異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第100話 竜の目

 大迷宮第49層。深淵の底に澱む濃厚な魔力は、視界を遮る霧となって辺りを白く塗り潰していた。

 その静寂を切り裂き、赤鱗の飛竜が放とうとした超高熱のブレスが、周囲の空気を歪ませる。

 絶体絶命。岩壁に追い詰められた蒼介の網膜には、死のカウントダウンを刻むかのように、ナノマシンの警告表示が赤く点滅していた。

 

「蒼介、今ッ!」

 

 背後から響いたのは、いつもの天真爛漫な響きを捨て去った、ネアの悲痛な叫びだった。

 彼女の瞳が禍々しいほどに鮮やかな紫の光を放ち、周囲の魔力が物理的な圧力となって渦巻く。

 魔人族に伝わる禁忌の暗示魔法。それは生物の意識に直接爪を立て、認識という名の世界そのものを書き換える暴挙に等しい。

 次の瞬間、咆哮を上げようとした飛竜の動きが、糸が切れた人形のように唐突に硬直した。

 

(かかった……!)

 

 蒼介は一瞬の迷いもなく地を蹴った。

 ネアが飛竜に植え付けた暗示は、単なる視界の遮断ではない。

 それは「距離感の完全な誤認」だ。

 飛竜の脳内において、目鼻の先にいるはずの蒼介の存在は、今や数百メートル先の遥か彼方へと遠ざけられている。

 熱源探知も、鋭敏な嗅覚も、ネアの強大な魔力が引き起こした認識のバグによって、すべてが狂わされていた。

 

(ネアが作ってくれた、たった一度のチャンスだ……!)

 

 飛竜は虚空を睨み、実際には存在しない「遠くの獲物」に向かって首をもたげる。

 その口内に蓄積された炎の奔流が、見当違いの方向へと解き放たれた。

 轟音と共に、蒼介たちのいた場所から大きく逸れた岩肌が蒸発し、溶岩の飛沫が霧を真っ赤に染め上げる。

 

「システム……全リミッター解除! 【迅速(ブースト)】ッ!!」

 

 蒼介は叫んだ。

 体内のナノマシンが過負荷を告げる悲鳴を上げ、神経系が焼き切れるような激痛が身体を走る。

 だが、その苦痛と引き換えに、蒼介の肉体は物理限界を超えた加速を手に入れた。

 地面を爆発的に蹴る衝撃で足元の岩が粉砕され、彼の身体は一本の黒い矢となって霧の中を突き抜ける。

 

 網膜のインターフェースが、飛竜の巨大な体躯をスキャンしていく。

 【探知(サーチ)】の青い光が、分厚い鱗に守られた生命反応の奥底、たった一点の弱点を射抜いた。

 首の付け根、胸元に近い位置に存在する、異様なほど高い魔力密度。

 それは「逆鱗」と呼ばれる、飛竜の魔力循環を司る心臓部の魔力器官だった。

 

(あそこを潰せば、このバケモノでも沈む!)

 

 飛竜が自分の足元に肉薄する蒼介に気づいたのは、彼がその懐に飛び込んだ瞬間だった。

 暗示によって狂わされた距離感が、物理的な接触という現実によって強引に引き戻される。

 飛竜の黄色い瞳が驚愕に細まり、巨体が震えた。

 だが、もう遅い。

 

 蒼介は腰のホルスターから、ワイヤー射出式のアンカーショットを引き抜いた。

「食らえ……ッ!」

 引き金を引くと同時に、特殊合金製のアンカーが、飛竜の喉元の硬い鱗の隙間へと深く突き刺さる。

 高張力ワイヤーが瞬時に張り詰め、加速し続ける蒼介の身体を支点として、猛烈な遠心力を生み出した。

 

(もっとだ……もっと加速しろ……!)

 

 蒼介は振り子のように飛竜の巨体を駆け上がる。

 ワイヤーの張力と【迅速(ブースト)】による速度が組み合わさり、彼の身体は肉眼では追えないほどの高速回転を始めた。

 飛竜は狂ったように首を振り、蒼介を振り落とそうと暴れる。

 だが、アンカーは外れない。

 最高速度に達した瞬間、蒼介は右手のナイフを逆手に握り直し、全身のバネを一点に集中させた。

 

 加速の全てを、刃の先端に乗せる。

 蒼介の身体が、飛竜の逆鱗を掠めるようにして、音速を超えて交差した。

 

「おおおおぉぉぉぉぉッ!!」

 

 硬質な鱗を抉る、不快な金属音が響き渡る。

 だが、ナノマシンによって分子レベルで強化されたナイフの刃は、飛竜の魔力器官を保護する骨質の外殻を、紙細工のように容易く切り裂いた。

 抉り取られた逆鱗が、鮮血と共に空中へと舞う。

 それは、この巨獣が数百年かけて蓄えてきた魔力の結晶だった。

 

『ガ、ガアァァァァァ…………ッ!?』

 

 断末魔の咆哮が、峡谷を激しく震わせた。

 魔力の源を失った飛竜の身体から、瞬時に生命の灯火が消え失せる。

 真っ赤に輝いていた鱗はくすみ、山のような巨躯が、重力に従ってズルリと岩壁から剥がれ落ちた。

 数秒後、谷底の深い闇の中から、地響きを伴う落下音が響き、それが最後の静寂を運んできた。

 

 蒼介はワイヤーを切り離し、激しく息を切らしながら着地した。

 【迅速(ブースト)】の反動で両足の筋肉が痙攣し、立っているのが精一杯の状態だ。

 視界がチカチカと明滅し、過負荷による吐き気が込み上げる。

 だが、彼は自分の容態を確認するよりも先に、後ろを振り返った。

 

「ネア……!」

 

 そこには、力なく地面に膝をつくネアの姿があった。

 彼女の青紫の髪は乱れ、白磁のような肌は死人のように青ざめている。

 そして、彼女の鼻からは、痛々しいほどの鮮血が流れ落ちていた。

 

「ネア! しっかりしろ!」

 

 蒼介は痛む足を引きずり、彼女のもとへと駆け寄った。

 崩れ落ちようとする小さな肩を、両手でしっかりと抱き止める。

 ネアの身体は、驚くほど冷たく、そして小刻みに震えていた。

 格上の魔物の精神を無理やり書き換えた反動は、彼女の未熟な精神回路を内側から焼き切らんとするほどの負荷だったのだ。

 

「……あ……ソースケ……?」

 

 ネアが弱々しく目を開けた。

 焦点の定まらない瞳が、蒼介の顔を探すように彷徨う。

 彼女は自分の鼻血を拭うことさえ忘れ、震える唇を微かに動かした。

 

「やった……ね……。アイツ……いなくなった……?」

「ああ、やったよ。お前のおかげだ、ネア」

 

 蒼介は、自分を案じるように見上げる彼女の頭を、大きな手で優しく撫でた。

 その言葉を聞いた瞬間、ネアの顔に、いつもの子供のような無邪気な笑みが戻った。

 たとえ身体がボロボロであっても、彼女にとっては、蒼介の役に立てたという事実が、何よりの特効薬だった。

 

「……よかったぁ。私、ちゃんと……ソースケの『仲間』に、なれてたかな……?」

「何を言ってる。お前がいなきゃ、今頃俺は炭になってた。お前は、最高の相棒だ」

 

 蒼介の言葉に、ネアは安堵したようにふっと目を閉じた。

 そのまま、緊張の糸が切れたように彼の胸の中に体重を預ける。

 彼女の小さな寝息を聞きながら、蒼介は自分の中に残るわずかな魔力を振り絞り、彼女を背負い上げた。

 

(無茶をさせちまったな……)

 

 蒼介は、思わず自分の腰に手を当てた。だが、そこに銀のペンダントは無い。

 

 蒼介は、ネアがずり落ちないように背中で固定し、目の前にそびえ立つ断崖を見上げた。

 飛竜の巣を抜けた先には、セレスたちが待つであろう上層へと続く、険しい登り道が続いている。

 空気は薄く、風は再び冷たさを増してきた。

 だが、蒼介の足取りは、先程までよりもずっと力強いものになっていた。

 

(待ってろ、リリア、セレス。今、こいつを連れて戻るからな)

 

 蒼介は一歩、また一歩と、赤茶けた岩肌に足をかけ、崖を登り始めた。

 二人の背後では、飛竜がいなくなった空っぽの巣が、霧に包まれて遠ざかっていく。

 死線を超えた者たちだけが許される、わずかな希望。

 その光を求めて、現代から来たシーカーと、異世界の少女は、再び歩みを合わせるのだった。

 

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