異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第103話 魔眼と騎士剣

 大迷宮第四十九層。魔の峡谷と呼ばれるこの階層群もいよいよ大詰めを迎えていた。

 険しい岩肌を縫うように続く細い山道には、常に強風が吹き荒れている。一歩足を踏み外せば底の見えない雲海へと真っ逆さまである。これまでの蒼介とセレスの二人きりの旅程であれば、ただ黙々と、神経をすり減らしながら進むしかない過酷な道のりだった。

 だが今日の彼らの足取りは、どこか軽やかであった。

 その理由は、先頭を歩く蒼介のすぐ後ろを、弾むような足取りでついてくる魔人族の少女の存在に他ならない。

 

「ソースケ、気をつけてね! この先の岩、ちょっと滑りやすくなってるから!」

「ああ。わかってる」

「セレちゃんも! 風が急に強くなるから引っ張られないようにね!」

「わ、わかっている。私を子供扱いするな」

 

 ネアの明るい声が吹き荒れる風鳴りの音をかき消す。彼女の存在は、常に死と隣り合わせの迷宮探索において、張り詰めた糸をほどくような心地よい緩みをもたらしていた。

 蒼介は腰のペンダントに軽く触れながら、周囲の警戒を怠らずに歩を進める。彼の体内を巡るナノマシンが、絶え間なく周囲の環境情報を脳内にフィードバックしていた。

 【探知(サーチ)】のスキルは、半径五十メートル以内の生命反応や微細な空気の揺らぎを正確に捉える。蒼介はその情報を元にルートを算出し、後続に指示を出すのがこれまでの基本戦術だった。

 だがネアが加わったことで、その戦術は劇的な進化を遂げようとしていた。

 

(……来るな。前方三十メートル。岩肌の裏側に三体)

 

 蒼介は無言で右手を挙げ、歩みを止めた。セレスが即座に立ち止まり、槍の柄を握りしめる。ネアもピンと耳を立てて身を屈めた。

 蒼介は振り返らずに小声で指示を出す。

 

「前方の岩壁の裏に、ロック・リザードが三体張り付いてる。こちらを待ち伏せしてるな」

「了解した。私が先陣を切ろう」

 

 セレスが前に出ようとした瞬間、蒼介は手でそれを制した。

 

「待て。正面から突っ込めば乱戦になる。足場が悪いここではリスクが高い。ネア、出番だ」

「うんっ! 任せて!」

 

 ネアは胸の前で両手を組み、紫色の瞳を妖しく光らせた。

 彼女の得意とする精神干渉魔法。その一つである「認識阻害」の領域が、蒼介たち三人をすっぽりと包み込む。物理的に姿が消えるわけではない。だが他者の意識から、彼らの存在感や足音、さらには匂いまでもが極限まで薄れ、風景と同化するのだ。

 岩壁の裏に潜んでいたロック・リザードたちは、獲物の気配が突然消滅したことに混乱し、舌をチロチロと出しながら岩陰から顔を覗かせた。

 その瞬間にはもう、蒼介たちは彼らの死角たる頭上にまで接近していた。

 

「セレス、やれ」

「――シッ!」

 

 認識阻害の恩恵により、魔物は上空から迫る死の影に全く気づかない。

 セレスの槍が雷光を纏い、岩壁に張り付いていた魔物の一体を脳天から貫く。同時に放たれた電撃が岩肌を伝い、残る二体を麻痺させて硬直させる。

 蒼介が【迅速(ブースト)】を発動させる。極限まで高められた身体能力で岩壁を蹴り、空中に躍り出た。彼の手にあるナイフが銀の軌跡を描き、硬直した二体の魔物の首の隙間、装甲の薄い致命の部位を正確に切り裂いた。

 魔物たちが断末魔の声を上げる暇もなく、三つの巨体が谷底へと落下していく。

 戦闘開始からわずか数秒。完全に無傷での制圧だった。

 

「すごい……」

 

 セレスは槍を引き戻しながら、信じられないというように己の手元を見つめた。

 これまでの彼女の戦い方は、騎士としての正々堂々たる正面突破が基本だった。蒼介の【探知(サーチ)】で先手を取れたとしても、魔物がこちらを視認すれば必ず反撃が来る。それを防御や回避でいなしながら攻撃を叩き込む必要があった。

 しかし今は違う。ネアの認識阻害があれば、敵はこちらの接近に全く気づかない。完全に無防備な相手の急所に向けて、最大火力を最初から叩き込めるのだ。

 

「驚くほど戦いやすいな……。敵がこちらを認識していないだけで、こうも一方的な蹂躙になるとは」

「だろ? こいつの魔法はこういう隠密行動でこそ真価を発揮する」

 

 蒼介が着地してナイフの血振りを行うと、ネアがえへへと照れくさそうに笑いながら駆け寄ってきた。

 

「ソースケ、セレちゃん、今の完璧だったね! 私、ちゃんと役に立ったでしょ?」

「ああ。あの岩トカゲども、死ぬ瞬間まで俺たちの存在に気づいてなかったぞ」

「えへへー!」

 

 ネアは嬉しそうに両手を上げてバンザイの姿勢を取る。

 腰のペンダントからは、リリアの感心したような声が響いた。

 

『見事ですわ。かつての王国にも精神干渉を扱う魔術師はおりましたが、これほど自然に、かつ広範囲に認識をずらす技術は見たことがありません』

「だろ。このまま一気に第五十層の入り口まで押し切るぞ」

 

 一行は再び足を進めた。

 迷宮の環境はさらに過酷さを増し、吹き付ける風は刃のように鋭くなっていく。

 しばらく進むと、開けた岩棚の地帯に差し掛かった。蒼介の視界の端に赤い警告ログが明滅する。

 

(上空……複数。空を飛ぶタイプか)

 

「止まれ。上から来るぞ」

 

 蒼介の鋭い声に、全員が即座に戦闘態勢に入る。

 風を切り裂きながら上空から急降下してきたのは、六体のハーピーの群れだった。人間の女性の上半身に猛禽の翼と鉤爪を持つ魔物だ。

 彼女たちは鋭い金切り声を上げながら、四方八方から一行を取り囲むように襲いかかってきた。

 

「数が多すぎますわ! この足場の悪さで囲まれるのは不利です!」

 

 ペンダントからリリアが警告を発する。  しかし蒼介の表情に焦りはなかった。彼はすでに、この四人での戦術の最適解を弾き出していた。

 ここから先、彼は前線でナイフを振るうアタッカーであると同時に、戦局全体を支配する指揮官としての役割を担う。

 

「ネア、右の二体に『混乱』を付与! セレス、その隙に左の二体を処理しろ! リリア、俺の背後の魔力探知と警戒を頼む!」

「わかった! そっちの獲物は残像だよ〜!」

 

 ネアが両手をかざし、右から迫る二体のハーピーに向けて強力な暗示を放つ。

 彼女の魔法は物理的な壁を作るわけではない。相手の脳の認識を直接書き換えるのだ。

 ハーピーたちは鋭い鉤爪をセレスの頭上へと振り下ろした。だがその軌道は、セレスの立ち位置からわずか数十センチずれた虚空を切り裂いた。彼女たちの目には、セレスの残像が本物として映っていたのだ。

 

「……!?」

 

 空振りをして体勢を崩すハーピー。

 セレスはその奇妙な光景に一瞬だけ戦慄を覚えた。敵の攻撃が自分に当たらないと分かっているのなら、防御に割く魔力も意識も不要になる。

 彼女は盾を構える動作を完全に捨て去り、両手で槍を握りしめて雷の魔力を極限まで高めた。

 

「そこだッ!」

 

 セレスの全身から放たれた雷光が、左から迫っていた二体のハーピーを正確に撃ち抜く。黒焦げになった魔物が谷底へと落ちていく。

 ネアの暗示によって混乱し、同士討ちを始めた右の二体に対しては、蒼介が【迅速(ブースト)】で一気に距離を詰め、アンカーショットのワイヤーを翼に絡め取って岩肌に叩きつけた。

 

『ソウスケさん、背後上空から最後の一体が急降下してきますわ!』

「分かってる!」

 

 リリアの的確なナビゲートを受け、蒼介は振り返るよりも早くナイフを逆手に構える。

 背後から迫るハーピーの風切り音を【探知(サーチ)】で捉え、その軌道を完全に予測する。だが蒼介が迎撃の姿勢を取るよりも早く、ネアが再び魔法を放った。

 

「こっちに来ちゃダメ!」

 

 強い拒絶の暗示。

 ハーピーは空中でまるで見えない壁に衝突したかのように不自然に急ブレーキをかけ、怯えたように翼をバタつかせて高度を上げようとした。

 その隙を、セレスの追撃の雷槍が逃さずに貫いた。

 

 最後のハーピーが光の粒子となって消滅し、岩棚に再び風の音だけが戻る。

 蒼介は大きく息を吐き出し、ナノマシンの出力を通常モードへと戻した。

 四人の連携が、まるで精密な時計の歯車のようにカチリと噛み合った瞬間だった。蒼介の指揮、ネアの支援、セレスの火力、リリアの索敵。誰一人として欠けてはならない、完璧なコンビネーションである。

 

「……信じられない。あんなに厄介な空の魔物を相手に、私自身はかすり傷一つ負っていない」

 

 セレスは荒い息を整えながら、信じられないというように首を振った。

 彼女は生粋の騎士であり、正面から敵の攻撃を受け止め、反撃に転じるのが当然の戦い方だと思っていた。だがネアの魔法が加わったことで、その常識は完全に覆された。

 敵の攻撃が逸れる。敵が混乱する。その絶対的な安心感があるからこそ、セレスは防御の概念を捨て去り、持てるすべての魔力を攻撃に特化させることができるのだ。

 

「ネア。貴女の力は本当に恐ろしいな。幻を見せ、敵を狂わせる。もし貴女が敵に回っていたらと考えると……背筋が凍る思いだ」

 

 セレスが真顔でそう告げると、ネアは目をぱちくりと瞬かせた。

 

「えへへ、セレちゃんに褒められちゃった! でも私、攻撃魔法は全然使えないから、ソースケやセレちゃんが倒してくれないと何もできないんだよ?」

 

 そう言ってネアは、戦利品の魔石を拾い集める蒼介の背中にぴょんっと飛びついた。

 

「ねえねえソースケ! 今の見た!? 私、すっごくタイミング良く魔法使えたでしょ! 残像の暗示、大成功だったよね!?」

「おわっ、急に飛び乗るな」

 

 蒼介は背中によじ登ってくるネアを片手で受け止めながら、苦笑交じりにため息をついた。

 

「はいはい。ちゃんと見てたぞ。お前のおかげでセレスが攻撃に専念できた。大活躍だったな」

「やったー! もっと褒めて褒めて!」

 

 子犬のように尻尾を振らんばかりの勢いで褒め言葉を要求してくるネアに、蒼介は乱暴に彼女の紫色の髪をかき混ぜるように撫でてやった。

 

「よしよし。えらいえらい」

「えへへー、ソースケの手、大きくてあったかい……」

 

 ネアは目を細め、心地よさそうに蒼介の手のひらに頬をすり寄せる。

 魔人族の隠れ里で過保護に育てられ、外の世界を知らなかった彼女にとって、こうして自分の力が仲間の役に立ち、そして明確な言葉と態度で承認されることは、何よりも嬉しい報酬なのだ。

 

 蒼介もまた、かつて現代のダンジョンで仲間を喪ったトラウマから、他者と深く関わることを避けてきた男である。だがこの異世界で、セレスやリリア、そしてネアという「守るべき仲間」を得たことで、彼の中にあった冷たい氷のような感情が少しずつ溶け出しているのを無意識のうちに感じていた。

 

 そんな二人の和やかなスキンシップを、少し離れた場所からセレスが複雑な表情で見つめていた。

 騎士としての矜持と、名家の令嬢として厳格に育てられた彼女にとって、あのように無防備に異性に甘えるネアの姿は、ひどく破廉恥でありながら、同時にどうしようもなく羨ましくも映るのだった。

 

(……な、なぜ私が羨ましいなどと思わなければならないのだ。私は騎士だ。あのような子どもじみた真似など……)

 

 セレスが顔を赤くしてプイッと視線を逸らすと、蒼介の腰のペンダントから、リリアのくすくすという含み笑いが聞こえてきた。

 

『ふふふ。ネアさんは本当に甘え上手ですわね。セレスさんも、もう少し素直になられてはいかがです? ソウスケさんはああ見えて面倒見が良いですから、きっと優しく頭を撫でてくださいますわよ』

「なっ……! リ、リリアーナまで何を言い出すのだ! 私は断じてそのようなことを望んでなど……っ!」

 

 セレスが慌てて反論すると、その声に気づいた蒼介が不思議そうな顔で振り返った。

 

「どうしたセレス? 怪我でもしたか?」

「な、何でもない! 貴殿はいつまでそうして遊んでいるつもりだ! 先を急ぐぞ!」

 

 セレスは顔を真っ赤にしたまま、足早に先頭を歩き出してしまう。

 蒼介は首を傾げながら、背中のネアを地面に下ろした。

 

「怒らせるようなこと言ったか、俺?」

『鈍感な男というのは罪なものですわね……』

 

 リリアの呆れたようなため息が聞こえるが、蒼介にはその真意が全く理解できなかった。

 ともあれ、魔の峡谷の探索はかつてないほど順調に進んでいる。

 個人の戦闘力ではなく、四人の知恵と能力を組み合わせた戦術。それこそが、この理不尽な大迷宮を攻略するための最大の武器となる。

 

(第五十層へのゲートまで、あと少しだ。油断せずに行くぞ)

 

 蒼介は気を引き締め直し、仲間たちの背中を追って岩肌の道を歩き出した。

 吹き荒れる強風の中にあっても、彼らの間にある確かな信頼の絆が揺らぐことはない。次なる階層の主がどれほど強大であろうとも、今の彼らならば必ず道を切り拓けるはずだ。

 荒涼とした魔の峡谷に、ネアの無邪気な笑い声と、それに呆れるセレスの声が遠くまで響き渡っていた。

 

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