異邦人と大迷宮~現代ダンジョンシーカーは、スキルと知恵で異世界迷宮の果てを目指す~   作:九泉

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第110話 白金の特異点

 静寂が支配する広大な回廊に、乾いた靴音が響いていた。

 大迷宮第五十一層から始まる中層の後半戦。そこは荒々しい自然の脅威が剥き出しだった魔の峡谷とは全く異なる、人工的で異常な静謐さに包まれた空間だった。

 

 磨き上げられた大理石の壁には豪奢な額縁が等間隔で並び、赤い絨毯がどこまでも続いている。

 その絨毯の上で蒼介は油断なくナイフを構え、黒髪黒目の青年を睨みつけていた。

 

 白金級冒険者フェイル。

 冒険者ギルドの最高峰に君臨し、単独でスタンピードを鎮圧したという生きた伝説。

 先ほどの絵画の内部で『逆さまの雨』のギミックを突破し、満身創痍で回廊に戻ってきた蒼介たちに拍手を送りながら現れた男だ。

 

 彼は「またどこかで会おう」と告げて踵を返し、回廊の奥へと歩き去ろうとしていた。

 蒼介もセレスもその背中が見えなくなるまで警戒を解くつもりはなかった。圧倒的なプレッシャーから解放されるのをただ静かに待っていたのだ。

 

 だが蒼介たちが再び歩みを進めた先に、ニコニコと笑顔を浮かべて佇む彼の姿があった。

 

「やっぱりやめた」

 

 独り言のように呟くと、人懐っこい笑顔を浮かべたまま、再び蒼介たちの方へと歩み寄ってきた。

 

「……なんだ。まだ何か用か」

 

 蒼介は声のトーンを限界まで低くして威嚇した。

 体内のナノマシンが疲労の蓄積を警告している。今この男と戦闘になれば一秒たりとも保たないだろう。

 

 セレスも無言で槍の柄を握り直し、蒼介の隣で盾のように立ち塞がる。

 フェイルは二人の殺気立った態度を全く気にする様子もなく、両手を広げてみせた。

 

「いやあ。せっかく面白いパーティを見つけたのに、このまま別れるのはもったいないと思ってね。ちょっと僕も君たちに同行させてもらえないかな」

 

 予想外すぎる提案に蒼介は目を細めた。

 

「同行だと? 冗談は顔だけにしてくれ」

 

「冗談じゃないよ。至って本気さ」

 

 フェイルはニコニコと笑いながら答える。

 その笑顔の奥底にどれほどの意図が隠されているのか、蒼介には全く読めなかった。

 

「素直に言うわけねえとは思うが一応聞いておく。いったい何が目的だ? 散歩中だなんて寝言は信じないぞ」

 

 蒼介の鋭い追及にフェイルは困ったように首を掻いた。

 

「寝言じゃないんだけどなあ。まあいいや。君たちの戦い方がすごく面白かったから、特等席で見学したくなったんだ。それじゃ理由にならないかな?」

 

「見学だ?」

 

「そう。空間の法則を書き換える絵画の迷宮を、君がどうやって攻略していくのか。それをすぐ傍で見てみたい。純粋な好奇心だよ」

 

 フェイルの言葉には嘘が含まれているようには聞こえなかった。

 しかしそれが逆に不気味だった。

 災害級の魔物が跋扈するこの大迷宮において、他人の戦いを見学するなどという娯楽が成立するはずがない。

 それができるのは自身に絶対の安全が保証されている者だけだ。

 

(こいつは自分が傷つくことなんて微塵も想像していない。それだけの力があるからだ)

 

 蒼介は奥歯を噛み締めた。

 断りたいのは山々だった。しかし下手に拒絶して機嫌を損ねれば、この場で全員が切り捨てられる可能性もある。

 フェイルから発せられる魔力の圧力はそれほどまでに常軌を逸していた。

 

「ソウスケ。どうする」

 

 セレスが視線を前方から外さずに小声で尋ねてくる。

 彼女もまた騎士としての本能でフェイルの異常性を感じ取っているのだろう。

 

「……勝手にしろ」

 

 蒼介は警戒を解かないままナイフをゆっくりと下ろした。

 

「本当にただの見学なら勝手についてくればいい。ただし俺たちの邪魔をするようなら、白金級だろうがなんだろうが容赦しないからな」

 

 精一杯の虚勢だった。

 だがフェイルは嬉しそうに手を叩いた。

 

「ありがとう。邪魔はしないと約束するよ。僕はただの観客だからね。さあ、次の絵画を目指そうか」

 

 フェイルは全く悪びれる様子もなく、蒼介たちの真横に並んで歩き始めた。

 こうして蒼介、セレス、ネア、そしてペンダントの中のリリアという四人のパーティに、得体の知れない白金級冒険者が加わるという奇妙な道中が幕を開けた。

 

 

 赤い絨毯の上を五人の足音が響く。

 回廊の壁には相変わらず真っ白な額縁が等間隔で並んでいる。

 近づくたびに額縁の中に不気味な絵の具が滲み出し、狂気に満ちた風景が描き出されていった。

 

 首のない騎士。血の海。無数の瞳。

 それらを横目で見ながらフェイルはまるで美術館を巡る観光客のように楽しげに呟いた。

 

「素晴らしい筆致だね。この階層を作った何者かは、よほど捻くれた芸術家だったんだろう。人の精神を削る色使いをよく理解している」

 

「能天気なものだな。いつ絵の中から魔物が飛び出してくるかわからないというのに」

 

 セレスが苛立ちを隠せずに吐き捨てた。

 彼女にとってフェイルの態度は、迷宮探索という死の危険を伴う行為を冒涜しているようにしか見えなかった。

 

「力むと視野が狭くなるよ。もっと肩の力を抜いた方がいい」

 

 フェイルはセレスの方を見ずに事も無げに言った。

 その言葉にセレスはさらに眉根を寄せる。

 

「騎士たる者、常に戦場では気を張るのが当然だ。貴様のような遊び半分の輩と一緒にしないでもらおうか」

 

「遊び半分、か。まあそう見えるかもしれないね」

 

 フェイルは小さく笑った。

 蒼介はそのやり取りを聞きながら、ナノマシンのインターフェースを密かに操作し続けていた。

 右目に宿る青い光を微弱に保ちながら【探知(サーチ)】のスキルでフェイルの生体データを解析しようと試みる。

 

 しかし結果はエラーの連続だった。

 彼の筋肉の動きや血流、力の循環経路。それらすべてがノイズに覆われているかのように全く読み取れないのだ。

 現代のオーバーテクノロジーであるナノマシンが、一人の人間の肉体を前にして計算を放棄している。

 蒼介の背筋を冷たい汗が伝った。

 

(こいつ……本当に人間なのか?)

 

 その時だった。

 一行の数メートル前方に飾られていた一つの巨大な額縁に異変が起きた。

 真っ白だったキャンバスに黒いインクがぶち撒けられたように広がり、そこから幾何学的な図形が連なったような奇妙な模様が浮かび上がる。

 それは絵ではなかった。

 キャンバスの表面が波打ち、その黒い模様が二次元の平面のまま三次元の空間へと「飛び出して」きたのだ。

 

「敵だ!」

 

 蒼介が叫ぶと同時にセレスが前に躍り出た。

 飛び出してきたのは紙のようにペラペラとした平面的な怪物だった。

 キュビズムの絵画をそのまま切り取ったような歪な形をしている。厚みは全くないが、その縁は剃刀のように鋭利に研ぎ澄まされていた。

 ジジジジジッ、と空間そのものを擦るような不快な音を立てながら、十体以上の平面の怪物が宙を滑るように迫ってくる。

 

「ネア! 下がれ!」

 

 蒼介はネアを背後に庇いながらナイフを構えた。

 厚みがない敵に対して物理的な刺突が通じるかどうかわからない。

 セレスも槍を中段に構え、雷の魔力を穂先に集中させようとしていた。

 

「下がるんだセレス! そいつらは物理法則を無視している!」

 

 蒼介が【探知(サーチ)】で得た情報を叫ぼうとしたその瞬間だった。

 セレスの横をふらりと通り抜ける影があった。

 

「ちょっと失礼」

 

 フェイルだった。

 彼は腰の剣の柄に手をかけることすらしなかった。

 ただポケットに両手を突っ込んだまま、迫り来る平面の怪物たちの群れに向かって「歩き抜けた」のだ。

 

「おい! 何をしてる!」

 

 蒼介が制止の声を上げる暇もなかった。

 フェイルの体が怪物の群れと交差する。

 薄い紙のような怪物がフェイルの肉体を切り裂こうとしたその刹那。

 視界がわずかにブレた。  いや、空間そのものが一瞬だけコマ落ちしたような奇妙な感覚だった。

 

「……は?」

 

 蒼介の口から間の抜けた声が漏れた。

 フェイルが通り過ぎた後、十体以上いた平面の怪物たちは空中でピタリと静止していた。

 

 そして次の瞬間。

 音もなく、怪物たちの体が無数の幾何学的なブロック状にズレて崩壊したのだ。

 まるで精密なレーザーカッターで空間ごと切り刻まれたかのように。

 バラバラになった平面の残骸は黒い霧となって絨毯の上に溶けて消えていった。

 

 回廊に再び重苦しい静寂が戻る。

 蒼介はナイフを構えたまま完全に硬直していた。

 セレスも大きく目を見開き、突き出そうとしていた槍の穂先を震わせている。

 

(今……何が起きた?)

 

 蒼介の脳内でナノマシンが必死に過去数秒のログを解析しようと熱を持っていた。

 【探知(サーチ)】はフル稼働していたはずだ。

 しかしフェイルが剣を抜いた形跡はない。魔力を放出した波長も一切観測されなかった。

 ただ彼がそこを「歩いた」という結果だけが存在し、怪物たちは切り刻まれて消滅した。

 

 それは魔法でもスキルでもない。

 純粋な「技術」と「暴力」が極致に達した結果、過程というプロセスが完全に省略されてしまったかのような現象だった。

 理不尽。

 その言葉すら生ぬるいほどの異常な光景だった。

 

「ほらね。肩の力を抜いた方がいいって言っただろ?」

 

 数十メートル先まで歩いていたフェイルがくるりと振り返り、人懐っこい笑顔で言った。

 彼の黒髪は微かに揺れているだけで、息一つ乱していない。

 

「君たち、すごく良い反応をするね。見ていて飽きないよ」

 

 フェイルは楽しげに笑いながら再び前を向いて歩き始めた。

 蒼介はその背中を見つめながらごくりと生唾を飲み込んだ。

 今まで現代ダンジョンでも異世界でも様々な化け物を見てきた。しかしただ歩く姿だけでこれほどの恐怖を感じたのは初めてだった。

 

「ソースケ……」

 

 背後に隠れていたネアが蒼介の外套を弱々しく引っ張った。

 彼女の顔は青ざめており、紫色の瞳が小刻みに震えている。

 

「どうしたネア。気分が悪いのか?」

 

「ううん……違うの。あのお兄さん……」

 

 ネアはフェイルの背中を怯えたように見つめながら蒼介の耳元に口を寄せた。

 

「あの人、すごく古い匂いがする。人間の匂いじゃないみたい……。ほんの少し見かけた精霊たちも、みんな息を止めて隠れちゃったの」

 

 ネアの囁きに蒼介の背筋が再び凍りついた。

 魔人族の鋭敏な感覚がフェイルの異質さを本能で感じ取っているのだ。

 

『ソウスケさん……』

 

 さらに腰のペンダントからもリリアの震える声が響いた。

 彼女の魂が激しく波打っているのが蒼介にも伝わってきた。

 

『彼の纏う気配……どこかで……。私の、遠い昔の記憶の底を撫でられるような……恐ろしい既視感がありますわ』

 

「五百年前に、あいつと会ったことがあるのか?」

 

 蒼介は声を潜めて尋ねた。

 

『わかりません。ただの錯覚かもしれません。ですが……あの魔力の質感は、決して今を生きる人間の持つものではありませんわ』

 

 リリアの言葉はネアの直感を裏付けるものだった。

 フェイルという存在はこの大迷宮という異常な空間においてすらさらに異質な特異点(アノマリー)なのだ。

 

「ソウスケ。あの男……本当に連れて行くのか?」

 

 セレスが顔面を蒼白にしながら蒼介の隣に並んだ。

 彼女のプライドはずたずたに引き裂かれていた。自分が命を賭けて戦おうとした相手を、瞬きの間に消し去られてしまったのだから無理もない。

 

「ああ。追い払える相手じゃないことは、今の動きで嫌というほどわかっただろう」

 

 蒼介はナイフをゆっくりと鞘に収めた。

 彼の脳内で冷静な計算が再開される。

 フェイルが敵に回れば全滅は免れない。しかし彼が今のところ「見学」という名目で同行を望んでいるのであれば、それを利用しない手はない。

 

「使えるものは使う。あいつが俺たちを観察しているなら、俺たちもあいつを観察するまでだ。監視下から外す方がよほど危険だ」

 

 蒼介の冷徹な判断にセレスは渋々ながらも頷いた。

 トラウマに縛られていたかつての蒼介なら、このような危険分子とは絶対に関わろうとしなかっただろう。

 

 しかし今の彼には守るべき仲間がいる。そして生きて元の世界に帰るという目的がある。

 そのためならどんな理不尽な状況でも利用して生き抜くという泥臭い覚悟が彼を支えていた。

 

「行くぞ。遅れると本当にただの観光客扱いされるからな」

 

 蒼介は足元に視線を落とすことなく歩き出した。

 セレスとネアもそれに続く。

 赤い絨毯の先には真っ白な額縁がまだまだ続いている。

 

 得体の知れない白金級冒険者を仲間に加えた一行は、法則の歪む画廊のさらなる深淵へと足を踏み入れていくのだった。

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