松原通りに怪しげな商いを構える男より、無下限呪術を再現した呪符を幾枚か購い受けたリクは、与えられた任務にさっそくそれを忍ばせ、意気揚々と出向いた。
相手の呪霊はリクよりやや強く、等級違いというほどではないものの、いざ敗れたとて言い訳が立つ程度の代物であり、リクが手こずるのを嘲ろうとする者たちの差し金であるのは明らかであった。普段であれば苦戦は免れぬ相手である。
されど今のリクには、呪符がある。懐に忍ばせたそれへ、そっと手を触れる。
「術式順転「蒼」」
目の前の呪霊は跡形もなく消え失せた。呪符に喰われる呪力は相応に大きいが、リクの呪力量であればどうということはない。
一歩引いたところから様子を窺っていた叔父の、嘲るような笑みが引き攣り、そのまま固まった。
「お前……それは」
「ようやくコツが掴めたものですから」
さも当たり前のように言ってみせると、叔父は顔を蒼白にして押し黙るほかなかった。人力車に引かれて帰路を辿る最中も、彼は心ここに在らずといったふうで、何を考えているのか、時折モソモソと唇を動かしては考えることに忙しいようだった。
リクが無下限呪術を扱えるようになった。その噂は瞬く間に家中へと広まった。疑いを抱き詰め寄る者もいたが、手を出そうとしたところで無下限を張って寄せつけぬと、誰もがそれを信じ、恐れた。
傀儡と揶揄された次代当主の座は、次第に盤石なものとなってゆく。
人々はリクを畏れ、讃え、かつて面と向かって罵倒してきた者すら、両手を擦り合わせ諂うようになった。その日々の睡眠から食事、任務に至るまで、まるで高級旅館のサーヴィスのごとく、隅々に至るまで気配りが行き届いたものとなった。
「これは何?」
冷めたリクの声色に、床に座していた者達は深々と頭を下げた。リクを貶めようとする叔父の手による策略、その一端が記された密書である。
「も、申し訳ございません」
叔父の派閥に属する者たちである。リクはわざとらしく紙束をはたき、その音に彼らは居心地悪げに肩を縮めた。
「責はすべて、わたくしに」
「違うだろう」
殴られた犬が飼い主の顔色を伺うように、発言した者は面を上げる。
「責は叔父上にあるだろう。呼べ。今すぐに」
血相を変えた部下に呼び出され、叔父は訳もわからぬ顔で現れたが、リクが密書を突きつければ、怒りに声を張り上げる。だが掌印ひとつ組むや、その勢いはたちまち萎み、次期当主に対する仕打ちの罪を滔々と語られれば、ついには他の者と同じように床へ伏すしかなかった。
白髪混じりの頭を見下ろし、しばし黙していたリクに、叔父は許しを乞い、命だけはと額を床に擦りつけた。
これまで辛酸を舐めさせられた己が、今やかつて恐れていたはずの叔父をも圧倒している。その胸を満たすのは、言葉では言い尽くせぬほどの暗く甘美な愉悦であった。リクは半刻ばかり、叔父の処遇に悩むふりをし、その一喜一憂をつぶさに観察していた。
きっかり七日後、リクは再び男のもとを訪れた。埃の積もったままの内装に不安を覚えながら、失礼を承知で上がり込む。
男は地下の机に向かって何やら書き物をしているようだった。着ている服が以前まみえた時と変わらないが、まさかそんなはずはないだろう、と沸いた疑念を横へ流す。リクは男に声をかけようとして、呼ぶ名を知らないことに気がついた。
「あのう」
返事はない。
「あのう、もし」
声を張ると、ようやく男が振り向いた。だがリクを見ても、いまひとつ腑に落ちぬ表情である。
「リクです」
「六眼の!」
男は喜色を帯びて立ち上がった。
名を尋ねれば、男は顎をさすり、ショウ、と名乗った。玄関の埃を指摘すると、外へ出ぬゆえ当然だと答える。家事をする者は居らぬのかと問えば、ここには一人で住んでいるのだという。リクは、この男が果たして人並みの暮らしを送れているのか、いささか不安になった。
聞けば、三年ほど前に東京へ移るはずが、トラブルに見舞われたため、諦めることにしたのだという。京都から東京へは鉄道を使っても丸一日、しかも大金を要する。元より移住には乗り気ではなかったため、機を逃した以上、そこまでするには及ばぬと考えたらしい。
東京には天元もおわす呪術の総本山がある。たかだか四十年の歴史しか持たぬ首都が、呪術の本流たる京都を差し置き、天元様が居られるからといって大きな顔をするのは癪だという者もいるが、リクのような若者にとって東京は憧れの地である。行ける機会を逃したのは、惜しい話だと思わずにはいられなかった。
世間話ばかり重ねるリクに痺れを切らしたのか、ショウはさっそく改良した呪符を見せた。リクはかわりに、家からこっそり持ち出した術式の指南書を差し出す。代々の無下限呪術の使い手が遺した、極めて貴重な資料である。ショウはそれを目前にして、飛び上がらんばかりに喜んだ。
無下限呪術の基礎と「蒼」の呪符を買い求め、その金額に目眩を覚えるも、そもそも売り物ではなく、ショウの趣味と執念の賜物である。術式を札に封ずるという神業と思えば、その価値は計り知れぬ。家の資金と任務の報酬があれば、支払いに困ることもなかろう。
やがてショウは再び机へと向かい、黙して筆を走らせはじめた。リクはなんとなく彼の扱い方を悟ったように感じ、そのまま店をあとにした。
叔父を屈服させた件以来、反リク派は表立った行動を控えるようになった。だがそのかわり、食事に毒を盛るなどの暗殺めいた手段が見られるようになった。
やがて分家の娘を嫁として迎えることとなったが、気弱で優柔不断な彼女とは折り合いが悪い。獅子身中の虫を疑い、常に猜疑心に苛まれ、気に入らぬ者あれば叱責して見せしめとした。周囲はさらにリクに阿るようになり、いつしか彼は、かつて嫌悪していたはずの、威張り散らす狭量な男そのものとなっていた。
しかしいくら鬱憤を晴らし、称賛を受けても、心は乾いたまま。己の立場は、無下限呪術を扱えるという一点にのみ支えられている。術式を持たぬという事実の前に、自らの滑稽さを痛感し、劣等感は日ごとに募った。
リクはすでに、基本の無下限呪術なしには生きられぬ身体となっていた。さもなくば、いつ命を奪われるとも知れぬ。妄執に囚われ、見えざる敵に備えるため、有り金のすべてをショウのもとで呪符と換えるようになった。
そうしたある日、リクのもとへ呪術総監部より一通の通達が届いた。
京都府京都市下京区松原通東洞院東入本燈籠町十四番地ニ於テ、呪物・呪具ヲ販売スル井上勇ナル者、呪術師登録ヲ受ケズシテ営業ヲ続行シ、幾度ノ戒告ニモ拘ラズ改善ノ見込無キヲ以テ、呪術規定違反ト認メ、此ヲ呪詛師ニ認定ス。
右、速ヤカニ討伐ニ着手スベシ。生死ハ問ハズ。
一瞬、頭が真っ白になった。次いで、リクは大慌てで飛び出してショウのもとへ急いだ。こんなことならば、脅してでも、金にものを言わせるでもして、ショウを五条家に囲い、呪符を作らせ続ければ。あれがなくては、もう、リクは満足に眠ることさえ叶わない。
大慌てで店に駆け込むが、中はがらんどうだった。地下を覗いても、あのおびただしい数の書類の一片もなく、まっさらである。リクが呆然としながら店を出れば、ちょうど居合わせた顔見知りの呪術師が、噂の早い者が昨夜に訪れたが、その時点で中はもぬけの殻だったと教えてくれた。
終わった。なにもかも。リクは懐に忍ばせた呪符の枚数を数える。「蒼」はあと十五枚。ショウを探しながら節約すれば、ひと月は保つだろうか。
既に捕えられている可能性に賭けて呪術総監部に連絡を取ってみるものの、反応は芳しくない。
肩を落として帰路に着けば家の者が慌ててやって来て、やれ当然どこへ消えたのだ、強力な呪霊の出現が認められたから早く出てくれ、と人心地つく間も無く人力車に乗せられる。
現場には応援要請を出した呪術師が、まだかろうじて呪霊と交戦していた。呪霊の強さは一級はありそうなほどである。
リクは単純な呪力操作を用いて応戦するが、到底敵いそうもなかった。呪符を手にする以前ならば、時間はかかっただろうがなんとか祓えた相手だったはずだ。そのうえ、避難した呪術師や御者が、早く無下限呪術を使えば良いのにと遠くで囁いていた。呪霊の猛攻を避けきれず、基本の無下限呪術の呪符を一枚消費した。次いで、意を決して「蒼」の呪符で呪霊を消し飛ばす。
節約すると決めたそばからこれである。不安に駆られた気持ちは、観客達の大層な褒め言葉でもってわずかに上向いた。
次から気を付ければ。リクはそう思い、逸る心をおさえて普段通りに振る舞った。
次から気を付ければ。次から気を付ければ。次から気を付ければ。
何度もそう言い訳をし、リクの懐にある呪符はその数をどんどんと減らしていった。一度楽を覚えた肉体は、武術を追求することも忘れ、強力な術式の付与された呪符頼りの戦法ばかりを選びたがった。そのたびにリクは呪符を使ってしまったことを後悔するが、次にまた呪霊と相対すると、この身を脅かされる恐怖に負け、また一枚呪符を使うことになった。
決壊の時は訪れる。
次期当主と名高いリクを、分家の者達がひと目見たいと集まった。五条家はいくつかの分家があるが、そのうちの非術師家系の多くは北九州のほうに根を下ろしており、現在は表社会で活動していて、彼らは呪術師家系としての五条家を噂程度にしか知らない。それでも今代きっての有望株であるリクの仕事ぶりを見届けたいと、わざわざ多くの者が集まった。
非術師が集まることを鑑みて、二級程度の危険度の低い任務が選ばれた。しかし、呪霊の成長は著しく、特級もかくやという勢いにまで登りつめていた。リクは無下限呪術の呪符をすべて使い果たしても呪霊を祓除することができず、みっともなく逃げ帰ってきたのである。
それからというもの、リクの転落の勢いといったら、凄まじいことこのうえなかった。
五条家の分家は、非術師家系とも言えども政治と密接につながった地位の者達であり、呪術師であろうがそれを無下にすることはできない。そんな彼らを危険に晒した挙げ句、あれだけ大口を叩いていた次期当主がこのざまである。
リクがもう術式を扱えぬということは白日の元に晒されてしまった。我が世の春と言わんばかりに勢いを取り戻した叔父が、リクを激しく叱責し、リクはそれに身を縮こめる。あゝ、数年前の小心者で惨めな己が帰ってきた。リクは泣き喚き、嘘もつけず、今や呪詛師として討伐依頼の出されたショウから、呪符を買って得た術式だということまで、洗いざらい話してしまった。
それから。五条家の家系図からリクの名が消えた。元より仮の名の身である。それがひとつ消えることくらい、大したことではなかった。リクは五条家の鼻つまみ者として、あらゆる書物からその存在は抹消された。妻は泣きながら離婚してくれと訴え、周囲は憐れんだのか、リクの知らぬ間にそれが成立していた。
しかし一応は六眼を保有する呪術師として、それなりの仕事は回された。もはや、それ以外に生きる道はなかったのである。
地面に横たわる身体は、血を失うごとにみるみると脱力していき、このまま頬を撫でる柔らかい草木と同化していくような心地さえした。相打った呪霊が霧散していくのを感じながら、リクは、ショウに出会ってからこの五年あまりのことを、走馬灯のように振り返っていた。
ショウが今でも呪符を作り続けていれば。はたまた、初めからそんなことはせず、術式を持たないとされたまま生きていれば。今ほどの苦痛に苛まれることもなかったのだろう。
「六眼の君」
履き潰した草履が視界に入った。頭を上げることができず、顔は見えない。胸元で揺れる趣味の悪い首飾りを見、リクは思い出した。
「約束を」
……もし君が死ぬことがあれば、その亡骸を私にくれないか。……よいでしょう。僕が死んだら、その身体は好きにしてください。……うむ。君がその亡骸を提供し、研究に付き合ってくれるというのなら、この呪符を売ろう。
それは、あんまりだ。リクはこの一年、人生のどん底を更新し続け、彼から呪符も買っていない。縛りとして公平ではない。だが、ショウは、縛りとは常に公平なものではないと、特に、リクとの約束に関しては、たった一枚でも呪符の売買が成立した時点で、縛りとして成立していたはずだと言った。その後リクがどうなろうとも、リクは呪符を買い付けたその瞬間、死後の肉体の行方は決まっていたのである。
肥大化した自己愛と承認欲求に負け、無下限呪術を求めたのがいけなかった。リクが取引したこの相手は、噂の呪術師でも、腕の立つ呪具師でも、悪辣な呪詛師でもなかった。悪魔。そう、人ならざる、悪魔であったのだ!
「死にたくない……」
それが、リクの、最期の言葉であった。
ショウは目の前の青年が息絶えるのを見届けると、取り出した呪符から鴉の式神を呼び出し、その足に首飾りを掴ませた。鴉が器用に頭から首飾りを抜き取った、その瞬間、壮年の男は糸の切れた人形のごとく崩れ落ちる。対して、鴉が青年の頭を通して首飾りを身につけさせると、先ほど息絶え、その命を終えたはずの青年は、こともなげに立ち上がり、致命傷だったはずの傷が跡形も無く綺麗になった。そうして、青年は感慨深く周囲を見渡し、まるで見知らぬ場所に来たかのように喜色ばんだ。
死の香りに惹きつけられたのか、新たに呪霊が一体近付いてきた。青年はくずおれた壮年の懐を漁り、呪符の束を取り出す。そのうちの一枚を引っ張って、人差し指と中指の間に挟み、呪霊を差した。
「術式反転「赫」」
赤い光に焼かれ、呪霊が消滅する。青年は肩に止まった鴉を撫で、呪符に戻した。そうして、興奮気味にひとりごちる。
「素晴らしい。やはり実践に勝るものはないな」
そうして青年は、足取り軽く、京都の街に消えていった。
京都府京都市東山区栗田口栗田山南町ニ於テ、呪詛師ト認定セラレタル井上勇ノ死骸発見セラル。
状況ヨリ察スルニ、呪霊ト交戦ノ末斃死ニ及ビタルモノト認メラル。
右ヲ以テ、同人ニ係ル討伐依頼ハ此ニ終了トス。
明治三十八年四月十六日 呪術総監部