いくつもの足音、そして装具の鳴る金属音が重なる。ビルから飛び出した風紀委員達だ。すぐさまイオリを中心とした横列が形成され、十以上の銃口が目下最大のお尋ね者へと狙いをつける。
「……ふふふ」
しかし、アルはといえば不敵に笑うだけで、微塵もうろたえるところがない。
なにかあるなとイオリが睨む。いや、そうでなければ単身乗り組んでくるはずもないか。すばやく計算を済ませると、手を掲げて発砲をするなと周囲に告げながらに一歩前へと歩み出た。
「ふん、大人しく自首しに来たってわけでもないらしいな」
「ええ、もちろんよ。私は交渉に来たの」
「交渉だと? バカバカしい。規則違反者と取引するつもりはない」
「今朝、私達がどの規則に違反したのか知らないけれど」
イオリが、むぐっと喉の奥を詰まらせた。たしかにこの一件について委員会はあまりに性急に過ぎるという自覚があった。だが、動揺をすぐに抑え込む。今の自分は風紀委員会の切り込み隊長ではなく交渉役だ。チナツのように冷静さを忘れてはならない。
「ま、お互い挨拶はこれくらいでいいんじゃないかしら。そちらも目的が果たせればいいはず。違うかしら?」
「目的だと? お前に何がわかるというんだ」
途端、アルの口元が微かに歪んだのをイオリははっきりと見ていた。
「──トリニティ」
アルの紡いだたった一言で、イオリは全身の肌が粟立つのを感じた。バカな、どうして。まさか情報が漏れたというのか。目標の正体がトリニティのスパイリストであるということを知っている者は委員会内でも限られているというのに。
「お前、どうしてそれをっ」
「……へぇ、どうやら当たりみたいね」
「──っ!?」
してやられたとばかりにイオリが顔をしかめる。対するアルは目を細めて笑う。
「お前、カマをかけたのかっ」
「単純な推理よ。いくら貴方達にしたってやり方が荒すぎるもの。風紀委員会がそこまで血眼になるものなんて他にないと思っただけなんだけど」
「……お前、そこまで知ったからにはもう戻れないぞ」
イオリの輪郭が、ゆらりと殺気を放って滲んだ。
「戻るつもりだったら最初からここには来ないわよ? だから交渉といきましょうよ、ね?」
アルは妖艶とすらいえる笑みを浮かべるのだった。それはキヴォトスの暗黒街を生き抜くアウトローの首魁という陸八魔アルという人格を象徴するような表情だった。
だが──、
(やっ、ややややってしまったーーーーーー!?)
当のアルはといえば内心もう上へ下への大騒ぎである。心臓はバックバクに乱れ打っていて、顔面の表皮に張り付いている笑みはといえば「とりあえず笑っとくか」というヤケクソの産物に過ぎない。
(どうしたらいいの……トリニティ絡みの物なんかどう扱ったって大火傷じゃないのよ!?)
天を仰ぎたい気持ちでいっぱいだった。ともかくイオリの動揺を誘いたいという口から出任せだったのに、まさか一発で的中してしまい逆にびっくりするどころではない。自分たちが拾った物が何かミステリアスなものだったらよかったのにという無邪気な願いは弾道ミサイルの如き放物線を描いて、アル達の平穏をぶっ飛ばそうとしていた。
(い、いえ、落ち着くのよ、私。少なくとも悪い展開じゃないわ。イオリだって、これでこっちの話を真剣に聞くしかないんだから。ともかく時間を稼がないと)
アルはそう自分を励まし、冷酷な闇社会の住人という演技プランを懸命に演じ続ける。
「貴方達の目的はこれでしょう」
懐から取り出したBDを高く掲げてみせる。中身はまったく不明だが、あくまで一風変わった履歴書や願書みたいだと仲間たちが言っていたから、アルはそれを少しだけ自分のセンスで彩ることにした。
「そうね、これはトリニティの闇……さしずめ裏の名簿とでも呼ぶのがふさわしいかしら」
闇とは、そして裏の名簿とはいったい何なのだろうか。口にしたアル自身、自分がいったい何を言っているのかまったくわかっていない。
「くっ……バカな、いったいどうしてそこまで機密が……!?」
だが、イオリは見るからにうろたえている!
なんだか驚きを通り越して気の毒になってくる。イオリってもしかして風紀委員向いていないんじゃないだろうか。しかしとアルは背筋にヒヤリと冷たいものが垂れるのを感じる。自分もいたずらに賭けのレートを釣り上げてしまっているのだから。今さらながらBDの中身が美味しいカレーのレシピとかだったらよかったのにと思いながら軌道修正をかける。
「ま、なんであれ私はこの中身には興味はない。だから、これを渡してもいいわ。その代わりに仲間を解放してくれないかしら」
「……さっきも言ったけど風紀委員会はお前達と取引なんてしない」
イオリが掲げていた手をスッと下ろす。いつの間にか二十を数えるまでに増えた銃口の群れが、再び一斉にアルへと突きつけられる。号令一下、いつ嵐のような銃撃がアルへと襲いかかるかわかったものではない。
(ひいぃぃぃいいいヤバいヤバいヤバい、だけどもう少しあと少しだから!)
アルは白目を剥きそうになるのを懸命に堪えながら意味ありげに笑う。
「ふ……ふふふっ、いいのかしら。ここで実力行使なんてしたら、このBD壊れちゃわよ。トリニティの裏名簿がなくなったら──
「なっ、お前、あいつらの介入までも!?」
いよいよイオリのことが段々と心配になってくる。だが、ともかく時間稼ぎは順調だった。もしかしたらこのまま例の仕掛けが発動するまでうまく生き延び、
「──興味深い話をしているじゃない」
られるわけがない。
途端、空気が重さを倍増しにしたかのようなプレッシャーに襲われる。姿はまだ見えないが、その声の正体をアルは知っている。いや、ゲヘナに生きる誰しもが彼女を知っている。彼女に好意を向ける者は少なく、恐怖を抱く者は多い。だが、誰であろうと彼女にまつわる一つの事実を異論なく認めるだろう。
「褒めてあげるわ、陸八魔アル。大した度胸ね」
風紀委員会委員長、空崎ヒナこそがゲヘナ学園の最大戦力であることを──。
イオリら風紀委員が静かに目礼し、その横列が整然と二つに割れた。彼女を守る必要はない。ここにいる誰より、全員を合わせてよりヒナ一人の方が強力だからだ。
風紀委員会を背後に従えたヒナはといえば悠然と仁王立ちをしている。ただ、それだけのこと。だが、それだけのことがアルにとっては恐ろしくてたまらない。
「あっ、うぅ……」
その小さな体と相対するだけで、アルは心臓を鷲掴みにされるほどの緊張に襲われる。
「その度胸に免じて話を聞いてあげる。それと何を交換してほしいって?」
「うぐっ……」
ガタガタと膝が震えて、歯の根が合わなくなる。恐ろしい。さらりと投げられた質問の一瞬後にぶっ飛ばされるのではないかという恐怖。だが、それを妄想だと笑うことができない。それほどまでにヒナという少女の存在感は圧倒的だった。
逃げたかった。ここで回れ右をして走り出しい。腹の底で弱気の虫が暴れだす。いや、逃げてもいいではないか? そもそも今、自分がここにいるのは陽動に過ぎない。時間を稼げばいいのだ。一般の風紀委員やイオリを釘付けにして、ついにはヒナまでも引っ張り出した。上出来だ。あとはもうムツキに任せてしまえばいい。
(だけど、どうして?)
「返し……」
(怖くて怖くて仕方ないのに)
「なさい……」
(今にも心が折れそうなのに)
「私の大切な……」
(いや、そうか──当たり前だ、私は、陸八魔アルは)
「社員をっ!」
(便利屋68の社長だからっ!)
アルがその狙撃銃を突き出してヒナへと狙いをつける。
風紀委員ら、そしてイオリが騒然として銃を構え直す中、ヒナは相変わらず仁王立ちを解こうともしない。「銃を下ろせ、便利屋!」「動くなっ! 少しでも動けば撃つぞ」「自分が何をしているかわかっているのか!」次々に浴びせかけられる殺気混じりの怒号。
しかしアルは一歩も引かず、わずかに銃口を揺るがしもせずにヒナと対峙を続ける。もはや勝算など、どうだっていい。力が強いとか、弱いとかいう次元ではない。これは意地のぶつけ合いだ。誰が相手だろうと一歩だって退いてやるものかと奥歯を噛み締める。
そうして刻一刻と高まる一触即発の空気からすれば、それは実に場違いだった。
「──あらあら、ずいぶんと物々しいですわね」
そこに割って入った声はあまりに優雅過ぎた。