「そういうわけで俺にモテる薬を処方してもらえませんか」
「馬鹿につける薬くらいしか無いわよ」
一縷の望みは絶たれた。
俺は床に崩れるように倒れた。
「邪魔だから何処か別の所にいきなさい」
「ほら
「嫌だ!先生がモテる薬を処方してくれるまで此処で地蔵のように居座って子泣き爺の如く泣き続けるぞ!」
「ハリネズミの如き姿になるまで矢で射つづけても良いのよ」
「どうせ死ぬなら前のめりだ!」
「なんでこの人こんな前向きにネガティブなんですかね……」
◆
場所は永遠亭。
診察室に居るのは月の頭脳にして薬師の八意永琳、そして地上に住む月兎こと鈴仙・優曇華院・イナバ、彼女らに診察を受けているのは人里に住む人並外れた人間こと祐希。苗字は無く、空を飛び、魔法を使い、ついでとばかりに4刀の刀を持っているこの男はただ『モテたい』という一心で人並外れた才覚を発揮し、それを生かせずに今に至る。
「……ええと、要するに?博麗の巫女と、人形遣いの魔女と、半人半霊の庭師に愛の告白をするも振られた……と。随分節操無しね?」
「別にいっぺんに告白したわけじゃねえですけども!?」
「分かってるわよ五月蠅いわね。はぁ……性欲が余ってるなら里の色町を使えば良いでしょう、わざわざこんな所に来て薬を処方してもらうより手っ取り早いわよ」
「性欲が余ってるわけじゃ……いや、まあ余ってはいるけどもさ。色町は……ちょっと事情があって使えないというか……」
「何よ貴方、そんなナリして犯罪者だったの?それとも良くない病気持ちかしら?」
「犯罪者じゃねえし!?……それに……ど、童貞です……」
「あっそ」
心底どうでも良いという表情を浮かべる八意女医と苦笑いをする鈴仙助手。そして眉間にしわを寄せショモショモとした表情で死にそうな顔を浮かべる男。
「なら薬師としてじゃなく年上として言わせてもらうけど、貴方のモテたいという悩みはさっさと童貞捨てれば解決する程度の悩みよ。帰りにサクッと行ってサクっと童貞捨てていきなさい」
「……行きたいのに、行けないんです……」
「はぁ」
「何度か利用をしようと向かったことがあるんですけど、何故かそういう建物に入ろうとする直前に限って必ず人に会うというか……」
「無視すりゃ良いじゃない。別に溜まった性欲を抜くのは悪い事ではないわよ」
「し、師匠……」
そんな明け透けに言うのはどうなの……?と言葉にはしないでも全部表情に出している鈴仙助手を一睨みして黙らせる八意女医。
「去勢……されるんです……」
「……もっと分かりやすく言いなさい。どういう事よ」
「『貴方がそういう所を使う人とは思わなかった』やら、『不要な欲の元は切り落とした方が良いわね』とか言われるんです……」
「……誰によ」
「その時何故か会う霊夢か、アリスか、妖夢に……」
「―――はぁぁぁ……つまり、何かしら?別に付き合ってる訳でもない女性から風俗通いすると去勢すると脅されているって事?馬鹿じゃないの?」
頭を抱えながら深いため息を吐き出す八意女医。月まで投げ出したいよこの匙を。
「大体貴方も貴方ね。そんなの知らないと突っぱねちゃえば良いじゃない」
「無理言わんでくださいよ!3人とも俺よりクソ強い上に容赦なんて無いんだぞ!?俺だって産まれてから一度も使ってない息子を使わないまま切り落としたくねえよ!」
「息子言うな」
もう自立した男が泣きながら女性に対する恐怖を叫ぶものではない。
呆れた女医から更に深いため息が発せられた。
「……ちなみに、だけど。貴方の『モテたい』という願望は、誰でも良いという訳かしら?」
「―――」
男は一瞬言葉を止め、静かに思いをはせるように目を閉じる。
「―――誰でも、良いわけではないです」
「そう。なら……まあ貴方に良さそうな薬を作ってあげるわ」
「本当ですか先生!」
「気休め程度よ。本当にモテたいって言うのなら努力は続けなさい、診察は終わり。うどんげ、私は薬を調合してくるからその間その人の話し相手になってなさい」
「えっ、あ、はい師匠」
そうして席から立ち上がり、奥の部屋へ移動する八意女医。残された鈴仙助手は椅子に座り、まじまじと男の顔を見る。
「しかしそうですね……中々見た目にそぐわずというか……むしろ見た目通りと言うか……霊夢さんとアリスさんと妖夢さんが好き、と……」
「どういう意味ですかね……」
「いえ、その顔の怪我とかは治そうとはしないんですか?見た目が怖いから避けられてるのでは?」
「ああ……いや、この顔の傷は関係ないというか、俺が未熟だったから付いた傷だし……仮に治せるとしても、治さないかな……」
そう言って男は自身の顔を横一文字に走る刀傷を指先でなぞる。既に傷は塞がっており、痛々しい痕を残しているだけだった。
「それに貴方の両腕も随分酷い有様じゃないですか。こんな手じゃモテるも何も無いでしょうに……師匠に言って火傷痕を綺麗に消せる軟膏でも貰ってきましょうか?」
「はは……こいつも俺が未熟だった証だから消そうとは思わないな。それに見た目ほど酷くはないよ、ちゃんと両手は動くし」
そう言って腕を見せる男。その両腕には炎とも雷とも見えるような模様の火傷痕が手から肘まで刻まれていた。
「それに、さ―――なんか、カッコよくない?」
「……はあ、あんまりそうは思いませんけど」
「酷い」
鈴仙は、目の前の男に対して。大人の様に見えても何処か子供っぽくもあり、喜怒哀楽を素直に見せる表情を浮かべる青年のような少年、あるいは少年のような青年に対して。
ほんの僅かだが、好意を持っていた。
彼が此処、永遠亭を訪れるよりも遥か前から彼の事は知っていた。里に何度目かの薬売りに行っていた時。新参者と因縁をつけてきた妖怪を蹴散らそうと弾幕を放ったは良いものの、思いのほか遠くにまで届いてしまって他の妖怪達まで自身に向かって怒りを向けて突撃してきた時の事。思わぬ反撃に涙目となって逃げていた彼女の背に、彼は笑いながら空から舞い降りて迫る妖怪達を魔法で吹き飛ばしていった。
『わはは、妖怪が妖怪に追われてらぁ』と。
初対面の印象は本当に酷かった。しかし彼は妖怪だと分かっているにも関わらず人里まで護衛をし、あまつさえ人里の中を案内する始末。賢い
そんな底抜けの馬鹿で優しい彼に、鈴仙・優曇華院・イナバは、ほんの僅かの好意を持っていた。
「それで、まだ彼女達の事が好きなんですか?」
「あー……んー……まあ、な……。フラれてんだからとっとと諦めりゃいいのにって思ってるんだけどなぁ……」
「ええ全くもって未練がましいったら無いですよね」
「容赦ねえよなほんと!」
プンプンと怒りを分かりやすく露わにする彼に、思わず笑ってしまう。
その笑い顔を見て、彼も思わずクスりと笑ってしまう。
ああ、だからやっぱり―――
「待たせたわね。出来たわよ、薬」
「おお!これで俺もモテモテに……!」
―――やっぱり、悔しいな。
「いや、これは別にモテる薬じゃないわよ?」
「ええっ!?」
「気休め程度って言ったでしょう?これは『胡蝶夢丸』の互換版……『巫山夢丸』という薬よ。効果は夢の中で意中の相手と結ばれる……夢の中だけよ?夢で結ばれたからって現実でどうこうなる訳ではないわ」
「え、ええ!?師匠、『夢』って……大丈夫なんですか!?」
「大丈夫よ。これを飲んでも『夢の世界』がどうにかなる訳じゃないわ。『夢の世界』と『現実の世界』のはざまに一時的に『巫山の夢』の世界を作るだけよ」
「?????????」
男の脳裏には宇宙を漂う猫が浮かんでいた。
そして何も理解していない男に呆れながら八意女医は改めて男に説明をするのだった。
「要するに、寝る前に飲めば貴方の好きな人と結ばれる夢を見れる薬って事よ」
「かんぺきにりかいした」
「本当……?まあ、いいわ。そうね、寝る前に薬を飲んだ後に結ばれたい人の名前を紙にでも書いて、枕の下にでも入れておけばいいわ」
「なるほどね」
男はなんも理解してない顔のまま薬の入った袋を受け取る。
「……ん?これ幾つか入ってるのか?」
「ええ、3錠入ってるわ。……どうせ必要でしょう?」
「完璧に理解した」
男は滅茶苦茶いい笑顔で親指を立てた。八意女医の好感度が下がった。鈴仙助手の好感度が下がった。
「一日一回一錠!用法容量は守りなさいよ。ほら、もうさっさと帰りなさい。今度下らない用事で来たらお尻に矢を刺すわよ」
「お、お大事に……」
シッシと手を払う八意女医。苦笑いしながらも頭を下げる鈴仙助手。それを見ながら男は永遠亭から飛び立ち人里へ帰っていった。
「……全く、変なヤツを好きになったものねうどんげ」
「べぇっ!?べべべ別に好きではないですけど!?」
「……はぁぁぁ」
八意永琳は首を振りながら肩をグイングインすくめて奥の部屋へ戻っていく。
鈴仙・優曇華院・イナバはそんな彼女の肩を両手でつかみながら前後に揺さぶるが全く意に介さず引きずられていった。
「れ、れ、霊夢……さん……!け、結婚を前提にお、お付き合い頂けないでしょうか!」
下げる頭。差し出す右手。今、俺は緊張で立ってるのも覚束ない程だった。
「……なーに言ってんのよ、馬鹿ねぇ」
心底呆れかえるように眉尻を下げる霊夢。
「大体何よ、霊夢『さん』って。アンタ私の事いつもそんな呼び方しないでしょ」
掴まれる右手。そして顎。強引に首を上げさせられ、肩と首に若干の痛みと共に、唇に感じる柔らかな感触。
「私は別に、今から結婚してもいいんだけど?」
「ひぃ、イケメン……」
ゼロ距離から放たれる笑顔は俺の確殺範囲を大きく超え、魂まで浄化していった。
「そもそもアンタ私の事待たせすぎなのよ。一緒に住んでた時からどれだけ時間が経ったと思ってんの?」
「い、いやその……すみません……」
「まあ、良いわ。最後に私の事を選んだってことでチャラにしてあげる。ほら、来なさい」
そう言って俺を何処かへ引っ張っていく霊夢。
「え、あちょ、ど、何処に?」
その細腕からは想像つかない程に力強く握りしめられた俺の右手に視線を向けると、手から首元にかけて真っ赤に染まっている霊夢の白魚のような肌が見えた。
「何処って、決まってるでしょ」
今の俺からでは、ずかずかと俺を引っ張りながら大股で歩いていく霊夢の後ろ姿しか見えないが、そのうなじまでが赤く染まっているのを確認できた。
「と、年頃の男と女が夜にする事なんて、一つしかないでしょ……!」
気が付いたら俺はいつの間にか博麗神社の一室に居て、そこには一つの布団に対して二つの枕が並べられた寝具が置かれていた。
「れ、霊夢……」
「お、女の子に恥かかす気!?」
「霊夢!」
俺は霊夢を布団の上に押し倒し、その紅白の衣服を優しく脱がしていった。
「……なによ、これ」
◆■◆
「アリス、俺と付き合ってください」
下げる頭。差し出す右手。今にも倒れてしまいそうな程緊張してるが、それでも根性で立ち続ける。
「……良いわよ」
アリスの返答と握られる右手の感覚に、思わず左手でガッツポーズをとる。
「っしゃぁ!!!!!!」
「喜びすぎじゃない?」
「これが喜ばずにいられるかィ!!!」
何せこうしてアリスの隣を歩くためだけに死ぬ気で魔法を覚えたのだ。魔理沙と魅魔様とパチュリーには足を向けて眠れないな。
「ところで、私この後暇なのだけど」
「全力でエスコートさせていただきます!!!」
「……ふふっ、よろしく」
アリスを連れて人里を歩く。目についた雑貨屋に入り、妙ちきりんな色眼鏡をかけてみたり、奇怪な玩具を弄ってみたりで冷やかし。雑貨屋を出る前に根付を買ってアリスの傍に浮く上海に括りつける。
あら^~可愛い^~~~~
「何やってんのよ……」
呆れたように笑うアリスに、満更でもなさそうな上海人形。
上海人形の頬をツンツンとつつくアリスの頭に、草冠を模した髪飾りを乗せる。
あら^~~~~~超可愛い^^~~~~~~~
「全く……本当に何やってんのよ……―――ちょ、な、何よ」
可愛い可愛いとアリスを囲む上海人形達。
顔を染めながら人形達を引きはがすアリス。
「貴方は貴方で何ニヤニヤしてんの!早く次行くわよ!」
「はいはい」
上がった口角を左手で直しながら、右手でアリスの手を握る。
次に向かった茶屋で軽食を取り、里の外へ向かう。
空が赤く染まり始めてきた頃、名も無い丘の上に到着する。此処から夕陽に照らされた人里と妖怪の山が一望でき、夕闇が這いよる足音と共に眺める景色はどんな絵画よりも美しい色を映し出していた。
「……里の近くに、こんなところがあったなんてね」
「いい所だろ?内緒のスポットなんだ」
「ええ、本当に……いい所ね……」
そうして俺達二人は、ただ何も言わずに赤から藍へ移り行く景色を眺めていた。
夜。
俺達はアリス宅の前に居た。
「今日のデートはどうだったかな?」
「……まあ、悪くはなかったわ」
「へへっ、頑張って考えた甲斐があるね。ちなみに点数にして?」
「50点ってところね」
「低ぅい!!?えっ!?何!?何がダメだったん!!?」
アリスは呆れたように、それでいて何処か恥ずかしそうにはにかむ。
「……このまま帰ろうとする所よ」
そう言ってアリスは俺の右手を掴み、引き寄せる。
「いや、えっ、あっ、それは、いやでも今日付き合い始めたばっかで!?」
「本当に馬鹿ね。……貴方の事を、あの時からずっと待ってたのよ?」
引き寄せられる腕。傾く重心。近づく顔。そして繋がる唇。
束の間の沈黙。丸一日よりも遥かに長い時間に思えた須臾の時間が過ぎ、互いの顔が僅かに離れる。
「……後の50点分、頑張ってくれるわよね?」
「は、ひゃい」
僅かに赤く染まるアリスの顔。全身に熱湯被せられたように茹で上がる俺。
凧の如く曳かれる俺はそのままアリスの家に引き込まれた。
「……なんですか、これは」
◆■◆
斬り合う刀。駆ける火花。飛び散る汗。
4刀ずつ、互いの刀が入り乱れ、致死の一撃を紙一重で躱し続け、須臾の間隙に入り込む刀は容易く衣服を裂いていく。
「ふふふ」
微笑む二人の妖夢。刃のように鋭い呼気が空気を割り、返す吸気が大気をどよめかす。
特訓の末、幽明の苦輪で半霊を長時間半人の姿に変えた上に違う動きをする事を可能とした魂魄妖夢は、剣術の腕はともかくとして真剣勝負において絶対的な優位性を保っていた。
「くくく」
思わず笑う男、祐希。剣術を覚えて僅か数年。『数が多い方が強い』という馬鹿な理屈を馬鹿正直に捏ね回して2刀の剣を両手に持ち、更に増やした魔法の腕で追加2刀を持ち、合計4刀流。
ただ、目の前の相手に振り向いてほしい。阿呆の一念は今、手が届く位置まで届いていた。
事実、魂魄妖夢は目の前の男を『有象無象』と切り捨てる事は無い。自らの喉元へ刃を届かせうる
『私に勝てれば付き合ってあげましょう』
その約束から、早一年。目の前の男は天才と呼ぶに相応しい才覚を持ち、自らが歩んできた道程を瞬足で駆け抜けていっているのが解かる。
その才覚が妬ましいと思う心は、確かにある。
自身にその才能があればと思うときは、確かにある。
しかしこうして打ち合い続けると、自身の腕が玉鋼のように叩き延ばされ、研がれ、鍛えられていくのが理解出来ている。
僅か、一年。
貴方は有象無象の一人でしかなかった。
その筈であったのに。
僅か、一年。
下らないと思った約束事に向き合う貴方に。
真剣に追いすがろうとする貴方に。
私は今、惹き寄せられている。
言葉ではなく、刀で語り合う男女。
色気がないわと嘆く主人だが、しかし当人にとっては言葉以上に雄弁と語り合えている。
『貴方の事を本気で想っている』と。
振るわれる太刀筋一つとっても。素振りする度に想われている事が伝わってくる。
ただ一撃。
竹刀でもなく、木刀でもなく、刃を引かれてる刀でもない。真剣の、果たし合い。
ただ一撃。
腕でも、脚でも、胴でも、首でも、頭でも。何処かに刃が直撃してしまえば、容易く致命に至る状態で。
ただ一撃。
衣服を着ていても互いに裸同然。命を剥き出し、互いの心臓を食い破らんと眼を凝らし、互いの刹那の
一瞬、瞬間、刹那、須臾。相手の一挙手一投足を観て、僅かな身体のブレを視て、そして相手との未来を見て。
これが男女の逢瀬でなくて、何と言う?
百の太刀筋。千の駆け引き。万の攻防。
そして、終の一閃。
「……お見事」
本体である少女の首に、距離間一髪で添えられる一刀。三刀で抑え込まれる四刀。そして半人から半霊に戻る身体。
永かった逢瀬は、少女の敗北という形で幕を閉じた。しかしそれは終わりを意味するものではなく、新たな始まりを意味する物であった。
「ぜひゅっ!げほっ……ごほっ!ちょ、ちょっと一瞬休憩ッ……ぐぇぇッ!」
「いや全く締まらないですね……」
四刀の刀を落とし、今にも死にそうな顔で地面に跪く男。そんな男に呆れながら、自身も荒い呼吸を整える少女。
ぱっと見た限りでどちらが勝者だか分かりはしないだろう。しかし他人がどう見るかではなく、当人たちが一番勝敗を分かっていた。
地面に倒れ、仰向けに転がりながら荒い息を繰り返す男を改めて見て、自身の鼓動が真剣勝負の時とはまた違う拍動をしている事に気が付く。
少女は、拍動から生まれる情動に身を任せることにした。
「祐希さん」
「はぁっ、はぁぁっ、ちょ、よ、妖夢……?いまマウントポジションは不味いって……!」
はしたなく仰向けに転がる男に、これまたはしたなく腹の上に跨っては男の顔に自身の顔を近づける。
ワタワタと暴れる男の両腕を自身の両腕で捕まえ、その両手指に自身の指を絡めていく。
思った以上に大きな手を意識し、拍動から生まれる情動が更に強くなっていく。
「ピャッ……」
「祐希さん。約束通り、貴方と男女のお付き合いをしましょう。……今更、やっぱ無し、なんて言わないですよね?」
奪うように、貪るように、犯すように、荒々しく。
絡み合う両手の指に更に力を込めながら、男の口内を味わい尽くさんと。
心臓から燃え上がる情動に、キスという油が注がれて更に激しく輝くように燃える恋心。
肺の空気ごと貪り続けられる男は、自身の命の危機によってある欲求が激しく刺激された。
自身に跨る少女を下から押し上げる器官が、少女の意識を奪っていく。
「……良いでしょう。今、此処で、致しましょう」
「ひゃ、ヘ、え……?」
呼吸困難で前後不覚に陥っている男の目に映る、にぃんまりと笑う少女と青空。
バサリと舞う少女の衣服。青空の下に映える白い肌。そして何より、熱病に浮かされるような少女の瞳が印象に残る。
あっという間に一糸纏わぬ姿となった少女と、その少女によって何が何やら理解が追い付いてないままに衣服を脱がされる男。
そして少女が再び男に跨り―――
「……は?」
「そういうわけでもう一度あの薬を処方してもらえませんか」
「馬鹿につける薬くらいしか無いわよ」
一縷の望みは絶たれた。
俺は床に崩れるように倒れた。
「邪魔だから何処か別の所にいきなさい」
「ほら
「嫌だ!先生がナントカ夢丸を処方してくれるまで此処で地蔵のように居座って子泣き爺の如く泣き続けるぞ!」
「ハリネズミの如き姿になるまで矢で射つづけても良いのよ」
「どうせ死ぬなら前のめりだ!」
「なんでこの人こんな前向きにネガティブなんですかね……あれ、デジャヴ?」
◆
永遠亭の診察室。そこに女性二人と男性一人が居た。
呆れたように頭を左手で抱えながらカルテを書く薬師、八意永琳。元月の兎にして現地上の兎、鈴仙・優曇華院・イナバ。そして人里一番の阿呆こと祐希。
「はぁぁぁ……暇じゃないのだけど……それで、ご用件は?」
「幸せな夢を見た後現実に戻って『何故現実ではうまくいかないんだろう』と辛くて……」
「でしょうね」
知ってたと言わんばかりに眉間に力を込める八意永琳。
「それで辛い現実から逃げたくて、また巫山夢丸が欲しいと……昨日の今日よ?3錠渡したわよね?」
「ぜんぶのんだ……」
「全部飲んだァ!?」
用法用量は守りなさいよと書いてたカルテを男に投げてブチ切れる八意永琳。バカタレがよ。
「(師匠から暴言なんて聞いたこと無かったのに……)」
「ち、違うんすよ……最初一錠飲んで眠った後夢見て……その後起きたら余りにも現実との違いに辛くなってすぐ次の一錠飲んで寝たんですよ……それを繰り返して……」
「一日で3回薬飲んで寝たって事ぉ!?馬鹿がよぉ!」
「し、師匠落ち着いて……キャラクター崩壊してますって……」
「ぐぇぇ……首締まる……」
男の喉に両手を掛けてガクガク揺らす八意永琳。どうどうと宥める鈴仙・優曇華院・イナバ。泡を吹き始める
閑話休題
「とにかく巫山夢丸はそこそこ強い薬だから一日に3錠も飲むなんて普通に命に関わるわ。本当に何ともないのね?」
「現実が辛い事以外は、特に……」
「……そう、まあ……良かったわ」
「何でそんな気にするんですか?」
「当たり前でしょう?私が処方した薬で命に関わるなんて私が許せないの」
「プロだ……」
「下らない事言ってるとシバくわよ」
ため息一つ。
「それで?また巫山夢丸が欲しいのかしら」
「欲しいです」
「―――本当に?」
診察室内の空気が変わったのを、鈴仙助手は察した。
「貴方は……本当に、現実の世界よりも『巫山の夢』の世界が良いのかしら」
殺気にも似た空気が診察室内を満たす。その発生源は当然、八意永琳からだった。
「貴方の積み重ねてきた努力、経験、それら全てを捨てて夢の世界に閉じこもりたいの?」
「……」
その空気の変化には、阿呆だ馬鹿だとよく罵られる男であっても気が付いていた。
この幻想郷において、男の
望まずとも天賦の才を持ち産まれた男は、常に降り注ぐ理不尽の雨から脆く儚い人々を守る『傘』であった。
そうあれかしと
「……生きるよ」
勿論、永夜の異変まで外に出る事の無かった八意永琳はソレを知らない。
しかし男の名を聞き、字を読んだ事でその
「俺は生きるよ、現実を。辛くても。思い通りにいかない世界を生きるよ」
「……そう。なら、精々頑張って生きなさい。思い通りにならない世界でも、幸せになれるように」
八意永琳は知っている。
どんな頭脳をもってしても世界を完全に思い通りにする事は出来ないと知っている。
八意永琳は覚えている。
かつて存在した、愚かで愛しい存在。それが自身の手から零れ落ちていったことを覚えている。
八意永琳は思い出す。
丁度目の前の男と、とてもよく似た眼をした者を思い出す。
地上の終わりにして新たな歴史の始まりの日。自身の手を振り払って地上に残った男とよく似たその眼。
永い永い年月の果て、とうに擦り切れたと思っていた記憶。擦り切れたと、そう思っていた筈の男の名は……嗚呼、目の前のその男と―――
「……」
「……師匠?」
「本当に辛くなって、耐えられなくなったら……また来なさい。その時は気休めじゃなく、ちゃんとした薬を処方してあげるわ」
「はい、ありがとうございます。八意先生」
「ん。ああそうだ。帰るついでに、人里にうどんげ連れていきなさい。うどんげ、貴方今日の薬の配達まだでしょう?一緒に行きなさい」
「へっ?え、いや今日は配達の日じゃ……」
八意永琳は鈴仙助手に顔を向け、笑いかける。
にっこぉ……
「行きなさい」
「ピェ……は、はいぃ~」
笑顔の圧力に屈した鈴仙助手は急いで配達の準備に取り掛かる。
男もまた、人里に帰るための準備をする。二刀を腰に履き、二刀を背中にかつぐ。懐に忍ばした霊札と魔香炉の存在を確認し、出る準備は整えた。
「……ねえ」
「はい?」
八意永琳に声を掛けられ、ふと顔をあげる。その視界には、先程とは打って変わって優しく微笑む顔が見えた。
「望んだものが手に入らなくても、代わりのものは案外身近に転がってるものよ。もしかしたら、時にはそれが望んだものよりも良いものかもしれないわ」
「???」
何もわかってない顔をしているが、本当に何もわかってない男が此処に一人。
どうせまあそうなるだろうと思っていた月の賢者はそのまま手を払うように振る。
丁度そのタイミングで準備を終えた鈴仙助手が来て、男は何もわかってない顔のまま鈴仙助手を連れて永遠亭を離れていった。
「……」
「……あら、てゐ。居たの」
物陰から猫のようにまんまるな目で八意永琳を見る因幡てゐ。
「……師匠にも億年ぶりの春ウサか」
「薬の実験台になりたいのなら素直にそう言えばいいのよ」
「いやぁ遠慮するウサははは」
はははと笑いながらスタスタ逃げる因幡てゐ。
うふふと笑いながらスタスタ追う八意永琳。その両手にはいつの間にか水薬の入ったフラスコが握られていた。
◆
迷いの竹林から人里にかけての道中。
男と女は流れるような速さで飛びながら会話を続けていた。
「それで、巫山夢丸を飲んでどんな夢を見たんですか?」
「い、いやーちょっと人に話すには刺激的すぎるかな〜って……」
「……どんな夢を見たんですか……?」
「おいその『マジかコイツ』みたいな目で見てくるの止めろ下さい。良いだろ別に男なんだからスケベな夢見てもさぁ!」
「うわ……」
「ガチトーン止めな〜?身体は丈夫でも心はガラスだからな〜〜〜???」
「大丈夫ですよ祐希さん。男性ってのはだいたいそんなものですからね」
「壁が!?何故か此処に見えない触れない透明な壁を感じるッ!??」
チクショーメェ!と騒ぐ男を見て、クスクスと笑いながらメンタルは大丈夫そうだと確認する鈴仙。
ふと空を見上げると、白黒の何かが流星のような速さで飛んでいくのが見えた。
「ん?」
と思った次の瞬間、流星は向きを変えて一直線に2人に向けて降ってきた。
「おーい祐希!……とぉ永遠亭ん所の兎か。何やってんだこんなとこで?」
白黒の何かは普通の魔法使い、霧雨魔理沙だった。
ブワサッと高速で飛来し、風を巻き込みながら男の横に止まる。白いドロワーズ。
「よう魔理沙。ちょっと永遠亭の帰りでな」
「おん?どっか悪いのか?頭?」
「おう、馬鹿に効く薬を処方してもらってな……って違うわ!」
わはは、と笑う魔理沙に掴み掛かる祐希。魔理沙は笑いながらヒョイヒョイと男の攻撃を躱し続ける。
1分程度の攻防は男が諦める形で決着がついた。
「はぁ……そういう魔理沙はこんなとこで何やってんだ?」
「別に?研究が行き詰まって気分転換してるだけだぜ。しかしあれだな、なんか珍しい組み合わせだな」
「そうか?」
「おう、美女と野獣って感じ」
「誰が野獣だテメェこのやろう」
再び始まる二人の攻防。漫才にも似たやり取りを見てクスクスと笑う鈴仙だが、視界の端。煌めく銀閃が一直線に男の首へと吸い込まれるように伸びていくのを刹那の時間で見た。
チリッ
氷の炎で炙られたかのような寒気の走る高熱が首筋に走ったと感じた瞬間、男は腰に履いてた刀の鯉口を切り、須臾の間に刀を抜き、殺意の銀閃を受け止めた。
ギィィンッ!!
鉄と鉄がぶつかり合う音。逢う眼と眼。そこに立って居たのは。
「―――妖……夢?」
そこに立って居たのは。瞳に殺意と憎悪を携え、妖怪が鍛えたという長刀『楼観剣』を両手に持ち、全力の技術を持って男の首を刎ねんとしている半人半霊の二刀剣士『魂魄妖夢』。
「―――」
魂魄妖夢は語らない。
彼との真剣勝負の間、決着が着くまで魂魄妖夢は語らない。口より雄弁に両手に持つ刀が語るから。
振るわれる剛剣。生半な技量で受ければ手に持つ刀を手首ごと根こそぎ叩き落とす力の剣は、男の柔によっていなされる。
目の前で突如振り回される銀閃に驚いた霧雨魔理沙と鈴仙・優曇華院・イナバは思わず二人から距離を取った。下手に近づけば、その銀閃に断たれるであろう。
魂魄妖夢は語らない。
楼観剣の両手持ちから楼観剣と白楼剣の二刀流に変わり、男も腰に履いていた刀を二刀とも抜いて応戦していても決して口では語らない。
片や殺意と憎悪の滲む剣閃で、片や困惑と悲哀を秘める剣閃で、剣戟の会話は続く。
「―――妖夢!」
叫ぶ
一緒に飛んでいた筈の少女が、突如神速で一人の男に向かって突撃をした。その事実に意識が追いついた時になって、ようやく動き出した身体が現場に到着した。
怒りと憎しみに囚われた剣士はいつしか二人に増え、男も背中に背負った二刀を抜いて四刀で応戦する。
当たらば致命に至る剣閃が幾百幾千と感情任せに振るわれ、男の衣服は傷だらけとなっていく。しかしその剣が男の身体に当たることは無く、感情で震える太刀筋は男にとって捉えやすい
故に、必然。
天賦の才を持つ男が、四刀の刀を全て地面に叩き落として真剣勝負は決着した。
「―――ッッッ!!!」
震える手首は、叩き落とされた刀の衝撃のせいか。それもあるだろう。
手首の震えは、すぐに腕を伝い、肩、脚、そして全身に及んだ。
「妖夢、どうして―――」
「……この、軟派者が!!!」
男の疑問の声は、すぐさま発せられた震える絶叫にかき消された。
「お前のような男なんて大っ嫌いだ!!!」
吐き捨てるように言い放たれた言葉は、男の心の柔らかい所を容赦無く切り裂いていった。
言葉の刃が男を傷つけ、悲痛に歪む顔に一瞬惑うも振り払うように何処かへ駆けていく魂魄妖夢。
その影を追わんと飛ぶ西行寺幽々子は男の姿を悲し気に一瞥するも、魂魄妖夢を追う事を優先して飛んでいった。
「……大丈夫ですか?」
「アイツと何があったんだよ」
魂魄妖夢と西行寺幽々子の背が見えなくなった頃、おずおずと近づいてきた魔理沙と鈴仙の二人は男を気遣う。
「……大丈夫だよ、ありがとう。なんか分かんないけど、嫌われちゃったみたいだわな。はは……」
痛みを堪えるように笑う男を見て、更に悲しそうな表情を浮かべる鈴仙。
「……ま、元気だせって!何か分かんないけど嫌われたってんなら、何か分かんないけど好かれる事もあるだろ!」
わははと笑い飛ばしながら男の背中をぶっ叩く魔理沙に軽くつんのめりながら、呆れるような笑いを零す。
そうして人里への道中、魔理沙からは滾々と湧く泉のように話題が溢れ続け、男も鈴仙もそれに内心圧倒されながらも笑い声は絶えなかった。
◆
人里。
時間は、太陽が中天を少し過ぎた辺りの頃。
「はー、なんかしゃべり過ぎて腹が減ったぜ。おい祐希、なんか奢れよ」
「ちょ、ちょっと魔理沙。いくら何でも図々しいって」
「良いよ別に。女の子二人に奢った所でどうにかなる程度の懐具合じゃねえんでな」
「おっ、言ってみるもんだな。太っ腹~」
「私も良いんですか?ありがとうございます」
「どういたしまして。そこの茶屋で軽く食ってくか」
そうして茶屋の軒先にある赤い縁台に並んで座る三人。
注文を取りに来た茶屋の看板娘に適当な甘味とお茶を頼む。
注文したものが届く間、やれあそこの蕎麦屋は美味いあそこの団子屋は不味いだの、外来人が商ってる定食屋があるだの、注文したものが届いても話題はやはり尽きない。
誰かがお茶を啜ってる間に、他の二人が会話をする。誰かが団子を頬張ってる間に、他の二人が喧嘩じみたやり取りをする。そんなゆったりとした時間が流れている。
そんな空間を、氷のように冷たい眼で見つめる一人の少女が居た。
「……ん?アリスじゃないか。こんなところで何してんだ?」
そんな少女に最初に気付いたのは霧雨魔理沙。団子の串を口に加えたまま、少女に手を振って存在をアピールする。
それに気づいた二人も、魔理沙の視線の先に居る少女に意識を向ける。
「あ、どうも」
「よぉっす。あー……アリスも食ってく?俺が奢るよ」
男は、少女が不機嫌であることに気が付いていた。
男は、少女が甘いモノが好物であることを覚えていた。
男は、未だに自身の中にある少女への恋心が燻っている事を知っていた。
男は笑顔を浮かべ、自身の横に座っていた魔理沙をさりげなくどけて隣にスペースを作りそこへ少女を案内する。
「おいコラお前ふざけんな」
「(うるせえ今そう言うの良いからおとなしく移動しろ馬鹿)」
「お前マジお前本当にいい加減にしろお前」
顔に青筋立てて男に額をぶつけながらメンチ切る魔理沙を魔法の腕を使ってまで引き離す祐希。
そんなやり取りを見ている少女は―――
「ばっかみたい」
パチン
―――右手を振り抜いた。
「……えっ」
「貴方のそういう所が嫌いなの。二度と私の前に現れないで」
そう言って少女、アリス・マーガトロイドは何処かへ歩いて行った。
「……」
頬を赤く腫らした男を置いて。
「……は?」
目の前で何が起きたのか、理解がようやく追いついた魔理沙はアリスが消えた方向を睨みつける。
「アイツっ……!もう許さねえ!待ちやがれッ!!!」
顔を怒りに染め、両手を握りしめて震わせる少女は白黒の魔女帽子を縁台に置き忘れたまま、アリスが消えた方向へ駆け出した。
「あっ、えっ……あっ、だ、大丈夫ですか!?」
魔理沙が駆け出した事で、ようやく何が起きたか理解が追い付いた鈴仙が頬を腫らした男に手を当てて様子を見る。
「―――……ああ、うん……大丈夫」
男は、頬に感じる痺れと熱に浮かされたように。絞り出すように声を出す。
「大丈夫……大丈夫だから……」
「で、でも……」
鈴仙はうわ言のように大丈夫を繰り返す男に、持っていた籠から腫れに効く湿布を取り出し、男の腫れている頬に貼ろうと両頬を押さえるように顔を覗き込む。
「……ぁ」
男の、オニキスによく似た黒い光沢を秘める目からぽろりと涙が零れる。
ただそれだけの事なのに、鈴仙の心は鋭い爪で掻きむしられたかのような痛みが走る。
「だ、大丈夫だから。俺は大丈夫だから……!」
鈴仙の手は
鈴仙は、男の背中を見ているしか出来なかった。
◆
夕方。
博麗神社前。
伊吹萃香はため息を吐きながら箒を持って境内の掃除をしていた。
「まぁ~ったく、鬼使いが荒いったらありゃしないねぇ霊夢は」
あ~やだやだと言いながらも箒を動かす伊吹萃香。
何故伊吹萃香が博麗神社の掃除をしているか。それには山よりも高く海よりも深い理由があり、有体に言えば機嫌が悪い博麗霊夢を更に怒らせてしまったからなのだ。
同じようにタイミング悪く霊夢をからかってしまった八雲紫が鬼ですらドン引きするようなとんでもない目にあわされ、こうしてご機嫌取りに渋々ながらも境内の掃除をしていた。
博麗霊夢の機嫌が悪い理由は定かではないが、何でも夢見が悪かったからではないかとの事。夢見が悪いから機嫌も悪くなるなんて子供じゃあるまいに―――なんて考える伊吹萃香の頭の横を物凄い勢いで陰陽玉が通り過ぎていく。
下手な事も考えられんなぁと冷や汗を滝のように流しながら箒を動かす伊吹萃香の眼下、博麗神社の長い参道の階段をゆっくり飛んでくる人間の姿が見えた。
「おや、こんな時間に人間の来客とは珍しいね。誰かなぁ~?」
もうじき日も沈み、妖怪たちの時間となる。幻想郷に住む住人なら当然知っている知識であり、知っておくべき常識である。
妖怪神社とも名高い博麗神社に、わざわざこんな時間に訪れる人間なんて限られていた。
鬼は眼を凝らしてよくよく見れば、性別は男。顔に横一文字の刀傷が有り、四本の刀を持った出で立ちは一度見れば忘れようもない、愛すべき
その姿を認識した鬼は、にんまりと笑顔を携えて階段を上ってくる男に向かって飛びつきに行った。
「おーい!よく来たぁー!!」
「うん?―――うわッ!?」
階段の上段から降ってくる子供にも似た二本角を持つ鬼に、男―――祐希は全身の筋肉を総動員し、更に魔法の腕を支えにして飛来してくる鬼を抱き止めた。
「だはは!よく受け止めたな!どうしたそんな真っ赤に顔腫らして、今にも死にそうだなぁ!」
「ははは……」
わしわしと男の顔を掴みながら、器用に男の背中へ移動して強引におぶさる伊吹萃香。
伊吹萃香は、人でありながら人並外れたこの男を好ましく思っていた。鬼として幻想郷に戻ってきた時、幻想郷に異変を起こした後の事。我武者羅に強さを求めるこの男の前に偶々現れ、死闘とも呼べるような戦いを経て、酒を酌み交わし、そしてまた時を経て戦い……鬼に勝利した愛しき人間。伊吹萃香は、この人間の事が大好きだった。
それに今までの経験から、霊夢は祐希が傍に居るだけで何処か機嫌が良さそうだった。だからという訳ではないが、この人間がこのまま博麗神社に向かえば、なんでか虫の居所が悪い霊夢の機嫌も治るに違いないと、そう思った。
だからこのまま祐希の背中に揺られながら博麗神社に向かい、機嫌の良くなった霊夢と祐希と、あとついでに霊夢にボコされた紫を交えて宴会をしよう、と。賢者足り得ずとも、永きを生きた者の考え深さで算用を巡らす伊吹萃香だった。
だから
「おーうい霊夢ぅー!愛しの愛しの旦那さんを連れてきたぞぉーう!」
何の気なしに放った一声が
「帰って。貴方の顔なんて見たくもないわ」
男の心の、柔らかな所に修復不可能なほどの風穴を開ける事になるなんて考えもしなかった。
「なん―――」
「貴方の声も聴きたくない、何処かへ消え失せろ」
「―――ッ!」
男は、背中の萃香を優しく地面に降ろした後。
ふらふらと、幽鬼のように。
何処かへ、消えていった。
何故、どうしてこんなことになった?
「……霊夢」
「萃香、あんた、掃除は終わったの?」
「そんなことはどうでも良い!お前、なんで―――」
その先の言葉は、言えなかった。
霊夢の瞳を、見てしまって。
「―――何?」
その、憎悪が何億と重なり渦巻いている瞳を見てしまって。
怖くなってしまったから。
宵闇の時間。
幻想郷の何処か。
日は沈み、辺りに妖怪共の息遣いが聞こえてくる。
こんな時間で出歩いている人間は、三つに分かれる。
一つは、無知なる者。夜の怖さ、命の脆さを知らない者。あるいは、夜を畏れぬ愚かで哀れな外来人。
二つは、生に飽いた者。生きる意味を無くした者。あるいは、死ぬ理由が出来た者。
三つは、妖怪すら恐れる強者。恐れられる者。畏れられる者。
宵闇を歩く少年が一人。その者は、何れか。
ほうら、闇夜の息遣いが聞こえてきた。
狩りの時間。哀れな獲物がほっつき歩いているぞ。
食事の時間。愚かな人間がさ迷い歩いているぞ。
喰らうならば早い者勝ちだ。それを得たものだけが全てを奪えるぞ。
さあ。
さあ。