ではサイレントモード確認。五、データは毎晩バックアップ」
「六、飴は常備」
「それ規則?」
「心の規則」
笑いが漏れる。変換器は静かに唸り、針は緑の帯で落ち着いている。スマホのゲージも、ついに緑。
「——これで、あの夜の“種”を育てられる」
エレーナの声が静かに落ちる。
「芽吹くまで、丁寧に。刈り取りの時期は、こちらが決める」
「はい、エレーナ様」
私は画面をロックし、ポケットに戻した。手の中に、文明の体温。胸の中に、ちょっとした背徳感。そして、わくわく。
(秘密は、守ってこそ効く。……飴と同じ。包み紙を剥がすのは、タイミングだ)
夜の外気が窓を叩き、遠くで鐘が一つ。針の音、ランプの明かり、飴の甘さ、そして緑のゲージ。大事なものは今、ここに全部そろっている。
私はベッド脇の変換器に布をかけ、紋章を留めた。貴族の部屋に、また一つ“研究”が増えた顔をして、静かに微笑む。
「従僕」
「はい」
「眠りなさい。明日は、噂の芽を数える日」
「数え歌は苦手だけど、がんばる」
「合いの手はわたくしが入れるわ」
扇が、句点を打つ。ぱちん。
緑のゲージは、安心の色。私は胸の中も緑にして、目を閉じた。
◇
昼の鐘が二度鳴った。光は高く、回廊の白い石は正直にまぶしい。柱の影は薄く伸び、靴音は磨かれた床の上で粒になって弾む。ここは舞台だ。観客は制服を着た全員。台本はないけど、主役はだいたい決まっている。
「本日は――ほどほどに糸を張ります!」
「……誰の台詞を盗んでいますの?」
「いやいや! 昨日あれだけ大騒ぎした私が、今日は慎重モードだってアピールですよ!」
「昨日、机に突っ伏して『文明が終わる!』と泣き喚いていた従僕が、よく言えますこと」
「だからあれは電池切れ寸前だったから! ほんとに人類滅亡レベルの危機だったんです!」
「文明の寿命が黒い板一枚にかかっているなんて、滑稽ですこと」
「滑稽でいいから大事なんです!」
私の声が石壁で跳ね返って、周りの囁きをちょっとだけ強くする。「また従僕」「見慣れない子」――ふわふわした糸が天井へ泳いでいく。糸は目に見えないけど、確かに頬に触れた。痒い。けど気持ちいい。噂ってそういう触感をしているのだと、最近わかってしまった。
最初の糸は王子陣営。踊り場の陽光に縁取られた取り巻きが、こちらをレンズみたいな目で測る。距離、温度、威光、全部をスキャンして「今は挨拶だけ」の結論を出す、あの顔だ。
「殿下へ伝えてくださる? 寄贈目録、未整理分がございましたの」
「……伝えておく」
水温はぬるい。でも、ぬるい水は長く触れられる。こちらは指先だけ浸して、笑顔で去る。近づかず、でも届く。今日の名言メモりたい。あっスマホ出しちゃダメ。ダメダメ。昨日の文明騒ぎを、私自ら再演するところだった。
二本目の糸は生徒会。扉は半開き、机の上は整然、その真ん中に規則を人型にしたみたいな会長。冷たい光が眼鏡に薄く乗って、表情の温度を隠している。
「教室間の備品移動が滞っておりますわ」
「庶務に指示済みだ。君は知らせただけ、だね?」
「はい。線は踏み越えませんの」
「ならば結構」
眼鏡の下で、ほんの一滴だけ「助かった」が揺れた。規則の人が見せる感情は貴重だ。採集して標本にしたい。いや、倫理的にダメ。けど標本箱に入れたい。いや、ダメ。
三本目の糸は風紀委員。詰所の前に転がった小瓶は、今日のニュースの見出しになるには軽すぎる。でも、噂の見出しには十分だ。
「廊下に空き瓶が落ちていましたので」
「……ありがとう。以後、注意する」
「学園は清廉であるほど、美しく映えますもの」
回廊の空気がほんの少しだけ凛とし、柱の影が深くなる。決め台詞は光の角度まで決めるから怖い。背後でクララが小さく感嘆し、セレーヌが「露出の曲線」を呟き、ミレイユが「供給最高!」と親指を立てた。界隈って何。知らないうちにファンダムができている。こわ。いや、ありがたい。
午前の糸張りはここまで。私は内心で拍子木を鳴らして幕を半分だけ下ろす。舞台替えの音がしないのが、貴族の学園の良いところだ。セットは静かに移動し、午後の色温度がゆっくりと乗ってくる。
◇
庭園は、昼と午後のあいだを長く引き伸ばして保存している。白いクロスの丸卓、磨かれたティーセット、薔薇は三色。赤は濃く、白は冷たく、黄は蜂蜜みたいに陽を溜め込んでいる。刈り込まれた生垣は、会話が外にこぼれないように、緑の壁として立っている。
銀のポットの口から、細い糸のような湯が落ちる。紅茶は光をすくって金に変わり、カップの白を底から染めていく。湯気は薔薇の香りを拾って、卓上に甘い層を作った。風が来るたび、その層は薄くたわみ、すぐに元の厚みに戻る。匂いにも復元力があるのだと知る。今日の気づき、三つ目。誰にも言わないけど。
「ご招待ありがとうございます。失礼のないように……」
「失礼があれば指摘しますわ。安心なさい」
安心の意味が独自翻訳されている。指摘されて安心できる人間は多くない。けれどこの人の「指摘」は、道に敷く白い線に近い。はみ出したら注意されるけど、その線があるから、走れる。私は心の中でだけ頷いて、砂糖壺の蓋をそっと戻した。
「将来、何を望みまして?」
扇の骨が一枚鳴って、空気に句読点が打たれる。問の終止符。向かいの少女は、結ばれかけた返事を舌の上に乗せて、ひと呼吸置いた。置かれた呼吸が、カップの湯気を少し揺らす。指先がカップの耳をつまんで、ほんの少し強く握る。爪が白くなる。
「……庶民でも、貴族と並べる場所があると証明したい」
声は震えの粒を含んでいるのに、芯はまっすぐだ。薔薇の茎みたい。棘も、真っすぐ。私は目でその棘を数えてしまう。三つ。いや四つめが今、生えた。見えないのに、なぜかわかった。こういうとき、私の勘は当たる。たぶん、胃薬の消費量と交換条件で。
「笑われても、見下されても、努力で認めさせたい」
庭の光がすこし柔らいで、白いクロスの皺がたなびく。砂糖の角が、カップの縁にぶつかって、ちいさな音を立てた。私の心臓も、同じ音を立てる。やめろ。音響担当じゃない。
「努力なさるのね」
「努力しかしりません」
「努力だけで足りる場面と、足りない場面がございますわ」
空気の温度が、半度下がった。真昼の庭が、ほんのすこしだけ、夕方の顔を覗かせる。クララは息を吸って止め、ミレイユは指を組んで小さく祈り、セレーヌは記録のために瞬きの間隔を一定にする。私は――「胃が痛い」を三回飲み込む。飲み込むたび、紅茶が熱くなる。錯覚だ。たぶん。
「差は差。ただし距離は縮められる」
「どうやって」
「掴む相手を間違えないこと。順序を誤らないこと」
薔薇の影が、クロスの上で三角に尖る。雲がひとつ流れて、陽の角度がずれる。影は別の場所へ移動する。焦る影、落ち着く光。庭は忙しい。私の内臓も忙しい。
「最初の一歩は笑われるほど小さくてよろしい」
「小さすぎません?」
「真似される仕組みを先に作った者が、次を選べますわ」
砂糖の角が湯の中で崩れ、溶けた甘さが底からゆっくり上がってくる。上がる速度は、発言の重さに比例する。今は重い。だから、遅い。私はスプーンで一回だけ混ぜる。金の表面に細い渦が立ち上がり、すぐ消えた。緊張は渦を嫌う。わかったから、もう混ぜない。
「あなた、私をからかってますか?」
ジュリアーナは、質問をひとつ選ぶのに三つの沈黙を使った。最初の沈黙は息。二つ目は迷い。三つ目は決意。沈黙は石だ。積み上げて段差にすれば、相手の目線の高さに立てる。彼女は今、積み上げている。
「退屈が嫌いなだけ。からかう暇があれば導きますわ」
風が少し強くなる。薔薇の葉裏が見えて、緑が一瞬だけ銀に変わる。庭の音が全部遠ざかって、近いのはカップの中で跳ねる小さな泡だけになった。世界はときどき、台詞のために音量を絞る。演出家は誰だ。多分、扇。
ジュリアーナは、一拍置いて、口角を少しだけ上げた。その笑い方は、笑いというより、合図だった。私はその合図を見たことがある。勝負の途中で、次の手を分かち合うときの目だ。
「なら……あなたの言語に、私の努力を翻訳してみせます」
翻訳。いい言葉。翻訳は、相手の脳に橋を架ける仕事だ。板は細く、釘は少ない。風で揺れる。でも、渡れる。私の心のどこかが、嬉しさで跳ねた。スマホに書きたい。いや我慢。変換器は夜に回す。昼の文明は布で隠す。
「上等」
その二音が落ちた瞬間、庭の色が一段濃くなった。薔薇の赤は深まり、白は青を増し、黄は蜂蜜から琥珀へ変わっていく。光の温度まで会話の余韻に影響される。ほんとこの学園、舞台装置が過剰だ。ありがとう、過剰。今だけは感謝しておく。
――カチリ。
実際に、何かが噛み合う音がした気がした。茶器ではない。扇でもない。多分、認識。多分、未来の歯車。今、この場でひとつだけ噛んだ歯は、あとで遠くの車輪を回す。そんな予感が、飲み込んだ紅茶よりも熱く喉を通り過ぎた。
庭の端で、クララが胸に手を当てる気配がする。ミレイユは目を潤ませ、セレーヌは書板の端に短く線を引く。私は指先に残った砂糖の粉をそっと払った。甘さは、少しだけ残すのが上品。今日学んだこと、四つ目。
◇
「まるで姉妹みたいでした!」
「姉妹は時に敵対するものです」
「でも砂糖を分け合ってたから仲良しだよ!」
評価は三者三様。庭の風鈴みたいに音が重なって、やがて薄くなっていく。卓の上には、空になったカップと、半分だけ減った角砂糖。半分減るのがちょうどいい。全部は減らない。残す余白が、次を呼ぶ。
『雛鳥、翻訳の素養あり』
日記には短くそう記される。私の内心には、余計な注釈が溢れる。雛鳥=ライバルフラグ。雛鳥=胃痛の気配。雛鳥=多分、将来の片翼。書きたい。全部書きたい。でも書かない。こういう日は、言葉を節約する。節約した言葉は、明日の切り札になる。たぶん。
◇
夜。窓の外は濃い紺。学園の灯りは遠くに並んで、虫の目のように瞬く。机の上には紙片が整列している。寄贈目録の欠番は右上、瓶の刻印は左下、備品の不整合は中央の列。スマホは布の下、変換器は低い唸りで緑の針を守っている。文明は寝かせると優しくなる。人間と同じ。多分。
「王子陣営は距離測り中。生徒会は助かった顔。風紀は弱点を隠したい。ジュリアーナは努力を翻訳する気になった。以上」
「よろしい。盤面は美しいですわ」
扇がぱちん、と句点を打つ。句点の音が、今日の締めの太鼓になる。私は椅子の背にもたれて、肺の奥から長い息を引き出した。長い息は、胃の痛みを一時的にだましてくれる。気のせいでもいい。効いてる気がするから、効いてる。
「雛鳥呼び、怒られません?」
「怒ってもらわねば困りますわ。飛ぶ意思のない鳥ほど、退屈ですもの」
はい出た。今日の名言、五つ目。ノート欲しい。いや、スマホ。いや、夜は布。文明は寝かせる。私も寝かせる。胃も寝かせる。頼む、寝て。明日はきっと、今日より痛いから。
寝台に横たわると、布の天蓋が、昼に張った糸の数だけ重く見える。重みは嫌いじゃない。張ったぶんだけ、朝の収穫がある。目を閉じる直前、遠くから鐘がひとつ。数え歌の最初の音。噂の芽を数える日が来る。合いの手は任せて、って昼に言われた。任せます。甘える気満々です。甘さは少しだけ残すのが上品――学んだでしょ、今日。
緑の針は、安心の色で止まっている。胸の中の針も、今日は珍しく同じ位置で止まった。珍しいから、たぶん明日は暴れる。いいよ。暴れても。私には布と飴と、名言を吐くお嬢様がいる。文明は、胃薬と寛大さで回っている。たぶん、それで世界は十分に保つ。
そして、次の一歩は小さいほど眩しい。
小さいほど、誰でも真似できる。
真似されるほど、次の一歩を選べる。
……ほら、もう眩しい。目を閉じても、まぶたの裏で金色の渦がゆっくり回っている。紅茶の色だ。今日の午後の色。あの「カチリ」の音色。全部を抱えたまま、私は眠りに落ちた。明日の胃痛は、明日の私が飲み込む。今夜はただ、退屈じゃないことに、静かに感謝しておく。