銀河英雄伝説 ヤン艦隊日誌追補編 未来へのリンク 作:白詰草
Heads or Tails?
帝国軍が来襲し、ヤン司令官はイゼルローン要塞からの退避を決定した。計二百万人のヤン艦隊と要塞防御部、そして三百万人の民間人の輸送だった。
十年前、司令官が中尉であったときの、エル・ファシルの脱出行に比べれば、有能な味方は数多く、同盟軍最強の軍隊が同行している。士官学校卒から二年目にでもできたことだ。貴官らならもっと楽にできるさ。そう言ってキャゼルヌ要塞事務監は部下らを激励し、『箱舟作戦』は開幕した。ただし、当のご本人が発言内容に懐疑的な様子であったので、部下らは感動するどころではなかった。
「そんなわけないでしょう」
小声で毒づいたのは、アッシュブロンドの女性少佐だった。
「要塞の内部勤務者が五十万人以上もいるのに。
普段は船乗りじゃない人間を入れると同数以上よ。
なのに輸送船はかき集めて千五百隻。二千人ずつ詰め込んでも、各八十人は運用人員が要る。
十万人分は席が足りない、だから民間人を戦艦に同乗させるなんて、正気の沙汰じゃないわ。
病院船のマークに
各部門への連絡役を担っている赤毛のブライス中尉は、普段よりもハスキーになった声で返答した。
「はい、現在補修に入っている戦艦から、順次表示塗装を行えるとの回答がありました。
何隻塗装を行えばいいかとのことです」
「そんなの、そっちで割り算しろと言っておやりなさい。
民間人十万人を、戦艦に搭乗させられる上限で!」
ドックからの返答を聞いた瞬間、素早く回線をオープンにしたので、中性的な金髪碧眼の美人の
「とのことです。そちらで適宜対処してください」
そして、有無を言わさず通信を切る。次の連絡が待っているのだから。
「こんなことなら、シェーンコップ少将がロイエンタール提督を
殺ってきてくれればよかったのに。ちょっと勿体ない美男子だったけれど。
アッシュフォード少佐、メディカルスタッフの配分の素案になります。
当然ですが、均等配置にはとても足りません。
傷病者と妊産婦、未就学児を含んだ家族を選別し、そちらに集中配置します」
黒髪黒目のチャベス大尉が、情人の働きぶりに苦情を言いつつ、リストを提出する。
「産婦と乳幼児、未就学児のリストアップは住民記録から完了済みです」
「そう、ありがとう。子ども達をまとめるのなら、本当はワクチンを投与しておきたいところね。
一応冬だし、インフルエンザぐらいは」
育児休業から復帰したばかりの先輩の指摘に、彼女は自分のブロンズの額にぴしゃりと手をやった。
「ああ、思いつかなかったわ。どうしようかしら」
赤葡萄酒色の頭部を傾げたブライスが質問した。
「あの、一週間以内にワクチンを投与できたとしますよね。
免疫ができるのに、どのくらいかかりますか?」
衛生兵の資格を持つ、チャベスは短く返答する。
「二週間」
それを聞いてアッシュフォードは考え込んだ。
「言い出しっぺの癖に申し訳ないけれど、やっぱり諦めましょう。
脱出の決行予定と避難先までの日程を考えると、道中では免疫が完成しない。
投与しないよりはましだけど、この労力は他に割くべきね。
感染症の簡易検査キットと治療薬を充分に補給するようにして。消毒液の類もね」
「了解しました。病院管理部門で在庫のチェックと発注に入ります」
敬礼してチャベスは踵を返した。長身でくっきりとした情熱的な美貌の彼女にも、疲労の色が濃い。まして、やや小柄でほっそりとしたブライスの方は、乳白色の頬に紫がかった隈が浮いている。なまじ、色白なだけに化粧でも隠しきれない状態で、瀕死の妖精といった状態が痛ましい。
だが、今は休むわけにも倒れるわけにもいかない。彼女たちよりも上位者は、第9次イゼルローン攻防戦の補給兵站に追われている。最上位者たる要塞司令官兼駐留艦隊司令官のヤン・ウェンリー大将は、この一月余り難局に立ち向かっていた。
帝国の双璧の一方である、オスカー・フォン・ロイエンタール上級大将。知勇の均衡が、最高水準にある名将だ。グエン少将が戦死し、客員提督メルカッツ中将を欠いた状態での艦隊戦。しかも、相手は三個艦隊で、こちらは一個艦隊だ。イゼルローン要塞という援護はあるにしろ、さすがは双璧、切札である
戦いは膠着状態に入り、ロイエンタール提督はローエングラム公へ援軍の派遣を要請した。援軍を送った先は、イゼルローンではなかった。もう一方の回廊のある惑星フェザーンを経由して、同盟領内に侵攻を開始した。
こうなっては、イゼルローンの戦略的価値は著しく下がる。砂時計のくびれの栓は、砂時計が縦に置かれていればこそだ。他の穴から砂が入り、横向きに置かれては意味がないのである。このため、ヤンはイゼルローンからの退避を決定した。その先輩であるキャゼルヌ事務監の指揮の下、五百万人が退避する『箱舟作戦』が開始された。命名はキャゼルヌ少将。補給と事務の達人は、毒舌の弁ほどにはネーミングセンスがないようだった。
それは、要塞管理事務部門の苦闘の開幕でもあった。あちらに指示、そちらには物品の発注、はたまたこちらはその回答待ち。他にも兵士や下士官が、総出で当っている。多くが現場へと出向き、さまざまな準備に取り掛かっているところだ。
「まったく、ヤン提督はあの時どうやって乗り切ったのかしら。
こっちは要塞のおかげで物資も揃うし、軍人の家族相手だからお互いに割り切れる。
よっぽど、兵士や下士官をうまく使いこなしたのね」
アッシュフォードは目頭を揉みながら慨嘆した。青空を思わせる瞳の、雲の部分が夕焼けに染まっている。後輩の若き中尉の目は、
「ぜひ、極意を教えていただきたいわ。そんなお時間なんてないでしょうけど」
ブライスのほうは、力ない笑いをこぼした。
「同じ中尉の小官にやれと言われても無理ですからね」
「そんなの昇進後の階級の私だって同じ。やっぱり、あの人どこか違うわ。
部下にうまいこと指示してとりまとめるって、自分でやるより大変なのにね。
道理でグリーンヒル大尉だって惚れるはずよ」
「ええ、テレビによく登場なさっていましたものね。
ちょっと軍人ぽくなくって、可愛いってファンレターを送った同級生もいましたよ」
彼女は、話題にのぼった大尉の一歳下である。エル・ファシルの英雄は、老若男女に熱狂的に受け入れられたものだった。
「いえいえ、違うのよ。彼女、あの時にエル・ファシルにいたんですって。
その時に、サンドイッチとコーヒーを差し入れしたら、
コーヒーは嫌いだから紅茶の方がいいと言われたそうよ。
そこで惚れて、ここまで追っかけてきたみたい」
充血した灰色の眼と、
「ああ、なるほど、それでようやくわかりました。
学校時代、グリーンヒル大尉は物凄くもてたんですよ。あんなに美人だし、成績は次席だし」
そして、父親は軍の高官であったし。これは言わずと知れたことだった。もう口にはできないことになってしまったが。
「そりゃ、そうでしょうね。私が男なら駄目もとで誘いをかけるわよ」
「でも、決して
好きな人がいるからって、誰からの誘いも一刀両断でした。
皆、誰だろうと思っていましたけど、ヤン提督がそうだったんですね」
二人は顔を見合わせた。
「凄いわ」
「ええ、もう天晴れと言うしかありません」
「あらあら、何が凄いんですって?」
そこに戻ってきたチャベスが、先輩と後輩の言葉に反応した。
「グリーンヒル大尉の純情のことよ」
アッシュフォードの言葉に、恋多き黒髪の美女は鼻を鳴らした。
「純情は結構ですけど、もう焦れったくてたまらないですよ。
そんなに好きならさっさとモノにしちゃえばいいのに。
なんでいつまでも暢気に散歩してたのかしら。
はっきりと、シーツの海に二人でダイブしろと言ってやればよかった」
腕組みをして言う健康診断の担当者に、もう一人の独身者は頬を赤らめた。
「ええと、それはちょっと……」
「それとも、二人で励む夜のエクササイズのほうが品がよかったかなあ」
「あの、そっちはもっと」
「だめだめ、あなたね、それを事務監の前で言えるわけ?
ドーソン大将のところへ異動になっても知らないわよ」
嫁入り前の娘が言い出しかねているので、既婚者がばっさりと駄目出しをした。
「あ、それは困ります。前言撤回ということで」
チャベスは、慌てて体の前で両方の手を振り、お断りの仕草をした。
「それに、世の中あなたとあの二人の彼氏みたいなケダモノばっかりじゃないのよ。
彼女はお嬢様だし、彼は紳士なんだから」
だが恋のハンター、黒き牝豹はなおも不服そうであった。
「あの美少年がフェザーンに行って、ようやく本当の独身に戻ったのに。
その後に一月あったのに、何をやってんのかしら、あの
「彼女にしてみたら、ここまで十年も費やしているんだから。
そんな短兵急な真似、できるわけもないでしょう。二人とも立場が立場だしね。
あのオッドアイの美男子は、帝国の双璧だそうだけれど、
うちの司令官は同盟の至宝よ。悲しいことにね」
二人の後輩は無言になった。十年前がなりたての中尉で、今は大将。常識外れもいいところ、単純計算で一年で一階級昇進していることになる。彼の同期の多くは、まだ少佐か中佐だ。果たして、その何割が生存していることだろうか。アムリッツァの会戦の傷は、致命傷の一歩手前であったが、その後の救国軍事会議によるクーデターが決定打だった。同盟軍は、もはや死に体と言っていい。
「ですが、そろそろグリーンヒル大尉も我慢の限界じゃないでしょうか。
もしものことを思えば、告白ぐらいはしておかないと。
好きですと伝えるぐらい、罰は当らないと思うんです」
こちらは何と可憐な言葉であろうか。
「ふうん、じゃあ私と賭けない?
あんたはグリーンヒル大尉からの告白。私もそっちに賭けるわ」
要するに私にも一口噛めということなんでしょうね。ヤン提督からの告白の方に。やはり、容姿と性格は密接な関係にあるのかしら。そんなことを思いつつ、アッシュフォードは、牝豹と妖精を交互に見比べてしまった。
「なんですか、アッシュフォード少佐。何か小官の顔に付いていますか」
「ええと、言うなれば人生の汚れかしらね」
「何それひどいわ」
黒髪の後輩の抗議を聞き流し、灰金髪の先輩は司令官に賭け金を投じることにした。
「仕方がないわね。では私はヤン提督に賭けましょ。じゃないと賭けにならないもの」
「さっすが、アメリア先輩。では、一律に十ディナールということで」
「盛り上がっているところに済まんが、勤務時間中の賭け事はやめておけ」
三人の女性士官らは、司令部との打ち合わせから戻ってきたキャゼルヌの声にびくりとした。立ち直ったのが早いのは、階級の差か、年の功か。アッシュフォードがにこやかに挨拶を返した。
「ああ、キャゼルヌ事務監、お疲れさまでした。
ただ、お言葉を返すようですが、もうここに詰めて二回日付変更線を越えました。
超過勤務中ですので、大目にみていただけませんか」
普段、冷静な部下までちょっと変になっている。キャゼルヌは溜息を吐いて、彼女らに申し渡した。
「おいおい、疲れたんなら交代でタンクベッドを使用してこい。
徹夜続きの変な高揚感で突き進むと、後でえらい事になるからな」
同じことを先ほど司令官に言ったばかりだ。あの後輩は、茶ばかり飲んで固形物に手をつけなくなる悪癖がある。茶を割るためのブランデーが、唯一のエネルギー源になるので痩せもするだろう。
「ああ、ありがとうございます」
「で、ヤン司令官に何を賭けたんだ」
さすが、ヤン・ウェンリーの先輩というか保護者。地獄耳でいらっしゃる。
「どちらがどちらに愛を告げるかです。告げなければ不成立ということで」
「おまえさんが司令官に賭けたということは、そっちの二人は相手側に賭けたわけだな」
階級が遥か上の上官に問い詰められて、赤毛のほうは言葉もなく頷くことしかできない。黒髪の方も、気まり悪げに答えたものだった。
「はい、まあそういうことになりますね」
キャゼルヌは、薄茶色の髪をかき上げてから、顎をさすった。伸び始めた無精ひげが手にざらつく。こんな若い女性に、甲斐性に疑問符を付けられるだなんて、魔術師だの奇蹟だのという形容詞が泣こうというものだ。
「ふん、じゃあ俺もヤン司令官に賭けよう。
二対二、これなら公平だろうよ。俺は二十にしておくか」
「やった! その言葉をお忘れにならないでくださいね」
「ああ、チャベス大尉、貴官こそ忘れるなよ。それからブライス中尉もな。
だがまあ、それも生き延びてこそだ。そのためにも二人まとめて一時間も寝てこい」
名指しされた二人は歓声を挙げ、敬礼もそこそこに飛びだして行った。まったく、
「あら、小官はどうすればいいんですか」
「俺は嫁入り前の娘には優しくする主義だ」
空色の瞳が、不穏な輝きを放って上官を見据えた。それに軽く両手を挙げて続ける。
「だが、山の神にはもっと
あいつらが戻ってきたら、タンクベッドを使用して、一旦自宅に戻れ。
子どもの様子を見てこいよ」
子煩悩な愛妻家の発言に、一児の母は表情を緩めた。
「閣下の温情には心から感謝いたしますわ」
「やれやれ、貴官も結構現金なもんだな。
それにまあ、ヤン司令官に賭けた勇気に敬意を表してな」
一番親しい相手からの情報がこれである。
「実際のところ、司令官の先輩からご覧になっていかがなんですか」
返答は、無言で肩を竦めて両手を広げた動作であった。インサイダー取引もなにも、皆目見当がつかないということだった。
「では生き延びて、願わくば賭け金を徴収しないといけませんね。
我々も、賭けの対象者も一緒に」
「ああ、そのとおりだな」
キャゼルヌの相槌に、アッシュフォードは美しい笑みを浮かべた。
「そのために、こちらの決裁もお願いいたしますね」
机上に、重低音と共に置かれた書類。その重さはキロの単位があった。キャゼルヌの戦いも、まだ始まったばかりである。