ブルーアーカイブ  比嘉奈翠(女先生)×桐生リンネ   作:妄想の君主(俺レべ×ブルアカ)

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第一話『思いと想いは結ばれるか?』

吹く風がどこか柔らかく、初秋の街路樹が紅色と黄金色に色づく頃。僕…桐生リンネは、いつもよりずっと早く家を出た。今日は比嘉奈先生と二人で百鬼夜行の街を散策する約束の日だ。

 

約束してから、指折り数えてはや一ヶ月。

 

長いようで短く、でもその一日一日が期待に胸を膨らませるための意義ある時間だった。その思いに応えるかのように、思わず僕の足取りも軽くなる。朝の空気を切り裂くようにして坂道を駆け降りる。

 

ここ数日…いや、先生と出会ったその時から、頭の中を占めるのは彼女のことばかりだった。

 

シャーレの当番でオフィスに向かった時に見せる、仕事に追われながらも真剣に物事へ向き合う先生。

 

難しい表情を浮かべて、時折こちらを頼るように視線を投げてくる先生。

 

僕が実際に仕事を手伝えば、ぱっと花が咲くように笑って『ありがとう』と言ってくれる先生。

 

その何でもない一つ一つの光景が僕にとっては宝物だ。先生の一挙手一投足を見るたびに、そのコロコロと変わる顔を見るたびに…内なる想いが溢れ、抑え込めない感情が胸を焦がす。

 

(……あぁ、そんな彼女が全部、僕だけのものになってくれたらいいのに)

 

瞬間、脳裏に浮かぶのは独占欲に塗れた衝動。先生の笑顔も、声も、仕草も、僕にだけ向けてほしい。彼女の全てを僕にだけ…なんて思考が僕を支配する。だけど、今はその時ではではない…と自分を律した。

 

(……先生にとって所詮、僕は一生徒でしかないからな)

 

この内なる想いを告げたとしても、先生を困らせてしまうだけだろう。わかっている…だからこそ、この気持ちを隠し通して今まで過ごしてきたのだから。

 

彼女のことを狂おしいほどに愛しているからこそ、じっくりと育てていかなければならない。

 

「…なのに」

 

だというのに、僕がこうして我慢をしているにも関わらず先生に近寄る害ちゅ…女どもは遠慮というものを理解していない。

 

特に、あの杏山カズサとかいう女は酷い。

 

あからさまに比嘉奈先生へ好意を見せつけ、平気で近寄り、笑いかけ、ベタベタと距離を詰める。極め付けに、それを僕に見せつけるかのように微笑むのだ。その光景を思い出すだけで、胃の奥が煮え返るように苛立ちが込み上げた。最近はそんな杏山カズサに対抗するかのようにキキョウ姉さんも先生に近付くし…。

 

(あぁ…思い出しただけでムカついてきた……)

 

「……って、ダメだ」

 

怒気を孕んだ声に出して呟く。

 

せっかく先生に会うのに、こんな険しい顔をしていては嫌われてしまう。あんな女のことなんて今は考えるべきじゃない。

 

自分にそう言い聞かせるが、逸る気持ちを抑えることは今の僕には難しい話だ。

 

僕自身の口から漏れ出た『先生』という言葉にさえ、心臓は早鐘のように鼓動を速める。

 

(……今日はなんだか、暑いな)

 

若干の肌寒さを感じる季節にも関わらず、手ににうっすら汗を滲ませながらも、僕は先生との待ち合わせ場所まで走って向かう。

 

「先生…今日こそは、君を僕のものにしてみせるからね?」

 

きっと今の僕を側から見れば、尻尾は左右に大きく揺れて…頭に付いた耳はピコピコと忙しなく動いていることだろう。

 

 

柔らかい風が街路樹を揺らす。僕はいつもの待ち合わせ場所に立って、息を整えながら先生が現れるのを今か今かと心待ちにしていた。

 

腕に付けた時計の針を何度も何度も確認する。針が進むたびに、先生と会える時間が迫ってくるという期待と、彼女と共に過ごせる時間が減っているという不満が混じる。

 

「早く会いたい……」

 

先生はどうやら、仕事を片付けてから来るようで、少し遅れてしまうとのことだ。先生からその話を聞いた時は、手伝おうかと打診してみたが…彼女は苦笑いして首を横に振った。

 

「先生と少しでも長く一緒にいたいだけなんだけどなぁ……」

 

あの時の拒否を思い出すと、心が痛むが『リンネとデートをするためだもん、これぐらい頑張らせて?』なんて上目遣いで言われてしまえば引き下がるしかない。少し照れながら呟いたあの表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

「あの時の先生も可愛かったなぁ…写真に残しておけばよかった」

 

先生の事を考えるだけで僕の表情筋はこれ以上ないほどに豊かに動く。先生と出会う前の僕はキキョウ姉さんに言われるほど無愛想だったのにも関わらずだ。

 

『リンネ…なにも相手に興味を持て、なんて言ってるんじゃないわ。最低限のコミュニケーションを取ろうって言ってるのよ』

 

なんてキキョウ姉さんに言われた時は少しだって反省はしていなかったが…今思えば姉さんの言う通りだ。

 

(好きな人の事を考えるのは、楽しい…)

 

さて、問題はこの空き時間をどう過ごすかだ。近くのカフェに入ってもいい。けれど、それでは先生と合流し損ねるかもしれない。なら、いっそのこと目を閉じて彼女を思い浮かべながら過ごすのも悪くない。

 

「うん…ここら辺かな」

 

近くに手頃なベンチがあることを確認した僕は腰を落ち着ける。そして、静かに先生の来訪を待とうとしたその時だった。僕の目の前に見知らぬ女が集まってきた。明るく、少し甲高い声が僕に向けられる。

 

「ねえ、そこの君?今って暇ー?もし暇ならお姉さんと遊ばなーい?」

 

「ちょっと、私が先に話しかけるって言ったじゃん!」

 

「ごめんごめん…それで、どうする?」

 

キャッキャと騒ぐ女どもの声。

 

ハッキリ言えば視界にちらついて邪魔だ。それにその汚らしい声が心の底から不快だ。普段なら一瞥もせず立ち去るところだが、今は先生を待たなくてはならない。ここから離れてしまえば合流が難しくなる。彼女たちの声や笑いは、僕にとって雑音でしかない。先ほどから、まるで別世界の言語を聞いているかのようだった。

 

こんな知性のかけらだって無さそうな奴らが先生と同じ『女性』と呼ばれること自体が不快だ。

 

先生はもっと気高く、聡明で、博識で、そして誰よりも可愛らしい。彼女はただそこにいるだけで、僕を愛欲に狂わせる。

 

(一瞬でもこいつらに意識を向けた時点で僕もまだまだだな…先生への想いが足りないか)

 

「ちょっと…さっきからなんで一言も喋らないわけ?」

 

「感じ悪ーい…ま、そこもウブっぽくて良いけど?」

 

再び視界を上げれば、そこには苛立ったように声を上げる女?がいた。さっきまでの軽さは鳴りを潜め、声には怒りが混じっていた。露骨に口調が鋭くなり…目の前の僕と言う存在に恐怖を与えようとしてくる。

 

「はぁ…先生、早くこないかなぁ」

 

それに対して僕はわずかに言葉を呟いただけで、表情を崩さない。怒りや苛立ちを向けてくる相手に、反応する理由も必要もない。心の奥では少しだけ気まずさを感じるが、それ以上に先生を迎えなくてはという使命感があった。

 

すると、先ほどの祈りが届いたかのように。ふいに、僕の耳が…背後から聞き慣れた足音を拾う。

 

小気味よく響くヒールの音。

 

その音に合わせて、胸が一瞬で跳ね上がる。

 

「……リンネ!」

 

柔らかく、けれど確かに心を射抜く声。振り返るより先に、頬が勝手に緩むのを感じた。曇っていた視界に光が差し込むように。

 

「比嘉奈先生……!」

 

気づけば立ち上がっていた。さっきまで胸に広がっていた苛立ちも、嫌悪も、すべて跡形もなく吹き飛んでいた。

 

そこに在るのは、ただ先生という存在と彼女に対する思いだけ。

 

そんな彼女は少し息を弾ませていて、仕事帰りの疲れを隠しきれてはいない。けれど、それすらも僕には愛おしく映った。

 

「ごめんね、リンネ…待たせちゃった?」

 

小首を傾げながら、気遣うように笑う。その笑みを見た瞬間、胸の奥に重く沈んでいた影が一瞬で霧散する。

 

「ううん!全然待ってない…むしろ……会えたのが嬉しくて!」

 

僕の声は、驚くほど明るく弾んでいた。ほんの少し前まで無言で冷えた瞳をしていたなんて、自分でも信じられないほどに。そうだ…先生の存在ひとつで、僕の世界はこんなにも変わってしまう。僕の曇り空は、彼女が現れたその瞬間に、暖かな陽だまりへと塗り替えられてしまうのだ。

 

「ん?リンネ、この子たちは?」

 

「ううん、全然関係ないよ。じゃあ先生、早速出発しよっか!先生も疲れてるでしょ?まずは近くのカフェにでも…」

 

その言葉を口にした瞬間、横から伸びてきた白い手が僕の腕を掴んだ。振り返れば、それは先ほど僕に声をかけていた女だった。

必死な顔……まるで溺れる者が藁をも掴むように僕を止める。

 

「ま、待って!私たちの方が先に声をかけたんですけど!?なに無視して先に…!」

 

彼女の指先が強く食い込む。けれど、その感触がやけに冷たく感じられた。

 

「……離してくれる?」

 

冷え切った声が自分の口から洩れたのがわかる。その声に女性の目が揺れる。けれども彼女はまだ諦めず、縋るように力を込めてきた。僕はその手を振り払い、一歩だけ彼女に踏み出す。その顔が一瞬で青ざめるのを、僕は静かに見下ろした。

 

「君たちがどれだけ言葉を尽くそうと、僕が君たちに好色を示すことはないよ…そもそも、僕は君たちのことを女性と思っていないしね」

 

冷徹に、突き放す。自分でも驚くほど、感情を削ぎ落とした声音だった。

 

「「ぇ……、ぅあ、」」

 

女は震え、慄くように後ずさる。やがて、その場に立ち尽くすしかなくなった彼女を残し、僕は先生の隣へと再び歩み寄った。

 

「じゃ、行こっか!」

 

 

最初に向かったのは、小さな雑貨屋だった。そこの木製のドアを開けるとそこには、木の香りと可愛らしい小物があふれていて、思わず息を呑む。

 

「うわぁ……なんだか、宝箱みたいだね」

 

僕がぽつりと言うと、先生はにっこり笑った。

 

「そうだね…色んなものがあって、見てるだけでも楽しいよね」

 

その柔らかい声に、思わず心がほっと温かくなる。先生は小物をひとつひとつ手に取りながら、ふわりと歩いている。

 

「ねえ、リンネ、これどうかな?」

 

そう言って先生が差し出したのは、小さな黒猫の髪留め。思わず「え……?」と、驚きで声が出る…そりゃあ先生がつけるなら似合うと思うが…。

 

「これはね、リンネに似合うかなって思ってさ…どうかな?」

 

先生の頬が少し赤くなっているのに気づき、僕は胸がきゅっとなる。

 

「いや、でも……僕、こんなの似合うかな……」

 

照れながら言うと、先生はくすりと笑った。

 

「大丈夫、似合うって。ほら、ちょっとつけてみよっか?」

 

「えっ、いきなり……!」

 

「いいじゃん、せっかくだし、私がつけてあげるよ」

 

そう言って、先生は優しく指先で髪留めを持ち、僕の少し長い髪に触れる。先生の指先の温かさに、思わず顔が熱くなる。

指先がほんの少し触れただけで、胸の奥がじんわり熱くなる。

 

「……あ、ちょっと、待って……」

 

思わず小声で言うと、先生はくすくすと笑いながら首をかしげる。

 

「どうしたの?恥ずかしい?」

 

「そ、そんなこと……」

 

顔が赤くなっているのを自覚しながら、必死で否定する。でも、先生は楽しそうに目を細めて、僕の髪を少し直してくれる。

 

「うん、これで完璧。似合うよ、リンネ」

 

鏡越しに自分の頭を見ると、なんだか…小さな黒猫の髪留めが意外と似合っていて、思わず笑ってしまう。

 

「自分で言うのもなんだけど…確かに似合う、かも?」

 

「ね?可愛いでしょ…リンネは何を付けても似合うね!」

 

先生の柔らかい声と笑顔に、胸の奥がぎゅっと熱くなる。すると、先生は店内の店員に声がけをして、足早に会計を済ませてしまう。

 

「良し!せっかくだし、今日のデート中はそれを付けてること!良いね?」

 

「うぐっ…先生がそう言うなら……」

 

そんなやり取りを交わして、僕たちは雑貨屋を出る。それから僕達はいろんな所に行った。

 

カフェに着くと、先生は待ちわびていたかのように目を輝かせ、テーブルいっぱいに並んだスイーツを前にしていた。チョコレートケーキにモンブラン、季節限定のタルトまで……彼女の嬉しそうな表情を見るだけで、僕の胸も自然と緩む。

 

「リンネ?どうしたの、食べないなら…先生が貰っちゃうよ〜!それっ!」

 

手を伸ばしてきた先生の仕草が子どもみたいで、思わず笑ってしまう。

 

「ふっ、そうはさせないよ…あむっ」

 

素早くフォークを動かして先生の皿から、ケーキを口に運ぶと、栗の濃厚な甘さが広がる。その様子を、わざと大げさに頷いてみせる。

 

「うん…先生のも美味しいね?」

 

「あーっ!?私のモンブランー!」

 

先生の声がカフェの空気に弾け、周囲の視線が一瞬だけこちらに集まった。慌てることもなく、彼女は頬をぷくっと膨らませる。

 

「冗談だって、ほら。僕のも食べて良いから」

 

自分のショートケーキを皿ごと差し出すと、先生の顔がぱっと明るくなった。

 

「本当!? やったー!」

 

その瞬間の無邪気な笑顔が眩しくて、僕はケーキよりも彼女の表情に釘付けになってしまった。

 

 

甘い余韻を残したまま、僕たちはカフェを後にした。外の空気は少しひんやりしていて、さっきまでの賑やかな笑い声がまだ耳に残っている。

 

ふと、頭の片隅に引っかかっていたことを思い出す。

 

(……そうだ。姉さんや百花繚乱の皆が、前に「どうしても欲しい」って話してた本があったんだっけな)

 

「先生、この後さ…ちょっと書店に寄ってもいい?」

 

歩きながら僕が切り出すと、彼女は不思議そうに首を傾げる。

 

「書店?リンネが?なんだか珍しいね」

 

くすっと笑う声が、どこか柔らかい。僕は肩をすくめて答えた。

 

「僕じゃなくて、姉さんたちの頼み。せっかくだから一緒に探そうよ」

 

「なるほど〜。宝探しみたいで楽しそう!」

 

彼女がそう言って駆け足気味に前に進む姿を見て、思わず小さく笑った。

 

店内は紙の匂いと静かなざわめきに包まれていた。整然と並んだ本棚の前で、僕は手にしていたメモを広げる。

 

「えーと、姉さんが新しい兵法書。相変わらずだなぁ…」

 

難しそうな分厚い本の背表紙を見て、苦笑いが漏れる。姉さんのお下がりで僕の部屋にも幾つかの兵法書はあるが….姉さんのは些か度が過ぎている気がする。

 

「ナグサ先輩が……『焼鳥百景』?なにこれ、写真集?レシピ本?」

 

タイトルを口に出した瞬間、先生がくすくすと笑った。

 

「ナグサらしいねぇ。きっと本気で焼鳥を極めたいんだよ」

 

「いや、極める方向がおかしいでしょ…」

 

僕は思わずぼやきながらも、ちゃんと棚を探す。

 

「レンゲ先輩が…新刊のライトノベル。これはすぐ見つかりそうだね」

 

カラフルな表紙が並ぶ棚に視線を移す。レンゲ先輩がどんな顔で読むのかを想像して、つい口元が緩む。

 

「ユカリが恋愛、小説…」

 

小声でつぶやいた途端、先生がにやにやした顔を向けてくる。

 

「ねえリンネ、そういうのってリンネも読んでみたら?勉強になるかもよ〜?」

 

「……っ、余計なお世話だよ」

 

猫耳が熱くなるのを隠すように、僕は慌てて棚に目を戻した。今の僕は、どうやら「恋」とか「好き」という言葉に必要以上に反応してしまうみたいだ。胸の奥に芽生えた小さなざわめきを打ち消す。

 

やがて、別の本を探してくるね、と別のコーナーに行った先生の姿を追いかける。

 

 

とはいえ、探すのには時間はそう掛からなかった。

 

それは灰色の髪が本棚の間で光を受け、そこだけ切り取られたように目立っていたから。先生は古書のコーナーで眼鏡をかけ、ページをめくる手を静かに動かしている。

 

その姿は、日常の一幕なのに、どこか神聖で…思わず声をかけるのをためらってしまった。

 

「あ……リンネ、そっちはどう?キキョウたちのお使いは終わった?」

 

気配に気づいた先生が顔を上げ、眼鏡の奥の瞳を細める。

 

「う、うん……あとはお会計するだけだよ。先生は何か欲しい物ある?もし良ければ一緒に買うけど…」

 

「いーよ、ここでお願いしたら生徒にたかる悪い先生になっちゃう」

 

おどけたように肩をすくめる仕草に、思わず僕は眉をひそめる。

 

「……それ、ミレニアムの子に財産管理してもらってる先生が言うんだ?」

 

「良いかい、リンネ?」

 

先生はメガネを外してから、わざと真剣な声色で言った。

 

「大人にはね……自分の身を切ってでもカッコつけたい時があるんだよ」

 

「ふふっ……何それ?」

 

僕の笑いに、先生も照れくさそうに口元を緩めた。最後に先生立っての希望で僕達は河川敷が見える近くの公園へと訪れていた。

 

「んーっ!ここは風が気持ちいいねぇ……仕事のストレスが抜けるよ…」

 

そう言いながら、先生はそっと髪を耳にかける。灰色の髪が風に揺れて、ほんの一瞬、光を受けて銀色に見えた。その横顔は、僕にとって、絵画のように完璧で……思わず、天に召されてしまったのではないかと錯覚するほど。

 

それくらい……綺麗だった。

 

「先生は……今日一日、楽しかった?」

 

胸の奥のざわめきを抑えながら問いかける。

 

「もっちろん!リンネのお陰で百鬼夜行の事がもっと好きになれたよ!本当にありがとう!」

 

振り向いた彼女の笑顔は、真っ直ぐで、曇りがなくて。

 

『好き』……か。

 

その一言が胸に突き刺さり、どうしようもなく意識してしまう。心臓がドクドクと震え、体温はどんどん上昇していく。

 

「あ、あの……先生……」

 

勇気を振り絞って声を出す。

 

「どうしたの? リンネ」

 

不思議そうに小首を傾げる仕草が、さらに僕を追い詰めた。

 

「……先生、僕は……ぼ、僕は」

 

言葉が喉でせき止められる。断られたらどうしよう。嫌われて、二度と会えなくなってしまったら……。その不安が頭を支配し、最後の一言が酷く遠い。もうすぐ届きそうなのに、なぜか触れられない。

 

結局、僕は口をつぐんでしまった。

 

「ねえ、リンネ……10秒だけ目を瞑っててもらえる?」

 

沈黙を破ったのは、先生の意外な一言だった。

 

「ん……え?も、もちろん」

 

戸惑いながらも目を閉じる。その瞬間、視界の代わりに、鼓動の音がより鮮明に耳に響いてきた。

 

「私が良いって言うまで、絶対に目を開けちゃダメだからね?」

 

先生の声は、いつもよりも少し低く、優しく耳を撫でてくる。

 

「う……うん」

 

闇の中に取り残されたみたいに、世界から視界が奪われる。代わりに、心臓の音がやけに大きく響いてきて……自分の鼓動で胸が破裂しそうだった。

 

けれど、その闇に影が差したような感覚が走る。胸騒ぎに駆られて、ほんの僅かにまぶたを持ち上げると……そこには。

 

「……っ!?、!?!?!?」

 

目の前には、さっきまで数メートル先にいたはずの先生の顔。彼女はさっきまでの僕と同じように瞳を閉じている。

 

そのまま……僕達の距離はゼロになった。

 

温かくて柔らかなものが、僕の唇を塞いでいる。頭の中が真っ白になって、声にならない声が喉から零れそうになったけど、塞がれた唇がそれを許さない。

 

「えっ、な……ちょ、せ……先生……!?」

 

やっとの思いで言葉を吐き出した時には、先生の唇はゆっくりと離れていった。夕風が二人の間をすり抜ける。

 

けれど、唇にはまだ、淡い熱が残っている。

 

「……これだけしても、まだ私の気持ちに気付かない?」

 

少し潤んだ瞳で見上げるように言われて、僕の胸が大きく揺れた。

 

「先生の、気持ち……」

 

口の中で繰り返すだけで、心臓の鼓動は速くなる。

 

気付かないはずがない。

 

少なくとも、先生は僕に対して…悪感情は抱いていなかった……だけどそれを、真実として受け止めるのが、怖かった。

 

「私は、リンネのことが……好き」

 

その瞬間、時間が止まったように感じた。遠くで川の水音が響き、街の灯りが揺れている。

 

「先生……が、僕を、好き?」

 

かすれるように問い返すのが精一杯だった。

 

その言葉の真意を、頭では理解している……それはまさに、僕が先生に言おうとした言葉なのだから。

 

でも、それを信じてしまったら……壊れてしまうんじゃないか。

 

その恐怖が僕の心を縛り、喉を固く閉ざす。

 

だから言葉にできない。ただ問い返すことしかできなかった。

 

けれど、先生は怯まなかった。灰色の瞳がまっすぐに僕を射抜く。

 

「私はね、リンネのことが……好き。生徒だからとか、年齢とか、そういうの関係ないの。桐生リンネっていう1人の男の子を、私は愛してる」

 

その一言が、僕の胸を真っ直ぐに撃ち抜いた。心臓が大きく跳ね、世界が一瞬にして反転する。

 

息が詰まり、喉が焼けつく。声を出そうとしてもない。代わりに、僕の中で口を開いたのは……理性ではなく、本能だった。

 

気がつけば、僕は先生の手を強く掴んでいた。そして、言葉よりも先に身体が動く。

 

引き寄せられるようにして、彼女の唇に再び自分の唇を重ねていた。

 

「っん……」

 

先生の甘い声が近くで僕の耳を撫でる。もう一度だけ、唇を離してから、僕は先生に訊ねる。

 

「……本当、なの?からかってるんじゃなくて……」

 

 

「ふふっ…からかってどうするのさ。私は先生だよ? 嘘をついて、生徒を傷つけたりすると思う?」

 

 

「で、でも……僕、も、ずっと……先生のことを……」

 

言いかけて、言葉がやっぱり止まる。

 

好き……それを言ってしまったら、戻れなくなる。僕が願い続けてきた想いが、一気に溢れそうだ。

 

先生はそんな僕を見透かしたように、ふわりと笑った。そして一歩近づいて、今度は両手で僕の手を包み込む。

 

「リンネ。怖いなら、無理に言わなくていいよ。でも……私の言葉は本当だから。安心して」

 

その温かさが、胸の奥の氷を溶かしていく。

 

押し殺していた感情が、堰を切ったようにあふれ出す。

 

「……僕も、先生が……好きです。最初に会った時から、ずっと。先生の笑顔も、声も、仕草も、全部……全部、僕だけのものにしたいくらいに……!」

 

勢いに任せて言葉が飛び出した。

 

止まらなかった。止められなかった。

 

だって、ようやく告げられる時が来たのだから。

 

先生は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頬を緩めた。そして、僕の額にそっと自分の額を合わせる。

 

額が触れ合うその距離。

 

先生の吐息が頬にかかって、心臓の鼓動がやけに大きく響く。

 

「……やっと言ってくれた。ありがとう、リンネ。私も、君のことを大事にするからね」

 

 

「……僕も、先生の事を大切にする。こんな僕を、好きになってくれて、ありがとう」

 

その言葉は耳から胸へと染み込んで、体の奥で熱を灯した。夕暮れの光が川面に揺れて、金色の粒となって僕たちを包み込む。

 

世界から音が消えて、ただ先生と僕だけが残されたような気がした。

 

「……先生」

 

呼ぶ声が掠れて、でも確かに届く。先生は微笑み、そっと僕の背を撫でた。僕も負けじとその細い体に僕の尾を巻き付ける。

 

「ふふっ…痛いってば、リンネ」

 

「あ、あ…ゴメン、先生…嬉しくて、つい…」

 

その優しさに、僕はもう二度と彼女の手を離したくないと、強く思った。

 

「ううん良いよ。じゃあさ、リンネ。その代わりに、悪い大人のお願い…聞いてくれる?」

 

「もちろん……先生の頼みなら」

 

「じゃあ、もう一回キス、しよっか。さっきみたいな騙し討ちじゃなくて…恋人同士のさ」

 

それは、どちらかが一方的に貪るような物ではない。お互いが、二人の愛を育むための優しい口付けだ。

 

「「…………っ」」

 

先ほどカフェで食べたケーキのような甘さが口の中に広がる。けれど、それよりもずっと濃くて、甘くて、胸にまで染み渡る味だった。先生の温もりがじんわりと全身を包み込み、夕暮れの光が僕達を柔らかく縁取る。

 

唇を離すと、僕達は自然と顔を見合わせて笑う。

 

言葉はなくても伝わる感情……それだけで十分だった。

 

「……リンネ」

 

「……比嘉奈先生」

 

小さな呼び名が、世界で一番甘く、尊い響きに思えた。そして、これから始まる日々の全てが、この瞬間のように輝いているのだと、僕は確信した。

 

 

唇の余韻がまだ残るまま、僕たちはゆっくりと手をつなぐ。その感触は暖かく、そしてどこか安心できる重みを伴っていた。

 

「……風、気持ちいいね」

 

僕が呟くと、先生はにこりと微笑んで肩をすくめる。

 

「そうだね。リンネと一緒だから、余計に気持ちがいいのかも」

 

河川敷の向こうで、夕陽が川面を黄金色に染める。水面がゆらゆらと揺れるたび、光が二人の影に踊りかかる。その光景を見ていると、世界の全てが静かに祝福してくれているような気がした。

 

僕たちは言葉を交わさずとも、ただ歩き続ける。足音と風の音だけが周りにある。けれど、それだけで十分なほどに幸福だった。

 

「ねぇ……リンネ」

 

「……なぁに、先生?」

 

小さな呼びかけに、僕は手の温もりを強める。

 

「ずっと、こうやって一緒にいよう。それで…2人で幸せになろうね?」

 

先生の声は柔らかく、でも揺るぎなく胸に響く。

 

「もちろん、ずっと……」

 

僕も応える。その言葉には、これから続く時間すべてを誓うような意味が込められていた。猫の耳がぴんと立つ。隠そうとしても、感情は正直に表れてしまう。嬉しさと恥ずかしさがないまぜになり、尾の先が小刻みに揺れていた。

 

「……ふふっ、リンネの耳と尻尾。動いちゃってる、可愛い」

 

先生は堪えきれないというように笑みを零す。その視線を受けて、僕はますます耳を伏せてしまった。

 

「ち、ちが……これは勝手に動いてるの!」

 

慌てて否定する僕に、先生はますます楽しそうに微笑む。彼女がそっと僕の手を握り直すと、尾がぶんっと大きく揺れた。こればっかりは、自分でもどうしようもない。心臓が跳ねるたびに、耳も尾も馬鹿正直に反応してしまう。夕陽が沈む頃、僕たちはそっと肩を寄せ合い、河川敷沿いの道を歩き続けた。

 

「帰ったら、キキョウにも言わないと…かな? 大事な弟を貰っちゃってごめんね、とかさ」

 

先生が少し悪戯っぽく笑う。

 

「えっ……そ、それは……っ!」

 

想像しただけで顔が熱くなり、耳がばしんと音を立てそうな勢いで立ち上がる。尾の先は落ち着かず、左右にばたばたと揺れてしまった。

 

「しばらくは姉さんに黙っておこう、先生。姉さんにそんなこと言ったら、絶対面倒なことに……」

 

「ふふ、冗談だよ。でも……私はそれくらい本気なんだよってこと、わかってほしいな」

 

そう言いながら、先生はまた僕の手をぎゅっと握る。その温もりに胸がいっぱいになって、尾をするりと先生の手首に巻きつかせる。

 

「……僕も、本気だよ」

 

耳を伏せながら、小さく呟く。

 

風はまだ少し冷たい。

 

けれど、僕らの心はこの夕暮れの光よりも、ずっと暖かかった。

 

 

先生と歩き出してすぐ、彼女の声が頬に刺さった。

 

「もう、リンネってば…ちょっと言いすぎだよ!」

 

足を止めて振り返った先生は、ぷくりと頬を膨らませて僕を見上げてくる。まるで子どもが拗ねているみたいで、けれどその仕草が妙に胸をくすぐった。

 

「そうかな…?」

 

あの人たちに向けた拒絶の言葉…あれは僕にとって当然の線引きでしかなかったのに、先生の耳には冷たすぎる響きとして残ったのだろう。

 

(にしても……先生が怒る顔も、本当に可愛いなぁ……)

 

心の奥でそんな呟きが零れる。僕の目には、ただ先生だけしか映らない。だからこそ、余計な憂いを近づけたくないためにも僕はあの行動を取ったのだ。

 

「別に…先生との時間を邪魔されたくなかっただけだもん」

 

実際にそれが僕にとっての真実であり、すべてだった。突き放すことに一切の迷いはない。

 

「もー……そういうところ!女の子にあんな冷たく言っちゃダメなんだからね?先生、怒ってるんだから!」

 

怒っている……そう言いながらも、その声はどこか震えていた。怒りよりも、不安の色が混ざっているように聞こえる。尖らせた唇の形でさえ、僕にはどうしようもなく愛らしく映ってしまうけれど。思わず視線を先生に向け、口元にかすかな笑みが浮かんでしまう。

 

「……じゃあ、機嫌を直してもらうために、どこに連れて行けばいいの?」

 

心臓が跳ねる音が、自分にだけやけに大きく響く。僕にとってこれは反省でも…ましてや謝罪でも弁解でもない。

 

 

「全く…私のことを思ってくれてるのは嬉しいけど、そこは直していこうね?」

 

「…………….わかった」

 

「間が長い」

 

妙に長い間を置いた返事を返す。そして次の瞬間、先生が再び足を止め、少し頬を染めながら振り返った。

 

「ところでリンネ、今日はいつもみたいに……可愛いって言ってくれないの…?」

 

そう言って僕の目を見る先生の淡い灰色の髪は、太陽の光を受けて仄かな銀色を帯びる。それは、彼女の歩みに合わせてふわふわと揺れる。加えて、黒を基調とした衣装は彼女の白い肌を一層引き立て、胸元のリボンや肩を覆うケープが清楚な可憐さを演出していた。

 

「その…すごく、可愛いと思う。でも、さっきみたいな奴らに先生のそんな姿を見せたくなくて…….」

 

「…っ!」

 

僕の言葉に、先生は一瞬だけ息を呑んだようだった。けれど、すぐに柔らかく微笑む。その笑みを見た瞬間、張りつめていた胸の奥が少しだけ解けていく。

 

「……さ、そろそろ行こっか。せっかくのデートだしね」

 

先生がそう言って歩き出す。緊張で固まっていた足を慌てて動かし、隣に並ぶ。いまだ心臓の音は収まらないけれど、先生の横顔を見ていると、不思議と安心した。

 

「何を見ようか」「どこに行こうか」……そんな何気ない会話を交わすだけで、さっきまでの重い沈黙が嘘みたいに和らいでいった。

 

「もーリンネってば、そんなに強く尻尾巻きつけてどうしたの?」

 

「なんでも…ただ、離れたくないなぁって思ってね」

 

僕の一言に先生は首を傾げて「どういうこと?」と言っていたが、僕は敢えてそれを無言で誤魔化した。僕にとっての『離れたくない』というのは、今この瞬間を指した言葉のわけではないから…。

 

 

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